Waiting Here -Part Three-


室内は物音一つなく静まり返っていた。ただベッドに横たわる体から緩慢に立ち昇る、かすかな呼気の生み出す空気の震えだけが、唯一の音といえば音だ。空気は重く、澱んでいて、スパイクの全感覚はその音に集約されていた。

吸って。吐いて。

きつく包帯の巻かれた、殴打の痕もあらわな胸郭から、微かなぜい音が漏れる。

吸って。吐いて。

この規則的なリズムを妨げるものは何もないように、彼は祈るような思いで呼気と吐気の間にある時間をカウントしていた。

吸って。吐いて。

もう何も苦しむことはない。もう何も争うことはない。ただ死のように穏やかで、安らかな眠りだけ…


突然、スパイクは身じろぎした。呪縛が破れたかのようだった。なんでもいいからなにか行動を起こさねば気が狂いそうになって、衝動的に彼は手を伸ばすと煙草をわし掴んだ。一本を口にねじこみ、ライターをはじく。滑らかな動作で火を移すと、煙でザンダーを起こさないように彼はベッドの足元のほうへ移動した。

昏睡状態から睡眠状態へ移行したのは、たった一時間前のことだった。煙草に手を出したくてたまらなかったが、それと同じくらいスパイクはザンダーを起こしたくはなかったので、ずっと禁煙していたのだった。

スパイクが部屋を歩くにつれ、彼の後ろに白い煙があとをひいて流れた。彼はこれまでこんなに一つのことに執着したことはなかった───ただの一人の人間が生き延びられるかどうか、などとということに。

ただその間もずっと、この部屋の異様な状態が、彼の心から離れなかった。彼は手を伸ばし、光源という光源を遮るように垂らされたシルクの布地に手を滑らせた。こんな風に完全に部屋から灯りを殺し、まるで洞窟にいるかのように、もしくは地下の墳墓にいるみたいに、じめじめした暗闇にしてしまうのはかなりの面倒なことだが、それと同時に、「計画性」というものが必要だった。

布をつまみ、その厚手の繊維の感触を確かめる。

そう。これは儀式だ。細心の注意を払って執り行われる、精神の奥深いところに潜む、ある種宗教的ともいえる儀式なのだ…。

彼は再びぐるりと円を描くように部屋を横切って、窓の下に行った。垂れ下がる布地の間にほんの小さな隙間がある。このお陰で彼は部屋から漏れるキャンドルの明かりに気がついたのだ。

また部屋を横切って、彼はテレビとステレオの形に布が張り出しているのを見た。そういえば、この部屋に駆け込んだ時にはまだ何かの曲が流れていた。

彼は布を引き落とした。仔細に見れば、デッキは同じ曲を繰り返すようにセットされている。

Track15。

イジェクトボタンを押して彼はCDを取り出した。そして僅かに目を見開く。このアルバムは知っている。Nine Inch Nails。『The Downward Spiral』。

無い筈の心臓に、突き刺さるような痛みを覚えた。きつく目を閉ざした彼の口から歯軋りが漏れ、頬に一つ痙攣が走る。彼はついに"答え"にたどり着いたのだ。

なるほど。生贄を捧げる聖餐台か。

彼の目がテーブルの上を走った。黒い絹のクロス。開かれた箱。二本の燭台。炎はとっくの昔に消えていた。広がった赤黒い血の染みが、テーブルの淵から点々とその外へ続いていた。テーブルの血溜まりと、次に絨毯の上におちている血溜まりとの距離は、かなり離れている。おそらくザンダーが走ったせいだ。

バスルームの中では、血がタイルを覆い尽くしていた。ザンダーの前腕に貼りついていた二本のタオルはぐっしょりと赤く変色し、まだ血を滴らせていた。ただ必死で止血しようとタオルの上から傷口を押えていたらしい、その部分だけが、ザンダーの手形を残して白かった。ザンダーが倒れるときにつけたらしい横殴りの血の跡が、バスタブの壁に沿って走っていた。

スパイクは僅かに頭を垂れた。深い溜息がひとつ、彼の唇から逃れた。

強張らせていた肩から少し力が抜ける。心はまだ張り詰めていたが、しかしスパイクはこれでようやく状況を正確に読み取っていた。

あいつは自殺しようとしたんじゃない。自分で腕を切ったものの、どこかでやりすぎちまっただけらしい…。

吸血鬼の嗅覚には、まだ空気中に漂う恐怖と苦痛と絶望の“香り”を嗅ぎ取ることができた。

スパイクはざっと浴室を見渡して、それから仕事に取りかかった。血まみれのタオルをかき集め、洗濯機に放り込む。焼き捨ててしまおうかとも思ったのだが、ザンダーがほとんど無一物であることを思い出してやめにしたのだった。こんな些細なものでさえ、無くしたらザンダーにとっては痛手だろう。

ついで彼は流しの下からクレンザーを取り出した。掃除に取りかかったスパイクは、部屋と違って浴室が恐ろしく綺麗に、まるで強迫観念に取り付かれたように清潔に、整えられているのに気がついた。

血を舐めとりたいという誘惑に抗いながら、彼はタイルを磨きあげた。血が欲しくないといったら嘘になる。だが今、この血だけは、欲してはならないのだと彼は思った。

すっかり掃除し終えてから、身を引いて彼は浴室を検分した。血は跡形もなく、浴室は再びほの白い明るさに輝いている。ただ唯一この場にそぐわないものを残して。───床の上に落ちたままの、刃である。

スパイクはまるでそれが自分に飛んでくるのではないかというように、じっとそれから目を離さず、また触れようともしなかった。よくできた、多分職人の手になる一品だ。磨きあげられた銀色の刃は薄暗い浴室の中で柔らかな光を浮かび上がらせている。こんな鋭いエッジなら、軽く当ててすべらせるだけで、肉を綺麗に切りさいていくことができるだろう。

スパイクは暫くナイフを眺め、それから不意にくるりと背を向けた。ザンダーが死んだように血の海に沈んでいた姿は彼の脳裏にまだありありと残っていて、彼はそれ以上、その場にいることに耐えられなくなったのである。


彼は居間に戻った。垂れ下がる布など全部引き落として、起きたことの痕跡一つ残さずに全てを元通りに片付けてしまいたかった。だが彼には、それはザンダーが自分でしなければならないことなのだと判っていた。彼はベッドの足元にちょっと佇み、耳を澄ませた。 呼吸は静かに、きちんと繰り返され、心臓の鼓動も前よりしっかりと、規則正しくうち始めていた。満足し、彼は洗濯機の蓋の上に腰をかけ、ザンダーの顔に視線をじっと向けた。

彼はもう一本煙草に火をつけ、それからゆっくりと頭を垂れた。ときおり手を口元と膝の間に上下させる以外、彼はぼうっと床に視線を落としたまま、身じろぎもしなかった。それから彼は今夜の出来事を、映画を見るように思い出していった。

 *  *  *


ウィリーとの電話を切ってからメルセデス・ベンツが家の前の通りに停車するまで、正確に12分と10秒が過ぎていた。スパイクは開いた戸口に立って待っていたが、男が車からのろのろと降りてくるのを目にするやすっ飛んでいった。

「のろま!随分待たせやがって!」

食ってかかられた医師の目が恐怖に見開かれれる。完全に吸血鬼に変貌した顔が、彼の喉元数インチのところで黄色く光る目で彼を睨みつけていた。

「ス、スパイク様!」

怯えきった喘ぎ声に含まれた恐怖の響きに、ヴァンパイアは状況を一瞬忘れて愉快な気分になった。少なくとも世の中にはまだ自分のことを怖がる奴がいるらしい。

「そうさ、俺だよ。───さあ、お前の持ってきた荷物はどこだ。こっちには時間がないんだ」

恐怖に声もなく、医者は後部座席を震える指で指差した。スパイクは車のドアを乱暴に引き開けると、アイスボックスと点滴用のスタンドと往診鞄をかき集め、あわただしく地下室へ引き返した。医者も直ぐ後を追う。スパイクはベッドの足元に道具を下ろすと振り返った。医者はただそこに突っ立って、目の前の血まみれの人間の姿に口を呆然とあけて見つめている。

「な、何があったんです?」

(ったく、ウィリーは誰を送りつけてきやがったんだ。この程度で驚いてるようで、本当にこいつは医者なのか)

焦燥に、彼は歯の隙間から返事を押し出した。

「そんなことは、今も、これからも、お前には何の関係もないこった。そんなことより、いいか、こいつは大量に失血してる。それをお前は何とかできる筈だ。さあ速く取り掛かったほうが身のためだぞ」

この時医者は思わず頭を上げてしまい、お陰でスパイクの黄色く光る目を真正面から覗き込むという失策を犯してしまった。激怒に燃える黄色い瞳に、医者は霧の中に迷い込んだような自失状態から、ひっぱたかれたように我に返った。

輸血道具が瞬く間にセットされ、一分もたたぬうちにチューブがのび、ザンダーの手にテープで留められた。スタンドに点滴の袋が下げられ、ザンダーの体内に血が流れ込み始める。餓えたようにその赤いチューブを見ていたスパイクは、しかし突然恐怖に襲われた。

彼は突然医者の首根っこを鷲づかむや、この動作で彼の内部に走った激痛と戦いながら、医者を壁に叩きつけた。

「おい、これが人間の血だってどうやって証明できるんだ?ええ?これがブタの血じゃないと、お前がこいつを殺そうとしてるわけじゃないと、どうやって証明できる?だいたいこれがこいつの血液型にマッチしてるかどうかもよ?うっかりお前を信用しかけたが、…」

目が今にも頭蓋骨から飛び出しそうなほど大きくなり、喉を締め上げる手に、医者は嗄れ声で喘いだ。

「け、血液銀行です、血液銀行のです!その輸血バッグにちゃんと書いてありますよ! 」

スパイクはぶっきらぼうに身を引いた。体を粉々にされるような激痛に目の前が暗くなりかけるのを、壁によりかかって支えることでなんとかやりすごした。それからアイスボックスに手を伸ばし、バッグをひとつ取り出す。貼られたラベルに大きく<O型>とある。なるほど。医者は身を折って、ぜいぜいと息を吸っている。

「私がそんなことをするために来たと思うんですか?殺されるような危険をわざわざ冒すとでも?ウィリーが私に言ったのは、とにかくマスターが輸血のための血液が必要だといっている、ってことだけだったんですよ。私が本当にそんなバカなことをすると思ってたんですか?」

まくし立てる言葉がかえって真実を証明している。スパイクは判ったと言う代わりにただ頷いて見せた。

「まあでも、こっちとしては、確認しすぎて困ることはない。ちょっと味見させてもらうぜ。輸血を止めてコップを寄越せ」

ドクターは彼の信頼性を証明すべく、大急ぎで言いつけに従った。彼はすぐさまIVを止めると、流し台の傍で見つけたカップに血液を少量搾り出した。震える手で、彼はヴァンパイアにそれを差し出した。スパイクはグラスに唇をつけた。濃い、ピュアな味のする人間の血液が喉を滑り落ちていく。彼の中の魔性がそれに引きずられるように呼び出されてきた。

彼はその味を味わいながら唇を舐めた。さっきよりはやや頭が冷えていた。目を上げ、彼はドクターをじっと見た。

「よし。仕事に戻れ。だがこいつに輸血する前に、俺はかならず全部味を見ることにするからな」

ドクターは頷くと、急いで仕事に戻っていった。

スパイクは震えながら、ゆっくりと壁にもたれかかった。この男をまた襲わないように、そして苦痛を隠すためにである。だがさっきの血は、この人間を食いたいという食欲を掻き立てると同時に、痛みもやわらげてくれていた。

輸血が再び始まると、医者はベッドの傍に膝をついて、自然と職業的な目になってザンダーの身体を診ていっていた。

「この人には、この…この腕の怪我以外には、どこも外傷はないんですか?」

「知らねえな」

とスパイクの返事。

「チェックしなかった」

「その・・もしよろしければ、診察させていただきますが。輸血がこれで十分かどうか確かめたほうがいいと思いますし。もちろん、あなたが構わないと思われればの話ですが、マスター。」

ドクターの過剰な謙譲表現に吹き出したいのをぐっとこらえて、スパイクは重々しく頷いた。確かに、うっかり傷を見過ごして、ザンダーが急変でもしたらことである。

同意をうけたドクターは、スパイクがブーツにいつも装備しているナイフを感謝して受け取り、それでザンダーのシャツの袖を切り始めた。そのうちに最初の輸血バッグが空になったのでそれを取替えに行く。スパイクはその間にザンダーの顔をよくよく見ることができた。

灰色だった肌の色はやや赤味がさし、唇もさっきまでは死人のように青ざめていたのがなくなっている。呼吸も格段に安定して、昏睡に落ち込んでいるというようリは、眠っているという表現のほうがふさわしく見えるようになっていた。

ドクターは新しいバッグを取ってくると、スパイクのためにいくらか分けて取った。ヴァンパイアはすばやく口に含むと同意のしるしに頷いて見せた。ほっとしたようにドクターはバッグをセットすると、それからザンダーの診療に戻る。彼は背中の下からシャツをとりのけるために、慎重にザンダーの身体を横向きにさせた。胸郭があらわになる。

スパイクの身体がぎゅっと強張った。

ザンダーの両脇は痣だらけだった。そして一つ一つの打撲痕が、いまや一つの巨大な青黒い内出血の痕になりつつあった。それにもかかわらず、彼の目にはその痣の形態から、それがブーツの爪先によって作られたものだと分かった。

これはこの前の夜につけられたものではありえない。自分達が戦った連中は、爪先の丸まった工事現場用の安全靴などを履いているものはいなかったのだから。ということは、この仕業はそれ以外のだれか、それとも何か、だ。

ドクターは手のひらを注意深くザンダーの両脇に走らせ、ちょっと押したり、逆に引っ張ったりしていた。

「そうですね、レントゲンを撮ってみないと確かなことはいえませんが、でも骨は折れていないようです。ただの打撲とヒビ程度ですね。でも一応は包帯を巻いておいたほうがいいでしょう」

スパイクはただ頷いた。今見た光景にすっかり動転していた。

「消毒する前に傷を綺麗にしておきたいんで、ボールに水を一杯と濡れ布巾をお願いできますか」

医者はこの言葉が自分の口から転がり落ちてしまったことに自分で仰天した。彼が、ただの人間が、こんな雑役をヴァンパイア・マスターに申し付けてしまうとは。

だが彼が一番驚いたのは、スパイクがさっと立ち上がり、きびすを返すやたちまち彼の要求通りのものをそろえに行ったことだった。水音がし、浴室で何かを引っ掻き回すような物音がして、ヴァンパイアは戻ってきた。ボールに入った水を零さないようにしている顔に、我ながら面白がっているような笑みが浮かんでいる。

礼を言ってドクターはヴァンパイアからそれらを受け取った。タオルを水に浸し、そして彼はびっくりした。このヴァンパイアは、水ではなく、適度にぬるめたお湯を持ってきてくれたのだ。こんなに細かい気配りするヴァンパイアに会ったことなど、彼は初めてだった。彼は丁寧に傷を拭き清めた。

それから彼はペンライトを取り出し、ザンダーの瞳孔をチェックして、ちゃんと反応があることを確認して安堵した。血色も次第に良くなってきたところで、医者はこれで吸血鬼に殺される理由は一まずなくなったと安心する。

差し迫った死の危険から解放された医者は、それでやっと患者の健康の方に注意を向けた。

明らかにこの少年は何者かに襲われ、ナイフによる攻撃を受けたものらしい。彼はこれがヴァンパイアの仕業とは思わなかった。ヴァンパイアは彼らの獲物を生かしておくために輸血道具を使うことはあるが、それには大抵時間を掛けたし、準備も入念だった。それに一方ではマスターから発散される怒りと緊迫感の波動が、何者かがこの少年を襲撃したのだということを語っていた。

しかしこんな考えは心から追い出してしまったほうが、ずっとずっと長生きできるに違いないと思った彼は、傷口の消毒と人間の少年の顔から血をきれいに拭いとるのに集中することにした。彼はスパイクの目が、彼の一挙手一投足にずっと張り付いているのを意識していたのである。

顔を上げ、彼はスパイクと目を合わせた。 それから勇を越してスパイクの顔を覗き込んだ。黄色い目の中にある何かの色がドクターの心を捉え、彼は思わずスパイクの腕に暖かい腕を置いていた。

「大丈夫、順調に回復していますよ。心配ありません。後遺症も全く残らないでしょう」

自分に触れるなどという人間の大胆な無礼さに、初めはただ彼は医者を見詰め返した。だがその言葉を聞くと、怒りは直ぐに消えた。彼は頷いた。決して医者の行動から注意をそらすことはなかったが。

医者はベッドから離れると自分の往診鞄から包帯を取り出した。それから患者の傍に座って仕事に取り掛かる。彼は静かに、確実な手つきで作業に没入した。こういう考えないですむ仕事のほうが、緊張にはりつめた心を宥める役に立った。手早くザンダーに包帯をし、輸血バッグをまた取り替え、スパイクに味見させ、同意を得てからセットする。医者はザンダーの脈と血圧をチェックして安堵した。吸血鬼はその間ずっと医者の全ての動作を見守っていた。

「見落としていることがないかどうか確認するためにも、彼のズボンを脱がさせていただきたいのですが」

彼はこのヴァンパイアと人間との関係については何の確信もなかったが、しかしもしこの少年がマスターのトーイ(所有物)なら、彼が何も言わずにズボンを脱がせた瞬間、彼の人生はそこでお終いになるということだけは絶対確実だった。

「構わないぜ。だが俺は手伝わないからな」

スパイクは身を返し、戸口に向かった。煙草を吸いたかったのと、医者の邪魔をしたくなかったのである。だが一方で、彼はふいに、それ以上ザンダーの傷が暴かれるのを見たくなくなったのである。

ここまでのことだけでも自分に知られたと知ったら、きっとザンダーは屈辱を感じるだろう。

彼はシガレットに火を点け、夜の闇をじっと見つめた。

医者は少年のズボンとトランクスを引き降ろした。肋骨にあった痣はそのまま太ももまで続いていたが、しかしそれほど数は多くはなく、また酷くもなかった。そっとザンダーの身体を横向きにさせて、彼はザンダーのかかとから腿の裏側をたどり、そして臀部を診た。医者の目がぎょっとしたように見開かれた。レイプの痕だ。

心臓が早鐘のようにうち、彼はさっと戸口に立って考えに沈んでいる吸血鬼の方を見た。いくつかの理由から、彼にはこれはヴァンパイアの仕業ではないという確信があった。だがそれなら誰がやったのかと考えても、皆目見当がつかない。

彼は吸血鬼がそのまま戸口に居て、彼の心臓の突然の高まりを無視してくれるように祈った。確かに自分は医者として、マスターにこの事実を告げるべきである。だがもしそうしたら、自分の人生はここでおしまい、ということになるだろう。それだけはごめんだった。彼がこれまでスパイクに関して得てきた極悪非道な噂が次々に彼の心に浮かんだ。その中で一つ絶対に確実なのは、スパイクは決して"自分のもの"を他人とシェアするはずがないということだった。

もしこの人間が"彼のもの"なら。そしてもし誰かがこの少年に手を出した、ということなら。それが意味するのは、このことに関わった者はだれかれ構わず皆殺しになるということだ。

医者は身をかがめ、血は出ていないこと、レイプによる外傷がないことを確認して、すばやく心を決めた。黙っていよう。ヴァンパイアが自分で事実を発見するに任せればいいのだ。

彼は死にたくなどなかった。身を固くし、彼はちらりと視線を庭に向かって立っているヴァンパイアに視線を送った。吸血鬼はちょうど煙草の吸殻を芝生に投げ捨てるところだった。気づかれていない。大丈夫だ。彼は大急ぎでザンダーのパンツとズボンを引き上げ、元通りにした。

ちょっと背筋をのばし、肩の凝りを解す。それからまたかがみこんで、詳しくナイフの傷をチェックしていった。心配があるのは左腕の一番大きなものだけだった。彼は立ち上がると、戸口に佇むスパイクのもとへ行った。

「ここを出る前に彼の腕に包帯をしていきますが、左腕は絶対に縫わねばダメです。私がここでやってもいいのですが、そうしたら残念ですが傷は残ってしまいます。ですので、もしよろしければ上手い整形外科医を紹介しますが。明日か明後日までにそこに行けば、完全には消えないまでも、ほとんど目立たないようにはできる可能性があります」

スパイクはちらっと視線を送ると、

「明日連れて行く。こっちの要望に沿えるなら、その野郎が誰だろうとかまわん」

ザンダーが恐ろしく嫌がるだろうと判ってはいたが、しかしザンダーが、生涯言い逃れしようのない傷跡を残さずにすむのであれば、スパイクはどんな機会でもとらえて離さないつもりだった。

「いえ、男性ではなくて、女性なんです。でも彼女はこういう縫合は上手い人ですから、きっとご要望どおりにしてくれると思います」

「感染症の心配は?」

スパイクは突然このことに思い当たって身を震わせた。これまでザンダーが細菌に感染せずに済んでいたのは単なる幸運にすぎないではないか。

「それに関しては、申しましたように、抗生物質の入った塗り薬を置いていきますので」

スパイクは頷き、部屋に戻るとベッドの傍に立った。横たわる身体に、技術者がものを精査するときに見せるような視線を落とす。

ウィリーへの評価を改めねばなるまい。この男は優秀だった。

IVから最後の一滴が落ちた。スパイクは医者が座ってザンダーの血圧を再測定する間に輸血バッグを片付けた。血圧はほぼ正常値に戻り、脈拍も呼吸も安定していた。肌の色もよくなり、皮膚はほのかに温かくなっている。振りかえって、彼は次のバッグの味見をしようとするスパイクを引きとめた。

「もう大丈夫ですよ」

とたんにヴァンパイアの顔中に溢れた安堵の色に、医者は腰が抜けるほど驚いた。あわてて取り繕って、というのもマスターは絶対にそんな顔を自分がして見せたとは認めようとはしないだろうと判っていたので、医者はザンダーの上に包帯をせっせと巻き始めた。

とにかく彼が望むのは、一刻も早くこの場からできるだけ遠くへ逃げ去って、今夜のことを全て悪夢の一つとして記憶の彼方に押しやってしまうことだけだ。

「これが抗生物質です。かならず使うよう彼に伝えてください。それから、これは余分の包帯と、抗生物質と、処方箋です。絶対にこの処方箋通りにするように念を押してくださいね。感染症を避けるための、非常に重要なことが書いてありますから」

スパイクは差し出されたものを受け取ると、テーブルに置いた。医者は次に財布から一枚の名刺を取り出し、それを恭しく差し出した。

「こちらがドクター・スティーブンの電話番号です。先程も申しました整形外科医ですが、電話するときは、"ウィリーに紹介された"と言うようにしてください。それで通じますから」

スパイクはカードを受け取って頷いた。医者は彼の荷物を取りまとめ、点滴台も分解していった。あっという間に室内の医療器具は綺麗に片付けられ、スパイクも車に運び込むのを手伝う。ドライバーズ・シートのドアの脇に立ち、医者はもういちど勇気を奮い起こして、彼の手を吸血鬼の腕に重ねた。

「ご心配なく、彼は良くなりますよ。あなたの助けが間に合ったおかげで、どこにも後遺症の残る心配はありません。もしかして脳機能障害などがあるのではと心配されているかも知れませんが、まったくそのような懼れもありません」

脳機能障害、という言葉に、スパイクの頭がいきなり跳ね上がった。彼はそんな可能性については今までこれっぽちも考えもしなかったのである。彼はザンダーの声が、ユーモアが、デーモンと戦う時に現れる軽口が、失われかけていたのだと悟って身を凍りつかせた。魂のない身体だけのザンダー。それを想像して、スパイクの身体に戦慄が走った。

それからやっと彼は医者がまだ何か喋っていることに気がついた。

「残り二つの輸血バッグはあなたのために残してきました。その、全く同じではないのは判っていますが、今夜あなたがここにお泊りになるつもりなら、それが必要になると思いましたので」

スパイクはちょっと頷いただけだった。それからやっとの思いで彼は医者の目をちゃんと見て、言った。

「何と礼を言うべきか、言葉もない」

驚愕するのは今度は医者の番だった。彼は生かしておいて貰えるだけで大感謝だったのに、それどころか、”礼”だって!

「とんでもない、とんでもないです、マスター・スパイク! 私はあなたのしもべです。あなた様のために何かさせていただけるなんて、私の名誉なんですよ!」

どもらないようにするだけで精一杯だった。

ゆがんだ笑みがスパイクの唇を横切った。彼の今の状況は、彼が思ったほど他人にばれているわけではないらしい。さもなければこの人間はかなり頭が回る奴なのかもしれなかった。つまり、将来スパイクがもとの"栄光ある地位"に復活した場合のことまで計算して、せっせと未来のために貯金をしている、というわけだ。

「汝ノ行為ハ末永ク記憶サレルデアロウ。汝ト汝ノ子孫トハ、我ト我ガ一族ニヨリ、永遠ノ平安ヲ約束サレタ」

いにしえより伝わる誓約の言葉に、医者の顔がぱっと紅潮した。だが車に乗り込もうとした瞬間、彼の腕をスパイクが掴んだ。

「いいか、一つだけ言っておく。お前は何も見ていないし、何も聞いていない。あの少年がこの世に存在していることも知らない。いいな?」

吸血鬼の声に含まれた威嚇は完全に彼の鋼鉄じみた声の響きにマッチしていた。

言葉もなく医者はがくがくと頷き、一目散に闇の中へ走り去った。  

    * * *

吸い口まで煙草の火があがってきて彼の指を焦がし、スパイクははっともの思いからさめた。

医者が去り際にのこした脳障害という言葉が彼の心の中心でくすぶっていた。

彼は"生きているザンダー"と"死んだザンダー"はについて考えたことはあっても、その中間にまだ"オプション"があるなどとは夢想だにしたことはなかった。そんなザンダーがありえるなどと、ほんのちょっとでも想像することなどできなかった。耐えられなかった。

彼は洗濯機の上から飛び降りるとベッドの傍にいき、膝まづいた。ザンダーの顔をじっと眺め、ザンダーの呼吸と鼓動に耳を済ませた。そうすることで彼はなんとか手が震えるのを止め、心を落ち着かせようとしたのだった。

「ペット、もう二度とこんなことをしでかすな。俺が許さん。こんなことはもう二度とできないようにしてやる」

言葉の厳しさとは裏腹に、その声は震えていた。スパイクはベッドの足元に座ると、眠っている少年の上に視線を固定した。夜明けが迫っていた。スパイクはザンダーの目が開かれるのを見るまでは、声を聞くまでは、脳に何も障害がないのを確認するまでは、眠らないつもりだった。彼は少し身じろいで、腰を落ち着けた。彼の片手が上掛の上を這い、ザンダーの足の上にそっと置かれたのを、彼自身が気づかなかった。

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