室井別荘 2 〜室井夫妻〜
息子と青島刑事が去ってしまえば、がらんとした屋敷だけが残った。
秋田は今夜も雪が降っている。
夫婦ふたりだけ、ぽつんと炬燵に向き合って座って、彼らは黙りこくったままもう数時間も時が止まったように息をひそめていた。
ふたりの頭上高くには黒いがっしりした太梁が、黒光りする天井と屋根を支えている。大粒の牡丹雪の、ぽそり、ぽそり、ぽそり・・・と降り積もっていく音だけが、この寂寞たる空間を幽かにふるわせ、そしてどこかに紛れ込んでしまいそうな細い時の流れを教えた。
それは永遠に積もっていくのじゃないかと思うような、圧倒的な静けさそのものだった。
それは永遠に止むことはないのじゃないかと思ってしまうような、哀しみの囁きだった。
雪の白さに押しつぶされるような苦しい胸を抱えて、明子はこの一ヶ月ばかりのことを思い出した。いや。
「思い出す」、というのは、正しくない。 全く正しくない。
なぜなら、常に「あのこと」は彼女の頭にあったし、目の前にあったし、息子や夫や青島刑事の顔の中にあったからだ。彼女が夜寝るときに最後に考え、朝起きたときまっさきに考え、食事を作りながら、買い物をしながら、洗濯物を干しながら、いつも考えるのが「あのこと」だったからだ。
だから「思い出す」という操作などいらなかったのだ。
「思い出す」というのは、つまりはそのことが何か“記憶”の一つ、“歴史”の一つ、“過去”の一つになっていて、普段はどこかとくべつな引出しの中にそれを仕舞って忘れていられる、という事だ。そしてもしそれを取り出そうというのなら、好きな時に取り出して、まるで掌にすっぽり入るきれいな器を鑑賞するように、記憶をなにか“物”のように「眺める」ことさえできるのだろう。
だが彼女らには、特に彼女の息子には、「あのこと」は「記憶」ですらなかった。彼には「あれ」を記憶することはほとんど不可能だ、ということが全員に判っていた。自分たち以上に、彼にとっては「あのこと」は常に――本当に常に――生起させられる「現在」であった。それは入れ替わり立ち替わり、あらゆる生活上の場面に現れた。
鏡、箸、刃物、食べ物、トイレに行くこと、畳の感触、ドアの開閉音、電話の呼出音、人に触れられること…。
彼女の目に見える限りでこれだけのリストができた。彼はこれらの恐怖を「感じない」ようにしようと、必死に何か襲いかかってくるものに対して抗っていた。
それは勝ち目のない戦いに思えた。
ほとんど彼はへとへとになっていた。
敵が彼自身の影であるのだから、これは絶望的な消耗戦だった。
彼女にはそれがわかっていた。
けれどもどうしようもなかった。
どうしようもない、ということがこれほど辛いとは・・・いや、辛い、と言う言葉は適切ではなかった。腹の中に真っ黒いマムシを飼っているような気分だった。それがのたうちまわっている。
本人を含め、それを見守る自分たちの四者それぞれが、腹の中にそれぞれの真っ黒いマムシを飼っている。
しかしそれも、息子の飼っているそれは黒さの中で最も黒く、太さの中でも最も太いに違いなかった。もはや彼は人格全体を腐食するほど巨大なヘビを体内に抱えてのたうちまわっているのだった。
彼ら全員それが判っていた。
だがやはり、どうしようもなかったのである。
もし何かを「する」ことで彼を生かすことができるなら、それこそ彼女はどんな法外な代償を求められても、喜んで支払っただろう。例え命をと言われても、彼女にはそんなことはまったくたいした出費ではなかったのである。
しかし、息子はそんなことはちっとも望んでいなかったし―――結局のところ、彼を立ち直らせるには、外的な力ではぜんぜん不可能なのだという事実だけが厳然としてあるのだった。
牡丹雪の積もるぽそぽそとした微かな音。
これが夢ならば。
彼女は心の中で何千回と何万回とも繰り返した言葉を、また再び繰り返した。
これが夢ならば――――。
警察と裁判所をかけまわって週刊誌の差し止めに動いた青島刑事は、夕暮れ近くなってから帰ってきた。
傘も差さずに過ごしたのだろう、髪は溶けた雪で冷たく濡れており、グリーンのコートは深緑色になったまま、半ば凍りついていた。
「侵入者の足跡もこの大雪じゃ消えてしまってわかりませんでしたが、たぶんこっから入ったんじゃないかなっていう痕は見つけました。とりあえず監視カメラ設置することにしましたから、これからこういうことはないと思いますが・・・・」
言葉を切った彼は、野性の獣じみた怒りに底光りのする目で三人を見渡した。
明子はただぼんやりと、堅さと鋭さを増したその精悍な顔を見つめていた。
青島刑事のしゃべり方は、まるで大学生のように子供っぽく、ソフトであったが、明子にはそれが人に警戒感を抱かせずに無条件の好意を獲得させる「武器」だったのだということに、ふいに気付いた。そしてやはりこの人も刑事だったのだと、ひどく現実離れした感慨を抱いていた。
何があっても前向きだった彼女がこう自失しているのには理由がある。
起こった出来事がもはや彼女のコントロールできる範囲を軽く超えてしまっていて、彼女にはもはや何をどう考え、どう対応すればいいのか、ぜんぜんわからなくなってしまっていたのだった。
「・・でも正直に言ってここも安全ではない、と思います。だからどこか他に滞在できそうな安全な所へ移るのはどうですか」
どこも思いつかないようでしたら、警察署にということになるんですが。と青島は続けた。
しかしそう言った瞬間、目に見えて室井が緊張したので、彼はすぐに、でもこれは最終手段ですと付け加えた。
おそらく青島刑事の念頭には、明子の実家の寺が最優秀候補にあったのではないかと思う。俗世から距離を置いた静かな修行場にマスコミがたかるようになっては大変な迷惑がかかると思ったが、他に心当たりもない明子もその結論に傾きかけた。だが、じゃあ・・と明子が切り出そうとした瞬間、横合いから室井本人が、
「それなら、別荘に行きたい」
と妙にきっぱりとした声で言ったのだった。
「・・・別荘?」
青島の顔がさまざまな感情を浮かべてゆがんだ。しかし彼は賢明にも、それ以上彼我の経済的格差についてコメントするのは恥だと感じたのか、
「それはどこにあるんですか?環境は?」
と職務的質問を発した。そしてそれがだいたい満足のいくものであると確認すると、青島刑事は、出来るだけ早いほうが良いんで、用意できれば今夜中にでも出発したいと告げた。室井は面白そうに頷いた。
記事の内容は青島から口頭で伝えられただけで、彼には例の写真が載ったことは折を見て話すと言うことで室井夫妻と青島との間に取り決められていた。だから室井はこの家を脱出する本当の理由を教えられなかった。・・・もっとも、敏感な室井のことだから、気付いて黙っているだけのことかも知れなかったのだが。
記事は、悪意に満ちていた。
青島は、上空から屋敷の写真と、二人が縁側に座っていた時の写真が撮られたことを告げた。
室井は、おやおや・・・という風に、眉を上げて見せた。
それから青島は、記事の内容を説明した。
屋敷の「五億」云々は別にしても、青島と室井が“非常に親密な関係”であることを指摘していること。――例えば、青島を直接室井が掛け合って、湾岸署に復帰させたエピソードがご丁寧にあげつらわれていた。しかし青島の復職は所轄署の怠慢で放置されていただけであって、たしかに室井が気付かなければ青島が杉並署の交番係で終わった可能性はあったにしろ、室井の一存で行ったことではなかったのだが、これは相当誤解を呼ぶような書き方をしてあった。
そして秋田県内にいる室井の警備を、東京の警視庁の、しかも一所轄の、SPでもない強行班係の刑事がしているのは職掌上おかしいのではないか、つまりは“その刑事は公金を使って友人と休暇を過ごしているようなものだ”という、曲解と悪意に満ちた結論を導き出していたのである。
これを聞いたとき、室井は小さく苦笑しただけであった。
まさに「怒髪は天を衝いた」という塩梅の青島と異なり、おそらく彼は誤解されたり曲解されたりすることに慣れすぎていて、こんな批判もあまり新味がなかったようだった。
「雪を見ていただけだったんだがな・・・」
記事についての室井のコメントは、それだけだった。
熱のない日だった。室井はやや気分が良さそうだった。 そう・・それはあの悪夢を見た、翌朝のことだった。
室井は戸を開けてくれと青島に頼んだ。
全部開け放ってしまってくれないか。 雨戸も、障子も、全部・・・。
離れの家の居間は、板敷きを挟んで南面全体が庭に開けている。居間と板敷きの間にも分厚いペアガラスがはめ込まれていて、この実に四重になったガラスがなければ、太平洋側の気候しか知らない青島には北国の寒さは到底我慢できなかっただろう。
寒いっすよ。
と、だから青島は反対した。
ハンパじゃないっすから、ここの寒さは。それにまた風邪ぶりかえしたらどうするんですか。
自分が厭なだけなのか、それとも室井の身体を心配しているのか、まあおそらく両方なのだろうが、その青島に室井は笑いかけた。
雪がみたいんだ。
室井が笑えば、青島は黙るしかない。室井を笑わせるためになら、もとより裸で雪の中に飛び込む覚悟だ。
しょうがない。青島は溜息をついた。
でもコート着て、毛布巻いて、ストーブ側においておいて貰いますからね。
ばたばたとこまめに立ち働く青島に、室井はやはり微笑を送った。
準備万端整えて、じゃあ開けますよ、と青島が戸を引き放つやいなや、きいんと音がするほど冷えた外気がどっとなだれ込んで、室内の籠もった暖気をあっという間に吹きさらっていった。
真っ白の世界だった。
目を上げれば高さのわからない白灰色の空から、こんこんとにじむように雪片が舞い降りてきて、そのいくつかは室井を包む毛布の足先に落ちてすうっととけた。
それはまるで天上から地上に降る高貴な音楽のように、あとからあとから際限もなく、彼らの視界一杯を埋め尽くすような白さで降りそそいでくるのだった。
そのまま、誘われるままに吸い込まれていきそうだった。
長椅子に身を横たえ、放心してその大自然のスペクタクルを眺めていると、雪が降ってくるのでなく、停止した雪のなかを自分が空に向かって上昇していくような、そんな不思議な浮遊感に柔らかく包まれていく。
―――――ああ…。
室井の唇から、知らず溜息が漏れた。
その純白に包まれた浮遊感は、それ以外の彼の全ての知覚を麻痺させ、
―――――きれいだ…。
それだけ、彼は発した。そしてただじっと、際限もない雪が白さに白さを重ねていく様を、消え入るように凝視めていた。
忠犬のように、青島はそのすこし後ろで、黙ったまま、降り注ぐ雪を背景に影を帯びた室井を、あたかも一枚の白黒の絵のように見つめていた。
この日、事件以来初めて、室井は、自ら望んで外の世界に触れた。
その隣で室井と同じ空気の匂いをかぎ、同じ景色を見、同じ音楽を聴きながら、青島は、怯え、傷つき、やせ細った室井の精神が、びくびくしながら開けてみた最初の世界が、その世界が、こんなにも美しいものであったことに、泣けるほどの感動を感じていた。
きれいだ、という言葉をつむいだ室井の唇に。
きれいだ、という言葉を、あれほどの醜い世界をその心身に体験しても見失わずに発することが出来た、その室井の魂に。青島は泣けるほどの感動を覚えていた。
彼を含む世界はどこまでも美しかった。
彼を包む雪はどこまでも白かった。
その静謐な白さは、この世のあらゆる汚れをぬぐい去って輝くようだった。
彼が世界に向けて踏み出した初めの一歩が、こんなにも美しい自然に対してであったことに、青島は感謝した。
世界は美しい。
そう、言葉でなく、眼前にひろびろと、はろばろと横たわる世界自身が彼に示したことを、そしてその押しつけがましくない美がもつ「力」そのものに、青島は跪きたいほどの感謝を心の中で捧げていた。
青島は、圧倒的な希望に息をするのも忘れて室井を見守っていた。
――その時、望遠レンズが彼らを狙う可能性など、彼にはまったく、考えも及ばなかったのだ―――。
いくら新城管理官が圧力をかけたにしても、特別大きなトピックスがない現在、覗き見趣味の大衆を満足させるネタとして、「現職警察庁官僚誘拐事件」は格好の餌食だった。
それ自体がセンセーショナルであることに足して、彼の実家が凄い豪邸に暮らしているということでもマスコミの―――「世間」の――注目を浴びずにはおれなかった。それこそ事件に全く関係のない、とっくに故人の祖父が県会議員だったこととか、自分が家裁調査官であること、妻が禅寺の出身であることが次々に公共放送に載った。
『・・まさに日本の生粋エリートといえるような、かたいご家庭出身です。被害者についても、仕事ぶりもたいへん真面目で、責任感が強く、人の怨みを買うような人ではなかったと、関係者は口を揃えて評価し・・・』
彼の小学校から大学までの成績、入庁してからのキャリア、管理官時代に解決した事件のリストも例外ではない。犯人の目星がつかない今、マスコミの注目は室井本人に向かうしかないようだった。
『捜査一課というのはいわゆる凶悪犯罪を捜査する部署ですので、何かその関係で、逆恨みをされたというのはあり得る話ですよね』
『それにしても、かなり酷い暴行を加えられていたという情報が入っていますが、人質をそのように扱うというのは、犯人にどのような意図があったのでしょうか』
『・・・身代金の要求について、あったかなかったかも警察は明らかにしておりませんから、警察全体に対するテロという可能性も・・・』
『・・・・警視正は警察庁の警備課課長という、いわゆる事務職のキャリアですから、彼本人を標的にしたのではなく、彼の“警備課課長”という肩書きをテロの対象としたのだという考えも成り立ちます。というのも“警備課”というのは国賓の警備とかスパイ関係ですね、そういうのを職掌している部署ですから、その警備課課長を誘拐するというだけでこれはもう警備警察への挑戦というか嘲笑というか、そういう意味を持つわけです・・・』
テレビはまだ我慢できた。
だが家裁調査官の室井をしてほとんど昏倒させたのは、あの写真が再び現れたことだった。
まるで、殺しても殺しても死なない亡霊のように!
「室井さん。ちょっと」
出勤早々、声をひそめた家裁調停委員の早川に職場の廊下に連れ出され、室井慎一は異様な胸のざわめきがうねりのように沸き立つの感じた。それはあの事件が起きて以来、あまりにも慣れてしまった感覚だったのだが。
「何です――何か、ありましたか」
この一ヶ月は頭が事件のことで一杯だった。仕事にでればそれなりに気が紛れるものの、やはり何か職務上の不備が指摘されたとしても仕方がないという心配が頭をかすめた。
「まあ、これを見てださい…今朝、駅のキオスクで買ったものなんですが」
普段は温厚な早川の顔も硬い。差しだされた写真週刊誌を、室井は嫌な予感が背筋をかけ昇るのを感じながら受け取った。案の定、表紙には小さく『警官事件の隠された真実』とある。
またか。
室井はどす黒いむかつきが込み上げてくるのを堪えきれずに唇をぐっと歪めた。
今度は一体全体、どんな個人的な情報が(ほとんど中傷だとしか思えないようなのもあった)書き立てられているのだろう。
室井はこんな雑誌を読む習慣など無かったから、こんなものを好んで読む「大衆」というものがいかに下司で低レベルかを知らなかった。だがこれでさらに自宅が「観光コース」になる期間が伸びるのかと考えると、ウンザリではすまない憎しみのようなものが感情を真っ黒に塗りつぶしていくのを、ほとんど止めることができなかった。室井は自分が忍耐の限界に来ているのを感じた。
「ページが折ってあります」
不快さのあまり、無言で頷くと、室井は表紙の文字から目を引き剥がして、折れ目の入ったページを開いた。森が写っている。それが上空から撮影された我が家だと気付くのに暫く時間がかかった。(だいたい、自宅を上空から見るなんて言う経験をした人間が世の中にどれくらいいるだろう?)数十行の記事の見出しには『推定時価5億円の豪邸』とある。
―――5億?
室井の眉間の皺が深くなった。吐き捨てるように思う。
バカげた数字だ。これが東京ならともかく…。
「これは――」
どう考えてもヘリから撮影したとしか思えないが、いつ撮影されていたのだろう?全く気が付かなかった。
「ええ、でもそれはまだ問題は無いでしょう…次のページよりは」
言葉の不吉さに室井は鋭く早川を見た。早川は険しい顔で見つめ返した。
彼は少なくとも「最悪の場合の覚悟」をしようと思った。だが、一体どんな「最悪」が待っているのか想像もつきかねて、だから正確に言えば、全く彼には心の準備などなかったのである。
室井はページをめくった。
右半分に粒子の粗い白黒の、どう考えても屋敷内まで侵入して撮影しないと撮れない、息子と青島刑事が縁側で会話をしているような場面の写真がひとつ。
そして左ページに、あの病院のレントゲン更衣室のビデオ写真が、写っていた。
後頭部を直撃されたような、ほとんど物理的な衝撃を受け、低く呻いた室井は大きくよろめいた。早川が励ますように腕をとって支えたのにも気付かなかった。
薄暗い裁判所の冷たい壁に身を預けて、室井はぶるぶる震える手で汚らわしい週刊誌の写真を押さえた。
「こ…これは…」
握りつぶしたはずの。
警察が押収したはずの。
しかし紛れもなく、それは入院直後に新城管理官によって示された、息子の無惨な裸体写真であった。
正面より少し右を向いた、上着を脱いだ瞬間の俯いた慎次の口許には白いガーゼがべったりと貼りつけてある。喉には白い包帯が巻かれている。両手首にも白い包帯が巻かれ、骨折させられた右手首は肘の辺りまで石膏で固められていた。
そして大きく写った痣の痕の散る胸部に、わざと白いラインで囲まれて示されいるのが、あの胸に残された刺青だった。
白黒写真では、赤い花はぼやけた染みになっていた。だが、慎一にはその禍々しい赤が大きく広がって、視界を薄紅に染めあげていく気がした。
彼は震える両手で顔を覆った。週刊誌がばさりと暗い廊下に落ちた。
動けなかった。
地球の中心まで突き落とされていくような目眩に襲われて、微塵も動くことが出来なかった。
終わった、と思った。
真白く空転する思考のなかを、全ては終わりだ、という思いだけが一杯に満たした。
一ヶ月、息をひそめるようにして生活してきた。轟々たる嵐雨の中で、ともすれば消えそうになる細い蝋燭を、妻と、青島刑事と、死に物狂いで庇い守ってきた。その火が消える・・・・・・・ふいっと、誰かが横から顔を出して、にやにや笑いながら吹き消してしまったのだ。
崖っぷちを這いあがるような思いで過ごしてきた一ヶ月だった。その息詰まるような努力も、これからの慎次の将来も、自分自身の人生もなにもかもを、この一枚の写真が吹き飛ばしていった。
もはやこれまでだ、と室井は思った。
もうこれで、慎次の将来はない。社会的な復帰はもうありえない。
拷問の――性的暴行のことだけは、ひた隠しに隠されてきた。だがこの写真を一目見れば、一体息子に何が行われたのかが解らない人間はいない。
大手出版社が発行している全国紙だった。
息子はこれから、自分が知らない人間にまで、自分が何をされたか知られている世界で生きて行かねばならない。ただの誘拐被害者であるだけでなく、性的暴行に遭った高級官僚として。犯罪を取り締まる警察側のくせに、逆に犯罪の手にかかった気の毒な警察官として。変質者の手によって男としての尊厳まで奪われた、哀れな子羊として。
どんな努力をしても、彼は「同情すべき存在」にしかならない。どんな人生を歩んでも、彼は良くて好奇心の的であり、悪くすればやっかみの対象になる。彼は「正常者」のなかでは決して評価されない。貼りつけられたスティグマは、あたかも“緋文字 A”のように彼の頭上に輝いて、衆人の中に決して穏やかに埋没させることを許さないだろう。
そんな人生にはとても耐えられそうもなかった。そんなマークを体中に貼りつけたまま、息子が今の職場を全うできるとはとても思えなかった。
噛んだ室井の拳の隙間から嗚咽が漏れた。
所内は静まり返っていた。
全ては終わった。――これこそが破滅だった。
雑誌を拾い上げた早川が肩に手を置いた。
ずしんとしたその重さによって、室井は確かにここはまだ地獄ではないということだけを思い出した。
「室井さん。しっかりしてください。呆然としてる場合じゃありません。今日キオスク発行のは、本格的に書店に並ぶのは明日以降だ。まだ手は打てます」
慎一は一瞬ぼんやりと赤い目を早川に向けた。
それから彼は猛然と、その通りだと言うことに気が付いた。
そうだ。
まだ「終わって」はいない。
いや、終わらせるわけには行かない!
彼は自分のデスクによろめくように駆け戻った。興奮にわななく手を伸ばし、受話器を取り上げた。プッシュしようとするがうまくいかない。
「加藤判事に電話するつもりですか?」
追いかけてきた早川が後ろから訊ねた。
「ええ。あの人なら話が早いと思って・・」
加藤判事は地裁の判事をしている。剛碗で、被害者救済に力を入れているので有名な人物だ。
「じゃあそれは私に任せて下さい。それより、家族の方は大丈夫ですか。」
「ええ、一歩も外にでないんだから・・・」
言いながら、そんなことを言っても、不法侵入者がいたからこそこの写真があるのだと思い直す。すると不吉な予感にぞっと鳥肌だった。もし息子がこれを見たら?もし、門前に張り込んでいるマスコミが、この写真を突き出したら?
「申し訳ないのですが、本日はこれから休暇を取らせていただけませんか」
蒼白になった室井の申し出を家裁の判事はいたましそうな表情で、だが快く受け入れた。
「仕事のほうは、なんとかしますから。こっちのことは全く心配しないでいいですから」
同僚の、まだ若いが仕事熱心な女性調査官が真剣な表情で付け足した。
「いまはなんとしても、息子さんを守って上げて下さい」
ありがとう、と室井はほとんど上の空で頷いた。ご迷惑をかけて、本当に申し訳ない。
有り難いことに、彼は間に合った。
『一課は何やってんですか、管理官!』
ついに「新城さん」とも呼ばれなくなったな、と沸騰しそうな頭の片隅で、新城は皮肉っぽく考えた。激怒しているのはこっちも同様なのだが、今回はあっちのほうが先にキレたということらしかった。
「だから捜査中だと言ってる。お前は言われたことだけやってろ」
つっけんどんな言い方は、いつもの自分からすればそれでも比較的穏やかな方だが、青島はそんなことに全く気が付かないようだった。ぎりぎりと歯軋りの隙間から漏らすような、ドスの利いた声で新城に“依頼”した。
『俺を東京に戻して下さい。室井さんの警護なんて誰でも出来る。その週刊誌記者を捜査させてください』
この言葉に、新城のあまり豊富にあるとは言い難い忍耐力もついに切れた。
――“室井の警護なら誰でもできる”だと?!
新城は怒りのあまりほとんど脳が融けるんじゃないかと思った。
貴様の巫山戯た寝言も大概聞き飽きたが、今回のがこれまでで一番だ!
「不法侵入者に写真まで撮られて気付かなかったのに、ご立派な言い分だな、青島巡査部長どの!」
前後を顧みない苛烈な弾劾が新城の唇から迸り出た。
ひゅう、と、受話器の向こうで青島が息を呑むのを聞いた。だが新城は云いすぎたとも思わなかった。
奥歯が砕けるほど歯をくいしばりながら、温度で測れば確実に氷点下を記録するような超低音で新城は繋いだ。
「貴様のような馬鹿野郎には言ってもわからんだろうがな・・・これは只の誘拐事件ではないのだ。室井さんもそれは知っている。」
捜査員には厳重な箝口令を敷いていた。例の写真は警視庁内の、鍵のかかった資料保管室に新城自らいれておいた。それが盗まれた。それがなにを意味するか。人気のない保管室で、新城は背筋に戦慄が走るのを止められなかった。
新城は他に3つの特捜本部を抱えている。だから室井事件に携わる捜査員を削減して他に回せという命令は何度も降ってきた。合理的な理由にサボタージュも出来ず、新城は、じりじりと、少しずつだが捜査本部を縮小するに余儀なくされている。
もう一ヶ月。犯人逮捕への糸口に触れた、そう思う感触は何回かあった。
だがそれを追及しようとするたび、図ったように横槍が入った。新城の任期切れも間近くなっていた。次は九州地方の中都市の警察署長職が待っているのだという噂が流れた。当の本人は全く聞いていなかった。打診すらなかった。だがその噂が流れてから、捜査員たちの志気は目に見えて落ちていった。
捜査員らもこの頃はうすうす気が付いていた。
・・・・これは“上”の事件なのだと。
もはや新城は誰が信用できるのかわからなかった。
こうして使っている携帯電話の内容さえ、傍受されていると思っていたほうが安全だった。彼が無条件で信任を置いていたのは、皮肉なことに青島と湾岸署の老刑事と、こまっしゃくれた女刑事と、そして本店では室井とライバル視されている一倉薬物対策課長しかいなかった。
こうまで身内が信用できなければ、いったい新城にどんな手が打てるというのだろう?
明らかに捜査は限界に来ていた。
青島が戻ってきたからといって、それは青島を死地に追いやるようなものだと判っていた。そうすれば青島はいさぎよく刑事を辞めるだろう。そして室井もまた、決して復活はありえないだろう。・・・・かつてそれをあれほどまで望んだ自分だったが。
「サルでも解るように言ってやりたいのはやまやまだが、貴様と言葉遊びをしているヒマはない。貴様は“貴様の職責を果たすこと”が、今は一番重要な仕事だ。“東京”にいちいち首を突っ込むな!」
新城には精一杯の表現だった。盗聴されている、とも、内部に情報漏洩者がいる、ということも、“室井を守れ”という職務が真の意味においてであることも、そして新城がそれを遂行するのに青島にフリーハンドを与えたと云うことも、たったこれだけのいい方で青島が理解することができるのかどうか、新城は極めて不安だった。
だが青島はバカではない。けして頭の回転が遅い男ではなかった。もし室井の頭の働きが正常であるなら、写真が公表された時点で彼には今直面している状況がどういうものなのか理解できているはずだが、それを期待することは酷だろうと思っていた。
だから、その時の新城には賭けるカードは、結局青島しかなかったのだ。
『・・・・・』
「返事は!」
新城は苛立ちのあまり怒鳴った。
『・・・・・わかりました。』
数秒送れて返ってきたのは、暗く、乾き荒んだ声だった。だがあらゆる風雨にも負けず頑にそびえ立つ城壁のような強さを秘めていた。それは青島の覚悟を教えた。青島がおそらくほぼ正確に新城の内心を読みとったことを意味していた。
青島は室井を守るため、今高い塀を自分と室井の回りに張り巡らそうとしている。
青島はもはや警察の誰も――室井を救うという、本当の意味において――信用できないことを知った。そしてこれは恐ろしく政治的な解決しかありえない事件だと新城が言っていることを理解した。その「解決」の中では、室井個人の心身の回復が極めて重要であるにもかかわらず、「好意」以上の援助もほとんど与えられないのだと言うことをも理解した。
青島には新城のスタンスはわからなかった。新城自身にすら自分が最終的にどっちに転ぶか解らないのだから当然だったのだが。
だがどうやら自分も“信用できない組”に分類されたと、青島の声から判断したとき、新城は知らず乾いた唇を疲れた笑いに歪ませていた。
「あのネタをもってきた記者はフリーライターだと雑誌社は言ってる。地裁がすぐに動いたから、雑誌はすべて回収される。もうすでに出回った分は不可能だが」
慰めになるのかならないのか、自分でも判然としない言葉を続けながら、新城は疲れた目を押さえた。慢性的な睡眠不足で、鈍い頭痛が取れない。疲労が溜まっていた。体力の問題ではなかった。以前なら決して認めようとはしなかった感情が、新城の精神を侵していて、それが彼の歯切れの悪さを生んでいた。それは忠誠を尽くすべき組織への、小さいがはっきりとした疑いの念だった。迷いほど人を疲れさせるものはない。
『そうですか』
熱のない声で青島がいらえた。たとえそうだとしても、再び背後から斬り付けられた室井の受けた傷は、たったそれで穴埋めがつくわけではないだろう、とその冷淡な口調は言っていた。じっさい、回収の理由がまた新しい話題をマスコミに提供しただけで、室井を社会的に抹殺しようという犯人の意図は充分達成されていた。
「そのライターは捜査中だ。任意同行を求めようにも、住居はもぬけのカラなんでな。」
ほんとうは居場所をだいたい押さえているのだが、盗聴を警戒して新城は嘘をついた。しかしこの“とっておきの情報”にも、青島は、そうですか。と興味なさそうに答えただけだった。
この瞬間、新城になんともいえない衝動が沸き上がってきた。
それは全てをこの男にぶちまけて、自分の立場も苦しいのだと、どうすればいいのか自分だって解らないのだと、室井のことが心配で堪らないのだと、まったくこの日本の警察組織というのは狂ってるんじゃないかということを、あらいざらい告発してしまいたいという、熱烈な欲望だった。
だが新城はほとんどその直前で踏みとどまった。それはまったく愚痴でしかなかったし、そしてそれを言ったからといって状況は全く好転するわけではなく、かえって悪化するだろうと言うことが明らかだったからだ。
その代わり新城は、罪のない覆面PCをあらゆる怨みと八つ当たりを籠めておもいっきり蹴りつけた。
ガコン、と車体が揺れ、運転手席に納まって新城の電話が終わるのを待っていた細川がぎょっとしたようにガラス越しに見上げたが、新城はまったくそれを無視した。両手があいていたら、可哀想な細川をサンドバック代わりに叩きのめしていたかも知れないほど凶暴な感情だった。
「言えることは以上だ。今後とも定時連絡をよこせ」
返答も聞かないで携帯を切る。
壊れろとばかりに機械を握りしめたまま、新城はしばらくへこんだ公用車に細い身体をもたせかけて、爆発しそうな頭をボンネットにもたせかけた。からりと晴れ渡った冬の青空の一片たりとも、きつく目を閉じた彼は見なかった。
2000 10 29 (1218re)
順序が前後していてわかりにくいかも
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