Waiting Here -Part Six -


スパイクはザンダーを抱きしめていた。まるで自分の全人生がそれに懸かっているように。まるでそれが唯一の彼が知り得た真理であるかのように。まるで、そう、彼が手を離してしまったら、それは世界が彼の腕の中から滑り落ちていくことだとでもいうように。

彼がなんとか正気を保てたのは、少年の胸の中で心臓が動いて、彼の首にあたたかい吐息がかかっていたからに過ぎない。スパイクの身体は小刻みに震えていた。さっきの"発作"のせいではない。憤怒でだ。

彼の心は二つに引き裂かれていた。自分が見たものに対して、自分の腕の中で気を失っている少年に加えられた行為に対して、そしてザンダーをこんなふうにしたあの男に手を出せない自分の無力に対して、の目の眩むような怒りがあった。その一方で、彼は心底から恐怖していた。ザンダーはこのあとどうなるのか?

ザンダーは自らの血を分かち与えて彼を癒してくれたのだ。今まで誰もこんなにまで自らを犠牲にして彼を救ってくれたものなどいなかった────いや、違う。ほんとうはこれまで1度だって、彼のために自分を犠牲にしてくれたものなど一人もいやしなかったのだ。

ザンダーが死ぬかもしれない。そう思ったとき、彼は自分の心が凍りつくのを感じた。もしそうなったら。自分も生きてはいられない。

自分のもつ力を少年の身体に注ぎ込もうとするかのように、スパイクはザンダーをさらにきつく抱き寄せた。心の中にあの声が、幾度も甦ってはささやいた。

『行ってきなよ、俺はここで待ってるからさ(I'm waiting here)。心配要らないって。何もおきやしないよ…』

彼には少年の顔に微かな笑みが浮かんでいるのさえ見れたのだ、それはスパイクが彼を置き去りにしても大丈夫だと思っているくらい彼を信用しているのだということを喜んでいる表情だった。

恐ろしいほどの後悔が彼の全身を波のように洗い、スパイクはぎゅっと目を閉じた。全ては自分のミスだった。自分は、こうなることを知って、でなければ知覚して、でなければ嗅ぎ取って、とにかくなんでもいい、予測しておくべきだったのだ。彼を守るために、1歩もここから離れるべきではなかったのだ。それなのに。

彼は自分がこの少年を、この純粋な魂を、かかる悪から遠ざけておくためになら、自分はもはや喜んで死ぬつもりだということすら判っていた。

スパイクは、悪とは何かを知っていた。彼はそれを味わってきたし、触れてきたし、その暗闇の腕に抱かれて生きてきたのだ。だがヴァンパイアすらも踏み込まない深い悪の領域があった。これは───ザンダーの父親がやったことは、ヴァンパイアの義父が養子に下すことが許される権利とも違う。どれほど手ひどく扱おうとも、そこにはまだある程度の手加減や、またはファミリーの元へ引き戻そうとする意思があった。だが、これは、このことは、まさに純粋な悪そのものだった。ザンダーの背中をなでる彼の手が震えていた。

あのけだものは、ザンダーの血を分けた、最も強い絆を持つはずの者なのだ。そいつが、その男が、言葉の最も基本的な意味で、その絆を汚し、辱め、引き裂いたのだ。

スパイクはもはや自分の残りの人生の全てを費やして、そして自分の持てる技術の限りを尽くして、あの男をいたぶり、拷問し、悲鳴を上げさせ、苦しめぬいてやる以外に望むことなど無かった。一思いに殺してやるなんて親切はしてやらない。そうとも。いったい人間の身体がどこまでの苦痛に耐えられるものなのか、その身にじかにあじあわせてやる。そして奴が最後の息を引き取る間際まで苦しめてやってから、自分はザンダーにあのナイフを返してやるのだ。少年が箱を開け、あのナイフを奴の胸に柄まで深深と突き通すのを、自分はどれほどの満足と幸福感を持って見守ることだろう。

だがそれはできないのだ────少なくともあのチップがアタマに埋まっている今は。彼は怒りに神経が焼き切れそうだった。

そのときザンダーがひくりと喘いだ。そしてスパイクの肩にもたれていた頭をゆっくりと上げた。スパイクはじっと、ザンダーの目が開くのを心配そうに見守った。恐ろしかった。もしザンダーの目からあの光が、彼がずっと触れたいと願っていたあの生命の輝きが、失われていたら。

ザンダーはゆるゆると目を開いた。頭がふらふらした。殴り倒されたときに床にぶつかった顔はずきずきしたし、肋骨は────このごろやっと、息を吸っても痛みを感じなくなってきていたのだが────は、またもや激しい痛みを訴えていた。

彼は冷たい腕が、痛みをやわらげようとするかのように自分にまわされるのを感じた。こんなところで、ヴァンパイアの腕の中で────しかもついさっき自分の血を吸わせたヴァンパイアの腕の中で────こんなにも安心した気持ちになる自分はおかしいと思う。切った手首がひりひりと痛んだ。だがそれは、自分がこれまでに作ってきた時の痛みとは違っている。それは痛みというより"ブランド"、もしくは所有のしるしだった。

手首に噛みついたスパイクの唇の感触。あんな感覚は今まで知らなかった。絶望、欲求、情熱。スパイクは彼の中から彼自身さえ知らない深みに潜んでいた彼自身の本質を引きずり出した。彼は血を求めていたのではなかった。彼は彼自身を、彼のものになることを、求めていたのだ。そんな関係性は知らなかった。

彼は目を上げると、自分を見おろすスパイクの目に視線を合わせた。

青と茶色の瞳が出会い、互いの中に同じ痛みや不安やの感情がゆらぐのを見た。時を忘れたように、お互いがここにこうしてあることの喜びを噛み締めながら、二人はそうしていた。ザンダーはゆっくりと腕を上げると、スパイクの顔に指を滑らせた。

「よかった。どんなに怖かったか…どうしたらいいのかわからなかったよ、すごく辛そうで」

自然に、そんな言葉が転がり出た。声が震えた。

「もしか、君が死んでしまうんじゃないかって…,」

そのときの情景が目の前にちらついて、言葉が途切れた。彼の耳にはスパイクの肋骨の折れる音が聞こえたし、まだ耳の中ではスパイクの頭蓋骨が床にぶつかったときのいやな響きがこだましているかのようだった。

「僕のせいで苦しむ君を見たくないんだ」

スパイクは自分に触れているザンダーの手に自分の手を重ねた。

「ラヴ。悪いのは俺のほうだ。お前を傷つけて、さらには血まで…」

スパイクの声は奇妙に震えていた。苦すぎる記憶に、彼の声はわずかに掠れた。手をはなして、代わってザンダーの身体をそっと自分の肩に寄りかからせ、彼は言った。

「約束する。二度と、誰にも、お前に危害を加えさせはしない。誰にも、触れさせも、傷つけることも、決してさせない。例え俺が側にいない間でも。」

ザンダーは身を任せたまま、しんと沁み透るような誓約に声も無く、スパイクの肩の中でうなずいた。スパイクに言いたかった。君の気持がわかったと、君を信じると、告げたかった。だが喋れなかった。

二人は互いの無事を確認し、心を落ち着かせながらそのまま暫くそうしていた。小さく息をついて、そうしたくは無かったが、ザンダーは身を起こした。アドレナリンのもたらす興奮がひいていくにつれ、痛みがじわじわと身に堪えてきていた。震えるような細い息を漏らして、彼は立ちあがろうとした。

「大丈夫か。何か欲しくないか」

恐怖を示すきな臭い匂いが消えた代わりに、ザンダーの中で次第に痛みがせりあがってくるのを感じる。ザンダーは痛みを逃すように首を横に振った。スパイクはどこも痛くするようなことの無いように、細心の注意を払いながらそうっと身を離した。それから自分自身、壁にすがるようにして立ちあがり、ザンダーに触れた。

「立てるか?アスピリンを飲んだほうが良いと思う。それから鼻を見せてくれ。折れてやしないか心配だ…良く見てみないとはっきりしないが」

スパイクはそっと、励ますように囁いた。今回のはこれまでとは話が違う。今度こそきちんと病院につれていかなければならない、たとえこの小僧が泣いて嫌がったとしてもだ。 スパイクはそう心に決めていた。鼻の具合からみれば、かなり痛いはずだ。それに加えてスパイクは肋骨と、そしてあの場所に本当に何の怪我もないのか、確かめないわけにいかない───そのことに考えが及んだとたん、抑圧していた怒りがどっと噴き上がって、彼は一瞬我を忘れた。

目の前に今夜のあのシーンが浮かんだと同時に、顔が吸血鬼に変貌していた。無意識に、胸の奥底から低い唸り声が洩れはじめる。

ザンダーは怒った狼の立てるような唸りを聞いてはっと目を見開いた。腕を伸ばし、差し出された手にすがってなんとか立ちあがりながら、スパイクの顔を一瞬よぎった感情を読みとって────そして悟る。彼は全部見てしまったのだ。

スパイクがここに駆け込んできたときは朦朧としていたので、スパイクがどこから見ていたのかなんて判らなかったのである。だが今は、全てばれたのだと言うことに間違い無かった。

「スパイク、落ち着いて、頼むからそんなに興奮しないで!これくらい平気だから…」

ぎらりとスパイクの黄色い目が彼を射抜くように見返したので、ザンダーは思わず恐ろしさに身を引いた。

「い、いや、つまり、起きたことに関して平気だといってるわけじゃなくて、僕は今はもう大丈夫だって、そういう意味なんだよ。もう終わったことなんだから、頼むから落ち着いて、お願いだよ、僕はもう二度と君が傷つくのを見るのは耐えられないんだよ」

ザンダーの声に含まれた絶望の色がスパイクを正気に返らせた。長く、ひっそりと息を吸いながら、彼は心を宥め、人間の顔に戻ろうと努めた。自分があの、床に伸びている"物体"に対して今は何も出来ないということは判っていたし、それに今はあまりにも体が弱っていた。さらにいえば、今はザンダーを興奮させるようなことは何一つするべきではない。

頷き、人間の顔に戻ろうと努力して、ところがコントロールが効かない。なんとかもとに戻ろうとするたびに、ある反吐が出るような情景とか、もしくはある雑音とかが彼の意識をがっちり捕えてしまい、そうするとむくむくと沸いてくる憤激に、またもや元の木阿弥になってしまうのである。

彼は自分の額にある深い皺を、あたたかい手がそっとなぞるのを感じた。本能的に、身を摺り寄せるようにして、スパイクはザンダーの優しい愛撫を求めて顔を上向けていた。

「ね、お願いだから、何か話して。ね?何でもいいから喋って」

ザンダーの声は、またスパイクが死ぬような目にあうのではないかという不安に掠れていた。もしまた自分の父親を殺そうとしたら───ああ、そんな情景を見れたらどんなに嬉しいことか!───そうしたら、今度こそ、あのチップは彼を殺してしまうだろう。

頷き、スパイクは最後に大きく息を吸うと、なんとか人間の姿に戻ることに成功した。

「悪い。ラヴ、ただ、あの肥え溜め野郎がまだ生きてると考えるだけで耐えられなくてな。あの野郎が、まだお前と同じ空気を吸ってるかと思うと…」

二人とも、振返って床に伸びている体を見た。ザンダーの父親がまだ生きているのは、胸が上下していることからも明らかだった。割れた額から血が流れ、たらたらと穴倉の床に落ちていた。ザンダーは2、3歩を踏み出すと、その傍らに立った。

スパイクはザンダーを引き寄せようとして腕を伸ばした。彼はこのクソ野郎の視界の範囲内に、ザンダーがいることなど許せなかった。だが、彼の腕はザンダーに触れる直前、引っ込められた。ザンダーの顔に、恐怖と、苦痛と、憤怒と、嘔吐感と、そしてほんのわずかだが、愛と、が交差するのを見てしまったからである。

スパイクは心が絞られるように思った。愛しているのか。こんな奴でも。

だが直後に、それは吐き気と純粋な憎しみと憤激に変わった。ザンダーの心臓が早鐘のように脈打ち、少年の身体から怒りの匂いが溢れて広がった。ザンダーは目の前の意識の無い体を見下ろした。

このとき初めて、彼は自分自身に、何年にも渡って彼の中に燃えていた純粋な憎悪を感じることを自分に許した。

沢山だった。こんどこそ、もう沢山だった。

彼の足が後ろに下がると、次の瞬間、彼の父親の肋骨に音を立てて蹴りこまれていた。穴倉の中に鈍い音が反響した。再び足を引いたザンダーの口元はおめきにゆがんでいた。

「この外道、きちがい、クソ野郎、どうして僕にあんなことをしたんだよ?え?どうしてだよ、僕はあんたの子供じゃないか、なのによくも───よくもあんなことをしてくれたよな!」

激情に任せてザンダーは父親の腹を蹴りつづけた。一言ごとに肉に硬いものが食い込む鈍い音が唱和する。

「どうしてだよ、なんでだよ?僕が何か悪いことでもしたか?僕がこれまであんたに何かしたことがあったか?」

罵声はついにすすり泣きに変わり、ザンダーの足からきゅうに力が抜けて彼はそのまま床にくず折れそうになった。だがスパイクの力強い腕が、そうなる前に彼をしっかりと抱きかかえた。今度はスパイクが慰める番だった。

「もういい、もう終わったんだ。もう二度と、二度とこんなことはないんだ。大丈夫だ。俺がここにいる。もう大丈夫だ…」

スパイクは自分の中に感情の渦がどっと流れ込んでくるのを感じた。彼は肉の塊を蹴とばす時に起きる一つ一つの音を、一滴一滴の血の滴りを、まるで麗しい賛美歌のように聞いた。だが同時に、ザンダーの体が酷く心配だった。本当は、立っているだけで精一杯のはずなのだ。

やがてスパイクはカウチにザンダーを抱きかかえるように連れて行き座らせた。ザンダーのすすり泣きが収まるまで、彼はずっと寄り添っていた。

「ちえ、こんなふうに泣いてばっかじゃ、なんてめそめそした奴だって思われただろうな。さあ、僕のことを弱虫だって言いたきゃ、遠慮なくそうしろよ」

ザンダーは弱々しく、だがそれでも笑って見せた。またもや我を忘れてしまった自分が情けなかった。だが乾いた手が彼の顎をつまんで、ザンダーは頭を上向かせられた。

「いいや。それどころか、お前は俺が今までに会った奴のなかで一番強い人間だと思ってるよ」

それからスパイクはかがみこんでザンダーの額にひんやりとしたキスを落とした。

「でもって、血まみれってことでもやっぱり一番だってこともな。マジで顔を洗うか、それともそのままにしておいて全部病院でやってもらうか、とにかくなんとかしなきゃならないぜ」

スパイクはさっきのキスでザンダーの意識を散らしておいて、そのままなんとか嫌がっている病院に連れ込めないかと思っていた。もちろん、それ以外にキスをした理由なんかあるはずがない───彼にはどうしても、自分はお前を軽蔑したり、見下したりなどしていないと伝えなければならなかったのである。こんな出来事が今回が初めてではないというのは、どこからみても明らかだった。それなのにザンダーは、単に生き延びてきただけでなく、世界に対してあんなにもオープンな態度でありつづけた。その強さはスパイクの想像を絶していた。

ザンダーは信じがたさに驚いてスパイクを見つめた。頭を振る。こんなにも自分に優しくしてくれ、自分を価値あるものだと思わせてくれるのは、あのスパイクなのだ。今まででこんなに一緒にいて安全だと思わせてくれた人はいなかった。

それからやっと彼はスパイクがたった今口にした言葉に思い当たった。

「病院って何だよ」

ザンダーの顔が強張った。

「病院なんか行かなくっても大丈夫だよ」

スパイクは、はあ、と嘆め息をついた。こう来るだろうと判ってはいたが、しかし自分はザンダーを病院に連れて行くためならどんな手段も辞さないつもりだ。だいたいザンダーの折角ハンサムな顔も、折れた鼻がまん中についているようでは台無しである。ザンダーの顔は、真っ直ぐな鼻が付いていて初めて正常かつ美しいのである。

「理性的に考えろよ、ペット。鼻が折れてるんだぜ。治療しなきゃだめだ。肋骨もチェックする必要がある。今度こそ折れてるほうに賭けるがな。それに…それ以外にも、その、確かめることがあるだろう」

スパイクの声がまた掠れた。本当は考えたくは無かったのだ、ザンダーの身体からあの嫌なにおいがまだ嗅ぎ取れるなど、ほとんど耐えられなかった。

(馬鹿な、お前は"ウィリアム・ザ・ブラッディ"だろう。名だけでヨーロッパを震え上がらせてきたお前が、なにを今更ためらう?)

再び話し始めたときには、彼の声は静かで、落ち着いたものに戻っていた。

「きちんと診て貰うべきだ。ほかにも何もないか…つまり、何も裂けたりとか、していないかどうかをだ」

彼は顔を伏せた。もし自分があの時帰ってこなかったら…その先の想像は、彼の我慢の限界を超えている。

ザンダーは大きく息を吸った。鼻が折れているなんて、言われなくても判っていた。あともう一つ、自分は何も"裂け"たりしてない、ということも。あの時────(しっかりしろ、弱虫め)────あの時、父親のものが自分の中に押し入ってきた時は。

レイプによる裂傷がどんな"感じ"がするものか、など、自分は医者に教えてやれるくらいに良く知っていた。それに自分の太腿に血は一筋も流れていなかったのである。だが彼には、このヴァンパイアを何をしでかすか判らないほど怒り狂わせずに、このことについてどう告げることができるのか,まったく見当もつかなかった。

そしてスパイクが知らないことが、あとひとつあった。これが初めての事態ではないことはとっくにばれてしまったが、あともう一つ、こういうことがどれくらい昔からあったのか、という点だ。だがそこまでバラすかどうかは全く別の問題だ。

「そのう、それについてはさ、問題ないと思うよ。前みたいに痛くないし、それに、そこには、つまり、えと、ないんだよ。…血が」

ザンダーの声は最後は聞き取れないほど小さくなって、代わりにスパイクの頭が跳ねあがった。

「 "前みたいに"ってのはどういうことだ。それに一体ぜんたいどうして"問題無い"と判るんだ?」

眇められた目に、黄色い光が虹彩を縁取るように煌きはじめる。

「なんで判る? Bloody hell、あのケダモノはお前に何をしやがったんだ!」(注:Bloody hellは英国人が使う最上級罵言。ちくしょう、くそ、バカ野郎、などにあたる。)

ザンダーがすばやく息を呑み、彼からじりっと後じさった。ザンダーとの接触がなくなるのは、彼にはほおっぺたをひっぱたかれるような感じを与えた。彼は必死で理性をかき集め、なんとか怒りを抑えこんだ。こんな追及は意味が無い。彼はそっと手を伸ばし、だがザンダーの顔には触れずに、少年が自分の方を向いてくれるのを待って、続けた。怯えさせたくなど無いのだ。

「わかった。ラヴ。答えなくていい。そうしてもいいと思えるようになるまでは言わなくていい。だが、まだお前が病院に行く必要があるのには変わりがない。俺にはお前の鼻を治せないし、お前にそんな顔をさらしていてもらいたくないんだ。さあ,行こう」

ザンダーは再びいやいやをした。病院に行くなど論外だった。病院にいけば、いろいろ聞かれ、説明しなければならなくなる。それになにより、彼の緊急時の連絡相手として登録されているのはジャイルズだった。一体こんなことをどうジャイルズに説明できるというのだろう?

「いやだ。大丈夫だよ。そんなに痛くないし」

しかしこの言葉は焦点の合わない眼が裏切っていた。殴られたせいで視界には黒い点々がちらちらしていたし、三半規管がやられたせいか平行感覚が失われ、身体を支えているのも難しい。

「全然平気だよ」

「ふざけんな。真っ直ぐ座ってることもできねぇじゃねぇか。たとえ担いででも連れて行くぞ。さあ、立つんだ」

「いやだよ」

「俺にこんなことをさせるなよ」

「行くもんか」

「そうかい。警告はしたからな」

スパイクはさっと立ち上がるとザンダーを両腕にすくい上げ、ドアに向かった。仰天したザンダーの顎が落ちる。

「降ろせよ!」

「嫌だね。くそ、俺のコートはどこだ。車のキーが要る。お嬢さん、どうか大人しくして、俺のコートを取ってくださいませんかね?」

「降ろせって言ってるんだよ!」

ザンダーが暴れだしたので、スパイクはザンダーを抱く腕を強くした。そのとたん凄まじい痛みがまるで落雷のように体を走り,彼は床に膝をついた。

「Bloody hell、俺は危害を加えようとしたんじゃねぇ…!きたねえぞ、クソ野郎どもめ、いつか必ず貴様らの金玉を引き裂いて、貴様ら自身に食わせてややるからな…!」

スパイクは波のように襲ってくる激痛の合間に何とか声を絞り出した。ザンダーが彼の腕から抜け出し、隣にしゃがみこんだ。そのとたん心臓を撃ち抜くような激痛に、スパイクは大きく仰け反った。

(あんまりだ、助けようとしてるんだ、こいつを傷つけたりするわけがない、あんまりだ、ひでぇじゃねえか、)

暖かい腕が自分に触れるのを感じた。

「スパイク」

小さな声が耳に滑り込んだ。

「ごめん、ごめんよ。僕、僕行くよ。君は僕を傷つけたわけじゃないのに、どうすればいいんだろう、行くよ、ほんとだよ、僕はただ、誰にも知られたくなかっただけなんだよ、それだけだったんだよ、だからお願いだから良くなって、ほんとにごめんよ」

スパイクは痛みが引いていくにつれて頭をもたげた。それだけか?単に誰にも知られたくない、というだけ?それなら話は簡単だ。

スパイクはよろめくように立ち上がり、壁にしばらく背中を預けた。この地下室に駆け込んできてからはじめて、彼の顔に笑いのようなものがかすめた。

「だだをこねてる理由がそれだけなら、なんで早くそう言わないんだ。悩むまでもねぇだろう。嘘をつけばいい」

まったく、人間というのはどうしてこうもっと判りやすく自分の考えを表現できないんだ。“正直であれ”なんてばかばかしいルールをこんなときまで後生大事に抱えているとは。

ザンダーはあっけに取られたように口をぽかんとあけた。

(嘘…?そっか…そうだよな、なんで思いつかなかったんだろ?)

「嘘か。でも、なんて言えば?殴られたとか?しらっとした顔で嘘をつくのは君のオハコじゃないっけか」

ザンダーはかすかに笑った。嘘か。そうだよ。そうすればいいじゃないか。殴られたのは事実なんだし、その他のことまでわざわざ告げる必要はないわけだ。

「そうだ。嘘をつけ。こんなのはどうだ。お前はどっかの店に立ち寄って、車に戻ろうとしてた。ところがどっかのチンピラどもがお前のサイフに用があった」

そうとも、こんなのは良くある話だ。

「そいつらはお前をノックダウンした。ちょっと蹴られたし、顔も殴られた。お前が女の子みたいにキャアキャア叫びだしたんで、連中はお前を放り出して逃げてった」

スパイクはにやりと笑った。そうだ、きっとみんなは騙されるだろう。ザンダーはいつだって他人からは馬鹿にされてきたのだから、ザンダーならそんなことはありそうだと信じ込ませられるに違いない。それにスパイクにはどうせそんなに突っ込んで聞かれやしないだろうという読みもあった。サニーデール総合病院に限らず、ERはいつだっててんてこ舞いの忙しさだ。いちいちそんなことに興味を持つ医者がいるとは思えない。

「“女の子みたいにキャアキャア”ね。へへ、貴重な助言をありがとよ」

ザンダーもにやりとした笑みを返した。これならやれそうだ。しかし彼の微笑が少し翳った。

「スパイク。この前の腕の傷についてはどう言ったらいいだろう?どこでこんな怪我をしたんだって聞かれないかな」

スパイクはほっとけというように手をひらひら振った。

「ちょっと前に割ったガラスで怪我したと言えよ。言いたかないが、ちょいとばかりアクシデント体質なんだってこったろ」

「手首の傷については?」

囁くような声だった。スパイクはザンダーの瞳に向き合って、手を伸ばすとザンダーの右手首をそっと掴んだ。手の平を上にして、自分が噛み付いた傷跡をなぞる。まだ自分の血管にザンダーのピュアな血が流れているのを感じる。

これは、この傷についてだけは、嘘にしてしまいたくはなかった。だが一方で、奴らに教えてやるようなことでもないのも事実だった。

「チンピラの一人がナイフで顔につきかかってきたから、それをブロックしようとして、怪我をした」

手首の傷を指で軽くなぞりながら、静かな声でスパイクは答えた。ザンダーは黙って頷いた。

「あともう一つ。ジャイルズは緊急の場合の僕の連絡相手なんだ。そしたら連中大挙して押しかけてくるにきまってるだろ?そしたら僕らはどうしようか、君のことを何と言って説明したらいいか、考えちゃうんだけど…」

スパイクは見下ろしていた傷跡から思わず視線をザンダーに移していた。

(“僕ら”?今”僕ら”って言ったよな?)

「俺に一緒にいてもらいたいのか?」

一瞬、スパイクは自分の声音に期待の響きが滲んだのを恥じた。

(Bloody hell、まるでバージンの女子高生みたいじゃねぇか)

ザンダーはびっくりして見つめ返した。なんで?当たり前じゃないか。

「もちろん居てもらいたいよ」

彼の唇が笑みの形にまくれあがった。

「この困難な道程を、共に歩んでくれる人がなくっちゃやってられないよ」

「よかろう。それじゃあ」

スパイクは素早く頷いた。ザンダーにきっと悦んでいるだろう自分の顔を見られたくなかったのである。

「出かけようぜ。夜明け前までには戻ってきてぇし、もう遅い時間だろ…」

その言葉に二人は同時に目覚まし時計を見て、そして愕然とした。11:23分。まるで24時間は過ぎたような気がしていたのに。

「スパイク。僕ら、どうしよう、その、あの、あれのことなんだけど…」

ザンダーは言葉に詰まった。

「火をつけてやれ」

間髪をおかずに返った答えは一瞬の躊躇もないもので、このヴァンパイアが冗談を言っているわけではないというのはそこからも明らかだった。

「いや、そんなことしたら家まで焼けちゃうよ。アルコール漬けだからね、きっとトーチみたいに燃えるだろうな」

意地の悪い笑みがザンダーの顔をかすめた。

「よし、こうしよう。外に引きずり出して庭に放り出しておくんだ。僕らが出かけてる間に何かが試しに食べてみようって気になるかもしれない」

スパイクは満足げに頷いた。

「お前はほんとはそういう奴だって判ってたぜ。で、どっちを持ちたい?頭を掴むのはいいぜえ、そしたら絶対確実に目玉をくりぬいてやれるからな」

うきうきとスパイクは有益なアドバイスを付け加えた。まったく物事はかくあるべしである。

「いや、足にしとくよ。そしたら階段の一段ごとに頭がぶつかっていいだろう」

ザンダーの顔に浮かんだ表情ときたら、どんなヴァンパイアだって尊敬せずにいられないほど悪辣だった。

「どうぞどうぞ、お気に召すまま」

スパイクはカウチに腰を落ち着けると、ザンダーを見守った。少年は最後に一蹴りを見舞うと、その肉の塊の足首を掴んで、なるべくいろんな障害物にぶつかるようにわざと道を選んでドアに向かう。スパイクは立ってその後を付いていった。ああ、なんと胸のすく音だろう。一段ごとにごつんごつんと頭がコンクリに跳ねる音を聞きながら、まったくスパイクは満足だった。やっと庭に父親を引きずり出した時のザンダーの顔には、純粋な憎悪しか浮かんでいなかった。

「じゃ、出かけていいな、 luv?」

スパイクは病院にザンダーを連れて行きたくてうずうずしていた。少年がぶっ倒れる寸前だと判っていたからだ。

「いや、まずシャワーを浴びたいんだ。…精密検査をしようなんて言われたら困るから」

聞き取れないくらい小さくザンダーは付け足した。

「好きにしろよ」

スパイクはなんとか苛立ちを捻じ伏せた。スパイクにだって、ザンダーの他人に知られたくない、という気持ちは判る。だが一方で、彼はザンダーの友達でございという顔をしている連中の顔面に、ありのままの真実を突きつけてやりたいという衝動に駆られてもいた。

地下の穴倉に戻ると、ザンダーはナスルームに向かった。本当に、シャワーを浴びたくてたまらなかったのだ、あの臭いを洗い流すために。自分が時間を稼いでいるのは判っていた。それに自分の友達に会う時間を遅らせようとしていることも───嘘っぱちの話に同情してくれる彼女らの声を聞きたくなかったのだ。それに、彼女らがスパイクを見てどういう反応をするかも不透明だった。彼は水を被りながら執拗に体を洗った。

(それに、もしバフィーがスパイクを殺そうとかしたら…)

ザンダーはそこまでで考えるのをやめた。

 

スパイクはその間に部屋をざっとチェックして回っていた。不思議なことに、床にひろがっていたかなり大きな血だまりを毛布で隠し、倒れていたランプも元通りにしてしまえば、穴倉の中はそれほどひどく争ったようには見えなかった。

彼は溜息を吐いた。まだ残っているのはあの臭いだけだ。彼は換気しようとドアを開け放った。ひんやりした夜の空気が流れ込んでくる。きっとスレイヤーはザンダーを家まで送ると言い張るに違いない。そのためにも何の証拠も残しておきたくなかった。彼はもう自分用の話をでっちあげていた。あとは連中がやりたいようにさせておいて、奴らがいなくなるまで待っていることにしよう。もう二度とザンダーを自分の視界外へ行かせるつもりはない。

水音が止まり、しばらくしてザンダーが出てきた。まだ雨が降っていたのはツイていた。髪が濡れているのもこれで十分説明がつく。

ザンダーは手早く身支度を整えると、スパイクに歩み寄った。

「オーケイ」

そして深呼吸した。

「出かけよう」

スパイクは黙って腕を広げ、ザンダーを抱くようにして夜の中へ踏み出した。

   *

ザンダーは自分の友達を睨みつけた。

(なんでさっさと帰ってくれないかな、こいつらは)

二人が病院に着いたときには零時を回っていた。幸運にもERはそれほど混雑していなかったので、ほとんど待たずに医者はザンダーを診察してくれた。さらには誰も彼に根掘り葉掘り尋ねたりしなかった。彼が殴られたのは一目見ればわかったし、ならべたてた嘘っぱちもいかにもな話に思われたのだろう。ヘルマウスに暮らしていて一つ学んだことは、信憑性のある話があるなら、みんな黙ってそれを信じるということである。<注2>

まったく、ここでは“人はその人が見たいものしか見ない”、というカエサルの格言が面白いほど当てはまる。まあもちろん、病院のスタッフはジャイルズに連絡を取った。おかげで全員勢ぞろいで、口々に喚き散らしながら病院にかけつけてくれたのでもあった。

ウィロウは眼を真ん丸くして怯えきっているし、タラはウィロウの半身というせいでウィロウの感情が伝染して怯えていた。ジャイルズは頼もしい父親みたいに励ましと慰めの言葉をかけ、バフィーはといえばいもしない強盗を必ずぶちのめしてやるわと息巻いていた。まったく、完全に予想通りだ。彼女らがスパイクを見たときの反応まで。

「こんなところであいつが何やってんのよ」

バフィーが吐き捨てるように言った。事情を知らないから仕方ないにしても、ザンダーはバフィーに言い返す声に怒りが混じらないように、自制心を総動員しなければならなかった。

「僕の命を助けてくれた、って言えば一番近いかな」

一番近いどころではない。スパイクこそが自分を救ってくれたのだ。

「墓地であったごろつきの一人がなんか喋ってたのを小耳に挟んでな…どこぞのおしゃべり野郎をぶちのめしてどうのこうのと言ってたから、もしやとこいつの家に寄ってみたんだ。そしたらこのアホが血だらけになってカウチにぶっ倒れてるじゃねえか。どっかのチンピラにやられたってのを白状させて、思う存分笑っやっててからここに連れて来てやったんだよ。お前らのペットの面倒を見なかったとかで、あとからねちねち云われたくなかったんでね。」

この言い方は、あのドクター・スティーブンのところで使っていたのと同じだった。のたくたと、さもうざったそうに喋っている。だがザンダーには、その声の下に潜んでいる微かなテンションを感じ取ることができた。スパイクは微動だに動かず、壁に背を預けて目を閉じ、片足の裏を壁につけている。

しかし彼はこのときまで、ザンダーから10フィート以上離れることは決してなかったのである───レントゲンを撮るときを除いて、だが。レントゲン室への入室が禁止された時のスパイクの顔といえば見もので、ザンダーは慌てて手をきつく握り締め、彼の顔が吸血鬼に変貌しないよう、落ち着かせねばならなかった。

レントゲンの結果は陰性だった。どこにも骨折はなし。ヒビと痣だけ。というわけで彼はふたたび包帯でぐるぐる巻きにされ、折れていた鼻も治療されていた。ありがたいことに父親は息子の鼻を綺麗に折ってくれたので(複雑骨折なら手術が必要なところだ、)医者は大丈夫、治りはとてもいいしょうよと朗らかに請合い、鎮痛剤を飲んだら帰ってもいいと言ってくれた。

そこでジャイルズがでしゃばって、自分がザンダーを家まで送ると言い張るので、ザンダーにはスパイクと喋るチャンスもなかった。みんなと一緒にいて大丈夫?と、聞きたかったのだが。

ところが全員がドアから出て行こうとしたとき、スパイクのほうからザンダーの背後へやってきた。時刻はもう3時になっていた。

「これ以上奴らと顔をつき合わせてるのは耐えられんし、下らねぇ喋りも聞き飽きた。ちょっと出かけてくるが、連中が帰るときには戻ってくるから、いいな?」

ザンダーは耳元に囁かれた低い声に頷いた。つめたい手が励ますように、彼のうなじをそっと撫でた。

「じゃ、俺は行くぜ」

スパイクは宣言した。

「珈琲を飲み飲みここに粘りたくってたまらんが、それよりはもっと自分に杭を突きさして死んだほうがましって気分だ。俺はもう行くぜ」

スパイクはくるりと身を翻すとさっさと離れていった。

「云ってくれればあたし達が喜んでやってあんたに杭をさしてやるわよ」

バフィーが遠ざかるスパイクの背中に鋭く浴びせ掛けた。 ザンダーはよほど彼女をひっぱたいてやろうかと思った。

 

というわけで、現在は4:30、それなのにまだ連中はここにいるのだった。太陽がもうすぐ昇る。けれどどうしても夜が明ける前に、スパイクに逢っておきたい。

スパイクに嫌われてやしないか、あれだけやってやったのにバフィーに対して一言も反論しないなど、なんて厭な奴だと思われてやしないか、彼は不安でたまらなかった。スパイクと自分との間に確かに生まれた絆が、幻でも、精神分析家がまことしやかに言う、“誰かに愛されたいという抑圧された願望の投影”でもなく、本物なのだ、ということを、どうしても確かめておきたかったのである。

わざとらしくないよう大あくびをして、彼は時計を指差した。

「おいみんな、楽しんでくれてるようで嬉しいけど、僕はもう眠いよ。さあ帰ってくれ」

直接話法は常に最も有効である。

「本当にいいの?だれか一緒にいてくれる人が欲しくはない?」

ウィロウが尋ねた。タラと一緒に地べたにそのまま円くなっている。

(もちろんいて欲しいさ、それがお前らじゃないだけでね)

「いや、大丈夫、ただもう寝たいだけだから。明日はありがたいことに仕事もないし、寝過ごしても大丈夫なんだ。さ、出てけって」

賑やかに笑いながら、彼女らは出て行った。少女らは頬に優しいキスを、ジャイルズはちょっと肩をぽんぽんと叩く、という別れの挨拶をしていった。

ザンダーは出口でジャイルズの車が角を曲がっていくまで見送った。そして振り返ると、いつのまにかスパイクが自分の横に立っている。

「Bloody hell、あの女どものギャアギャア声には耳がツンボになりそうだ」

スパイクはザンダーをざっと観察しながら唸った。顔色は悪いが、気分は安定しているように見える。

スパイクはこの一時間半ほど、実はザンダーの家の周りを先回りして偵察していたのであった。行って見れば血の跡が階段を点々と続いており、窓には灯りがついている。つまりあの外道はまだ生きているのだ。

彼はザンダーを今すぐにでも家から連れ出したかった。スパイクはあの“物体”に、自分の所有物を傷つけるような機会を二度と与えるつもりはなかった。

彼はザンダーが床に倒れているのを見たあの瞬間から、自分の気持ちに嘘をつくことをやめていた。この気持ちの正体はわかっているし、否定したって無駄なことだ。自分は本心からああ言ったのだ。俺は二度と何者にもザンダーに触れさせはしない。それがどんなに困難な───命を失うような───ことであろうとも。

「なかなか追い出せなかったんだよ、努力してみたんだけど。やっと出て行ってくれたよ」

ザンダーはためらいがちに手を伸ばし、スパイクの手首を掴むと地下室へ降りる階段へと誘った。

「本当のところ、気分はどうなんだ」

ザンダーの顔にべったり貼り付けられた白い湿布の下に、腫れた黒い目が隠れてしまっているのを見てスパイクの眼は翳った。

「ボカスカやられて、へとへとで、ずきずきして、全身あざだらけ、って気分かな。一ヶ月は眠れそうだよ」

ザンダーはふうっと長い吐息をついた。自分は大丈夫だという振りをして、おどけているのは本当に疲れるものだった。ただひたすら、スパイクとくっつきあって眠りたい。スパイクの腕の中でだけ、自分は本当に安心することができるのだ…。

「奴は二階だ。判ってるのか」

スパイクはこんな言葉を自分でも言いたくなどなかったが、だが言わないわけにはいかない。

「知ってるよ」

静かな答えだった。

「心配要らないよ。これからすくなくとも一週間は、まるでペストみたいに僕を避けるから」

ベッドに向かいかけたとき、急にスパイクに引き止められてザンダーはびっくりした。

「お前にこんなところにいてもらいたくない。出よう。今夜はホテルの部屋を取って、明日になったら新しい家を探してやる」

自分でも鉄みたいに厳しい言い方だとは思った。だが彼はザンダーを遠くへ、今すぐに、連れ去ってしまいたかった。あのモンスターがザンダーに触れることができる距離にいると考えるだけで、憤怒は血管中をかけめぐるのだ。無理とわかっていても、あの人間のクズを殺そうとしないでいられる自信などなかった。

「そんなことできないよ」

言ったとたん、帰ってきたのは獰猛な唸り声だった。眼がまたまた黄色に変わっている。お返しに、ザンダーは目だけで時計を見ろと示した。

「勘違いしないでよ。できないっていったのは、太陽がもう25分以内に昇ってくるだろ。どこに行くにも時間が足りないんだよ。心配しないで。明日は仕事がないから、僕たちの家を探しにいってくるよ。君がちゃんと、僕がいない間にうちの親に手を出さないと約束してくれる限りの話だけどね。」

その一言にひっかかって、スパイクは聞き返していた。

「"僕たち"?」

彼は静かに繰り返した。きっと聞き間違いにちがいない。

ザンダーはちょっとの間俯いていたが、それから勇気を奮い起こして続けた。

「そう、"僕たち"の、だよ。僕、君が回りにいてくれるのが、どうやら当たり前になっちゃったんだよ。それに、君だって地下墓地に暮らすよりは僕と地上に暮らしたほうがましだろ?ケーブルテレビも入るし、クリスタル・クリアーな画像で好きな『Passions』を見れるしさ」

このジョークは彼の耳にすら最悪レベルだった。涙がまた涙腺を膨れ上がってくるのを感じる。

「いいんだ。馬鹿なアイデアだよね。忘れてくれよ」

彼は背を向け、またカウチを動かし始めた。

スパイクはザンダーを見詰めていた。この小僧は本気だ。ザンダーが自分の沈黙の意味を完全に誤解する前に、彼は素早く手を伸ばしてザンダーの腕を掴んだ。

「きまりだ。お前が出かけてる間は奴らを殺さないように努力するから、お前は明日俺たちの家を見つけて来い」

そのときのザンダーの顔に、スパイクは心臓を掴まれたような気がした。地獄から天国へ、一瞬にして飛び上がったという喜びようなのだ。

(マジかよ、たかが人間の反応にこんなにどぎまぎするなんて、このごろどんどん女々しくなってきてる気がするぜ、くそ!)≪Oh hell、 I'm just getting more pathetic by the moment. Wanker≫<注3>

ザンダーは嬉しさのあまり言葉も無く、こくこくと頷いただけだった。なんて幸せ!スパイクは自分と一緒にいたいと思ってくれているのだ。

ほんとうは、そこには単純な“喜び”以上のものがあった。けれど彼は疲労にかこつけて、そのときはそれ以上先まで考えなかったのだった。彼は邪魔なカウチをどかしおえると、どさっと体を投げ出した。へとへとに疲れきってしまって、動けない。スパイクがベッドの足元に座るのが振動で伝わる。足の上に置かれた腕の重みが安心していいのだと教えてくれる。

「スパイク?」彼は囁いた。

「Yes, pet?」

問い返す返事が返る。

「あのさ。君にさ。できればでいいんだけど、」

だがなかなか切り出せなかった。眼をきつく閉じ、勇気をかき集める。もう一度ベッドが揺れて、今度は自分の背後にスパイクが座ったのだとわかった。それから手が髪をそっと梳いてくれるのを感じる。身も心も溶けていくようで、彼はその感触を追って頭をスパイクにすりよせた。

「yes, pet?」

同じ,静かなトーン。

勇気を奮い起こして息を吸うと、ザンダーは病院を出てからずっとしてほしかったことを口にした。

「抱きしめてほしいんだ。ほんのちょっとの間だけでいいから」

言って、彼は身を硬くした。スパイクがどんな顔をしているのか、知りたくなかった。

答えはなかった。その代わりに、ひんやりとした体が彼の体に寄り添い、ぎゅっと胸の中に抱き寄せてくれた。

「こうしても骨は痛くないか?」

耳元で低い声が囁いた。

「ううん。すごく気持ちいいよ」

ザンダーはうとうとと目を閉じた。全身が睡眠の必要を叫んでいる。すぐに少年は夢の中へ滑り落ちていった。

スパイクはそっとと少年の頭をもちあげると、自分の腕を枕にするようにさせる。穏やかにねむるザンダーの姿に満足して、彼はその額にすばやくキスを落とした。

「お休み、ラヴ。いい夢を」

スパイクは頭を枕につけると、ザンダーにならって眠りにおちていった。

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言わずもがな?の訳者注記(必要ねえよと思われる方、どーぞ読まないでください)

注1 「それは痛みというより"ブランド"、もしくはある種の"クレーム"だった。」

“クレーム”=「自分の所有物もしくは関係物であるという証明・主張」の意味。日本語での「(商品の欠陥などについて)クレームをつける」という用法は英語には存在しない。例えばtake a claimeでは「恋人にわがままを言う」という意味があり、要するに、クレームとは自分と相手に特別な関係がある、とか、相手に対して自分には特別な権利がある、と主張できることを示している。

注2 「ヘルマウスに暮らしていて一つ学んだことは、信憑性のある話があるなら、みんな黙ってそれを信じるということである。」

ヘルマウス=Hellmouth《地獄の入り口》。サニーデールという街にはやけにモンスターやヴァンパイアが集まっているのだが、その理由は実はサニーデール高校の地下にHellmouthが開いていたからだ、というのがのち明らかになる(ちなみにBuffy1クールのラストでは、死力を尽くした戦いの結果サニーデール高校は廃墟と化す。)そのせいでしょっちゅう超常現象や不可解な殺人が起きるのだが、街の人はもはやなれっこになっていて、適当なそれっぽい理由さえあれば、(モンスターの存在を信じるよりは)それを鵜呑みにするものだ、ということ。

注3 「マジかよ、たかが人間の反応にこんなにどぎまぎするなんて、なんだかどんどん女々しくなってきてる気がするぜ、くそ!」
   =Oh hell、 I'm just getting more pathetic by the moment. Wanker. 

「訳してしまうと面白さが消える文」の典型。全体が手の込んだジョークになっています。ポイントは三つ。

◆出だしを読んだ瞬間、これは祈祷文なんだと判ります。でも「OhGod」の代わりにスパイクは「Oh hell(地獄よ)」で始めてます、ここからすでに笑えるのですが、ついで…

◆祈りの内容。 I'm just getting more pathetic by the moment. (私はだんだん心が弱くなっています。どうかお力をお授けください)が来るのですが…いや、普通の人間なら私だってこう訳してるんですが、いかんせんスパイクなので、「マジかよ、なんだかどんどん女々しくなってきてる気がするぜ」になってしまいました。(すげえ意訳だ。)吸血鬼は感情(つーか人間味のある魂)を持たないことになってるんで、女々しい=感情が揺れる状況は歓迎されないわけですね。

◆さらに祈祷の結句。クリスチャンでなくとも「Amen(エイメン=かくあらせ給え)」で終わるのはご存知ですね。でもスパイクは「ワンカー(Wanker)」で結んでいます。…Wankerって、アンタ…(涙)

辞書引く手間を省きますと、これは「マス掻き野郎(ひー)」って意味なんです。まあこの単語はスパイクの口癖で、なんかっちゃ「ケッ」とか「馬鹿野郎」とか「このチンピラ」とか、その程度のレベルで頻繁に使ってるんですが。(女性は絶対に使わないほうがいいです。のけぞられます。)いやー、凄い祈りの文句ですな!吸血鬼はやっぱり迫力が違います。

 

20020815rewrite ああ、終戦記念日じゃないか…

 

 


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