雪 2



 不意に彼女は座布団から滑り降りると、三つ指ついて青島に深々と頭を下げた。

「青島さん、本当にありがとう。あの子が助かったのは、あなたのお陰です。本当に感謝しています。どうかこれからもあの子を頼みます。」

「お、おかあさん、やめてくださいよ!僕は当然のことをしたまでで、なんでもっと早く助けらんなかったかって、そればっかり思って・・。犯人もまだ捕まえられないんです。本当に済みません。」

 自分も座布団から飛び降りて、青島はあわてて手を振りながら否定した。

 本当は、のんびり室井の身辺警護している場合ではないのだ。犯人を捕まえるために、何でもしたい。
 しかしあの爆発の中で逃げた犯人の行方は杳として知れなかった。進展のない捜査は縮小を余儀なくされ、所轄は所轄で日々起きる小事件に対処していかなければならない。
 「事件に大きいも小さいもない」というのは自分の信念だったが、今青島はそれを自ら裏切っていると自覚していた。

 自分にとって今一番大きい事件は室井警備課長略取致傷事件であった。
 室井を警護していれば、室井にこだわった犯人はまた彼をねらうかも知れない。可能性は低いが、そう思って今回の任務を引き受けることを自分に納得させたのだった。

「青島さん・・・あなたは事件の内容も知っていらっしゃる。私たちの知らないことも。そうでしょう?だからあなたは来てくれたのだと、夫は言っております」

 上目遣いにじいっと青島を見上げる大きな黒い目に、真剣な光が宿っていた。
 たんなる感謝の気持ちではない、訴え、救いを祈る目。

「・・どういう意味でしょう」

「慎次は何も話そうとしません。・・・夫は心理学を仕事としております。ですから私どもも、精神の障害を癒すには、それを吐き出すことが絶対に必要だと知っております。でも、慎次には出来ないのです。痛みを抱え込んだまま、一片たりとも事件には触れません。安藤先生は、このまま慎次が精神的に追いつめられれば・・・・自殺を選ぶかも知れない、と仰いました。」

 自殺、という単語を、彼女は口にするだけでそれが現実化するおそれがあるかのように酷くためららった末、小さく早口で言った。

「あの藪の言うことなんて、信じちゃだめです」

 青島は怒りでこめかみが熱くなるのを感じ、強い口調で言った。

 室井さんが死ぬだって?!
 冗談じゃない!

「いいえ!」

 だが彼女は激しく首を振った。そして青みがかったような目を青島に据える。

「・・・・私はあの子を知っています。あの子は昔から、自分のギリギリまで頑張る子でした。私たちがそう育てました。だからこそ、私にはあの子の行く道が見えるのです。このままではあの子は義務に殉じて死ぬでしょう。私たちは警察の守秘義務とやらに邪魔されて、あの子を救うことが出来ないのです。あの子の話を聞くことすら出来ないのです。親なのに・・・・!」

「・・・・・・済みません・・・・・・」

 青島はうなだれるしかなかった。
 自分は決して賛同しているわけではないにせよ、警察全体の非人間性を糾弾されているような気がした。

 彼女は興奮した自分の声に気づき、唇を噛むと目を伏せた。彼女の息子にどうしてここまで似るのかと思うほどおなじ仕草で吐息を吐いた。

「ごめんなさい・・・。あなたを責めてるんじゃ、ないんですの・・・でもあの子が・・失われようとしているのに、私たちは何もできない。だから、全て知っている青島さん、あなたにお願いするんです。どうかあの子を生かして。あの子を助けて、ください・・・お願いです」

 涙を湛えた瞳を向ける母親に対して、青島は言葉もなく黙って拳を握りしめた。


 まかせて下さい、といつものように言えるものなら、いくらでも言っただろう。
 しかし自分とて、彼の傷を癒せるような力を持っているとは到底思えなかった。

 
 昼に空港で会って以来、室井邸に来るまで、自分が警備につくに至った事情を説明する話に、室井は何度か頷いただけで、一言も発しようとはしなかった。青島も、退院おめでとうございます、という言葉さえなかった。そんな余所余所しい台詞を言うほど自分たちの関係は淡泊なものではなかった。

 何よりも激しく内心を語る瞳を青島に向けなかったのは、せめてもの室井の矜持だった。
 そしてその態度こそが、隠しおおせない傷の存在を晒していた。
 青島に弱い男だと軽蔑される危険に気づかないわけではなかったが、今はもう、平静を装う演技すら出来ぬほど、彼は疲れていたのであった。

 青島は目をそらした。

 心中の毒素を吐き出すことも、痛みに泣きわめくことも、怒りにまかせて我を忘れることも、全ての感情表出を禁じた男の中で、行き場を失った苦しみが、臓腑を喰い破って蠢くありさまを、彼の病的に白い皮膚の下に透いて見ることが出来る自分がイヤだった。


 他人が見られたくないと思っているものを見抜くのが刑事なら、それが誰も救わない能力であることもあるのだった。  


    * * *

      
 入浴は室井にとって最も苦痛な行為の一つだった。

 主な理由は、脱衣所にある大きな鏡である。自分の身体を見たくない。・・だが真実から目をそらすのは逃げであり、精神の弱さだ。
 相克する感情のなか、結局むりやり吐き気を堪えながら、鏡に映る自分に視線を走らせる。それが精一杯だった。じっくり見るなど、絶対に耐えられない。  

 そしてやはり今日も、室井は心臓の真上に彫られた紅い判の刺青を視野に納めてぞっと身震いした。
 それが接続する記憶は余りにも苦しみと汚辱にまみれたものだったので、本当ならば皮膚を剥いで移植してしまって、この胸から微かな痕跡しかのこらないように手術することもできた。

 しかし救出直後はそんな問題より室井の生命の方が持つかどうかという時だったし、彼が彼岸に渉らなくて済むと決まったあとも、なおやはりそれは重要な証拠物件として室井の胸に残った。
 今は徹底的に写真も撮られ、染料の分析まで済んでいるから、あえて残しておかなくてもいいのだが、室井は皮膚を削り取ろうとはしなかった。

 証拠物件として写真も撮ったから刺青を消しますか、という新城の質問に、いいやと応えたのは自分だった。

 例え写真があっても、実物が存在した方が裁判上証拠能力が強いし、時間がたつにつれ変化する色などが犯人追及の手がかりになる可能性も高かった。

 新城もあからさまには流石に言えなかったのだろうが、言外に、出来れば皮膚移植をしないで欲しい、という感じであったし、もと管理官として、「警察官」として、捜査の手掛かりは大切にするべきであるのは自身が最もよく分かっていた。

 だが「被害者」としての室井慎次は、胸に残った妖しい花を見るたびに、自分の意識をどうしても絡め取っていく底知れぬ暗闇が拡大していくのを感じざるを得なかった。

        * * *

 つとめて考えないようにしていた。
 包帯を巻くとき、母の視線は絶対に私の胸の刺青を見ようとはしない。私もそんなものは存在しないかのように振る舞っている。
 母の手は優しく、かさついていて、それはあの時じぶんの上を這い回った男達の持っていた質感とは全然違う。
 だが。

「はい、おしまい。」
 と言って、浴衣の袖を通すのを手伝ってくれる。差し伸べられる手を拒絶して、自分できっちりと襟を整えると、やっと室井は緊張していた肩の力が抜けるのを感じた。

「さ、もう今日はねんねしなさい」
 予め暖められた毛布と羽毛布団が肩まで引き上げられる。
「ねんねって・・・こどもじゃあるまいし」
 すこし笑って言うと、薄暗がりの中で母はふふと笑った。
「こどもはいつまでもこどもよ。・・・じゃ、ゆっくりお休み。電気は切らないのがいいのね?」

 夜具の中で頷くと、母はぽんぽんと肩の辺りを叩き、静かに部屋を出ていった。


 瞼を閉じると、橙色の豆電球の明かりが視界を薄く照らす。
 隣でかすかに話し声が聞こえる。私の警護の名目で来ている、青島と喋っているのだろう。だが耳を澄ましても何を言っているのか意味を拾うことは出来なくて、私は諦めて意識を逸らした。

 ゆるゆる眼をひらく。

 二週間ぶりに病院から外へ出て、飛行機と電車とタクシーで数百qを移動した。疲れているはずだ。なのに眠れない。
 投げ出した腕がひどく重く感じた。縛り付けられたようにカラダは天井を向いて動かなかった。

 豆電球だけの明かりに照らされているのは、かつて祖父母がそれぞれの臨終を迎えた部屋だ。祖父の介護のために購入された、背もたれが変動する病人用ベッドを、いま孫の自分が使っている。

 しばらく使っていなかった部屋の薄暗い四隅からは、秋田特有の湿気のある冷気がひたひたと忍び出てくる気がした。

 この部屋には、死の雰囲気が漂っている。

 めったに思い出さなくなっていた祖父母の顔を、彼らが日がな一日眺めたのであろう白い天井を見ながら、室井はぼんやりと思い浮かべた。

 彼らは今の私をどう思うだろうか?
 明治の気骨の抜けなかった祖父は、家門の汚れだと大まじめに言うかも知れない。
 祖母は・・・・室井は祖母についてはあまり思い出すことはなかった。家父長意識の抜けない祖父の下で、口答えもせず、皺に埋もれた微笑を浮かべ、ふんわりと火鉢の前に座っている。そんなイメージしかない。

 自分は彼らのことを何も知らなかった、と室井は思った。
 若く、健康だった自分には、寝たきりの老人の気持ちなど、なんにも解ってはいなかった・・・・・。

 しかし、いま彼らと同じようにベッドに横たわり、彼らと同じように天井を見上げてみて、室井は初めて、彼らが感じていた孤独と、誰にも理解されなかった空虚さを共有していた。だが、その共感を伝える相手は、もはやすでに死者であった。

 彼は初めて祖父母に親密さを感じた。それは死への親密感と一体のものであった。しかしそれが危険だという意識はまったくなかった。それどころか、死はひどく優しい安寧の場所であるような気がした。


 もう自分は疲れたのだ、とひとりごちた。
 自分はずっと戦ってきた。いろいろなものと。誘拐事件に関してだけでなく、自分の人生は生まれてからずっと戦いの連続だった気がしてきた。

 もう疲れた。

 犯人と戦い、医師と戦い、警官と戦い、自分と戦った。

 手を差し伸べる親を拒絶し、甘えに崩れそうになる自分を叱咤して、ここまで来た。

 だがもうわからない。なぜこんな戦いを戦う価値があるのか?
 そもそも何のために戦うのか?
 なぜ生きていなければならないのか?
 どこへ向かわなければならないのか?

 青島との約束。
 「約束」、それは金字で書き込まれた本の題名のように、これまで室井の胸の一番大切な棚にしまってあった。
 疲れ、怒り、孤独を感じたとき、室井はその本をそっと引き出し、すがるような思いでそのバイブルに書き込まれた文字をたどった。
 ひとつひとつの文字をなぞるように、愛おしんだ。

 だが、今度の事件がその「約束」が目障りな者からの警告だったらどうだろう? 脅迫するのが目的なら、略取誘拐までするのは危険なやり方だが、室井の気を挫くには充分以上の効力を発揮したのは事実だった。
 自分でそんなことを認めたくはなかった。
 青島を裏切れない、そんなことは卑怯なことだ、組織を変える、その目的のために生き延びたのではなかったか、そう言い聞かせてきた。
 だが安全な場所からあの三日間のことを思い出すと、もう二度とあんな目に遭うのは恐ろしい。身が震える。ひどい頭痛がおさまらず、吐き気がこみあげる。

 ひと思いに殺された方がマシだと思うほどの苦痛がこの世に存在するのは知っていたが、それを自分で経験するのは別だった。

 もう一歩も歩きたくはなかった。もう一言も喋りたくはなかった。

 喋りたいことばなど絶滅していた。何を喋り、何を喋るべきでないかは解っていたが、もはやそれらすらどうでも良いことだと感じていた。

 ああ、そうだ。自分はもう何も・・・もう何も、感じたくはなかった。思い出したくはなかった。見たくも聞きたくもなかった。

 彼は、自分の意志とは無関係に、命を繋ぐための呼吸を繰り返す肺を嫌悪した。

 警官たちの同情と職業意識が丸出しの露骨な視線も、医師や看護婦の目に浮かぶ痛ましげな光も、両親や青島の悲痛な目つきも、私は一切見たくなかった。

 できることならば、あの記憶に繋がる身体の部分を削り取ってしまいたかった。

 誰も私をそんな目で見ることができないように、胸も、指も、脚も、性器も、唇も、耳も、髪も、目も、ぜんぶ、取ってそこらの道ばたに棄ててしまいたかった。

 だが自分は棄てなかった。棄てようとしては拾い、息を止めては吐きだし、朝には目を開き、ギプスで固められた指を使って飯を食った。

 どの行為もが、計り知れないほどの凄まじい努力を要した。

 身体の回復は気絶するような眠りからの追放を意味し、見えない傷跡は日を追って消えるどころか、自らの精神を際限なく深くえぐっていく。

 もう疲れた。

 自らの内面を直視して、それでもなお生きようと努力することに。

 立ち上がれと自分を叱咤する声も、もはや涸れてしまった。両親を心配させたくないという配慮も、ほとんど底を衝いてしまった。

 もういっそ、このまま無の世界に融けてしまいたい。
 
 自分を縛り付けるこの精神を遠い空間に手放して、誰でもいい。何にでもいい。

 自分の行方をゆだねてしまいたかった。


 祖父母が死んだベッドの上で、室井は身じろぎもせず、じっと薄暗い中空を見つめていた。


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寒・・・・。

室井さんはこんなに弱くない!というお怒りの声は甘んじて受けます・・・。

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