決壊・室井別荘


「この生け垣を過ぎたら、確か右折だ」

「はい、生け垣を右ね・・・・っと、ここ?この道?」

「そうだ」

 運転する青島の隣で、室井が断固として肯く。仕方なく青島はもはや二度とバックは出来ないだろう真っ暗な小道へと車体を乗り入れた。ミラーを覗いても、通り過ぎてきた道は文字通り一寸先も見えない闇に沈んでいる。室井の記憶を信じて進むしかない。(まあ、彼の記憶力が青島より劣っているということはまさかあるまい。)

 両脇の植え込み(?)から飛び出している小枝が、セダンのボディをぱしぱし音をたてて掠っていく。きっと朝日の下で見てみたら傷だらけになっているだろう。もっともこれは自分の車ではないのだが。

 室井と青島は室井家の持つ山荘に向かっていた。

 関東地方にそう遠くない山中だが、軽井沢や清里と違い、別荘地なのかただの寒村だかわからないような地味な土地である。従ってデザイナーの入った豪勢な建築物が軒を並べるというふうは全くなく、ぽつん、ぽつん、と質素な木造家屋が針葉樹に隠れるように建っているという具合で、隣近所との境界線も明確にはわからない。住所だけ教えて貰って、さあ辿り着けと言われたら、確実に道に迷うような辺鄙な場所にあった。

 だが室井はろくに街灯もない(しかも車一台やっとのくそ狭い)道を見事に暗記しているようで、雪こそ浅いものの凍りついた道路相手にハンドルにしがみつくように運転する青島へ、適切なナビゲートを与え続けた。

「ここだ・・・着いたぞ」

 懐かしい・・と室井が小さく呟いた。

 砂利を敷いただけの空き地に斜めに車を乗り入れると、ざりざりざり、という音をたてて、白のセダンは大きく傾いたままとまった。

 静まり返った夜の中だと、自分たちのたてる音はやけに大きく響く。近所迷惑かなとちらりと思ったが、かろうじて境界を示すようなまばらな生け垣の向こうにある古い隣家も、夜中の2時では例え人が居たとしても電気はついていなかった。

 月に反射する雪明かりを頼りに、静かに枯れ草を踏み分け家に近づく。

「あ、なんかふつう・・・」

 思わず漏らした声にドアの前で室井が振り返った。

「・・・・」

「あ、すいません。いや、あんまり実家が凄いじゃないですか、だから、別荘とかも、こう、どどーんと、あるのかな、なんて想像してたんで」

 明るかったら確実に室井の眉間の皺が見えただろう。呆れたような声音で、

「別荘は小さいものだ。でなきゃ掃除だけで日が暮れる」

「あ、やっぱり。じゃ、室井さんち、掃除しないんだ」

「普段使ってるとこはしてる!」

 思い通りの反応ににやりと笑うと、むきになった自分を一瞬で恥じた室井はぷいっと顔をそむけた。人間らしい反応。

「ね、室井さん、でもオレ、此処の方がなんかあったかい感じがして好きっすよ」

 耳元にこそっと言うと、室井さんは目だけ動かして青島の表情を点検し、その言葉に嘘はないと判断したあと、顔を少し和ませた。

「そっか・・・・私も休暇になると此処に来ていたんだが。きっとそれと同じ理由だったんだろうな。・・・すまないがちょっと鞄を持っててくれ。この鍵、開けるのにコツが要るんだ」

「あ、はい。でも、鍵穴見えますか?車からペンライト持ってきましょうか」

「いや・・大丈夫だ」

 月明かりだけでは青島にはほとんど手元は見えない。だが、室井は慣れた手つきでノブを軽く持ち上げるようにして鍵を差し込み、それから手前に引きつつ鍵をまわした。カチャリと小さな音がして木製のドアは簡単に開いた。

「さすがに慣れてますね〜。オレなら鍵貰ってても、開けるのに時間かかりそう」

「築二十年以上経つから、立て付けが悪くなってるんだ。もとは祖父が建てたんだが、それでも建った時から使うのはもっぱら私だったな。此処に来ると、ホッとする。実家は町中にあるし、やっぱり自然はいい」

 町中、といっても東京育ちの青島の感覚からすると、秋田は隙間も土地もすかすかに余っている様に感じるのだが。  玄関をくぐりながら正直にその疑問をぶつけると、

「田舎はいろいろあるんだ。うちは名主だったし。祖父の生きていた頃は県議会議員をやってたんで、いろいろ人の出入りも激しかったし。母と祖母は旨くいってなかったし」

 人付き合いが苦手だったのかもな、と呟く。だとすれば室井の対人関係の不器用さは、何も警察庁に入ってからのことではないらしい。

 冷え切った廊下はすぐに広い居間へ続いていた。パチリとランプをつけると、暖色の光に照らされた20畳ほどのキッチンと居間の一続きの部屋には、素朴なソファが長く置かれ、その前には座卓、昔の型のテレビ、そして暖炉がソファに取り囲まれるように壁の隅に置かれていた。

「うわ〜っ暖炉だ、いいっすねえ〜!ホントに山荘、って感じだなあ」

 衒いもなく相好を崩す青島に、室井は照れるように、

「暖炉以外、洒落たインテリアなんて無いんだけどな。絵は全て祖父が描いたものだし。でも警察に入ってからも、長期休暇が取れれば必ず此処へ来た。なんにもする事もないし、派手なところも無い所なんだが、なんとなく気が楽になるんで来てしまう」

 嘗て無いほど室井が饒舌になっていることに青島は気づいていた。饒舌、といっても、穏やかな声音で淡々と喋るだけなのだが、それにしても口数が普段の3倍くらいあるのは、自分の隠れ家に辿り着いて緊張がゆるんだせいのようだった。

「暖炉、点けましょうよ」

 この雰囲気を壊さないように、青島はわくわくした子供のように荷物もなにも放り出して、暖炉脇に積んである薪を差し込んだ。

 室井はほとんどこの頃では希有になっていた微笑を浮かべ、

「もちろん構わないが・・・出来るのか?東京の奴は火の付け方も知らないんだと思ってた」

 ・・・燐寸でつけるんじゃないの?

 燐寸を取り出し今まさに摺ろうとしていた青島が、首だけまわして情けなさそうな顔をする。室井は愉快そうにくくく・・と笑うと、横に置いてあった古い新聞紙を丸めて突きだした。

「直接木に火を点けるなんて、燐寸の山が出来るぞ。まずはこういうので火を作ってから、薪に燃え移らせるんだ。お前はやっぱり都会もんだな。」

 と勝ち誇る。青島は口を突きだして新聞紙に火を点けると、

「フツー田舎者が馬鹿にされるけど、あんたには都会もんって馬鹿にされるよなあ。」

 これでもオレってシティーボーイなんだけど・・・と言ったら頭を指で小突かれた。

 用済みの燐寸を暖炉に投げ入れて、おもむろにコートを着たままの室井を抱き寄せる。

「青島?」

 身を強ばらせて青島を至近距離から視つめる室井に、青島は照れ臭そうに笑って、でも抱き寄せる腕は余計に強くして、

「寒いから。ちゃんと火がつくまで、こうしてたげます」

 そう言って、ぱちぱちと音を立てて燃え始めた暖炉に茶色の瞳を向けた。

 室井は小さなオレンジの炎のせいで、精悍な顔にいっそうの陰影を深めた青島を、無言で見つめた。

 青島の横顔。こんなに間近に観察したのは初めてだと気がついた。漠然と男前だと思ってはいたが、当人の性格の故か、まだ青年というイメージがあった。

 だが今、ちろちろと静かに燃える炎に照らされた彼の横顔を間近に見てみると、遠くからでは解らなかった、頬にのこるかすかな傷や、剃りのこした数本の髭や、かさついた皮膚の凹凸までがはっきりとわかる。

 伏し目がちの目の下のくまも。荒れた唇も。くしを入れていない長めの髪も。

 それら全てが、この一月の青島の辛苦を、それにも変わらぬ優しさを、物語っていた。


 ・・・・ああ!

 室井は狂おしく頭を振り、目をぎゅっと閉じた。

 この一ヶ月!

 走馬燈のように、入院中のあらゆる出来事がありありと炎の中を駆けめぐる。

 新城ら警官たち、医師、看護婦、マスコミ・親戚の心配げな、怒りの、興味本位の、好色な、私の顔から何かのネタを見つけだそうとする者たちの顔・顔・顔・・・・。

 そして、あの3日間。


 あの暴行の。


 突然すさまじい吐き気に襲われ、室井は口をおおった。

「室井さん?!大丈・・」

 あやうく床に額をぶつけるような形で身体を折り曲げた室井を、青島は驚き、慌てて腕で羽交い締めにするように抱き留めた。

 直後、室井は吐き出すように叫んだ。

「いやだッ・・・・!」

 それは誰かに伝えるための言葉ではなかった。室井の奥底から勃然と沸き上がってきた「恐怖」そのものに、室井は全身全霊を籠めて「嫌だ」と叫んだだけだった。

「嫌だ・・・嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ・・・ッ!」

 全身を瘧にかかったように震わせ、右手は暖炉前に敷かれた長毛の絨毯を引き抜かんばかりに鷲掴んで、室井は頭を床に打ち付けるようにして叫んだ。

 生きながら魂が千切られたら、こんな風に人は叫ぶかと思われる、血を吐く様な慟哭だった。

 凍らせていた感情が、なぜかこの一瞬に熔解した。

 入院中の調書作成時には感情ときれいに切り離されていた記憶が、今や情け容赦なく、あらゆるリアルな臨場感を備えて、室井の全身に再現されていた。

 室井は泣いていた。かつての、乞食以下の哀れな自分を瞳の奥に視て泣いていた。

 滂沱たる涙がしとどに頬を濡らし、顎の先から雫となって、ぽたり、ぽたりと落ちた。

「・・・おねがいだ・・・やめてくれ・・・・!」

 室井は記憶の中の男達に、なりふり構わず懇願していた。ちょうどその時自分がやったように。もはや矜持もプライドもかなぐり捨てて、すすり泣きながら。

 だが、彼らは決して止めようとはしなかったのだ。

 せせら笑い、殴りつけ、身体を押さえつけのしかかり、衣服を剥ぎ取り、侮辱の言葉を吐き付けながら強姦し、何度も何度も人間としての矜持の最期の部分まで略奪して、それでも猶、彼らは止めようとはしなかったのだ。

 今や室井は、すべてを思い出していた。その時感じた、あらゆる恐怖と屈辱と絶望と苦痛の一瞬一瞬を、あたかも止まらないフィルムを視るように明瞭に反芻していた。気がつけば、全てが皮膚の上に再現されていた。

*  *  *  

 まず彼は、右中指の骨を折られた、その時に絡んできた犯人の指の生温さを思い出した。室井に顔を近づけ、(叫べ)と囁いた時にかちあった犯人の黒い目を明瞭に見た。 吐き付けられたくさい息をかいだ。その時唇の隙間に見えた黄色い歯も。

 記憶の洪水が、止めどもなく室井に襲いかかってきた。

 それから・・・・それから、本来倒れるはずのない、手の甲にくっつくまで折られた指を、そいつはそのまま押さえつけ、激痛に身をよじって絶叫する室井の耳を嬲るように(もっと大きく!もっと叫べ!)と笑った、その冷たい声を。・・・・それから・・・・それから、失神しかけた室井を殴りつけて目を覚まさせ、誰のだか知らないがペニスを室井の喉の奥まで突っ込んだことを。その匂いを。込み上げてきた吐き気を。口中に広がった男の精の生臭い味を。それから・・・それから、両脇から関節が外れるほどの強さで股を開かせられ、あまりの羞恥と恐怖で凍りついた無様さを嘲笑されたことを。そして。

 *

「・・・やめてくれ・・・・!」

 室井は泣きながら懇願した。

「・・・いやだ・・・おねが――――!」

 *

 骨を折られるのとは種類の違う激痛だった。

 生きたままカラダが裂ければこんな痛みになるだろうか。ぶつ、と皮膚が切れた音がして、下肢の間にぬるりとした液体があふれた。

 脳の血流が一気に低下し、全身に衝撃が走る。

 なぜ?どうして?という問いが、肉体的苦痛を越えて脳の中を駆け回った。自分の身に起こっていることが現実とは思えない。

 しかしこの恐怖と苦痛は確かに現実以外の何者でもなかった。それが溜まらなく恐ろしかった。夢でもお話でもなく、こんなことが出来る人間が存在するなどと言うことが。それが同じ人間であると言うことが。そしてその暴力が、まさに自分の上にのしかかって、まさに自分を押しつぶそうとしているのだということが。

(この方が滑りが良くなるぜ)という背筋を凍らせるような冷笑を、遠くで聞いた。苦痛に脂汗を浮かべ、精神的衝撃に青ざめガタガタ全身を震えさせている室井に、一片の同情どころか興味もない、そんな声だった。

 その冷酷さに、室井の精神は怯え竦んだ。相手は同じ人間ではない、という理解が―――全く救いにならない「理解」が、消滅しかけていた室井の理性をついに吹き飛ばした。 もうどうなってもいい、と思った。いや、思ったのは後かも知れなかった。ともかくここから逃れたい。この非人間の前から逃れ去ることが出来るなら、例えそれが死への片道切符であろうとも構わない、そんな狂気と絶望に突き上げられ、室井は無茶苦茶に身体を捩った。途端に後ろ手にまわった手を―――折られた指を――男は握りしめた。

 あっけなく室井は硬直すると、痙攣するように身体を小刻みに震わせることしかできなくなった。男は面倒そうに、彼を膝の上に抱え上げた。

 新しい痛みに押さえきれない叫びを上げる。男は大きなグラインドで下から穿った。わざと手酷く、腰を回すように突き上げる。

 痛みに身体が、意識が、木っ端微塵に分解していく。

 斧でめったやたらに殴られればこんな感じがするか。ハンマーで体中を潰されれば、こんなふうに痛いだろうか。

 反射的に苦痛を逃そうと頭を左右に振った。だがそうすればするほど後ろ手に縛られた手首に連動するテープは喉を締め上げ、呼吸すら奪っていく。肩から先はもはや感覚がない。酸素不足に瞬く間に頭に赤い靄がかかり始め、苦痛も同時に遠のいていく。失神寸前であった。いや、室井ほどの頑強な肉体を持っていなければ、とっくの昔に意識はおろか心臓が止まっていたかもしれない。

 反応が鈍くなった室井に気付き、男がぶつりとヒモを切った。一瞬引き絞られた首に脳裏がスパークしたが、呼吸が楽になると共に、次第に感じたくもない苦痛がまた靄を突き破って全身を苛み始める。

(まだ死なれちゃ困る)耳元で囁く声に、反応を返す力もなかった。揺すぶられ、突き上げられ、突き落とされる。串刺しにされたまま洗濯機の中でもみくちゃにされているようだった。

 いっそ殺してくれ。

 喘いだ。

 殺せ。

 なぜさっさと殺さない・・・

(まだ早いからさ)

 にこりと笑った男は、狡い目をして言った。

 それで、室井はこの男の上にまだ指令を発している人物がいると知った。

 その男の命令がないかぎり、自分はずっとこのままだと言うことも。 

 ―――たすけてくれ  

 生まれてはじめて、彼は幼い頃の神を求めた。

 だが奇跡は起こらなかった。彼が最もそれを必要とした時、救いは訪れなかった。代わりに苦痛と恐怖と絶望と怒りだけが世界だった。

 …神はいない。

 激痛の中で、室井は一つのことだけを明確に理解した。

 ―――神は、いない。
                        

 室井の目からゆっくりと光が消えた。

                                  
*  *  *
                                     

「室井さん!」

 不意に室井は、自分の頭をきつく抱え込む力を感じた。
 そして次に、自分の鼻が特有の煙草の匂いが染みついた布に押し当てられていたることに気がついた。

 ――――コノ香リ・・・・・
 ・・・・・アア
 ―――アオシマだ・・・。

「室井さん!」

 室井の急変になすすべもなく、震えながら「やめて」とだけ繰り返す室井のからだを、青島は、ただこの世にこの人を繋ぎ止めるのはこれしかないというように、室井の名を呼びながら、骨も砕けよと抱き締めるよりほか無かった。

「室井さん、室井さん。室井さん。室井さん・・・・・」

 彼の名を呼ぶしかない己の無力が死ぬほど悔しい。

 自分には彼を慰めることなど出来ない。

 彼が失ったもの、そこに空いた余りにも深い穴を埋めることなど、いったいどうして自分に出来ようか。彼を救い、癒す、そんな都合のいい言葉など、ひとかけらも思い浮かばない。そんな自分が心底悔しい。自分自身の愚かさが情けない。

 青島はただ名を呼ぶしかなかった。それは無力な自分への弾劾に似た響きを持っていた。

 ふと、青島は室井が突然大人しくなったのに気づいた。

 窒息させたのかとあわてて胸元から引き剥がして見下ろすと、涙に汚れた室井の顔に、あの特徴的な黒い双眸が、確かに正常な意志を宿して、青島を静かに見上げていた。

「むろいさ・・」

 青島が声を掛けると、室井は青島の腕の中から、身を捩って抜け出した。

 毛足の長い絨毯にぺたりと両手両脚を衝いて、青島から目を逸らし、暖炉の焔を俯きがちにしばらく見つめていた。

 暖炉で薪のはぜる音が静かな部屋に響いた。静かだった。嵐の去った後の夜のように。

 やがて、室井は頭を垂れ、軽く頭を振ると、彼の喉を包帯の巻かれた右手でそろそろと押さえた。

 そして、青島へゆっくりと向き直る。頬の涙は乾いていた。

「あいつらが・・・・わたしの・・・わたしの・・に・・・・両足を押さえつけられて・・・な・・何度も・・」

 いいざま、再び水滴が室井の頬を滑り落ちる。

 それは初めて室井が、自分の受けた暴行を語り始めた瞬間だった。

「室井さん・・・」

 室井の意図を悟り、そしてその告白の内容に、青島は神経を焼きこがすような激烈な怒りに包まれた。

「・・・・!室井さん・・・!なんてことだ・・・!」

 青島は思わず、床について上半身を支えている室井の上腕を、強く握りしめた。

 細い腕は細かく震えていた。だが、室井はゼンマイの切れた人形のように、度々つっかえ、口ごもり、時に言葉を失いながらも、記憶を絞り出すように話し始めた。

 それは論理も道筋も順序もない、凄惨な拷問の歴史であった。そしてそれはまさに、彼の受けた暴力が、論理も道筋も順序もないものであったことを示していた。

 それに耐え抜き発狂もしなかった、室井の精神の強靱さのほうが奇跡的である、そう思わざるを得ないような、犯罪になれた刑事ですらが吐き気を催すひどい内容に、青島はただ無言で室井を掴む手を強くするしかなかった。

「・・・それから主犯格の男が、私の両手の人差し指と中指を折れと言ったので、背の高い方の男が私の指を折った・・・」

 室井の左中指はもう二度と普通の形では接合しない。折れた指でもなお逃走を試み、戒めを解こうとしたので、骨が変な風にずれてしてしまったのだと医者は説明した。

「・・・・それから・・・奴等は」

 その先の記憶があまりにも悲惨で、室井の声は掠れ、途切れた。

 室井には記憶を思い出すのすら今日までかかる苦痛な作業のはずだった。それをさらに他人に説明するために口に出すのは、いっそうの苦しみを彼に与えないはずがない。

「言わなくて良いんです!言わなくていい・・・!」

 室井を思って喋らせまいとする相手に、蒼白な貌に幽鬼のような微かな笑みを室井は浮かべ、青島を見上げた。

「いいや・・・言わなくては・・それが聞きたくて、君はここに来たのだろう・・?」

 新城から、細かい事実を出来れば聞き出せ、と命令されたのは事実である。だが、青島にとってそんな命令に従う義理も情もなかった。

「そんな命令なんてくそくらえだ・・・!オレは、室井さん、あんただけが、あんたの心だけは守りたいと、そう思っていたのに・・・・・っ」

「青島・・・なぜ君が泣く・・・・痛かったのは私なのに」

 いっそやさしい細い声に、青島は絶望し貌を歪ませ、涙の溢れる両眼を片手で覆った。

「そうなんだ、わかってる・・でも何でかオレも痛いんだ・・・ここのところが、この胸の奥のところが・・・いっそオレが身代わりになれたらと、なんど思ったか知れない。あんたと心と体を入れ替えられたら、って・・・・。室井さん、ほんとに済みません。済みません、室井さん、済みませんでした。謝って済む事じゃないけど、助けられなくて、本当に、本当にごめんなさい・・・っ」

 室井にむかって土下座するように、青島は身を震わせて泣いた。

 室井が身じろぎするのがわかった。身を起こし、青島の髪に包帯の取れない指を差し入れ、青島の慟哭にも淡々と・・・先ほどの激昂が嘘のように、平板な声で青島の耳元に囁いた。

「従犯の男が私を床に突き倒した。着ていた服はコート以外、全部ナイフで切り取られた。」

 平板な、と思ったのは嘘だった。声は内心の恐慌を隠しているが、そうでなければ精神の均衡を保てないからだと解る。青島の髪を梳く室井の手が震え、からめた一房をきつく握りしめる。

「・・・初めに両手と首をロープで縛られて・・・呼吸が苦しくて、視界がぼやけて・・・でも殺すつもりならなぜひと思いにやらないのかと、不思議だった・・・何故だ、と思った。まさか・・・」

 室井は言葉を切った。

「・・そしたら従犯が、30pほどのコンバットナイフを翳して見せた。刃を私の目の前にちらつかせて、『その目が一生何も見えなくしてやることもできるんだぞ』と言った。訛りはなかった、と思う。それからヤツは・・・」

 室井は一瞬瞑目した。

「・・・私を引き起こして、シャツの合わせ目にナイフを突っ込んで、切っていった・・・・私は動けなかった・・っ」  

 肌の上を鋭利な金属が走る感触。

「殺されるかも知れない、と怖ろしくて・・私は抵抗できなかった・・っ・」

 情けない。そのあとどんな目に遭うのか分かっていたら、自分は敢然と抗って殺されていただろうか。それともやはり恐怖に固まっていただろうか。

「・・・それから・・・また俯せにされて・・・・」

 強ばった室井の身体が激しく震えた。記憶の中で、直腸に突っ込まれた異物に内蔵を掻き回され、室井はあまりの激痛と恐怖に声もなく絶叫していた。身を守るろうと本能で身体を丸めようとすれば、後ろ手にまわされた手首と連動する喉のロープが首を締め上げる。血流が減ってぼやけた思考のなか、鋭い痛みと恐怖だけがひたすらに現実だった。

「室井さんッ!もういい、もういいよッ!」

 口を塞ごうと身体をすこし放そうとした青島に、室井は青島の髪に搦めた指を強くして、いっそうぴったりと身を擂り寄せた。

「・・・もう知ってるんだろう?」

 ぞっとするような嗄れ声だった。青島の背筋に、戦慄が走った。

 墓場から腐乱死体が喋っているような声だった。

「・・・あとは、お定まりだ・・・主犯と従犯、それから途中でやって来た男一人・・・これは食料や車の調達係のようだったが。・・・代わる代わる、・・・」

 レイプ、という言葉がどうしても出てこなかった。

「・・・・されて・・・肋骨を折られたのはこの時だ。従犯が私から手を放した時、こいつを蹴り飛ばしてやったら、お返しに靴で蹴られて折れた、と思う」

 お陰で強姦される痛みだけを気にする余裕がなくなった。

「失神すると、殴って眼を覚まさせられた・・・取り調べでは言わなかったが、殴打痕は略取されるときのものじゃない。・・この時のものだ」

 室井は青白いまぶたを閉じた。

 閉じられる瞬間の瞳は一筋の光をも失い、はるかな寂光土を見るかにうすく濁り、青島の腕に抱かれた室井の身体はまるで死体のように重くなった。

「・・・・・もういいだろう?あおしま・・・」

 ・・・・聞きたかったことが聞けて、満足だろう?  

                            

***

                            

 死ぬ気力もない。
                              

 室井はその後、葯十数時間のあいだ、一言も発せず横たわっていた。

 暖炉の前の一畳四方から一歩でも出たら世界が崩壊する、と頑なに信じているように、たまに身じろぎする以外は、丸めた身体を毛布にくるんで、ひたすら何かと戦っていた。

 青島はそんな室井をどうすることもできない自分に腹が立って堪らなかったが、室井が助けを欲したときは、いつでも自分がいることを示すように、その隣に布団を敷き、風呂を沸かし、食事の用意をし、窓を開けて風を通し・・・と、せっせと働いた。

 しかし食事ですよ、と声をかけても、鳥の鳴き声がまた一つの朝を告げても、室井はひたすら縮こまったまま、外界に注意を向けようとはしなかった。

 夕方になって、気温がぐんと下がりはじめた。

「さむ…。―――室井さん、火、いれようか」

 急速に迫る夕闇をガラス越しに見て、青島は返らないと分かっている問いを室井に投げかけた。しんと静まり返った彼の世界に、俺だけはいるんだぞ、と伝えたくて。

 答えを待たず、青島は昼に消した暖炉に再び火を入れようとかがみ込んだ。

「・・・新聞紙・・・」

 燐寸を擦ろうとしていた青島は、掠れた声に驚いて背中越しに室井を見下ろした。

「えっ?」

 今の声、室井さん・・・?

「・・・学習しろ、お前・・・新聞紙にまず、火を点けろと・・・」

 青島の目が真ん丸に開かれ、ついで、くしゃっと精悍な顔が歪んだ。

「・・すみません。学習能力、なくて」

                         


                            

「・・・何か、食えますか?」

 とりあえず、自力で起きあがる気力もない室井を助け起こし、暖炉前のソファーにもたれかからせてから、青島は小さな炎に見入る横顔に尋ねた。  

 半分閉じたような黒い瞳がオレンジの炎を反射している。仮面を被ったような白い頬には、うっすらと無精髭が生えていた。一晩でがっくりとやつれ、苦悩の痕を刻み込んだようなその痛々しさに、青島は胸を衝かれた。

「・・・ホットミルクとか?」

 室井は身体をぶるっと震わせて、青島を青白い目で見ると、

「いや・・・・欲しくない」

 と小さく拒否した。  

 牛乳の白さは精液を連想させる。そうすると、もう、そういう生々しい匂いのするものは、全部ダメだった。

 病院ではじめて牛乳が出されたとき、ほとんど食べ物を口にしていないのに吐き気がとまらなくなり、最後は胃を吐き出すのではないかと思ったほど苦しんだのである。

「すまないが・・・白い液体や、生臭いものや、肉の類は、食べられそうもないんだ」

 淡々と喋る室井の真の意味に気づいて、青島は愕然と彼を見つめた。

 そういえば、室井家の料理は精進料理のような野菜類ばかりで、さすが禅寺出身のお母さんは違うと見当違いな納得の仕方をしていたのだが、青島は自分の迂闊さに頭を殴られたような衝撃を味わった。

(どうしてそういう大事なことをちゃんと云ってくれないんだよ!)

 精進料理など作ったこともない。青島に出来るのはカレーかパスタかステーキくらいなものである。・・・全て肉を使う料理ではないか。

 青島は、安藤医師と室井の母の顔を思い浮かべて舌打ちしたい気分になったが、

「じゃ・・お酒なら、どうですか?」

 さすが室井家の別荘だけあって、日本酒がボードにずらりと並んでいたのを、昼の探検中にチェックしていた。日本酒は米から出来ているのだから、米がダメなら酒でも代用が利くはずだった。

 だが、室井は申し訳なさそうに、「日本酒は・・ダメだ」と断った。

 監禁されていた廃屋の腐りかけた畳は、染み付いた日本酒の臭いで胸が悪くなりそうだった。突き倒され、殴る蹴るの暴行と凄まじい強姦のさなかに常に視界を占めたのが、けば立ち変色した畳の目だったのである。

 そのベタベタする感触と強烈な臭い、そしてそれらと、犯人の体臭と、精液の臭いが、終わりがないかと思われた三日間、室井を取り巻いていた世界だったのだ。それを身体は忘れられない。

 日本酒は好みの酒のはずだった。だがもう二度と、呑めそうもないと思う。

「臭いが・・あそこを思い出してしまってな」

 青島は息を呑んだ。そういえば、あの廃屋は畳に零した日本酒の臭いが充満していた。だがそれは室井が呑むような高級品とは似ても似つかない安酒の臭いだったのに。

「・・・洋酒なら、いけそう?」

 ひそりと囁く青島に、室井は逡巡してから、ああ、と答えた。何も欲しくなかったが、最後の手段で水を飲まされるよりはマシだろうと思ったからだった。

 わかりました、と軽く頷くと、立ち上がって青島は台所の方へ消えていった。なにやらごそごそやる音が聞こえ、やがて青島は小さなグラスに黄色い液体を注いできた。

「ブランデー、かと思ったんですけど。」

 ハイ、と差し出す液体に口を付けてみて、室井は怪訝な顔つきになった。

 青島は白い歯をひらめかせて、片手に下げたレミーマルタンの瓶を振って見せた。

「・・これ。ボトルはレミーですけど、中身は梅酒みたいですね」

 目をぱちくりさせた室井は、ああそうか、と合点がいった顔になって、

「多分、母が作り置きしてた梅酒だ。庭で梅が大量に出来るんで、毎年漬けているはずだから。・・・てことは、これ去年のじゃないか?・・大丈夫だろうか?」

「梅は殺菌作用がありますから、バリバリ大丈夫っすよ」

 なんなら俺も呑みますから、腹壊すなら一蓮托生ですよ、などとほざきながら青島もグラスを運んできて室井の横に座り込む。  

 青島は室井がまた喋り始めたことに大きく安堵していたし、室井もそれが分かったが、お互い沈黙の10数時間のことは何も触れなかった。

「・・・甘い」

 アルコールが喉を焼くような感触を残して嚥下されていくと、口の中に少しだけねっとりした砂糖特有の粘りが残った。久しぶりのアルコールが、身体にぽっと火を点けた気がする。少し力が出てきたような気がした。

 だがそれでも、胃が痛むほど腹は空いていたが、食欲はなかった。

 アルコールで栄養を採ることに決めた室井に、もう一杯梅酒を注いでやりながら、

「梅酒は甘いもんですよ」と青島が相槌にもならない相槌を打つ。

「・・・青島」

 ことり、と音をたてて、室井はグラスを床に置いた。そして掬い上げるように、青島を見た。

 暖炉を見ているだろうという予想に反して、青島の目は室井をやさしく見つめていた。

 はい、と答える代わりに、青島は目だけで笑ってみせた。

「その・・・」  室井は暖炉に視線を泳がせそうになって、ぐっと自分を引き戻した。

「・・・君には、感謝している。」  眉をひそめて口を開こうとした青島を、室井はさえぎった。

「感謝なんかいらない、と君が言うだろうとは分かってる。だがやはり、言っておきたかった」

 あの地獄から、自分を救ってくれた。

 この苦しみが、闇がいつまでも続くんじゃないかと絶望しかけていたのに、突然、その闇を切り裂いて光が射し込んできたような気がした。

 コートの中に抱きしめられて、その時嗅いだきつい外国煙草の臭いとか、胸郭を震わせて聞こえる声とか、乾いた布地の感触とか、抱き上げてくれた腕の温かさとか。そういうものがどんなに嬉しかったか。

 室井は大きくうねる炎を見つめた。火に照らされた皮膚が熱かった。

「・・・いっそ死んだ方がましだろう、と何度も思った。・・・だがその度に、幻の中で君を見た。励ましてくれたわけじゃない。ただ君がこの世にいて私という人間を信じてくれる、そういうことを思い出していた・・・」

 どういっても舌っ足らずな気がして、室井は小さく息を吐いた。

 それでも、きちんと言っておかなければならない。後腐れ無くしておきたかった。

 室井は青島の茶色い瞳を真っ直ぐに見なおすと、言葉を継いだ。

「君がいたから死なずに済んだ、と思う。そして、一番初めに助けに来てくれたのが君で、本当に嬉しかった。・・・君の声を聞いたとき、私は、自分があの闇を抜けられたのを知ったんだ」

 青島は黙って室井に耳を傾けていたが、室井の言葉が終わると、ふいに顔をそむけ、ごそごそと足を抱えるように座り直した。膝小僧の上に腕を重ね、その上に顎をのっけて、そうしているとまるで拗ねた中学生のように見える。

「・・俺は。あんたを本当に助けられたのかな・・・」

 青島らしくない暗い声に、室井は意図を図りかねて陰影の濃い精悍な横顔を探った。

「俺は・・・あの時、あんたが生きてるってわかって、・・・それこそ、“闇を抜けた”ような気がした」

 室井に淋しそうに笑い掛けて、俺も三日間寝なかったンすよ、と呟く。

 室井は虚を衝かれた。・・・そういえばそうだ。自分が誘拐されている間、青島以下湾岸署の捜査員達は、自分の救出に駆け回っていたに違いない。それなのに、今の今まで、室井は自分の苦痛しか考えていなかった。

「・・すまなかった。迷惑をかけた」

 そんなこと言ってるんじゃないんです、と青島が怒ったように長い前髪を跳ね上げる。

「・・さっきの室井さんの言葉が真実なら。・・・どうして自殺しようなんてこと考えるんですか」

 室井は、青島の怒りを湛えた暗い瞳を、無表情に見つめ返した。

「・・・だれがそんなことを」

 心外そうな響きを籠めたその言葉を、青島は哀しそうに受けとめた。

 すう、と息を吸い込み、吐き出す。その息が震えていた。

「ああ・・・・否定しませんね・・・。そっか・・・」 

 青島は自分の長い前髪をわし掴み、目をきつく閉じた。

「・・・おれ、何の役にもたってないじゃん・・・・」  

 絞り出すような小さな声だった。

 室井は恫喝するような低い声で反論した。

「なぜ私が自殺など考えるんだ」

「それはこっちのセリフです。・・・なぜ死にたいなんて考えるんですか」

「そんなこと考えてない」

 嘘だった。

 室井はこの10数時間、死の誘惑と戦っていたのだ。

 もちろん青島に室井の嘘は通用しなかった。

「室井さんは助かって、こうして生きてるんですよ?なのになんで?」

 室井が何故死にたがるのか、その時、室井ではない青島には分からなかった。

 室井が自分の記憶と戦っているのだと、記憶の中で室井はいまだにあの暴行を受け続けているのだと、あの恐怖をまざまざと再現しているのだということが、わからなかった。記憶というものが現実と同じくらいの力を持つものだと言うことが分からなかった。真実を忘れることをさせない室井の強靱な精神が、それ故に室井を追い詰めていることが理解できなかった。

「・・・犯人取り逃がしたことはお詫びします。詫びて済む事じゃないけど、・・でも絶対犯人逮捕して、処罰して、それ相応の償いをつけさせてやります」

 犯人が逮捕されても室井の苦しみは、もしかしたら死ぬまで、彼自身が彼の記憶から解放されるまで終わらないのだと、その時の青島には分からなかった。

「もしそれができないなら、殺してやります」

 室井の瞳が揺れて、凍った。

 青島の口調は静かだった。

 冷たい殺意が、ガラスのような瞳を覆っていた。

「なぜそんなに驚くの?あなたをここまで苦しめたヤツら、5年や10年で許せるわけないじゃん」

 青島は凝然と見つめる室井の頬に手を伸ばしかけ、それから気がさしたように拳に握り込むと、それで床をどん、と叩いた。

「・・・あんたに触ることもできない。」

 青島は傷ついたような笑みを片頬に浮かべた。

「・・・俺が触ろうとすると、あんたが怯えるのがわかる。肩に力が入って・・・身体が逃げようとする。・・・・・・・俺が怖いんでしょ?」

 青島は自嘲するように呟いた。

「俺も男だから。怖いんでしょう?」

「怖くない」

 室井は震える声できっぱりと言った。

「君と犯人たちとの違いくらい分かる。奴等は・・・・・私を、人間として扱わなかった。暴力と・・肉欲の対象としてしか、考えなかった。君は違う」

「それは買い被りかも知れないよ。むろいさん」

 室井は眉をひそめた。

「なに・・・?」

「殴るだけが暴力じゃない。・・・俺の存在自体があなたに脅威であることもありえる」

 青島は身体をますます小さく縮めるように、両脚をかかえなおした。

 青島の言いたいことに思い当たると、室井は憤然として、

「そこまで弱くないつもりだ」

 さっきから視線を合わせようともせず、馬鹿なことを口走る男の横顔を睨み付けた。

 青島はちらりと室井をみやると、苦い笑いに唇を歪めた。

「・・・それに・・・」

 あなたを抱きしめたい。と思うのは、単なる庇護欲だろうか。閉じられた瞼に、緊張に強張るこめかみに、キスを落として、何も心配することはないのだと、そう囁いてやりたい気持ちになるのは?何も言わずに背を向けて痛みに耐えるしかない、そういう室井の背中を、抱きしめて、支えて、生きて欲しいと、共に歩きたいと、そう願うのはただの愛情なのか。

 青島はこれまで室井をそういう対象として見たことはなかった。室井は常に自分より強く、遙か高みに存在する人間だった。

 だがこの事件で、それ以外の視点の置き所があったことに、そして自分がそこから目を背けてきたのではないかという奇妙な確信にも似た思いに、青島は囚われていた。そして気づくと同時に、彼はそれを否定しなければならなかった。室井の側にいるためにそれは決して認めてはならない感情だった。

 だが側にいればいるほど、この想いは急速にその形を明らかにし、今は・・・。

「それに、何だ」

 苛立ち追及する室井に、青島は黙ってその姿を観察した。

 やつれ、青白い生気を失った肌。消しがたい疲労と恐怖の名残をとどめ、輝きを失った瞳。身体は一回り以上細くなり、骨格の在処が服の上からも分かるほどだ。そして以前にまして、針のように尖った神経。それは室井自身を刺し通す刃だ。

 其処にいるのは、かつて青島が反発と同時に憧れ、敬愛した室井慎次ではなかった。弱り、傷つき、一人で立ち上がることもできない、醜くやつれた男にすぎなかった。なのに、どうして自分はまだこの感情を持っているのか。

「・・・あんた、弱いじゃないですか」

 肩を抱いたら、崩れ落ちてきそうだ。

 自分に頼り、甘えることは、正常の室井なら到底首肯するところではないだろう。

 だが今の室井なら、容易く堕ちてくる。

 自分は、そんな室井でもイイと思っている。そうやってでも、手に入れてしまいたいという欲望が、ある。

 だがそれは、室井を奈落へ突き落とす行為になるのかもしれない。彼の弱みにつけ込んだことになるのかも知れない。

 青島は卑怯だった。自分の、室井に雪崩れ込んでいこうとする感情を頑としてはねのける強さを、その時の室井に求めた。

                      

 さっと眦をつり上げた室井は、口を開こうとして、きゅっと唇を引き結んだ。そんなことを言われるのは心外だ、と主張するには、あまりにも情けない姿を彼に晒したことを、突然、自覚した。

 ・・・・・甘えている。自分は、青島に。

 以前なら、人前で涙を流すなど、絶対に許せなかった。

 やはり自分は壊れたのだ・・・あの三日間で、プライドも何も失って、助けと許しを乞いながら、恐怖と激痛と屈辱の涙にまみれた泥濘を転がりまわったあの時に。

 自分は自分を失った。35年かけて自分を支えたどんな意志も、怒りも、理性も、恐怖と痛みの前に砕け散った。

 自分の言葉が通じなかった。

 人が人であるためには、他者に人であると認めて貰わなければならないのだと、初めて知った。

 それまでの自分は幸福だった。仕事上さまざまな困難はあったけれども、たとえ対立者でも同じ言語と感情を持つ人間同士であることを前提にしての話であったことに気が付いた。

 プライドも何もかも捨てて、なりふりかわまず止めてくれ、と許しを乞うたとき、私は私を理解してくれ、と懇願したのだ。人間として扱ってくれ、と。

 だが彼らは止めなかった。つまりは私を人間とは認めなかった。泣き叫ぶ犬を面白がって蹴り殺す子供のように、私を犯しながら純粋に愉快を感じていた。それが恐怖だった。怖ろしかった。私を今蹂躙する者達が、私の存在を文字通りその手に握っている者達が、全く同じ感覚を持つ人間ではないのだと言う事実に、私は心の底から恐怖したのだ。

 言葉の通じない獣を相手に、一体私のプライドが、意志が、何になろう? 牙を剥いて襲ってくる虎に、人間の言葉がどんな力を持つというのか。

 かくてあの時の私は、言葉も、意志も持たない、一個の動物だった。聞かれてはじめて言葉は言葉であり、理解されてはじめて、意志はその力を持つ。

 私は無力だった。私はゼロ以下の存在だった。

 地獄は死後にあるのではない。

 あの時、私には、死のほうがよほど、優しかった。

***

 突然、青島が何かを振り切るように立ち上がった。

「すみません・・こんな事云うつもりじゃなかったんです。・・・・俺・・俺、馬鹿だから、室井さんは俺の云う事なんて全然気にしないで下さい。ホントに弱いのは俺なんです。」

 青島は、打ちひしがれたように片手で身体を支え、それでも仰向くように青島を見上げる室井の目に深い傷跡を見つけて、ますます動揺した。

 (ダメだ、俺、このままだと何をするか分からない)

 抱きしめて、際限なく甘やかして、自分の庇護の下に置いてしまいたい衝動に駆られる。それは室井を壊すことなのに。

「俺・・・買い物行ってきます。鍵、締めて行くんで、俺以外の人間が来ても、絶対にドアあけないで下さい」

 青・・・と、室井の唇が動くのを目の端に捉えたが、青島は一目散にきびすを返すと玄関横のコートだけ掴んで、雪の積もった戸外へ飛び出した。

 扉を背中で閉めてから、思わずその場にへたり込みそうになる。

 肌を刺すように冷たい冬の空気が青島を押し包むと、一気に頬の熱を奪い去り、青島の興奮した頭脳をやや沈静化させた。

 はあ、と息を吐いて二三歩ガレージに歩みかけ、施錠するのを忘れていたのに気づきとって返す。

 室井と青島がここにいるのを知るのはごく一部の人間だけだが、それでも万全を期するに越したことはない。

***

 カチャリ、という施錠の音を聞いてから、室井はゆるゆると重い頭をソファの座席部分にもたせかけた。

 かつての自分なら絶対にしなかった、自堕落な格好でずるり、と両手両足をのばす。

 しばらく呆然としていた。  なにもかもが億劫だった。

(あんた、弱いじゃないですか)

 青島の言葉がリフレインした。

 そうだな、と思う。

 弱い自分は・・・嫌いだ。

 記憶から逃げることを許さず、しかし感情をコントロールする事も出来ず。

 まさにそういう自分は弱い人間だ。こんな自分に用はない。

                          

「もう・・・」

 十分だ・・・と言う溜息と共に吐き出された言葉は、うす暗い室内に吸い込まれて消えた。

                       

 ぼんやりして、あてどなく彷徨っていた思考が一点に決着すると、なんだか少しからだが軽くなった気がした。

 泣いたり喚いたり、随分青島には迷惑をかけた。私を買いかぶってくれた彼に、最後の最後に醜態を晒したのが、申し訳ないと思う。

 そういえば、自分の我が儘でこんなところまで付いてこさせたが、あいつの仕事はどうなっているのだろう。犯人逮捕に結びつかないまま青島の仕事が終わるのでは、新城あたりにまた怒鳴られそうだが・・・。  

 これまで考えていなかった疑問が頭に浮かぶ。

 でもまあ、今日でそれも終わりだ。

 室井はよろけながら立ち上がった。  青島が風呂を沸かしてくれていたのを、覚えている。

 室井は隣室へ入っていった。途中、ソファの肘掛けやテーブルの角などにやけにぶつかるので、自分の体力が相当弱っていることに気が付いた。だが意志ははっきりしていた。久しぶりに、自分がすべきことをする快感が生まれていた。

 室井は古い箪笥の前を開いた。そこには着物用の長方形の引き出しが入っている。

 一番上の棚に、すぐ目当てのものは見つかった。洒脱な祖父が死の直前に誂えたものの、一度も袖を通さずにしまい込まれたままの大島紬だった。

 両手を引き入れて持ち上げると、冷たい絹の感触とずっしりした重みが伝わる。

 それを苦労して衣紋掛けに広げると、室井はしばらくその着物の前に端座した。

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