Waiting Here-Part Four-


 

ザンダーは、指一本どころか、呼吸のために胸が上下するのすら憚って、息もしないで横たわっていた。

自分は捕まってしまったのだ。目を閉じていても感触で、胸と両腕に重い鎖がぐるぐると巻かれているのが判った。両足も、何か冷たい、ぞっとするような感触の重石が縛り付けられている。

彼は目を固く閉じていた。どんな恐ろしいものがついに彼を捉えたのか、知りたくなかった。でもいつかこの日が訪れるのは判っていたのだ。友から引き離され、ひとりぼっちで、じわじわと、たっぷりと時間を掛けられながら拷問される日が来るのを───恩寵の死が、与えられるまで。

だが、彼がこれまで過去に抱いていた想像や予想、心積もりなどは、今彼に迫った現実の恐怖と戦うのに、何の役にも立たなかった。

一体自分はどこに、何者に捕まってしまったのか?どんな拷問具が用意されているのか?どんな風に殺されるのか?ナイフで?それとも杭で?それともそんな一撃での死ではなく、煮えたぎった油の大鍋に突き込まれ、苦悶に絶叫しながらじわじわ殺されるのだろうか…?

次々に湧き上がってくる恐ろしい想像に,彼はもはや耐えられなくなった。一体どんな運命が待ちかまえているのかと、彼は瞼を薄く持ち上げた。そして彼の目に飛び込んできた”恐ろしいもの”とは…

(…天井だ)

彼の目がきょろきょろと動いた。視界にうつるシミやへこみには確かに見覚えがある。それから耳に、蛇口から水の落ちる音や、近所の犬の鳴き声、それから誰かがキッチンを歩く床のきしみといった、ありふれた日常の雑音が聞こえてきた。窓に降ろされた厚いカーテンの向こうには円い光が透けて見える。それで彼にはどうやら時刻はもう真昼だということさえわかった。

彼はゆっくり瞬いた。だんだん頭がはっきりしてくる。

僕は今ベッドにいるらしい。 自分の地下室のだ。 地下室。 地下室というのは自分が昨日…

そこまできて、彼の思考は急停止した。すっかり目が覚めた。彼は再び目をぎゅっと閉じると、どうやって自分がベッドまでたどり着いたのか思いだそうとした。最後に覚えているのは、自分がバスルームに走っていって、それから気を失うときに見た床だ。血が止まらなくて、真っ赤な水溜まりになっていた…

声にならないうめきをあげ、彼は小さく身を震わせた。馬鹿だった。自分はこれで本物のきちがいだ。

二度とやらないと誓ったはずだった。なのに自分はまた手を出してしまった。バレるとわかっていたのに。しかも死にかけるまで。

彼を抱き上げた腕、頬に触れた手の感触、低い唸るような声、それから手にちくりと何かが刺さった感触。必死で記憶の断片を探ったあげく、思い出せたのはこれで全部だった。ほかは何も覚えていない。だいいちなぜ自分はベッドにいるのか?

目を開けて起きようと身じろいだ彼は、今度は自分の胸に包帯がきつく巻いてあって、上体を曲げるのもままならないことに気がついた。

(…なんだこれ…?誰が僕にこんなことを…?)

なんとか体を枕にずりあげて腕を見下ろせば、手首から肘の付け根までびっしりと包帯が巻いてある。

(一体…?誰が腕に包帯まで?)

当惑して頭を振り、溜息をついて、視線を上げた。その瞬間、彼には恐怖に金切り声を上げないようにするだけで精一杯だった。自分の膝のちょうど隣に、プラチナ・ブロンドの頭が向こうを向いて横たわっている。ベッドの足元の床に身を丸めながら、ヴァンパイアの右腕はベッドに伸びて、ザンダーの両足をまるで何かから守るみたいに抱き寄せていた。

「スパイク…!」

鋼鉄のような腕から必死で逃れようとしながら、ザンダーは恐怖に喘いだ。

「なんてこった!スパイクが何でこんなところに?」


スパイクの目が、名を呼ばれてふっと開いた。そして一瞬で正気に返る。自分はザンダーに腕を回したまま眠りこんでしまったのだ。

(俺は馬鹿か、何をうっかり寝込んでるんだ!)

自分自身に呪いの言葉を吐きつけながら身を起こし、彼はベッドからすばやく身を離した。呼吸を整え、いつもの彼のキャラクターの仮面を被りなおす。眉を上げ、嫌味っぽく唇をゆがめて、スパイクはいかにもだるそうに言った。

「なんだよ、おい。ここに居てくれって頼んだのはお前じゃねぇか」

そんな覚えはない。ザンダーは一体なんのことかと呆然とした。その顔を見てスパイクは慌てて表情を改めた。ベッドの足元に座りなおし、ザンダーの目を探るように見る。医者の不吉な言葉が耳の中でこだました。

「ペット、ただのジョークだぜ」

彼はそっと言ったが、じっとベッドを見下ろしたままの少年からは何の反応もない。

「ザンダー?」

胸の奥から恐ろしい疑惑がわきおこってくる。

「ザンダー。お前、自分がどこにいるか判るか?」

その言葉の裏にある本心からの心配の響きに、ザンダーははっと我に返った。

これは一体どういうことだろう?目の前にいるのはスパイクで、しかも彼が自分のベッドに座っていて、一方自分はまるでミイラみたいに包帯にぐるぐるまきにされている。そしてスパイクときたら、全く心から心配そうな顔つきをしているのだ!

あまりにも奇妙だった。とはいえ質問には答えねばなるまい。

「バハマさ」(注:バハマはカリブ海に浮かぶ島で、金持ちのアメリカ人がよくバカンスに出かける高級リゾート)

スパイクを見上げてザンダーは言った。とたんに吸血鬼の顔色がさっと青白くなったのに驚き、彼はいそいで続けた。

「おいちょっと、冗談だよ!ここは僕の素敵で・豪華で・快適極まりない・最低最悪の地下室さ。…それ以外にどう答えると思ったんだよ?」

ザンダーらしい軽口の返事を聞いて、スパイクの不安は少し収まった。そうだ、こういうのがザンダーだ。不安で、自分の身に起こっていることも判ってない。だからこそ突っ張って冗談を言わずにはいられない。

最低レベルの冗談だが、それでも冗談は冗談である。

ザンダーは自分の身体を見下ろし、それからスパイクの方を見た。それから部屋中に垂れ下がった布や、スパイクの背中越しにあるテーブルの上に置かれたキャンドルや蓋の開いた箱に目を移す。

(やばい、どうやってこの状態を説明したもんだろう?スパイクは何を見たんだ?それにほかのみんなは?全部バレたのか?)

「君…いつここへ?」

とにかくこの状況を把握しなければならない。どれくらいまずい状況か、ということを、だが。

「昨日の夜」

短い答えだった。ザンダーは身構えた。

何かきつい批判とか、馬鹿にしたような言葉とか、でなければ軽蔑とかがきっと浴びせ掛けられるだろうと思っていたのに、返ってきたのはこの穏やかな返事だった。こいつは良くない傾向だ。

「ええと。じゃあ、君、誰が僕をこういう風にしてくれたのか、知ってる?」

これならこの突然言葉数の少なくなった吸血鬼だって、何か言わずにいられなくなるに違いない。

「ああ」

またもシンプルな答えだった。それ以外には、馬鹿にしたような響きもなければ、何の情報もない。

(なるほど、単刀直入のお答えをありがとうだぜ。)

ザンダーは一人ごち、

「あのさ。ただの"ああ"ってのはないんじゃない?説明もなし、罵言もなし。それじゃ何も言ってないのと同じだぜ」

ザンダーは信じられなかった。あの極悪な吸血鬼が、ただ単にそこに座って、奇妙な表情を顔に浮かべて彼をそっと見守っているだけなんて。そのまま二人が奇妙に黙りこんでお互いを見詰め合ったまま、おそらく一分は経っていたに違いない。スパイクが先に溜息をひとつ吐くと、目を逸らした。

「シャワーを浴びてきたらどうだ?それを済ませたら、何があったか話してやるから」

こんなことを言えば驚かれるだろうと判ってはいたが、これから起きることを思うと、スパイクは心の準備にもう少し時間を稼ぎたかったのである。

驚いたザンダーは一瞬身を引いた。このスパイクが、素直に質問に答えるだって?

彼はスパイクから目を離さずに、ゆっくりと頷いた。確かに顔を洗いたくてたまらなかったし、それにトイレにも行きたかった。そこに行けばあの血を、あの光景をまた見ることになることが頭をかすめたが、それでも『シャワーなんて浴びない』などとはいえるわけがなかった。そう云えば自分がしでかしたことを全部白状することになるのだから。

「わかったよ」

彼は言った。

「一分で戻ってくるからな」

彼はベッドから足を投げ出して立ち上がった。

とたんに世界がぐらりと傾いで回転し、彼はそのまま床に崩れ落ちそうになった。貧血だ、と思ったとき、彼は冷たい腕が自分を支えるのを感じた。スパイクはザンダーをもとのベッドに、今度は座らせた。

「気をつけろ。まだ出血のせいでかなり弱ってるんだから。急に動こうとするんじゃない」

スパイクは自分の口から飛び出した言葉に、思わずしまったと頭を一度きつく振った。

(馬鹿、しまった、アホか俺は?自分からヤバいネタを振ってどうする?)

ザンダーがスパイクを穴のあくように見つめていた。

「出血…出血だって?くそっ、お前一体何を見たんだよ!」

ヴァンパイアがある程度まで知ったのは確実だった。ただどこまで知ってるかを言わないだけだ。

「おい、はっきりいえよ、何を見たんだ?誰がここにいたんだ?誰がお前に教えたんだ?」

ザンダーの声のトーンが上がり始めた。

「誰だよ、え?スパイク、誰が、誰が僕にこんな包帯をしたんだよ?バフィーか?違うな、彼女がちゃんとした包帯の巻き方を知ってるはずがない。ウィロウ?絶対違う、ウィロウなら泣いてばかりで役に立たない。タラか?かもな。それともアンヤ?いや、彼女がそもそも包帯なんてものの存在を知ってるわけがない。ジャイルズ──きっとそうだ。彼ならできる。さあ誰がやったんだ、スパイク?それになんで皆はここに君だけ置いていったんだ?君のストローでもってキチガイの脳みそを吸い出そうってのか?じゃなきゃドル−との豊富な経験をお持ちの君のことだから、こんな狂人の扱い方を心得てるだろうって思って、君と二人っきりで俺を放っていったってことか?え?そうなんだろ?!」

立ち上がり、いまや喚き散らしている自分に気がつくと、今度は彼の身体は前後にぐらぐら揺れ始めた。

「さあ、スパイク、どうしたんだ?言えよ、俺の血を飲んだんだろ?みんなで俺の血を舐めさせたんだ、そうだろ?くそ、この馬鹿野郎、何とか云ったらどうなんだよ!」

狂ったように頭を抱え、喚くザンダーの言葉には、途中からすすり泣きが混じっていった。惨めさ、情けなさが彼の身を焼いた。頭の中で囁く声が聞こえる。

(終わりだ。全て終わりだ。ばれたんだ。みんなにばれてしまったんだ。これで俺はキチガイだ、本物の狂人になっちまった。もう世間の目をごまかすなんでできなくなった。もうみんなばれちまったんだ。)

スパイク以外誰もいない理由は明白だった。誰もこんな自分の傍になどいたくなかったからだ。自分は見捨てられたのだ。彼は顔を背け、左腕で目をこすった。その動きで腕のひきつれが痛み、彼は息をぐっと飲んだ。


スパイクはただ座って、ザンダーの罵りを───いや、彼の全身から迸りでる苦痛の悲鳴を、じっと聞いていた。彼にはザンダーがこうすることが、喚きちらし、罵り、感情をぶちまけることが、どうしても必要なのだと判っていた。自制心が戻るのはそのあとだ、と。

ザンダーの始末などスレイヤーに任せてしまえばいいじゃないか、とはスパイクも思った。だが何故か彼はそうしなかった。それが最も重要な点だった。

彼にはザンダーの全身から撒き散らされる恐怖と惨めさを、どこまでも暗く、無尽蔵に迸り出る負の激情を、嗅ぎ取ることができた。だからスパイクはザンダーが怒るがままにしておいた。その怒りを自分に向けさせておいた。ザンダーが、たとえ暫くでも自分自身から目を背けていられるように。

黙ってベッドに座っているスパイクからすこし離れたところに、やがてザンダーはどさりと腰を落とした。苦痛に悶える喘ぎ声が、スパイクの耳に届いた。

「ザンダー。何があったかは教えてやる。真実についてもだ」

ザンダーは黙ったまま、鼻をすすった。

「だがまずシャワーを浴びてからのほうがいいと俺は思う。それで頭をすっきりさせてこい」

スパイクはちらりとザンダーを見た。ザンダーの狂ったような心臓の拍動はやや落ち着きを取り戻し、恐怖を帯びたシャープな香りもいくらか薄くなっている。

「いいか、ペット。俺は包帯もあるし、傷につける薬も持っている」

スパイクはザンダーが緊張に身を強張らせるのを感じ、注意深く目を逸らした。

「そんでもって、俺はそれを自分でやりたくはないわけだよ」

ザンダーはあやふやな表情のまま頷いた。たしかにそうだ。シャワーを浴びたほうが気分もすっきりするにちがいない。彼はゆっくりと立ち上がった。もう貧血を起こして倒れるのは真っ平だった。彼はなんとか浴室へ歩いていった。そこで目にするであろう光景に怯えながら。

そしてドアを開けた彼の目が、驚愕に見開かれた。

降ろしたてのタオルがロッドにかかっている。光の中、バスルームは淡く白く輝いていた。血など一滴も落ちていない。誰かが何の痕跡も残さないように,これだけの事をしてくれたに違いなかった。浴室に一歩踏み込む。ああ、あった。ナイフだ。

それは自分の手から滑り落ちた時のままに、床に落ちていた。乾いた血が刃を黒く変色させている。彼はそれをじっと見下ろした。

襲い掛かってきた記憶,その痛みに、彼はぶるりと身を震わせ,大きく喘いだ。なんて馬鹿だったのだろう。どうしてあんな所までやってしまったのだろう。自分は病気だ。自分は自分をコントロールできなくなったのだから。

大きく息を吸い、彼はドアを閉めた。

 

スパイクはドアの閉まる音を聞き、ベッドから静かに立ち上がると彼のシガレットを掴んだ。すばやく火を点け、それから無意識に部屋を行ったり来たりし始める。

(少なくともこいつは便利だったな)

彼は布の下がった窓の下を通り過ぎながら考えた。

(ここにいるうちは巻き上げられん。もちろんあいつにはできるわけだが)

実は、彼にとって事態は予想していたほど悪くはなかった。もし正気をなくしたザンダーに攻撃されたらどうするか、というところまで考えていたからだ。だからザンダーが激怒してくれたのは実にありがたいことだった。泣き出されたりしたらお手上げだった。

ところで彼はいまだに自分の失態が信じられないでいた。ザンダーの意識が戻るまでは起きていようと思っていたのに、どうやらストレスで昏倒してしまったらしい。とはいえ彼はザンダーが眠るのをじっと見守って、かなり長い間起きていたのであるが。


彼には考える時間はたっぷりとあった。何についてかといえば、なぜ自分がこういう行動を取ったのか、についてである。電話が鳴ったのは朝の9時で、レッド(注;ウィロウ)が留守電を残すのを聞いた時、彼は初めて、一度も自分がスレイヤーにもウォッチャーにもレッドにも、その他この小僧の友人の誰にも、電話をしようとはしなかった、ということに気がついた。

初め彼は単にその暇がなかったからだと考えて自分を納得させようとした。少年を助けるには一刻も早い処置が必要だったのだ。悠長に電話なぞしていたら、ザンダーはとっくに死んでいただろう。

しかしこの言い訳は長続きしなかった。というのも、本当に緊急事態だったなら、彼はさっさと少年を病院に連れて行けば済むだけだったからである。だが病院に連れて行かなかったのと、バフィーたちに連絡をしなかったのは同じ理由だった。それが、答えに窮するような事を、色んな奴からあれこれ尋かれるだろう、という畏れであった。スパイクはそんな質問に答えたくはなかったし、同時に、そういう質問に答えようとするザンダーの姿も絶対に見たくなかったのである。

スパイクは部屋中を歩き続けた。あのアホな人間どもが絶対にひねり出してくるだろう馬鹿げた質問を想像し、彼の歩幅はますます大またに、苛々と速くなっていった。

奴らは絶対に理解できないに決まっている。血のもたらす真の力を、あの欲望を、肉がこの皮膚の下にちゃんとあるのだと実感する必要性を。

スパイクはなぜこれまで自分がザンダーに奇妙な親近感を抱いてきたのかを理解した。それは少年の中に流れる血への渇望の、ほんのかすかな香りを嗅ぎ取っていたせいだったのだ。

…しかし、これはそれ以上のものだ。

彼は祭壇の前に立ち止まった。そして黒いシルクの布と血の塊を見下ろす。彼はドル−を思い出した。彼女も血の遊戯が好きだった。彼女は彼の喉もとにナイフを当てたままセックスするのが好きだった。そして彼から愛の囁きを引き出したあとに、彼の喉を薄く切り裂いて、その血を舐め取るのが好きだった。

あのころ、彼女が完全に彼のものになる前、彼女はアンジェラスと時を過ごしたあとは必ずナイフに手を伸ばした。痛みにすすり泣きながら、同時にその痛みを再び自分の中に注ぎ込むかのように、彼女は白い肌の上にナイフで何十もの円を描いていったのだった。その間彼はずっと彼女をきつく抱きしめ、彼女の髪をなでてやっていた。

だから彼には直ぐにザンダーの腕の傷の意味がわかった。そして同時に、少年が自殺を図ったわけではないということも。

この陰惨な行為にもし美しさがあるとすれば、それはひとえにここに集約されるのだ。これまで一度も自分の血を味わったことのない人間には決して理解できはしまい。だが生命(ライフ)こそ、この傷が求めるものなのだ。生命(ライフ)こそ、この刃が証明するものなのだ。

彼は知っていた、知っていて、そして理解してもいた。そして今彼はこの暗い世界に彷徨う少年のことをもう少し深く理解するようになっていた。彼はいつもザンダーに、なにかもっと違うもの、何かもう少し深いものを感じていた。

この少年は賢かった。彼の友人が全くその逆だと思っていたにしろ。そして彼は他のどの仲間よりも勇敢だったのだ。スレイヤーは生まれつき"力"を持っていた。ウォッチャーとウィロウら魔女たちは技術を、アンヤにいたっては1250歳の元悪魔である。だがこの少年は違った。彼はただの人間だった。だのに彼はほかの連中と同じように夜のパトロールに参加していた。だがその彼を彼女らは、うすのろ同然にあしらった。

スパイクは頭を上げ、耳を傾けた。ザンダーがまた倒れていやしないかと心配になったからである。水の跳ねる音を聞いて安心し,スパイクはまた歩き出した。

そう,それで今や自分は一つ秘密を知ったというわけだ。だが一つあるということは他にもあるということだ。たとえばあの痣。あれはどこから来たものなのか。そしてそもそもザンダーはどうしてカッティングなどするようになったのか。そして何が彼を崖っぷちまで連れて行って、そこから突き落としてくれたのか。

この少年がこんなことをずっとしてきたのは間違いなかったし、またこの"儀式"が意味することも、少年には判っているに違いない。

ザンダーを引き剥いて他の傷を探さないよう自分を押しとどめておくのに、スパイクは全自制心を動員せねばならなかった。絶対に他にもあるはずだ。それは明らかだった。だが強引につつきまわれば、とんだ悲劇が起きかねない。だからスパイクはともかく問題を今回のことに限定することにした。

水音がやんだ。彼はザンダーが現れるのを待って、壁に身をもたせかけた。


    *

    
ザンダーはゆっくりと胸に巻かれた包帯を解いていった。身動きするたびに肋骨が軋み,彼は顔をしかめた。

鏡を見、息を飲む。彼の胸はま一面が黒い痣になり、一つ一つの痣など見分けがつかなくなっていた。一本の骨も折れなかったなど奇跡だ。彼は単純に、ありがたい、と思った。骨折がなければ何とでも誤魔化せる。

それから彼は右腕にとりかかった。解き終えると、10本の完璧にパラレルな線が現れた。上手い切り方だ。肘の付け根から浅い傷として始まって、そこからだんだん手首に近くなるに従って深くなっていっている。長年の経験で、まあだいたい三週間くらい長袖を着てりゃいいかな、と冷静に見積もる。そして二本目につけられた傷を下からすっと指で擦り上げた。それで生まれる感覚に、彼の目がわずかに細められる。

頭を振って,彼は左腕に取り掛かった。こちら側にはかなり時間がかかった。べたりと貼り付けられたガーゼを剥いで現れた傷に、彼は無意識にうめいた。

まるで狂人がノミか何かでメッタ切りにしたような惨状だった。長さも線も幅もみんなばらばらだ。代わりにあったのは、いわばあらゆる種類の傷の標本だった。深いもの、浅いもの、細いもの、太いもの,ぎざぎざのもの。まるで医学用見本にできそうだ。そして最後の、マスター・カット。それはちょうど腕の長さに走り,そして彼はこれは間違いなく痕になって残ると判った。

ついにやってしまった。もう隠しようがない。苦い笑みが無意識に彼の顔によぎった。やれやれ、これは説明が必要になりそうだ…。

そして彼はいつだって、こういうのをデーモンやバンパイアのせいにしてきたのだった。

彼は温度を調節してからシャワーの中に足を踏み入れた。水が傷の上を流れ落ちていった時、彼は思わず喘いだが、しかし温めの湯はすぐに痛みを鈍らせてくれた。壁にもたれ、水が流れていくのに任せる。

あまりにも弱っていて、彼はもはや恐怖も感じなかった。自分はどれくらい出血したのだろう、それにどういう治療をされたのだろう、とぼんやり思う。それからなぜ、と思い、そして最後に、誰が、と思う。

彼のあてどない思考は最終的にスパイクに帰着した。

なぜ彼はここにいるんだろう? 彼は何をしていたんだろう? スパイクが何らかの理由で自分を助けたのだということは判った。だか、なぜ? そしてなぜ彼はこの地下室のありさまを見ても何も言わないのだろう? このバスルームの掃除をしたのは彼なのか? ───確かにそうかもしれない。スパイクは何がどこにあるのかを知っている。そしてタオルは彼のいつものやり方どおりにロッドに掛けてあった。そんな細かいところまで自分の好みを知っている人間は多くはない。ではなぜスパイクが<まだ>ここにいるのか。ふむ、そりゃあもう昼間だから彼はどこにも行きようがないのはその通り。けれど、そもそもなぜ彼はここに来たのだろう?

ザンダーはふうと溜息を吐いた。そろそろ現実に直面しなければならない。

だが実は小さな、彼の中の隠された一部分では、微かな期待を、でなければ安堵を,感じていた。細かい事情まではともかくとして,スパイクは彼のやったことの根源的な意味を理解している。それにもかかわらずスパイクは自分を軽蔑しなかった。それどころか、おそらく、理解さえも向けてくれた。

水が冷たくなり始め,ザンダーは震え始めた。タップを捻って水を止め、身体を拭いて、それから腕に抗生物質軟膏を塗っていく。スパイクが自分の手にこれを押し付けたときの顔を思い出して薄く笑った。“これを使うのは初めてじゃないんだろ”と、顔に書いてあった…

彼はプロの手つきですばやく包帯を巻いていった。今ではすっかりこの手順も慣れっこだ。それから彼は慎重に,痛みに顔をしかめながら腕にも包帯を巻いていった。それから服を掴み、ゆっくりと着ていく。

振り返り,他にし残したことはないか考え、スパイクの目から逃れてここに立て篭もっていられる理由が他にないか、探す。歯ブラシを取り上げ、二回目の歯磨きをし、もう一度くしで髪を整えて、そしてついに敗北を悟った。

やりのこしたことは、ほんとうに一つも残っていない。時間だった。

  *

スパイクはドアが開く音に顔を上げた。湯気がどっと噴き出してくるなかに、ザンダーが立っている。表情はかなり落ち着いていたが、まだ酷い顔色で、震えていた。ザンダーは以前スパイクを縛りつけた椅子に腰をおろすと、吸血鬼を見上げた。彼らは黙って互いに視線を見交わした。

「じゃあ、昨日何があったのかを話してもらおうか」

 

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