雪
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秋田県本荘市 室井邸

 すげえ家・・・。
 青島はあやうく漏れそうになった言葉を飲み込んだ。


 タクシーの運転手に、お母さんが「室井の本宅まで」といったとき、おい、それだけで目的地に着くのか?と驚いたのだが、それだけでタクシーは無言で走り出したから、さぞ名所というか、地元では知らない人は居ないような家なんだろう、とは予想していた。が。

 わびさび、とか言うんだろうか。  日本文化に造形の深くない彼としては、なんとも表現しようが無いが、とにかく門に彼は呆然とした。

 田舎には結構多いのかも知れないが、こんなのが現代日本に残存していたのかと思うような、重厚な木の門である。はじの方には時代劇で見かけるような潜り戸まである。

 高さがそんなにあるのではないが、門につながる倉があって、多分昔はここに農具や何かを収納していたのだろう。 しかし彼を最も唸らせたのは、門全体を美術品のように見せる植栽の精妙さだった。土壁の向こうから立派な松がさしかけるように伸びて、ふっくらした白い雪をのせている。屋敷を取り囲む塀の瓦にも積もっている。

 静かな雪景色と、湿気を含んで黒い門扉と茶の壁との対照の美しさは、まるで古風な日本画を見ているようだった。派手な色はどこにもない。あるのは黒と白と深い茶という世界だ。その風景は、いつもの一筋の乱れも見せない室井の立ち姿と、そのまま重なる。

「青島さん、どうぞ、寒いですから、早く。」

呆然としていた青島の方を、母親が笑いを含んだ目で、潜り戸のところで彼を待ってくれている。室井はとっくに中に入ってしまったのか、姿が消えていた。 あわてて、木戸を押さえて待ってくれている女性の脇をくぐるようにして足を踏み入れた。潜り戸なんて使うのは彼にとって初めてとで、好奇心で木枠に触れてみる。
そういえば、修学旅行で一番楽しかったのは金閣寺でも法隆寺でもなく、太秦の映画村だったっけ、などと思いながら。

「すみません。お邪魔します」

玄関でもないのに彼はそういっていた。だが、期待した先にあったのは、平凡な風景だった。彼はてっきり、さぞ立派な和風建築の屋敷が広がっているんだろう、と期待していたのだが、彼の目の前にあったのは、雪の積もった平たい空間が、質素な古い家屋の前にのっぺり広がっているだけだ。

彼の雰囲気を察したらしく、室井の母親は彼の隣でくすりと笑った。

「ここは庭じゃないんですのよ。室井の家は、もとは仙台の伊達家の家臣の家臣だったそうで、それが秀吉の兵農分離の時兄弟で農家と武家に分かれたんだそうです。けれど幕末に武家は家運が傾きまして、傍流のこちらと合一しました。それでも農地改革までは華族のはしくれだったそうですけれど、今ではかつての名残といえばこの屋敷だけになってしまいました。そのせいかこの家は変わった構造をしていて、それでよく建築とか日本史とかを専攻されてる学生さんが訪ねていらっしゃいます。武家の名残で玄関があれだものですから、中に入ったらさぞ・・・と思ってらっしゃるんでしょう、皆さん、此処に来ると必ずがっかりした顔をなさいますわ。」

彼女は観光案内のようにすらすらと喋った。が、青島としては、歴史の教科書の内容が家の歴史に組みこまれている、ということに度肝を抜かれるばかりだ。

「・・ホントに立派なおうちなんですね」

 あらたに発見した格差にいささか打ちのめされながらも、雪の上に残された室井の足跡を辿って二人は小さな家屋の周りを巡って母屋へ向かった。雪のこんもりと盛った繁みの横を過ぎると、今度は様々に木々の植えられたもう一つの庭に出た。

 そしてその木々の向こうには、広がった羽のように不思議な丸みを帯びた屋根の家が鎮座していた。

「これが母屋です。さきほど、これは庭じゃないといいましたのは、此処が本当の庭だからなんです。私も初めて見たときは呆れたんですけれど、あそこは、かつては村の裁判所・年貢の集積所として使われた、まあ一種の寄り合い所だったんですね。小作人はあそこまでしか入れませんでした。ずいぶん差別的ですわよね」

 呆れたでしょう?というように、お母さんは目をおおきくしておどけた。

「で、此処が小作人は決して入れなかった母屋のほう・・・・。わたくし、そういう裏表のある家は嫌いでねえ。実家が禅寺だもので、まあお寺さんも裏表が大分違ってますけど、禅寺はそう派手ではありませんしね。だからこの家の構造に流れる精神と申しますか、そういうのが嫁に来た当時はいやだなあって思いましたの」

青島は、はあ・・・という答えをひねり出すのがやっとだった。実家が禅寺ときては、もはやサラリーマン家庭で育った青島の想像の及ぶ範囲ではなかった。

 

 室井が静養のために選んだ離れは、門から一番奥まった所にあった。母屋とは庭を挟んで正反対の位置にある。万が一侵入者が来ても、そこからなら逃げるのに一番時間がかかるので、警備にも都合がいいと、青島も同意した。  
 
 離れは純和風の外見に反して内装は洋風だった。まだ室井の祖父母が存命だったとき、介護しやすいように離れの平屋を改装したためである。そのために酸素呼吸器やたんの吸引機、車椅子から介護用ベッドまで、介護用品はひとととおりそろっていた。 もっとも室井自身はそれらの世話にならなければならないほど重病人ではない。

 迎えに来た警備員が青島であることに、おもいっきり困惑の表情を浮かべ、以来まともに口をきいていない室井だが、母親は出張で家に居ない夫の分まで青島を「息子を救ってくれた刑事さん」としてもてなした。

 警備の都合もあって、と言い訳する青島が求めるまま、室井の隣の部屋を片付け、使わなくなっていた台所も掃除してある。お茶くらい好きなときに飲んで下さい、という言葉と共に。

「なんか、なにもかも済みません。ほんとは本荘署に泊まらせてもらえるんですけど」

 青島は、ぺこりと頭を下げて、小声でお礼を言った。室井が隣の部屋で眠っているので、気を使ってのことだ。

「いいえ、とんでもない。」

 お母さんも、小声で答えた。ストーブにかけた薬缶がしゅんしゅん言う音がはっきり聞こえるくらい、静かだった。
 二人とも、何も言わなくても、お互いが考えていることは隣室で眠る病人のことだと分かっていた。

 青島と会って以来、室井の様子は変だった。

 お母さんが入れたお茶を一杯のんで、あとは言われるままに着替えてベッドへ入り、目を閉じた。一言も喋らずに。
 そこには何の生気も感じられなかった。ロボットが室井の皮を被って動いているようだった。

病院に居たときの方が良かったかも知れない、という思いが、向き合った二人の心と口を重くした。

淹れられた緑茶が、沈黙のまま何度か彼らの口許に運ばれた。 彼女の皺の寄った手ばかりを、青島は惹かれるように見ていた。 それは老い以上に険しい,苦痛と悲嘆を形にしたらこうなるかというように痩せた手だった。しかし今の室井を支える最強の力を、その手は持っている。

 ふいに、老いた母親はそのまま、茶碗を握りしめた。

 胸中にあるものを口に出す決心を固めるまでに、青島はそれがどんな内容でも受けとめる覚悟を決めるまでに、十分な時間が過ぎていた。

「・・・青島さん、あのぅ、息子の・・・胸に」

 そして、ぎゅっと目をつぶった。

「胸」という単語だけで、青島には彼女の言わんとする事柄の察しが付いてしまった。多分、包帯を巻き直すとき
に見てしまったのだろう。
 犯人グループに彫り師が居たために、室井の中央よりの左胸、ちょうど心臓の上に、赤い牡丹が彫り込まれていたのだ。

「・・大丈夫ですか?すこし、お休みになりますか?」

 青島は腕にそっと手を添えて落ち着いた声で囁いた。 事件から2週間では、被害者の家族の受けた衝撃が癒えるのに十分な時間とは言えない。 しかも犯人達はけして消えぬ傷を室井の胸に残していった。まるでいつでも思い出させようとするかのように。 あの痕を見て、かすかな痛みしか感じなくなるまでには、きっと何十年もかかることだろう。 そしてそれを記憶に変える為に絶対必要な犯人の逮捕さえ、目鼻もついていない状態だった。

「・・・いいえ、大丈夫です。私がしっかりしなくては。」
 
 彼女は思いだしていた。
 
 入院中、一人でなんとか歩けるくらいにまでなった息子は、初めて入浴の許可がでた時、何とも言えない表情を浮かべた。それは明白な拒否ではなかったが、明らかに喜んではいなかった。
 きれい好きの息子のことゆえ、きっと回復の兆候としてこの許可を喜ぶだろうと思っていた彼女は、その時ちょっと意外な感がしたのを覚えている。
 だが、彼女はその理由を直後に知った。
 着替えを届けようと浴室に入ろうとした時、浴槽を囲むカーテンの隙間から、鏡に写った息子が見えた。

 その時息子は、広い浴槽の隅にぴたりと身体を押しつけ、胎児が膝をかかえるような格好でうずくまっていた。
 こうべを垂れ、黙然と考えに沈んでいるのかのように、息子はぴくりとも動かなかった。

 異常な光景に息をひそめて見守るうち、彼女は、実は息子が、自らの胸の赤い花を凝視しているのだと気づいた。

 そっと水が揺れた。

 赤黒く瘡蓋のはりついた左手の指が、ちょうど心臓の上に描かれた花をむしろうとするかのように、ゆっくりと自らの肌に爪をたてた。だがそれは、決して肌をえぐり取りはせず、深くくい込んだ指は、相反する感情を映して、自らの胸を鷲掴んだまま全ての動きを停止していた。


 なぜ強引にも皮膚移植をさせないのかと酷く責める妻に、夫は苦渋に満ちた顔をそむけ、割れた声で答えた。
「証拠になるからだ」と。
 警察官僚としての息子。家庭裁判所調査官の夫。彼らが守ろうとする「証拠」。

 彼女にだって彼らの考えは理解できた。犯人を逮捕して、起訴して、司法の判断に委ねて、処罰する。そのために不可欠な証拠は、たしかに一つでも多い方が良いのだろう。
 だが理解できるというのと納得できるというのは、まったく別のことなのだ。

 平凡な主婦の自分が守りたいものは、「警察官」でも「被害者」でもない、慎次という「わたしの子ども」だった。

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