Waiting Here -Part Five-
二組の目が唖然として見開かれ、二人は見詰め合った。全く同じ言葉が、全く同じタイミングで、同じ怒りと、興味と、恐れを抱いて発されたのだ。
どちらも口火を切ろうとはしないまま数瞬が流れたあげく、突然ザンダーの口角が上がり、そこに小さな笑みが浮かんだ。
「ジンクス」
スパイクが完全に言葉を失っている間に言っていた。
「───何だと?」
スパイクは一瞬耳を疑った。
「一体、なんで貴様にそんなことされなきゃならないんだよ?」(注:jinxには「他人に呪いをかける」という意味がある)
一気に頭に血が上った。
「俺はお前を助けてやったんだぞ!何の因果か医者まで呼んでやって、しかも看病までしてやったのに、なんで貴様に呪われなきゃならねえんだよ?礼を言われるならまだしも!」
スパイクは壁から身を起こすと、椅子の中の少年に大またに一歩踏み出した。
「恩知らずの小僧めが…!あのまま見殺しにしときゃよかったぜ!」
ザンダーはスパイクの剣幕に思わず身を引いていた。誤解である。誤解であるが、真正面に仁王立ちになったスパイクから、彼は反射的に腕を上げて身を守ろうとしていた。怒ったときに生まれる妖しい黄色い光が、スパイクの瞳孔からコロナのように放射されている。
「ス、スパイク、こ、これは、ただその、僕らには、二人同時になんか同じ事を言ったときに、どっちかが先に"ジンクス"って言って、そしたら云い遅れた方が勝ったほうにお酒を奢らなきゃならないっていう、そそそういう習慣があるだけなんだよ!」
彼は必死でまくしたてた。考えるのも恐ろしい悲劇が起こってからでは遅い。スパイク自身は彼を傷つけることはできないが、スパイクが投げつけてくるものは別かもしれないのだ。そんな未知の可能性に我とわが身をはって挑戦する気は、もちろんさらさらなかった。
「わ、悪気なんか全然ないんだよ、助けてくれてほんとに感謝してるよ!だ、だから、お願いだから落ち着いて。君を怒らせるつもりはほんとにほんとに、なかったんだよ!」
スパイクは唸り混じりの息を吐き、怒りをやりすごそうとしながら少年を光る眼で見下ろした。しかし、説明の内容が奇天烈であればあるほど、それがほんとうのことらしいとも思われた。つまりこいつは、自分に呪いをかけようとしたのではなく、ただ単に高まったテンションを下げようと、つまらない努力をしたわけだ?
「…くそったれなヤンキーどもが、わけのわからん言葉遣いをしやがって…"ジンクス"ね。ふん。なるほど。」
彼はザンダーにもう一度ひねり殺すような視線を放つと,また壁にもどって凭れた。そして突然、しまった、と眼を閉じる。なんてこった。うっかり自分の無知を暴露してしまったではないか。自分自身の馬鹿さ加減に低い唸り声が零れる。
(そんなことも知らないのかと思われたろう。くそ、一体何年生きてるんだよ俺は?)
一方、吸血鬼の内心など知らず、ザンダーは空咳をした。勇気を出して聞くべきことは聞かねばならない。でないと自分はわだかまる不安に押しつぶされてしまう。
(しっかりしろ、彼は話してくれると言ったじゃないか)
「───君はさっき、僕がシャワーを浴びたらちゃんと何があったか言うって、言ったよね。さあ、言われたとおりにしたんだから話せよ。…何があったんだ?」
声が上ずったりしないようにと努めたが、言葉が微かに震えるのをを認めないわけには行かなかった。突然こみあげてきた涙をスパイクに見られまいとぎゅっと目を閉じる。
スパイクは少年を眺めた。彼の体から波動となって、雑多な怒りや苦痛やらの"香り"が溢れ出してくる。スパイクにはそれを嗅ぎ取ることができた。
彼は溜息をついた。ザンダーの“ジンクス”に対する自分の攻撃的な反応が、実はこの瞬間をできるだけ先送りするためだけに過ぎなかったことに,彼は突然気がついたのだった。
キツイよな。と彼は思った。それがどんな内容のものであれ…。
だが彼はザンダーが眠っている姿をずっと見守っていたあの間に、真実を───全てではないが,ともかく真実を───告げようと心に決めていた。彼としてはこれは自殺ではないと判断していたが、それは読み違いであるかもしれないのだ。ともかくある程度はっきりするまでは、次の行動も決めかねる。
彼はベッドに腰をおろし、少年にまっすぐ向き合うと、おもむろに口を開いた。
「昨日の夜、俺はここに来た。お前が何でいきなり戦う気力をなくしたのか、その理由を知りたかったからだ。ノックしたが、誰も答えん。もういちどノックした。だがやっぱり返事なしだ。光が見えたし、音楽が聞こえたから、誰かがいるのは判った。窓を開けたら,血の匂いだ。ドアを蹴破って、バスルームでお前を見つけた。血だらけだったんで、助けが要るだろうと思った。ウィリーに電話して,医者を送ってこさせた。そいつがお前に輸血した。診察して、肋骨の具合も診て、お前を包帯で締め上げて、点滴が終わったからもう大丈夫だと云ってそいつは帰った。ほとんど夜明けに近かったから、それで俺はここにいることにした。───以上だ。」
スパイクの声は平坦で、何の感情もなく、ただ彼の開いたり閉じたりする手だけが彼の緊張を示す唯一のサインだった。
ザンダーはまじまじとスパイクを見かえしていた。驚きだった。彼は心の底ではスパイクが自分にちゃんと答えてくれるなどとは思っていなかったし、それにもし答えてくれたにしても、こんなのとは予期していなかった。“バフィーにいわれたから仕方なくここにいる”とか、”スレイヤーがお前を見つけたときは大騒ぎだったぞ”とか、そんな話を予想していたのである。
混乱する彼の頭に様々な疑問が次から次へと湧いてきて、彼はやっとその中から一番重要な質問を選び、スパイクの目に視線を慎重に合わせ、尋ねた。
「じゃあ、君が僕を見つけたってこと…?てことは、他のみんなは、このことを知らない…?」
声がまたおどおどと揺れてしまう。くそ、僕はなんて泣き虫なんだろう。スパイクを見る彼の目に怯えた色が揺れていた。
「ああ。言うつもりもねえしな。」
スパイクは静かにザンダーの視線を受け止めた。
ザンダーはこの簡単な答えに、文字通り驚愕した。これは完全に予想外だった。自分をゆすり、破滅させようとするなら、これこそ最強の武器なのだ。ところが彼は誰にも云わないで居てくれただけでなく、これからも言うつもりがないという。自分が図に乗りすぎていると判ってはいたが、彼はまだ聞かずにはいられなかった。
「なんで…なんでみんなに電話して、僕を病院に連れて行かなかったんだ?もちろんそうしてもらいたくはなかったけど…でも、どうして?」
これこそスパイクが最も畏れていた質問だった。どうして?なぜ、自分はあんなことをしたのだろう?彼としては、実はこれが一番最初に聞かれるだろうと思っていた質問だった。
実際、このことはまず真っ先に彼の心に浮かんだ疑問だったのである。
「なぜなら、病院に行けば、お前が自殺を図ったんだと思われるに決まってたし、スレイヤーはといえば、こいつは俺がやったんだと誤解するに決まってたからだ。まだ殺されるのはごめんなんでね。」
スパイクは注意深く伏せた眼の下からザンダーの反応を探った。うまくこの半分本当、半分嘘の返事に騙されてくれればいいのだが。
彼は真実を、ザンダーの行為の裏に隠された意味を、誰に告げようとも思ってはいなかった。ましてスレイヤーや彼の友人(まったくもっていい"友人"だぜ───こいつの苦しみにこれまでちっとも気がついてこなかったんだからな)になど、云ったって事態を悪化させるだけだ。
ザンダーはあいまいに頷いた。そういうことなら…。それに、誰にも何も言い訳しなくて済むというのはそれだけで有難い。それにじつは、言い訳どころかあまりにも疲れきってしまっていて、人を信じこませられるような嘘をでっちあげる気力すら彼には残っていなかった。
「そう…ありがとう。その、つまり、全部いろいろひっくるめて、さ。病院のことだけじゃなくて。…感謝するよ」
彼は息を吐き,部屋をぐるりと見渡した。黒い布はまだ部屋中に垂れ下がっていて、床には血の痕が点々と浴室まで続いている。
(掃除しなくっちゃなぁ…)
取り掛かろうと立ち上がったそのとき、冷たい手が彼の胸に当たり,彼は再び椅子に倒れこんだ。
「次は俺の番だ。昨夜何があった。云っとくが、冗談で誤魔化すのは一切なしだぜ。ついでだが、俺があの女どもに"まだ"何も云ってないってことは、“これからも”云わないってことじゃあない。もしお前が喋るなら別だがな。───さあ、喋ってもらおうか」
鋭い眼光に、ザンダーはまるで椅子にピンで留められたみたいに動けなくなった。どうやら作り話や冗談などでこの場を逃れることはできそうもない。彼が極めて本気だということが判る程度には、彼はこの吸血鬼の性格を良く知っていた。というわけで、もし何も喋らなければ、彼は目にしたもの洗いざらいを暴露するのに一瞬だって躊躇するはずがないことも、彼には判っていたのである。
顔を上げ、ザンダーはなんとか意味のある単語をつむぎ出そうと努めた。スパイクはザンダーの顔に様々な表情が浮かんでは消えるのをじっと見守っていた。ザンダーが何を言うかなど、彼には本当は見当もつかなかった。だが知らねばならないのだ。喋りたくないという気持ちは痛いほど感じられたが、”ばらすぞ”という脅しには絶対に逆らえまい。とにかく断片なりとも、何らかの答は得られるだろう。
もう二度とこんなことはごめんなのだ。彼は思った。ザンダーをこんな風に追い詰めた者は、もしくはモノは、自分がこの手で始末する。───そのためには、知る必要があった。
ザンダーは自分の手に視線を落とした。どこからはじめればいいいのかわからなかったし、それに自分の手を自分で切るなどという行為を、どう説明していいかも判らなかった。喋りたくなどなかった。あの苦痛を、あの刃を、自分がなぜ求めずにいられないのか。あの行為に、何か客観的で、説明的で、わかりやすい言葉などを、ぺたぺた当てはめていくことなど、彼には決してできはしなかった。
彼は口を開き、そして、また閉じた。吐き出せる言葉などなかった。
そのときスパイクが、すいと、彼の前に膝をついたのだった。それからそっと、優しく彼の顎をとらえ、彼の目と視線を合わさせた。
「…ペット。辛いのは判ってる。だがお前は、誰かに話すことが必要なんだ。そして何も判ってない奴に喋るよりは、苦痛ってのがどれほど人を浄化してくれるものか知ってる相手に話すほうが、よほど、マシだと思うぞ」
小さく息を吐いて、彼はザンダーに触れていた手を離した。
「心配はいらん。俺に話せば、他の連中には言わない」
スパイクの穏やかな声には、少年の高ぶった神経を宥める力があった。青色の目には、心から少年の身の上を気遣う優しい光があった。
「ラヴ。話してくれ。お前の助けになりたいんだ」
この時だった。
このとき、この言葉で、ザンダーの喉元でがっちりと架けられていた歯止めが消滅し、中で渦巻いていた感情が、一気に溢れ出したのだった。
突然、ぼろぼろと堰を切って後から後から転がりだした涙は、もはやどんなに止めたくても止められなかった。拳を噛み、体を折って、見得もプライドもなく、ザンダーは子供のように泣きだした。もうどうしようもなかった。なにもかも、もうあまりにも自分には限界を超えてしまっていたのだった。あまりにも。
初めにアンヤが去った。それから自分の父親だった。そして今ではスパイクが、自分がどんなに深く病んでいるかを知ってしまっていた。彼の世界は崩壊し、もはや何も残されては居なかった。生き延びるために編み出した方法も、逆に自分を殺しかけたものとなった。惨めで、情けなくて、恥かしさに全身をあぶられるようで、彼は身を折って椅子に頭を埋めて泣いた。自分が苦しむ姿を見て一番悦ぶだろう人間を前にして、無力な赤ん坊のように声を上げて泣いたのだった。
だが彼は驚いた。自分が固く抱きしめられ、耳に囁きかける優しい言葉を聞き、手がそっと労わりながら、彼の髪を撫でるのを感じたからだ。
スパイクはザンダーがすすり泣く間ずっとそうしてやっていた。こんなことになるとは思ってもみなかったし、どうすればいいのかもわからなかった。だがとっさに、ほとんど本能的に、彼はザンダーを抱きしめていた。そのくせ彼は、なんでこいつは自分を押しのけないんだろうと驚き、それから、そうか、今はあまりに辛くて、抱きしめている相手が誰かなんて考える余裕もないんだろう、と思った。
彼はずっと髪をなでつづけていた。大丈夫、心配要らない、大丈夫だ。そう囁きながら。震える息が一つ吐き出されるごとに、腕の中から緊張が緩んでいくのを感じた。同時に少年の心の中で、苦痛が、まるで炎のように燃えているのも感じていた。それこそがスパイクに、彼の奥深くに眠る庇護本能を呼び覚ましたものだった。一体どんな出来事が、この少年にかかる苦悩をもたらしたのだろう? この腕の中からどうどうと音を立てるようにあふれ出てくる“叫び”は、まさに長年にわたって蓄積されてきた、苦痛と憤怒の奔流だった。スパイクはずっと抱きしめていた。少しでも自分の存在が、この溺れかけた少年の助けになればいいと願って。
ゆっくりと、ザンダーのすすり泣きが間遠になり、やがてしゃっくりに変わっていった。止まる事を知らないかのように思われた涙が次第に収まり、呼吸も安定し始めた。それでスパイクは腕を緩めると、ザンダーのうつむいた顔を覗き込んだ。手を伸ばし、少年の目に入った髪を取り除けてやる。
「ラヴ。大丈夫か。肋骨の具合は?痛むはずだが。」
彼は慎重に声のトーンを正常に保つようにした。ザンダーは目をまだ閉じていたが、吸血鬼がどうすればいいものかと悩んでいるらしい気配は感じ取れた。
「水かなにか…欲しいものはないか?」
あやふやな口調で、彼は困惑しながら尋ねた。ドル−がこういう状態になったときはいつでも、そのあとにセックスが来るのが当たり前だった。しかし今回の場合は全くその手が通用しない。当然だが。
ザンダーはおそるおそる、目を開いた。スパイクが彼を見つめ返す。そこにあるのは、ただ配慮と、いくらかの理解と、それからわずかに、困ったような色彩があるだけだった。馬鹿にしたり、笑ったりするような気配は微塵もない。ただ自分を思いやる気持ちだけだった。
ザンダーは小さく頭を振った。気分をわずかでもはっきりさせたかった。
「水なら…水なら嬉しい。喉が痛い…」
スパイクは頷き、身を離して流しへ立って行った。吸血鬼はグラスを掴むとそれに水を入れ、彼に手渡す。彼はゆっくりとそれを飲んでいった。飲みながら少し顔をしかめる。泣いたせいで、肋骨が痛んだ。
やっと飲み終わって、彼はグラスを床にことんと置いた。スパイクは今は真向かいのテーブルに、黒い絹の布を横にどけて座っている。
彼は乱れた髪をなでつけると、大きく息を吸い込んだ。
(はやく始めれば、それだけはやく終わるんだ。さあしっかりしろ、自分。始めるんだ)
彼は息を吐き、そしてやっと、話し始めた。
「…時々…物事がもう、どうしようもなくうまく行かないと思うと、ぼ…僕は…僕はナイフで、自分の体を切ってたんだ。や、役に立つんだよ。気分が、よくなるんだ。僕に、まだ生きているって、感じさせてくれるんだよ。つまり、もし僕がまだ痛みを感じるなら、それは僕がまだ何か感じることができるってことで、だから…だから、本当に何もかも最悪な時とかは、それがどうしても必要だったんだよ。血が出るのを見て、それを…の、飲むのが。でもあれは本当に、とてもピュアで、とても、いいんだよ。正しいものだっていう感じがするんだ。
もちろん自分でもオカシイってのわかってる。でも止められないんだ。それで、ここ数ヶ月は本当にいろいろなことが悪いほうに転がって、友達はみんな大学に行っちゃうし、なのに僕はこの地下室に押し込められたままで、したくもない仕事をして…みんなと一緒にいても、どんどん自分が役立たずだっていう気がするばかりだった。つまり、僕はバフィーみたいに強くないし、ウィロウみたいに魔法が使えるわけでもないし。でも、アンヤと付き合うようになって、しばらくは何もかもうまく行ってるような気がした。彼女がそう思わせてくれたんだ。
でも、彼女も、僕を捨てて去っていった。ただ僕は彼女を利用してるだけだ、って言って…。アンヤが居なくなってからは、自分から何もかも、ごそっと抜け落ちたような気がした。もう僕には生きている理由なんか、何もないような気がしたんだ。だからあの吸血鬼が僕を殺そうとしたときも、僕はどうでもよかった。たぶんこんなクズみたいな人生の何もかもを止めてくれるなら、殺されたって構わないって、どこかで思っていたのかもしれない。そのあと家に帰って、」
彼は言葉を切って、息を吸った。次に本当に何が起きたかなど、スパイクに言うなど絶対にできない。いや誰にも、絶対に、知られることはできない。
彼は再び続けた。
「い、家に帰って、ひどい怪我をしてるのに気がついた。それで、仕事を休んだんだ。やらなくちゃ…もうどうしてもやらなくちゃ、いられなかった。部屋をこんな風にして、ナイフを取り出して、それから、切ったんだ」
彼の声が再び揺れた。
(くそ、これ以上ぶざまな姿を晒したいのか)
彼はもう一度深呼吸した。
(ほとんど終わりだ、あともうちょっとだ。さあ、やるんだ)
「だけど、手元が狂って…絶対に、本当に、あそこまでやるつもりはなかったんだ。つまり、その、ああいうことをやるのは死にたいからじゃないんだ。もちろんこんなこといったって何言ってるんだって言われるだろうってのはわかってる、でも本当なんだ。
ともかく、最後に切ったのがやりすぎたって判った時には、もう遅かったんだ。血がどんどん出てきて…バスルームに駆け込んでいって止めようとしたけど、ダメだった。それで、そのまま、気を失ってしまったんだ」
スパイクがどんな反応をするかが恐ろしくて、彼の体は途中から小刻みに震えていた。
スパイクは、ただ暫くの間じっと彼を見つめた。こんなに洗いざらい白状するとは、実は思ってもみなかった。彼としては、もっと短い、言い訳とか誤魔化しの言葉が吐かれるのではないかと思っていたからである。けっして、こんなに正直で赤裸々な告白などではなかった。
聞いている間中、彼は一語一語にこめられた苦痛の響きに身を苛まれるようだった。だが一方で別の部分では、”ザンダーのお友達”がかくも長い間少年の苦しみを見過ごしてきたことに対する怒りがたぎっていた。誰もこいつの人生を食い破ろうとしていた痛み、口に出せなかった苦しみ、恐怖に気づかなかったのだ。あんなにも親しそうに傍にいながら、誰も彼の暗い部分を共有してはいなかったのだ。スパイクはザンダーが自分の出方に怯えているのがわかっていた。彼の筋肉の一本一本が緊張に引き攣れるのを目で見ることができるくらいに。
「───なるほど。死ぬつもりはなかったってのは判った。だが、今度ばかりは“つもり”通りとはいかなかったようだな」
床に血まみれの人形のように倒れていたザンダーが目に浮かんで、スパイクの声はわずかな波を帯びた。彼は頭を振ってその残像を追いやった。
「お前の手にそんな傷があったのを、俺は前にも見たことがある。てことは、お前は何年も前からそれに手を出してきたってことだ。ということはさらに、お前はまだ他にも言ってないことがあるってことでもある。そこまではまだ話したくないというなら、それはそれでいいさ。───だが覚えとけ。俺は必ず真実を探り出すぞ。」
ザンダーの頭が刎ね上がった。だがスパイクはやめなかった。
「ただの気晴らしのつもりだったかもしれんが、お前は死にかけたんだ。まだ助かったと決まったわけでもない。感染症の危険があるからな。それにもし俺がお前を見つけなかったら、俺じゃなく、スレイヤーやウィロウやジャイルズがお前を見つけてたんだとしたら、ふん、どうするつもりだったんだ?奴らにバレてたんだぜ」
スパイクは言葉を切ってザンダーの反応を待った。
「ああ、そうだね。でもどのみちもうバレるよ」
静かな声だった。
「これは誤魔化せない。相当酷い痕になるだろうから」
スパイクはテーブルに置いておいた名刺を取り上げ、ザンダーにそっけなく渡した。受け取った名刺に視線を落とし、字を読んで怪訝そうな顔つきになったザンダーの表情を読んで、スパイクは言う。
「お前を助けた医者が置いてった。で、今朝俺から電話しておいた。今夜九時に予約が入ってる。お前が誰にも知られたくないと思ってるのは判ってるが、それは俺も同じだ。くだらねえ質問を山のように聞かれるような羽目になるのは避けたい。というわけで、取引と行こう。俺はこのことは誰にも喋らない。その代わりお前は二度とこんなことはしない、というのが条件だ。二度とな。というわけで、俺はまたここに来て暮らすことにする」
スパイクの台詞は取引というより、命令であった。一切の交渉も、妥協の余地もない、と告げている。
「あんなもんに手を出さなくてもやってけるようにしてやる」
ザンダーはまじまじとスパイクを見つめていた。何に驚けばいいのかもはやわからなくなっていたが、ともかくスパイクは自分を強請るどころか、助けようとしている。そしてさらに驚くべきは、スパイクの、本当に心配そうな口調だった。だが同時にこの提案の意味も、彼にははっきりとわかっていた。取引に応じなければ、彼はみんなにバラす。
しかしスパイクが一緒にいてくれるのだ、という“条件”に、一方でほっとしている自分に気がついて彼は驚いた。誰かに事実の一端でも告白するのは本当に身を切られるようだった。だが一方で、誰か知ってくれている人がいる、という事実が、彼の心を幾分か楽にしてくれたらしい。それにスパイクはいい同居人といえるかもしれない。彼の”ひねりのきいた”ユーモアのセンスに慣れてしまえば、だが。
(お前の父親のことはどうするつもりだ。それがバレた時はどうするつもりなんだ?)
彼の心の中で小さな声が訴えていた。だが彼はそれを無視した。そうなったらそうなった時だと思った。だって同居人がいるなんて、素敵じゃないか?けれど形だけでも嫌がるふりをしなければ。ただほんのちょっと、ほんのちょっとだけ、自分に自尊心のかけらをのこしておいてやるために。
「へえ、でももし“ヤダね”といったら?そしてウィロウに“排除”の呪文をかけさせて、君をこの場に入れなくしたらどうする?」
スパイクがぐいと身を起こした。目には黄色い光がまたちらついている。
「そしたら貴様はもはやこんなちっぽけな秘密を守ってられなくなって、奴らに何があったか全部白状することになるだけさ」
ザンダーは急いでこくこくと頷いた。理性では今のスパイクは人間を傷つけることはできないと知ってはいたが、彼の体は別の反応を自動的に示してしまうのである。
「わかった。わかったよ。契約成立だ」
「よし。契約したぞ」
スパイクはだめを押すと、それから時計を見た。5時だ。日没まで三時間、医者の予約が入っている時間までは四時間である。
「よし、じゃあ俺は少し寝る。今朝はあまり寝てないからな。それと、レッドが電話してきた。かけ直してくれとさ。今夜は外出できないと、それなりに言い訳をしておくんだな。医者は今日中に縫わんと腕の傷は痕が残るといっていたし、おれがせっかく骨折ってやったんだから、お前は必ず医者に行くんだ」
彼はベッドにひっくりかえると、昨日から今朝にかけての出来事を頭から追いだしていった。
「それから部屋の掃除をしろよ。俺の目から見てもここはゴミためだぜ」
ザンダーはしばしスパイクを見下ろし、それから電話に向かった。
まだ困惑していたし、まだ手は震えていたし、まだ体も弱っていたし、それに…驚いていた。なんでこんなにスパイクは自分を守ろうとしてくれるのだろう?
しかし彼はそういうことは一切合財、今は脇へのけておこうと思った。どんな理由があるにせよスパイクは自分を助けてくれたし、今も助けたいと思っているし、そしてこれからも、助けようとしてくれているのだ。
今はそれだけで十分だった。
*
スパイクは日が沈むと同時に目を開いた。ずいぶん気分がすっきりした。普段はあまり眠りなど必要ではないのだが、昨日のことで自分もかなり消耗していたらしい。身を起こし、見回して、部屋がすっかり片付いたなと思う。部屋中を覆っていた布はさっぱりとなくなっていた。もしかしたらいつもよりは幾分か綺麗になっているかもしれない。
それから彼は、窓に掛かった布だけはそのままにされているのに気がついた。テレビの音と牛乳の匂いがする。ザンダーがシリアルにミルクをちょうど注いだところだった。椅子に座って、食べながらチャンネルをあちこちに切り替えている。スパイクは立ち上がって冷蔵庫へ向かい、そこに下がっている最後の輸血バッグを取り出した。開封してマグカップに注ぎ、電子レンジに入れて蓋を閉める。20秒くらいが丁度いい。人間の体温と同じくらいの温度になるのだ。彼は取り出したマグカップを持ってベッドに腰を降ろし、温かい人間の血に舌鼓を打った。
ザンダーは居心地悪くそのありさまをちらりと見たが、何も言わなかった。
彼はウィロウに電話し、風邪を引いたので今日は出かけないと告げていた。大した風邪じゃないから見舞いになんか来ないでくれと念を押してから、また明日電話すると言って切った。それから部屋中を覆った布を引き下ろし、丁寧にたたんで、また元通りに片付けた。ただ彼は窓に下がっている布だけはそのままにしておいた。そのお陰で太陽の光が差し込まずに済んでいたからである。それから彼はやれやれ一仕事終わったと背をうんと伸ばしてから、やっと、そうか自分はバスルームに行きたくないばっかりに、部屋の掃除を優先したらしいと気づく。しかしもう言い訳はきかなかった。彼はナイフを片付けに行った。そして慎重に、自分のほうに刃をむけないようにしながら、そっと拾い上げた。
すう、と、鈍く光る刃を撫で降ろしてみる。そこには自分の血がこびりついていた。目をそむけたかったけれど、しかし勇気を奮い起こしてそれを直視した。どんなに自分が死の世界へ近づいたのか、自分のしでかした行為がどんなに馬鹿げていたのか、それを肝に銘じるために。
それから彼はきれいになったナイフをまた箱に仕舞った。蓋を愛撫するように撫ぜ、それからクローゼットから鍵のかかる箱を取り出して来て座った。それから中にナイフの箱をしまうと、鍵をかける。そして鍵輪からそのキーだけを外し、テーブルに置いた。次に床の掃除に取り掛かる。落ちた血の染みをこそぎおとし、だいたい綺麗になったのに満足してからもう一度シャワーを浴びに行き、緊張を体から洗い流した。それからお腹が減っていることに気づいてテーブルにすわり、ちょうどシリアルを食べ始めた時に、スパイクが目を覚ましたというわけだった。
スパイクは飲み終えると、名残惜しげにマグを床に置いた。あれっぽっちの量では足りるはずもない。ただちょっとの間、餓えをごまかせるくらいのものだ。上げた視線の先で少年が怯えたように自分を見ているのに気がつき、スパイクは溜息をついた。まだこいつは、俺が何か酷いことをしやしないかと疑っているらしい。
「さてと。すっかり上手く片付けたじゃないか。見違えたぜ」
ザンダーがその言葉に止めていた息をほっと吐いた。時計を見やればちょうど8時を過ぎたところである。
「ちょっと服を取りに行ってくる。すぐ戻る」
彼はドアを出ると、家から数ブロック離れたところに停めてある自分の車に向かった。以前のここに暮らしていた時の習慣そのままである。彼はトランクを開け、入れっぱなしの着替えを取り出すと、またザンダーのいる地下室へ戻った。ザンダーはベッドから剥いだ毛布をカウチに丸めておいているところだった。
「俺がシャワーを浴びたらでかける。遅刻したくないからな」
ザンダーはただ黙って頷いた。
スパイクは手早くシャワーを浴びた。ザンダーをあまり長く一人きりにしておきたくなかったのである。今のザンダーにあれこれ世話を焼いているのは、別に気まぐれやゲームなんかじゃない。そこだけは誤解されたくなかった。自分でもなぜそんなことを考えるのかは判らなかったが、だが彼にはザンダーに、自分といれば安全だと、大丈夫だと、思わせてやりたかったのである。きっと自分は誰かの面倒を見るのが好きなのだろう。必要とされているという気がするから。
ドル−が去って以来、彼自身も自分がまるで抜け殻になったような気がしていた。ましてやあのチップが頭に埋め込まれてしまってからは、もう完全に無能になったように感じていたのである。しかし今、ザンダーは自分の助けが必要で、そして自分だけがザンダーを助けることができるのだ。このあいまいな感情の向こうに存在する本当の理由については、彼は卑怯にも考えなかった。ただ今は自分がそんな力を持っている、という状況だけを、彼は楽しんでいた。
体を拭いて服を着込み、浴室から出ると、ザンダーがカウチに座っている。手の中で、彼はキーをいじっていた。テーブルには小さな箱がのっている。スパイクは少年の隣に腰を降ろした。どうやら話があるらしい少年をせきたてようとはせずに、黙って待った。
ザンダーは言葉を選びながら、キーを掌に握り締めた。
たった一日。なのに何もかもが変わってしまったような気がしていた。死の一歩手前までいき、引き返してみれば彼の隠しつづけた秘密は敵のはずの吸血鬼に暴露され、そして今はその吸血鬼から、助けを差し伸べられている。だが彼の心は暖かかった。誰かが知ってくれている。それがたとえ吸血鬼であったとしても、彼のことを心配してくれる人がいる。そのことが本当に嬉しかった。誰にも話さずにいてくれる、ということは、それだけで彼の気持ちがどういうものであるかの証明だった。だからザンダーはそれに応えたかった。感謝したかった。何らかの形で。
「ナイフは片付けて、この箱に入れたんだ」
彼は箱の鍵を再びあけた。中にはさらに小箱が入っている。彼は二つともスパイクに手渡した。スパイクはザンダーの目をみつめたまま、受け取った。
「感謝の気持ちを伝えたくて───…こうしたら、鍵が掛かる。この鍵を、君に持っていてもらいたい」
スパイクは目を見開いた。あんなにぼろぼろになっていながら、こいつはどこまで強靭なんだろう、と驚く。少年にとってナイフを捨てるのがどんなに難しいことなのか、その一端くらい、ドルーを知っている彼には容易く想像できた。
小さく頷いて、スパイクはナイフの入った箱を取り上げた。中にはシャープなラインを光らせた刃がすんなりと横たわっている。彼は蓋を閉じ、それからロックできる大き目の箱の中に、そっと片付けた。ザンダーが指を伸ばし、その木の蓋をそっとこする。
ザンダーの体から、例のあの酸っぱいような欲望の香りがぱっと発散されるのを嗅ぎ取れた。ナイフの呼び声はもちろんまだ、ザンダーを捕らえて離さないのだ。
だがザンダーはぴしゃりとその蓋を閉めると急いで鍵をかけ、キーをスパイクにぐいと差し出した。
「ほら。さあ、好きにしろよ。どうするかまでは、僕は知りたくない」
ザンダーは青白い顔でよろめくように立ち上がると、カウチから離れた。これでいいんだ。これで自分はスパイクを経由しないではナイフに手を出すことができなくなった。そしてもちろん、スパイクは、自分に二度とナイフを持たせることは許さないだろう…
スパイクはしばし手の中のキーを眺めていたが、それからおもむろに彼のダスターコートのポケットに突っ込んだ。ザンダーが持っても大丈夫になるまで、預かることにしよう。
立ち上がって、ちょっと肩をすくめ、それから彼は少年に告げた。
「じゃあ出かけよう。知らない場所だし、遅刻したくはないからな」
*
スティーブン医師のオフィスが入っているビルは町の中心部にあった。付属の駐車場に車をとめ、名刺の記載に従って9階までエレベーターに乗る。その間二人ともずっと無言だった。次はどんなことが起きるのかと、二人とも神経がぴんと張り詰めていた。
エレベータが開くと、淡い色調と落ち着いた木目の壁でかこまれた瀟洒なオフィスが現れた。微笑をたたえた若い女がドアをくぐった二人を迎える。
「ハリスさまですね。いらっしゃいませ。わたくしはサンドラです。ドクター・スティーブンの看護婦をしております。お二人ともどうぞこちらへおいでくださいませ。ご案内いたしますわ」
彼女の落ち着いた、柔らかい声のおかげで、二人の緊張はややほぐれた。サンドラは診察室へ二人を案内した。ドアの先にはゆったりした肘掛け椅子と、縫合用のクッションの入ったテーブルがある。できるかぎり病院くさくないようにという配慮が、その部屋には溢れていた。
「ドクターはすぐに参ります。水差しのお水もどうぞご利用くださいませ」
上品な微笑みを残して、彼女はドアを閉じた。
スパイクはザンダーが椅子の一つに腰を落ち着けている間に、壁にかかった絵をひとつひとつ眺めていった。
「医者のオフィスなぞ大嫌いだ。どっちみち医者の匂いまでは消せやしねぇのがわかってねえ」
苦々しく呟いた彼の口ぶりには、またさっきの緊張が戻っている。
ザンダーはただ黙って座っていた。彼といえば、喋ることもできないほど緊張していたからである。この傷をどう説明すればいいのか、まったく何も思いつかなかった。どうか何も聞かないでくれ、と祈るように思う
その時ドアが開き、小柄な黒髪の女性が入ってきた。ぎくっとして、ザンダーは思わず立ち上がっていた。
「あなたがハリスさんですね?ウィリーの友人だとか。となれば、どんなご要望であろうともわたくしはできる限りのことをさせていただきますから、どうぞ、ご安心なさってくださいね。」
彼女は手を差し出すと、自動的に手を出したザンダーと暖かい握手を交わした。彼女の目の中にある優しい色に、身構えていたザンダーの気分も落ち着いてくる。その時彼女の背後で物音がした。壁を向いていたスパイクが、振り返ったのである。
振り向いたドクター・スティーブンは、とたんに死人のように真っ青になった。
「マスター・スパイク!も、申し訳ございません!あなた様までこちらにおいでとは存じませんでしたので、てっきりこの方だけと…」
それから彼女はまだ自分がザンダーの手を握っているのに気がつくと急いで振り払い、後じさった。
「マスター、本当に、ご無礼するつもりはなかったのでございます、どうか、どうすればお詫びさせていただけるか、ご命令ください」
おやおやこいつは。意地の悪い笑みが、一瞬だけスパイクの顔をよぎった。これはちょっとばかり面白くなりそうだ。ここにもまだ彼の運命を知らない哀れな人間がいるらしい。
ザンダーが困惑することになるんだからやめておけ、と一応彼の理性は囁いたのだが、しかし我慢できなかった。
「ふむん。そうだな。まあ今回きりは許してやることにしよう。お前は腕がいい医者だと聞いたしな。…ところで、こいつは俺のペットだ。みりゃ判るだろうが。ところが、馬鹿なことにどこぞから流れてきたモンスターどもとたった一人で喧嘩してな。運悪くそいつらの一匹がナイフを持っていたものだから、腕をざっくりやられたってわけさ。で、お前も心から同意してくれると思うが、こいつはこのとおり、本当に愛らしい、ラブリーな外見をしてるだろ?なのにどっかの馬鹿のせいで、せっかくの体に醜い傷跡が残るなぞ耐え難い悲劇だと思わないか?───というわけで、お前の名前を教えてもらったんだ。ともかく、俺がこいつに付けた所有の“しるし”以外に残るような跡なぞ一つもないよう、お前の“素晴らしい”腕前を“十二分に”発揮してもらいたい。」
鷹揚な低い声でスパイクは言った。そうしながら医者の肩越しにザンダーを見て、あっけにとられている少年に眉をぐいと上げ、(黙ってろ)と告げる。それから目の前の女性にまた視線を戻した。
「まだ他に何か聞きたいことはあるかな?といっても、俺は質問されるのは大嫌いなんだが」
ザンダーは噴出さないようにするので精一杯だった。しゃあしゃあと真っ赤な嘘を並べたて、さらにスパイクはこの機会を最大限に利用して、可哀想な医者に脅しをかけて楽しんでいるのだ。まったく可哀想に!病人らしいしょんぼりした顔を保ちつづけるために、ザンダーは必死で下唇をきつく噛んで、体が笑いに震えるのを堪えなければならなかった。
「よ、よくわかりました、とにかく私めにできることは何でもさせていただきます」
彼女はほとんどどもりながら言った。
「どうぞ、どうぞ、こちらにおいで頂くように、彼に仰って下さいませ。診察させていただきますので」
ザンダーは示された椅子に座ると、台の上に腕をのせた。彼女は痛くないように丁寧にガーゼを取り除け、額に微かに皺を刻んで詳しく腕を診察した。スパイクはザンダーの真後ろに君臨するように立ち、まるでザンダーを守護するように肩に手を乗せた。
ドクター・スティーブンは診察を終えるとスパイクを見上げた。
「そうですね。問題なのは、ここをこう…上から下まで走っている、この傷だけです。これはいつできたものですか?」
ザンダーは応えようと口を開きかけたが、スパイクに肩をきつく掴まれて黙った。
「たしか昨夜だ。血まみれなって帰ってきたんで、とりあえず手下の一人に応急処置はさせたんだが」
医者はスパイクだけを見て頷いた。一度もザンダーに視線を向けないのである。
「ごく細い糸で縫いましょう。良いナイフだったが幸いですね。刃が鋭かったから、傷跡も綺麗です。治りもいいでしょう。数ヶ月は薄く痕がのこりますけれど、そのうちそれも消えますよ。痛みのないように局部麻酔をしますので、だいたい縫うのに30分くらいかかりますが…」
スパイクは、よかろう、というように顎をしゃくっただけだった。ドクターは電話を取り上げると、さっきの看護婦に必要なものを取り揃えるようにと命じた。その間スパイクの手は一度もザンダーの肩から離れなかった。
看護婦のサンドラが腕にバンドを巻いてから、スティーブン女医は肘のそばに注射をした。ちくりとした痛みにすこしザンダーは目を開いたが、しかしすぐに腕から力がふにゃふにゃと抜けていくのがわかった。医者は彼の隣に腰を降ろすと、手術道具を並べ、それからスパイクを見上げた。吸血鬼の顔に心配げな表情を読み取った彼女は、そっと請合った。
「大丈夫ですよ。麻酔がかかっていますから、痛みは全くありませんの。ちょっとかゆいくらいかもしれませんけれど。」
スパイクの顔からやや影が消え、彼はその内面を期せずして語っている視線を女医からそらした。本当に大事にしているんだわ、と女医は思ったが、もちろん言葉には出さず、代わりに勇を鼓してあることを頼んだ。
「彼と直接、会話するご許可をいただければと思うのですが。そのほうが上手く治療できますので」
「ならそうするがいい。許可する。」
無意識的にスパイクのもう一方の手が上がって、ザンダーの肩に置かれた。
彼女は感謝のしるしに頷くと、それから仕事に取り掛かった。ザンダーは彼女がほとんど目に見えないほど細い糸で彼の皮膚を縫い合わせていくのを感心しながら眺めた。お陰で自分でつけた傷をとっくりと見ることができ、彼は思わず小さく息を吐く。なんて深くまで自分は切り裂いてしまったものだろう…
するとその瞬間、スパイクが彼の肩をぎゅっと握った。
「痛くされたのか」
頭上から人を震え上がらせるような唸りが降ってきた。
「もしそうなら言え。判ったか」
声に含まれた怒りの波動を聞き取って、ドクター・スティーブンは目を大きくし、恐怖に身を強張らせた。
「そ、そんなことしていませんよ!本当です!ね、もし痛いならそう仰って下さい、痛みなんて完全に消せますから!」
ヴァンパイアの所有物を傷つけるようなことをした場合に、一体どんな罰が自分を待ち構えているものか、彼女には全く想像することもできなかった。というより、、したくなかった。
ザンダーは慌てて首をぶるぶると振る。
「ち、違う、そんなんじゃないって!ただ僕、傷がほんとに酷いのを見て驚いただけだよ。ほんとにそれだけだよ」
明るい光の下に照らし出された傷の醜悪さに、彼は思わず息を飲んだだけだった。本当に、こんな風に誰かを脅したくてやったわけではない。
「───そうか。ならいい。続けろ。長居は無用だからな」
ザンダーの言葉に、スパイクは手の力をやっと緩めた。医者はこれまで以上の慎重さでまた指を動かし始めた。それから消毒液で糸の切れ端を洗い落として、やっと治療が終わったのだった。
彼女は首を傾げて出来具合を観察し、これでいいわというようにちょっと頷き、それからザンダーを見上げる。
「消毒液をお渡ししますから、傷口をいつも清潔に保っていただけますか。一日少なくとも三回は、これで腕を拭き清めてください」
それから背後の棚に手を伸ばし、錠剤の入った瓶を手渡した。
「ペニシリンに対するアレルギーはありませんよね?」
ザンダーは首を横に振って答えた。
「よかった。では、この錠剤を全部飲んでください。いいですね。食事時に、一日三回です。これはとても大事なことなの。感染を防ぐためですから」
スパイクまで一緒に頷いている。
「それから、三週間以内にまた受診してください。治り具合をみなければなりません。もしそのあいだ何か問題があったらいつでもお電話ください。真昼でも真夜中でも構いませんわ」
今度もまたスパイクとザンダーは一緒に頷いた。その様子に安心して、彼女は包帯に取り掛かった。
スパイクがザンダーの肩から手を離したのは、治療が全て終わってザンダーを椅子から立たせた時だった。よくやってくれた女に向き直り、スパイクは冷酷な仮面を少し緩めて感謝の気持ちを面に浮かべた。
「感謝する。ウィリーの推薦は間違っていなかったようだ。コノコトハ、覚エテオク」
彼女の首筋が悦びにすうっと赤くなるのをみてから、スパイクは背を向けた。
「さあ、帰るぞ。もう用はないだろう」
ザンダーはこくりと頷いたが、いま交わされた会話はいったい何だったのか知りたくてたまらなかった。それに何で彼女はこんなにスパイクを畏れ敬っているんだろう?彼の頼みならどんなことでも聞いてくれるみたいだ。いったいこれはどういうことなんだ?
二人はまたエレベーターに乗り込んだが、スパイクの口元には隠し切れないにやにや笑いが漂っている。ついに駐車場に停めてあった車まで辿り着いたとき、スパイクは頭を仰け反らせてゲラゲラ笑い出した。
人間たちにあそこまで恐れ入らせたのは久しぶりだった。自分は実は奴らに指一本触れることはできないのに、何も知らない馬鹿な人間に“マスター(ご主人様)”と呼ばれ、奴らが勝手に自分のものだと決めつけたものに、触るのも遠慮させるようなことになるとは、まったく最高に笑える。
“マスター”としての地位にはいろいろ面倒なこともあるので、これまで彼はこの力をめったに使ったことはなかったのだが、しかし実際、しゃっちょこばったやつらの恐れ入りぶりや怯えっぷりには笑わずにいられない。そして彼は、自分がどんなにあの“力”を失って寂しく思っているか、今やっと気がついたのだった。まあ、しかし、とはいっても、今のところはまだ十分に威力があるようだ。彼は最後にもう一度、あることに気がついてくすりと笑った。なんと自分はさらにこの“力”を、人間を助ける、なんてことのために使ったじゃないか?
やれやれ、自分の人生───といっても”生きて”はいないわけだが───は、日に日に面白くなってくるようだ。
一方、ザンダーはスパイクの笑い声をただ聞いていた。なんでこんなに笑ってるんだろう?あのお医者さんが異常にスパイクを畏れ敬っていたからだ、というのは判るのだけれど。あの怖がりようを見れば、あの人がまだスパイクの頭にチップが埋め込まれたのを知らないのは確かだった。何にも知らないで、失敗したら殺されると思い込んで怯えてるのを見るのが面白かったのか?
車に乗り込んでも、まだスパイクの唇には薄い微笑が貼り付いている。ザンダーはそれを見やって、ついに尋ねた。
「ねえ、スパイク。あれは一体どういうことなの?なんであの人、君の許可を貰うまでは僕を見もしなかったんだ?それにさ、僕が勝手に喧嘩して、そんでもって君の手下がどうのとか、まったくでっちあげにもほどがあるんじゃないの?」
台詞の割には、見ているだけでも面白かったと、口元の笑みが本音を白状してしまっていた。スパイクは、くく、と笑った。マジでこいつはおもしれえ。
「ふふん。あのな。もし人間がヴァンパイアと一緒にいるとするな? そしたら、それが意味するのは一つだけさ。その人間は”ペット”、つまり、そのヴァンパイアの所有物ってことなんだよ。だから誰も、所有者の許可ナシにそいつに話し掛けたり触ったりするのは許されねえのさ。というわけで、ペットとヴァンパイアが一緒にいる場合、そんで誰かが無謀にもそいつに手をだした時は、その瞬間にオシマイさ。あの女は俺を見る前に、お前に挨拶はするわ握手はするわ、うっかりやっちまっただろう。だから俺を見て最初に頭に上ったのが、”殺される!”ってことだったんだろうな」
スパイクは意地悪く笑った。
「ったく、あんなに人間をブルブル震え上がらせたのは久しぶりだぜ。面白いったらねえ。ばれない限り、俺の身に何が起きたかなんてあの女の知ったことじゃねえしな。わざわざ教えてやる必要もねえ。だろ?それにまあ、また前みたいにマスターぶるのも楽しいしよ」
彼の不謹慎な笑みはこの言葉にちょっと翳った。そうだ、あくまでこれは演技なのだ。彼はもはや、“マスター”ではない。
(やめたやめた、こんなこと考えても仕方ない。だいたい、エンジェルの野郎みたいに陰気にうだうだ考え込むのは俺の柄じゃないんだ)
ザンダーはびっくりしてスパイクを見ていた。ということは、あの人は自分のことをスパイクのペットだと思ったということか。ふむん、それは確かになかなか面白い。それなら説明がいく。スパイクの今の状況を彼女が知らなかったからこそ、彼女は自分をスパイクのペットだと思ったのだし…だからこそあんなに親身になって世話をしてくれたのだ。
それからザンダーは黙って車窓を流れていく夜の風景を眺めた。
彼はこれまで一度だって、チップを埋められるということがスパイクにとってどういうことなのか、真剣に考えてみたことはなかった。スパイクがマスターの一人だということは知っていたが、それはつまり、他のヴァンパイアが彼の前に膝を折るということだった。だが彼はそんな姿をこれまで一度も見たことはなかった。たとえばバフィーに椅子に縛り付けられて、エンジェルが帰ってきていた間だって、スパイクにはそんな力なんて無さそうだったし、それに彼が南米から戻ってきたときだって、べろべろに酔っ払っているわ、なんでもかでもドル−の言いなりになってはいるわ、危ない野郎という以外の何者でもなかった。だいたい居丈高に振舞うというより、ドル−にへりくだって戻ってきてくれと懇願する、という感じだったのだ。
そのうえ今度はチップなんかを埋め込まれて、彼はもはや人間に対する力も失った。ところが、かつて自分が優位に立っていたバフィーたちに今はあれほど馬鹿にされながらも、彼は彼女の仲間の自分を助けてくれようとしているのだ。
ザンダーはスパイクがどれほどのものを失ったのか、もう判らなかった。スパイクが自殺を試みたとしても不思議ではなかったろう。自分なんか、友達とのちょっとしたいさかいとか誤解とか、そんな取るに足らない問題でもすぐ落ち込んでしまうのに、かつて自分自身を成り立たせていたもの全てを失ったスパイクは、一体どんな気持ちがしていたのだろう。スパイクは何も言わない。だから想像に任せるほかなかった。でも、だからこそおそらく、スパイクはザンダーの気持ちが判ったのだ。失うことの痛みを、スパイクは知っていたから。
スパイクが家から数ブロックはなれたところに車をとめた時、やっと彼は我に返った。
「車はここに置いとくぜ。俺がいるなんて親に知られたくねえだろ」
スパイクは車を降りしなにそう理由を言った。そのとおり、ザンダーは誰にもこのことを言いたくはなかった。二人はだまって家までの道を辿ると、そろってカウチにどさりと腰をおろした。スパイクはさっそくリモコンを掴んでテレビをつける。二人の間に、どこか懐かしい、穏やかな沈黙が落ちた。
*
スパイクがザンダーの部屋にまた住み着くようになって二週間がすぎた。いくつかの理由から、二人はバフィーたちにはこのことを知らせなかった。これについての話題は一度も取り上げられなかったし、それに二人の生活はすぐにルーティンになった。ザンダーは出勤前に窓のカーテンをしっかり閉じてでかける。仕事をして、終わったら家に向かって、彼が玄関をくぐるころにはスパイクは目を覚ましている。それから二人でテレビを見ながら夕食をかき込み───まあスパイクは夕食を"飲む"わけだが───して、夜のパトロールに出掛けない場合は、それからまたテレビを見るか、映画を見るかだった。
それから彼らはずいぶんたくさんエンジェルについて話をした。といってもスパイクには話せるようなことはあまりなかったのだが、それでもザンダーは教えてもらったエンジェルの秘密を、知ってるんだぞと自分が仄めかした時の吸血鬼の顔を想像するだけで愉快で、是非ともエンジェルに会いたくてたまらなくなったのだった。
代わりにザンダーはバフィーがヘルマウスにやってくる前はどんな状況だったか、ウィロウはどんな人間だったか、どんなに彼らが近しい関係だったかについて話した。二人は絶対にあの夜のことについては触れなかったが、しかしザンダーはスパイクが自分を注意深く観察しているのに気づいていた。スパイクはザンダーが刃を求めるような気配があれば、そのどんなサインも見逃すまいとしていたのである。しかし彼はそんなつもりはなかった。なぜか、このヴァンパイアの存在はザンダーを安心させた。スパイクは、彼に他人に大事にされるということがどういうことなのかを思い出させてくれたのである。
一週間前からは、二人はベッドも共にするようになっていた。ある晩、ほとんど夜明け近くまで、二人は酒を飲みながら馬鹿げた日本製の怪獣映画を見て夜更かししていた。「ゴジラ対モスラ」と「ゴジラ対キング・コング」の親近性についての白熱した議論がおよそ1時間にわたって繰り広げられ、それで、何故だったかザンダーには正確には思い出せないのだが、彼らはベッドを引きずり出してきた。アルコールによって不可能と思われることが可能になるということはしばしば見られる現象である。というわけで、原因はともかく、ベッドは居間に設置され、二人ともそこで寝込んでしまった。いや酔いつぶれた。まあ意図的であれなんであれ、ともかく二人は一緒に寝たのである。ともかく重要な点はここだ。で、目が覚めてみるとザンダーは、スパイクが自分の横で丸くなって寝ているのを発見した、というわけだった。
一瞬凍りついた彼は、だが飛びのこうとはしなかった。そのひんやりとした感触が、なんだかとても心地よかったのだ。ついでスパイクも数分後に目を覚ました。彼も驚愕に凍り付いたが、しかしやはり身を離そうとはしなかった。それから数分後、ザンダーはトイレに行くのにベッドを抜け出した。どちらも一言も言わなかった。しかしその夜、ザンダーは寝る支度をしながらスパイクに言った。
「えっとさ。その、かまわないよ、もし君もベッドで寝たいなら。ずっと椅子で寝てるのも、寝心地悪いだろうしさ。」
スパイクはザンダーの視線をうまく避けて、ふんと頷いただけだった。
だがそれ以来、スパイクとの夜を重ねるたびに、彼は背中にあたるひんやりした存在に慣れていった。おいそれとは認めがたいことだが、ザンダーはヴァンパイアとの共同生活が気に入ってしまったというわけだ。
これまでのところでは。
*
土砂降りの雨のせいで、パトロールをしても何も収穫はなかった。スパイクは外出するときはいつも、彼自身かバフィーがザンダーと組むように配慮していた。付け加えれば、バフィーといっしょの時ですら、ザンダーはスパイクが一晩にニ・三回は彼のいる小道を横切って、自分の安全を確認しているのに気がついていた。
彼は戦った。彼は自分の怒りをヴァンパイアやデーモンとの戦いの中にぶちまけた。そして怪我で無理ができなかったせいで彼は、やりたいことが出来ない、というスパイクの気持ちがどんなものか、ようやく判った気がした。失ったものの大きさを考えれば、それはあくまで想像に過ぎないわけだけれども。
さて今、彼は、ずうっと部屋中をぐるぐるぐるぐる歩き回っている吸血鬼を観察していた。まるで動物園の檻に閉じ込められている黒豹みたいだ。
実はこのときまで、二人はザンダーが仕事で外出している時間を除いては、ほとんど文字通り一秒たりとも離れず、べったり一緒だったのである。というわけで、お互いにそろそろ限界だった。ああ、自分だけの時間が欲しい!
彼はついに、読んでいた本をバタンと閉じ、宣告した。
「オーケイ。もう沢山だ。さあどっかに出かけて一杯やってきてくれよ。でなけりゃ何か殺しに行くんでも、ガソリンを入れに行くんでも、なんでもいい。とにかく部屋中をウロウロ歩き回るのをやめて、どっかで息抜きしてきてくれよ!」
スパイクは、ああ?と振り返ると、不信感の篭もった目を細めてザンダーを見た。たしかに、ずっと穴倉に閉じ込められっぱなしでいたせいで外に出たいのは山々だったが、しかしザンダーを一人にするのも嫌だった。そりゃ、ザンダーは日ごとに元気になってきて、数日前にはついに、例の危険な暗い欲望の匂いも感じ取れなくなったのだが、しかし彼はまだ用心深く、信用しきってはいなかったのである。
「ほう。一人になって何をしでかすつもりかな。いきなり俺に出て行けってのはいただけないぜ」
スパイクはずかずかと大またで近づくと、ザンダーの座っているカウチの横にどかりと腰掛けた。
「何かよからぬことを考えてるか、それとも俺抜きでなんか楽しいことをしようって魂胆だろう」
顔を近づけ、まるでくんくん匂いを嗅ぐかのようにザンダーをじいっと見るスパイクに、話を切り出した少年は溜息を吐いた。まあね。こうなるだろうとわかってはいたけどね。
「そんなんじゃないって。単にこれまでずーっとこんなに有意義な時間を僕らは一緒に過ごしてきたわけから、君だって少しくらい一人になりたいんじゃないかって思ったんだよ。まあ僕としてはこんな雨ん中を出かける気はしないけど、もし君が行かないってんなら、僕が行くよ。どっちにしろ何もするつもりなんかないから、どうぞご安心を」
スパイクは顔をさらに近く寄せ、深く鼻から息を吸い込んだ。
ふむ、何もない。いつものザンダーの匂いだけだ。悲しそうでもないし、苦しそうでもないし、怒りも感じない。
(たしかに外出できりゃちょっとはせいせいするよな。家にも寄れるし、取ってきたものもあるし、肉屋に寄って血も手に入れられるし)
「───よし。いいだろう」
彼は自分のダスターコートを椅子の背から取り上げると、例のキーがポケットにあるかどうか一応確かめた。それからドアに向かいかけ、思い出してまたくるりと戻ってくる。
「きっかり二時間後には帰ってくる。その間にお前がしたことは、みんな俺にはわかっちまうってことだけは覚えとけよ。お前があれをやったら、取引はパア。俺はまっすぐスレイヤーに電話する。いいな?」
ザンダーは驚いて頷いただけだった。もっとスパイクがねちねち粘るのではないかと思っていたのだ。
「行ってらっしゃい。僕はここで待ってるよ(I'm waiting here.)。大丈夫、まかせとけだよ」
スパイクの目の前で、声がうきうきと高まるのをなんとか押えようとしながら彼は言った。
「よかろう。じゃあ俺はでかける」
スパイクは最後にもういちどザンダーをじっと見つめた。口を開き、何か言おうとして、だが思い直したように、それは再び閉じられた。それからきびすを返すと、彼は大またにドアから出て行った。
ザンダーはリモコンをひっ掴むと、カウチの背もたれにどすんと凭れた。やっとこれで一人きりの時間だ!これから二時間、チャンネル・サーフィンやり放題。
あのヴァンパイアときたらリモコンは彼自身の所有物だと考えているらしく、チャンネル権を奪われたザンダーは、同居以来ずっと見たい番組を全然見ることができなかったのである。ああ、この手触り。ザンダーはリモコンの感触を懐かしんだ。
(あっ、『アステロイド』やってるじゃんか。見なくちゃ見なくちゃ)
ザンダーは早速、充実のテレビ・タイムをエンジョイすることにした。
スパイクは車道に車を停めた。
たまには一人で外出なんてのもいいもんだな。
彼は自分の住処の地下墳墓にいったん戻り、服と煙草といろいろ奇妙な道具類(何に使われるのかは神さまだってご存知ない代物だ、)を取ってきていた。ちょうどそのときに馬鹿なデーモンが一人でうろうろしていたので、丁度いい運動になるやとしばらく遊んでから哀れなモンスターを杭で一突き。それから血を受け取りに肉屋に寄って、次にガソリン・スタンドへ。給油している間、皮肉っぽい笑みが浮かんだ。おいおい、自分はあの人間に言われたとおりの行動をしてるじゃないか?
自分が暇を一生懸命潰しているのはわかっていたが、ザンダーに二時間と言った手前、それより早く帰るのは気が引けた。とにかくお前を信用しているぞと、ザンダーに示してやるのは重要なことだ。そう彼は自分の思慮深さを自賛した。
それから彼はじっと、夜の町を眺めた。ザンダーは、日増しに自分にとって重要な存在になりつつある。
彼はザンダーが一人でパトロールするのを憎んだ。安全が確認できなかったからだ。彼はザンダーが仕事をするのを憎んだ。少年のアホな同僚たちが、少年の能力を尊重しなかったからだ。彼はザンダーがあんな穴倉で暮らさねばならないことを憎んだ。
彼は嘆息した。ここらでやめなければ。この思考の延長線上にあるものなど、判りすぎるほどに判っているのだから。自分にその感情があるのを認めるのは、まだかなり、難しかった。
彼は車から降りると家に向かって歩き出した。近づくにつれ、何か変だ、という気がし始める。首の後ろを、何かちりちりした、嫌な感触のものが這い上がってくる。絶対に何か変なことが起きている。彼は突然走り出した。外の階段を駆け下りる。ドアをぶち開けた瞬間、ザンダーの血の匂いが彼の全身に浴びせ掛けられた。
(あの馬鹿野郎…!ぶっ殺してやる、約束したくせに、あの馬鹿が!)
荷物を放り出して地下室に駆け込んだときは、彼の思考は怒りのあまり焼き切れそうだった。
だがその光景を目にした瞬間、彼は凍り付いた。
ザンダーは痣だらけになった顔を床に押し付けたまま、横たわっていた。スパイクが嗅いだ血の匂いは、ザンダーの折れた鼻から流れ出たもので、そしてそれ以外にもおびただしい傷が、ザンダーの≪俺のザンダーの≫顔中に散っていた。そしてその彼の上に男がまたがっていた───またがっていただけではない。レイプしていた。
「そう、これが好きなんだろう?いつだってしてほしがってるんだ、そうだろ?さあ、イイか?どうだ…?」
声を聞いた瞬間、形相が変わるのが自分で判った。まぎれもない。これはザンダーの父親の声ではないか!
その瞬間、バラバラだったパズルのピースの全てが、ただ一枚のこの凄惨な絵を完成させるために、あるべき場所に嵌めこまれていくのを見るかのようだった。
彼は何故、ザンダーがあんなことをしたのか理解した。なぜあんな痣を全身に背負っていたのかも理解した。なぜいつも後ろから触られると、少年が怯えたように身を竦ませるのかも理解した。
怒りの咆哮をあげながら、スパイクはその男に(いや違う、ケダモノだ、人間ならこんなことができるはずがない)飛び掛っていた。頭に爆発するような激痛が走ったが、彼はそれを振り切った。ザンダーからそいつを引き剥がし、床に叩きつけ、また引き摺り起こし、壁にめり込むかのような力で叩き込む。もはや痛みは「痛み」ではなく頭蓋を砕かれるようなショックにかわり、彼はほとんど気を失いそうになりながら、しかしそれだけのことを一瞬でしてのけていた。
あっけなく気を失って、男はずるずると床にのびた。スパイクはもう一度咆哮を放つと、このケダモノの喉首を掻き切ってやらんとして身をかがめた。そのとたん、心臓を握りつぶされたような激痛に、彼は両膝をついた。だが死に物狂いに、ありったけの力をかき集め、彼は床を這った。足掻きながら、彼はこの男を、この生物を、この生きる権利など全くない存在を、ぐちゃぐちゃに引き裂いてやることしか考えなかった。
男の足に触れた瞬間、頭から縦に裂かれるような衝撃が全身を貫いた。自分の頭が床にぶつかった音と、それから肋骨がいっせいに折れる音を聞いた。だがなお、彼は前へ、前へと這いずった。自分の生死など構わなかった。どんな以前からこの糞野郎が彼のザンダーを苛み、拷問し、犯してきたのかは地獄の魔王しか知らないことだが、この人間をズタズタの細切れにしてやれるものならば、そのせいで自分が死んだって構わなかった。だが、とどめの一撃が彼を叩きのめした。もう動けなかった。血の涙が吸血鬼の顔を濡らした。彼はこの瞬間ほど、自分にこのチップを仕込んだ連中を憎んだことはなかった。
スパイクは朦朧とした意識のなかで、ザンダーが彼の傍らの床にいざり寄ってくるのを感じた。必死で彼はザンダーのほうに手を伸ばした。どうにかして少年に触れたかった。安心させたかった。また激痛が、今度のは以前ほど酷くはなかったが、彼に襲い掛かった。スパイクはよろめきながら頭を床から起こし、壁にすがって身を起こした。
「悪かった。俺が悪かった」
言葉が自分の口から転がり落ちていった。
「お前を一人にすべきじゃなかった。俺のせいだ」
再び、頭蓋骨を砕くような痛みに襲われ、彼は喘いだ。ザンダーはただ黙って彼を見下ろし、それからスパイクの傍らに膝をついた。
「黙って。君のせいなんかじゃない。さあ・・・喋らないで。痛むだけだから」
その声も遠くから聞こえてくるかのようだった。手を伸ばして彼に触れたかった。だが視界は霧の中に入ったように朦朧として、しかも半ば暗闇に閉ざされていた。彼はザンダーが立ちがって彼から離れ、自分がいましたことを───倒れている彼の父親を、ザンダーがじっと見ている気配を感じた。ザンダーがゆっくりと歩いていき、キッチンの流しからナイフを取り上げる気配を感じ、彼は恐慌状態に襲われた。
「だめだ、」
スパイクは必死で声を絞った。
「頼む。やめてくれ」
彼にはそれ以上先を見る勇気はなかった。ザンダーを非難したわけではなかった。ただ彼は、自分がそんな場面に直面できなかったのだ。お前を守るといっておきながら、完全に失敗したその結果を見ることに、耐えられなかったのだ。
ザンダーは戻ってくると、再び静かにスパイクの脇に膝をついた。
「そうじゃないよ。君には血が必要だろ、そんなに酷く苦しんでいるから…」
スパイクを見るザンダーは蒼白で、眼は衝撃と心の痛みを映して妖しく光っていた。
「血がもうないんだから、こうするしかないだろ?」
そう言って、彼は左手に持ったナイフで慎重に右手首を切っていった。血が流れだし、ザンダーはスパイクの口元へ彼の手首を押し付けた。
「飲めよ。頼むから飲んでよ。もう僕を一人にしないでよ。飲めよ、お願いだから」
それは懇願だった。だがスパイクは顔を背けた。だめだ。どんなに飲みたくても、それだけはできない。自分にはもうこれ以上ザンダーから何かを奪うことはできなかった。ザンダーはもうすでに傷つきすぎるほど傷ついていた。
「ばかっ!この期に及んで紳士ぶってんじゃねえよ!動けない君なんか僕には何の役にも立たないんだよ!飲めよ、この馬鹿!飲めったら!」
ザンダーはスパイクの後頭部をわし掴むと強引に仰向かせ、スパイクの口に自分の手首をねじ込んだ。
喉を流れ落ちる血の熱さに、スパイクは眼をつぶった。濃く、豊かで、混じりけのない、光と、熱と、平和と、炎と、生きたいという願いと、そして、恐怖。それらが一つの塊となって彼の喉を滑り落ちた。美味しかった。想像以上だった。そしてこれら全ての下に、微かな希望の味がした。それはこのところずっと失われ、そしてザンダーに戻ってきつつあったものだった。希望。スパイクは自分からがつがつと吸い始めた。
頭上でザンダーはうめく声を聞き、それから少年の心臓の鼓動が遅くなりはじめたのに気づく。残された最後の力を振り絞って、彼は自分の口から腕をもぎ離した。目を上げ、閉じられる寸前のザンダーの目を捕まえる。
「スパイク…」
少年が自分の腕の中に倒れこんできた時、彼は自分の名前が囁かれるのを聞いた。
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