Waiting Here -Part Twelve-
セックス・ピストルズを口ずさみながら、スパイクは急ぎ足で歩いていた。コーヒーを買って、夜食用に中華の惣菜を買って、チョコレートを買って、そして今は家に向かっているところだ。
ザンダーは勉強していた。より向上しようと取り組んでいた。これまで彼に与えられたレッテルが間違っていることを証明しようとしていた。
日ごとに変っていくザンダーは素晴らしい。彼はぐんぐん成長し、強く、逞しい青年になりつつあった。スパイクがずっとそうだと思ってきた、本来のザンダーに近づきつつあったのである。それは一種の魔法を見るようだった───樹木がみるみる伸びていくのを見るような、それとも山脈が立ち上がっていくのを見るような。毎日がいつもどこかしら新しく生まれ変わって伸びていく。それを見る喜び。この世にこんな幸福が存在していたなんて。
家の方角に小道を折れた時、突然彼の目に飛び込んできたのは光だった。赤と青の点滅するライト、交わされる緊迫した叫び声、パトカーが2台…いや3台に、救急車が2台。
ブレーキをガンと踏み込んで、彼はドアから転がるように飛び出した。
「ザンダー?」
しぼられたような喉からその名前だけが転がり落ちた。
「ザンダー!」
道路を塞ぐように停車しているパトカーのそばを走り抜けようとした時、彼の肩を太い腕ががっしりと掴んだ。
「サー!サー、申し訳ありませんが、ここは立ち入り禁止です」
その言葉が意味をなすまでに時間がかかった。投げ飛ばそうと力を篭めた瞬間、激痛にまたもや襲われ、彼は男から跳びさがった。─ ──こんな時まで!
「わかった、だがザンダーは…なにがあったんだ?あいつはどこだ?」
振り切れそうな神経を必死で抑えながら彼は自分を掴んでいる警官の顔を見、そして、
「ザン…」
スローモーションのように、彼は振り返った。血の匂い。
腕をもぎ離すと、彼は邪魔なパトカーのボンネットを乗り越え、ちょうど建物から出てくるストレッチャーに向かって気が触れたようになって走った。だが寸前でまたもや彼は捕まった。
「サー!申し訳ありません。ですが立ち入り禁止なんです。中に入らないでください。犯行現場ですので…」
その声の方を、彼はぐるりと振り返った。目が黄色い光を発して輝いている。若い警官の顔が恐怖に強張るのを見たが、彼にはどうでもよかった。
「サー、どうか、どうか落ち着いてください。だいいちどちらさまで?」
「ウィリアムだ。ザンダーの友人だ」
狂気が頂点に達しながらもスパイクはなんとかそれだけの言葉をひねり出した。それから警官の顔に困惑を読み取る。
「いや、恋人だ。俺はあいつのパートナーだ。何があったんだ?」
自分はそんなに長い間家を空けていたわけではない。一体何があったのか。
「サー。ザンダーさんは襲われたんです」
とつぜん背後から、静かな声が答えた。スパイクは頭が殴られたような衝撃に振り返った。落ち着いた、穏やかな視線がぶつかった。
「ザンダーさんは暴行を受け、それからナイフで…」
その言葉が頭の中できちんと意味をなすや、唸り声を上げたスパイクはこんどこそ自由になろうともがき始めた。
「サー、落ち着かれてください!今は病院に向かっているところです。ザンダーさんが警報ボタンを押してくださったおかげで、我々が駆けつけるまで5分と経過していませんでした。犯人も撃たれ、現在ザンダーさんと同じく病院に搬送中です。もしよろしければ病院にお送りしますから、どうぞ落ち着いてください」
穏やかな、人間味を感じさせる理性的な声は、怒りにくらんだ彼の真っ赤な精神の雲の隙間を縫って届き、スパイクの反抗は急におさまった。そのかわり彼の心を締め付けたのは、一つの紛れもない事実だった。
襲われた。自分のいない間に。自分は約束を守らなかった。もう二度とザンダーには何者も手を触れさせはしないと誓ったのに。
なのに俺は。
膝を抜かれたようだった。彼はとつぜん地面にくず折れた。
励ますように、あたたかい腕がしっかりと背中を包むように回された。
「サー…」
「名前はウィリアムだそうです」
彼は背後で耳打ちされる声をかすかに聞いた。
「───ウィリアムさん。彼はまだ生きています。病院に向かっているところです。きっとあなたも向かわれるおつもりかと思いますが、よろしければご一緒に行きませんか」
彼は何とかイエスの意味をこめて頷くと、PCに腕を引かれて連れて行かれるのを感じた。
夜の静寂を切り裂くサイレンは悲鳴を上げているかのようだ。彼は目を閉じた。
ザンダー。ザンダー。血の匂い。
刺された。死にかけている。
「襲われたと言ったな」
やがて、ひくく、彼は尋ねた。
「はい。アパートに侵入した犯人とザンダーさんが争った形跡がありました。それで刺されたようです」
スパイクは小さくうめいた。刺された。血を流して。
死にかけていた。一人で。たった一人で。
スパイクは身を震わせ始めた。
「犯人を撃ったと言ったな」
「はい。」
短い答えが返った。
スパイクは自分の奮える両手を見下ろした。パトカーは凄いスピードで飛ばしている。
《少なくとも運転の仕方は心得てるらしいな》
「ということはあんたたちが駆けつけた時にはまだ犯人はそこに居たんだな」
とっくの昔に無くなったはずの心臓が破れそうに思った。
刺された。血を流して。
死にかけていた。たった一人で。
「ウィリアムさん、」
彼は警官の顔を見上げ、そして初めて後部座席の自分の隣に座っているその警官が女だったのだということに気がついた。
「ウィリアムさん、つらいお気持ちはお察しします。ですがよく聞いてください。ザンダーさんは警報装置の緊急コールボタンを押してくれたのです。私たちは五分以内に到着しています。その時にはザンダーさんはすでに刺され、床に倒れていらっしゃいました」
女性警官は手を伸ばすと、そっとスパイクの固く握り締められた拳骨に彼女の手を重ねた。
「ウィリアムさん、お気を確かに。でないとザンダーさんのためになりません」
「その野郎はまだ生きているのか」
歯の隙間からスパイクは囁くように尋ねた。黄色い光が彼の目に浮かび上がり、彼は祈っていた。
神だろうと悪魔だろうと構わない。ただ奴を生かしておいて貰いたい───自分の手で殺してやるために。
「はい、今のところは。犯人も病院へ運ばれています」
スパイクは頷いた。
車が病院へ滑り込むと、スパイクは完全に停車する前にもどかしくドアを開けて地面に降り立った。ザンダーの血の匂いがERには十万していた。背後の制止する叫び声を、彼は一切無視した。
刺された。血を流して。
死にかけている。一人で。
俺は守らなければならなかったのに。
今度もまた彼は引きずり戻された。今度は3人がかりである。
「サー、治療中ですから入らないでください。サー、だめです、サー!」
スパイクは腕をもぎ放そうとめちゃくちゃにもがいた。そのとたん、身体を貫いた激痛に膝をついた。畜生…!彼は怒りと苦痛でほとんど咆哮した。
頬に温かい手が触れた。
「ウィリアム、」
またあの女の警官だった。
「ウィリアム、先生方がいらっしゃいますから、必ず彼を助けてくれます。気持ちは判るけれど、あなたがいても治療の邪魔になるだけなのよ」
彼女はスパイクを壁際にほとんど引きずるように連れて行き、粗末な椅子に無理に座らせた。確かにそのとおりだった。ヴァンパイアの自分には、ザンダーを助ける力はないのだ。
縋るように耳を研ぎ澄まし、彼はドアを見つめていた。ザンダーの心臓の音が聞こえる。まだ聞こえる。
それ以外の全ての音をシャットアウトして、彼はその音だけを追いつづけた。ひどく遅く、ひどく微かな───だがまた鼓動を打っている。
彼はまた彼女が喋り始めたのに気がついた。
「それで、こんな時に申し訳ないのですが…」
「何だ」
スパイクは治療室のドアから一瞬たりとも目を離さずに呟いた。
「いくつかお聞きしたいことがあるんです」
まるで手負いの獣を宥めるみたいに、彼女は低い、落ち着いた声で云った。
「聞けよ」
スパイクは答えた。だが彼は恋人の鼓動だけを聞いていた。
「事件時、あなたはどこにおいでで…」
殺意に光る瞳に睨みつけられ、彼女は口をつぐんだ。
「貴様は俺がこんなことに関係があると思ってるのか?あいつは俺の友達なんだぞ、兄弟なんだ!いいか、あいつが死んだら、そのときは俺も死ぬんだ!」
スパイクは喚いた。目の眩むような怒りが彼の内部に湧き上がり、彼は何もかもぶち壊して暴れまわりたかった。だがそうしなかった。警官にここから連れ出されたら、ザンダーのそばにいられなくなってしまう。その一点だけが彼を狂気から守ったものだった。
「いえ、そういう意味ではありません。単に状況を知りたいだけなんです」
彼女は落ち着いて見つめ返した。スパイクが怒りを必死で抑えてやっと小さくうなずくのを確認し、彼女は続けた。
「今夜は何をされていたか、仰ってくださいますか」
「家にいた。ザンダーは明日でかい試験があるんで、勉強していたんだ。コーヒーが切れたんで買いに行ってくれと頼まれて、それで俺はそうした。それから中華料理と、チョコレートもついでに買って…」
スパイクの声が途切れた。
自分は置き去りにしてしまった。あんなところに、ザンダーを見捨てていったまま。
俺のせいだ。
全ては俺のせいだ。
ヒーリー警察官はメモを見ながら頷いた。それから目を上げ、
「これまでに強盗などの被害にあったことがありますか?」
厳重な警報装置がなぜあんなアパートに取り付けられていたのかが、警察側がまず真っ先に抱いた疑問だった。
「ない」
まだ心音が聞こえる。まだ脈打っている。まだ生きている。ザンダーはまだ生きている。
「そうですか…。では、先程申しましたが、彼を襲った犯人はここにいます。お友達が少し安定されたら、その男が誰か確認に行ってもらえますか?」
彼女はウィリアムをこれ以上激昂させたくはなかったが、もう警察では犯人の財布を見つけていて、既にそれが誰だか知っていることは言わなかった。
スパイクは頷いた。
「何か飲み物でも?」
彼は首を振った。 容態を聞くまでは、この場から動く気はない。肩に手がそっと置かれるのを感じ、彼は視線を上げた。優しい緑色の瞳が自分を見つめていた。
「だれか状態を説明できる人を探してきましょう」
スパイクは頷き、また意識をザンダーの鼓動に戻して目を閉じる。手が震えていた。
永遠とも思われるほどの時間が過ぎたころ、また肩に手が置かれた。親切な女警官と白衣をまとった医者が彼を見下ろしていた。
「ウィリアムさん、こちらザンダーさんの治療に当たっているDr.ヒュームです」
「先生。あいつを助けてくれ。頼む」
零れ出た声は震えていた。
「ウィリアムさん。ザンダーさんは、今は安定しています。とりあえず出血を止めるため、簡単な外科手術を行いましたが…」
外科手術、という言葉にスパイクののどがひゅっと鳴った。
「心臓のすぐ傍に深い裂傷があって───重傷です。動脈を縫合していますが、これまでのところでも出血は多量です。しかし処置は早かったですから。あとは、肋骨を数箇所骨折、それから頭を強く打ったようですので、正常に意識が回復されるかどうか、慎重に見守りませんと」
「それで?助かるのか?」
スパイクは必死の思いでその質問を押し出した。
「手術次第です」
スパイクは凝然とドクターを見つめた。
「今は安定していますし、出血も抑えることは出来ていますが、傷がどれくらい深いのかまだ判りませんので…」
医者はスパイクが手の中に頭を埋めてしまったのを見て、彼の隣に腰をおろした。
「驚かせるつもりはなかったんですが、ただ、真実をお伝えしたほうがいいかと思いまして…でも、これまでのところのデータはすべて良好ですから。出血も減ってきましたし───これは心臓が正常に動いている証拠です。大丈夫ですよ。」
スパイクは頷くばかりだった。声も出なかった。手術だと。奴らは俺のザンダーをメスで切り刻もうとしている。この落とし前は、かならず誰かに払わせてやる…!
そこに行き着いたとき、彼は頭を急に跳ね上げて、一睨みで女性警官を壁に磔にした。
「そのクソ野郎はどこだ」
怒りがとぐろを巻いて彼の脳内から溢れ始めていた。それがどんな苦痛を自分にもたらすかなど問題ではない。スパイクはそいつにたっぷりと返礼してやるつもりだった。
「縫合しているところです。銃弾は肩を綺麗に打ち抜いたので」
スパイクはずいと立ち上がった。
「そいつに会いたい」
頷き、ヒーリー捜査官は彼をホールに導き、ドアをあける前に一歩立ち止まった。
「よろしいですか、ただ彼が誰だか確認するだけですよ。それ以上はだめです。あなたのお気持はわかりますが、一切彼に手を出してはいけません」
スパイクの目が糸のように細められたが、彼は一度だけ頷いた。確かにこの場で自分が逮捕されてもザンダーのためにはならない。
理解が得られたことに満足して、彼女は病室のドアをあけた。スパイクは部屋に入った。黒いコートが闇を孕んで翻った。
いた。ベッドに手錠で繋がれている。
一目見るや、彼はきびすを返し、ドアを突き開けるようにして出て行った。ヒーリーは急いで後を追う。
「犯人をご存知ですか?」
「クソったれなあいつの親父だ。あんたはザンダーがレイプもされてたということも俺に聞かせるつもりか?」
言葉が叩きつけられた。
ヒーリー捜査官はまじまじと彼を見つめた。ザンダーがレイプされていた───だが彼女はそれについて触れるつもりはなかったのだ。そうするにはウィリアムはあまりにも混乱しているように思えたから。
「…どうしてそれを?」
彼女は苦労しながら、なんとかそれだけを尋ねた。
「あのろくでなしは、ザンダーが11の時からそれをやってんだよ」
彼女は目を見張った。こんな話は聞いたことがなかったし───そしてウィリアムの喋り方は、まるで動物の唸り声のように聞こえた。獲物を前にした猛獣が発するような。
あの男は殺されるにちがいない。彼女は思った。そしてさらにいえば、それを止めるべきだとも思わなかったのだった。
彼女は第一陣の警官隊がアパートに突入した時にその場にいたメンバーの一人だった。床に流れた血を発見し、そしてあの音を───肉と肉とがぶつかり合う音を───聞いた人間だった。致命傷を与えないよう、わざと頭を外して撃った警官が、二人のサイフから取り出した運転免許証の名前を見比べ、そして深く震撼したのを、彼女はその場で見たのだ。
刑務所の中でザンダーの父親は、一思いに射殺されたほうがマシだったと思えるような目にあうことになるだろう。
スパイクは廊下を行ったり来たりしていた。100万回目にもなるほど脳に埋め込まれたチップを呪いながら。
看護婦が恐る恐る近づいてきた。髪を振り乱した金髪男が放射能のような怒りのオーラを全身から湯気のように放射しているのだから無理もない。
「ウィリアムさんですか?」
彼は足を止めた。
「なんだ」
看護婦は顔に恐怖を貼り付けて、びくびくと彼を見た。
「Dr.ヒュームが…待合室へおいでいただきたと。そこのほうがお待ちいただくのによろしいのではと…」
スパイクは無言で看護婦に従った。ヒーリー警察官も後に続く。
「ウィリアムさん。どなたかこのことを知らせたい人はいませんか」
もちろん少年の両親は除いてだが。
スパイクは立ち止まり、そして振り返った。
「いる。」
彼は大きく息を吸って、続けた。
「友人だ」
差し出された携帯電話を見て、彼はありがたく受け取った。記憶にある番号を叩く。
「はい」
眠たげな答えが返った。
『バフィー』
「スパイク!」
バフィーは水を浴びせられたかのように跳ね起きた。スパイクは、何か極めて良くないことが起きたときしか電話など掛けてこない。彼女は時計を見た。1:23A.M。
「スパイク、どうしたの?」
『ザンダーが…あいつが怪我をした。今病院だ』
バフィーはスパイクの声にひりつくような恐怖が潜んでいるのを聞き取った。
『刺された。医者は手術をするといってる。場所は心臓だと』
バフィーはひゅっと息を飲んだ。
『みなに連絡を。緊急だ』
「みんなを集めてすぐ行くわ。スパイク、ハニー、大丈夫、助かるわよ」
答えはなかった。ただ呼び出し音だけが彼女の耳に届いた。
ウィロウはスパイクを心配そうに見た。バフィーは全員に電話をかけたが、その時に喋ったのはザンダーが怪我をして病院にいるということだけだった。ウィロウとタラはバフィーと大学の寮で待ち合わせ、ジャイルズとアンヤはじかに病院の入り口で待ち合わせた。するとそこには警官がいて、驚く彼らをそのままスパイクのいる待合室へ案内したのである。
スパイクはじっと前を見詰めて動かなかった。彼らがついても身じろぎもせず、皆が揃ったことにも気付かないように見えた。だがバフィーが彼の隣に座って何があったのかと尋ねた時、彼は平坦な、無感情な声で答えた。
ザンダーは勉強していた。自分は外出した。そしてザンダーは襲われ、刺された。今は手術を受けている。
彼が口にしたのはこれで全部だった。彼らのためだけに用意された待合室は、手術室からそう遠くないところにあった。
三時間たった。 まだ何の知らせもなかった。スパイクはこの間ずっと身動きせず、ドアをじっと見つめて座ってるだけだった───その向こうに手術室があると教えられたドアを。
三時間、彼はほとんど瞬きもしなかった。
とつぜん、スパイクが飛び立ってドアに突進したのでバフィーらは仰天した。とほぼ同時にドアが開き、背が高い黒髪の男が入ってきたのだった。手に持ったカルテから視線を上げ、医者は「ウィリアムさん…」と穏やかな声で呼びかけた。
スパイクは飛びつくように駆け寄った。その男からはザンダーの匂いがした。そして医者と視線が合ったとき、彼はまったく驚いた。なんとこいつは数ヶ月前のあの夜に、ザンダーを治療した医者ではないか。医者のほうも驚愕している。
「マスター、これは一体…おお、マスター、彼は大丈夫です。どうかご心配なさらず、すぐに良くなります、全く心配要りませんよ!」
スパイクは石のように黙ってじっと男を穴の開くほど見つめるばかりである。
「マスター・スパイク、どうぞ…お座りください、ご説明申し上げますから」
それからDr. O'lourke はようやく他の人間の存在に気がついた。見回し、ぎょっと身を強張らせる。
《スレイヤーがなんでヴァンパイアと一緒に…?!》
わけがわからない。だが頭を振って、彼はそっとスパイクを椅子に座らせた。
「マスター、彼の命には別状はありません。手術は成功しました」
スパイクは目を閉じた。盲目的にその言葉を繰り返した。
「成功した…」
「ええ。ナイフは心膜、つまり心臓を覆うように包んでいる嚢膜ですが、をかすったものの、心臓本体は外れていたので、出血を止めるのに縫合するだけで済みました。」
オローク医師は自分の隣に座っているヴァンパイアの体から、ほっと緊張が解けて流れていくのを感じた。
「肋骨も数箇所骨折していますが、治療は難しくありません。脳震盪を起こしていたのと小さな怪我もありますが、あと2、3時間もすれば麻酔が切れて意識が戻るでしょう。大丈夫、後遺症もなく治りますよ。しばらくの間はかなりの痛みがあるでしょうけれどもね。」
まるで波のように感謝の思いが湧き上がって、スパイクは男を見た。二度もこの人間はザンダーを救ってくれたのだ。
「ドクター。なんといってあなたに感謝していいかわからない」
我ながら声が震えていたがスパイクは言った。
「あいつは俺の兄弟───俺の全てなんだ」
涙が頬を滑り落ち、彼は声を詰まらせた。
「全てなんだ。本当に、あいつはよくなるんだな?」
オローク医師は力強く頷いた。
「ええ。一週間ほどは入院していただくことになりますが。胸部を切開したので…」
彼はスパイクが身を固くするのを感じて、
「ですから痛みはかなり酷いでしょう。けれどご心配なく、痛みを緩和するためにあらゆる手段をとるとお約束しますよ。その後は自力で立てるようになるまでには数ヶ月かかるでしょうが、そこまでいけば大丈夫です。全くの健康体になりますよ。それと、7階には窓のない個室の部屋がありますから、彼をそこに入院させるように手続きしましょう。それなら貴方もずっと彼の傍についていてあげることができますから」
「ありがとう」
涙が溢れつづけていたが、彼はそんんことは構っていなかった───構っていることなど出来なかった。ザンダーは死なない。ザンダーは元気になる。それだけが重要なことだった。医者が立ち上がるのにつれ、彼も椅子を立った。
「ありがとう」
オロークはまるでヴァンパイアを労わるように、そっと小さく頷いた。
「もしよろしければ集中治療室へお連れしましょうか。普通は立ち入り禁止ですが、ちょっとの間だけ、みなに席を外してもらうようにしてさしあげましょう。ただ沢山ある装置のたぐいに驚かないで下さい、みなザンダーさんをモニターするための機械で、そう大仰なものではありませんからね」
スパイクは頷き、医師についていった。少女達もすぐあとに従う。
廊下を抜けて、広い部屋に入った。ザンダーの寝ているベッドだけがあった。スパイクはほとんど文字通り走りよって、食いしばった歯の隙間からかすれ声を漏らした。一体何本のチューブがザンダーの体から生えているのか。
手を伸ばし、彼はザンダーの手を包みこんだ。
「ザンダー。悪かった。すまなかった。お前を愛してる。だから頼む、良くなってくれ。俺が悪かった」
みな一歩下がって、ただ懇願を繰り返す彼の背中と眠るザンダーを見守っていた。
「ザンダー。愛している。早く目を覚ませ?お前の目を見せてくれ。頼む」
啜り泣きが混じった。
「頼む、許してくれ。悪かった。本当に俺が悪かった」
まだスパイクを完全には信用していなかった人間も、この絶望と苦痛にみちた声にはその疑いを説かざるを得なかったであろう。
スパイクはザンダーの首元についている薄い傷跡に指を滑らせた。
「俺のものだ。お前は俺のものだ。今日お前の流した血を、俺は奴に必ず償わせてやる。必ずだ。」
「マスター…」
声は聞こえたが、スパイクは無視した。
ザンダー。ザンダーが生きている。呼吸している。心臓がちゃんと打っている。
「マスター、もう上の部屋へ移しませんと。よろしければご一緒にどうぞ」
彼は頷いた。ザンダーから離れるなんてありえない。二度とだ。
スパイクは看護士がベッドを押していく間もずっとザンダーの手を握っていた。エレベーターに乗り込み、七階まで上がる。看護士はそれから長い廊下の一番奥にある続き部屋まで先導していった。モニタ装置をとりつける間うしろにさがるように言われたときにまでスパイクは抗った。なんとか納得させ、スパイクは一瞬だけ恋人の手を離したが、だがまたすぐに手を取り戻した。
ジャイルズが後ろでごそごそ動いて、なにかを引きずってきた。肩に手が置かれて、運ばれてきた椅子に座るように示される。だが彼の手は一度もザンダーの手から離れなかったし、目は一度もザンダーの上から離れることはなかった。
彼はベッドの周りを人々が取り囲んで、色々喋っているのを知ってはいたが、だがそれもみなどうでも良かった。どうでもよかった。
ザンダーが生きている。それ以外のことは、どうでもよかった。
彼の胸は焼け付くように燃えていた。喉も、目も、それに髪まで燃えていた。
ザンダーはゆっくりと意識が戻ってくるにつれ、ビー、ビー、という聞きなれない音が耳に滑り込んできて、それから全身が苦痛に悲鳴を上げはじめた。
徐々に記憶が戻ってくる。自分は刺されたのだ。だがその後のことは全く覚えていない。
何か冷たいものが触れる感触に、彼はそろそろと目を開いた。
初めに見えたのはスパイクの顔だった。白い肌にいくつもの赤い涙の筋がついている。
スパイクの目が、不安と、苦痛と、嘆きと、それからかすかな怒りを湛えて彼の目を覗き込んでいた。自分の手をスパイクが握っているのを感じ、彼は精一杯の力で握り返した。
「愛してる…」
なんとか搾り出したしわがれ声で、彼は言った。
「しー…喋るんじゃない。俺も愛してる。すまなかった」
それはスパイクのものとは思えないほど悲痛な声だった。
「君のせいじゃない…」
その先を続けたかったけれど、口の中がからからで、できなかった。すると氷の破片が唇の間に差し入れられた。
「ほら、これを。少しはましだろう。ここは病院だ。手術したんだ。でもお前はすぐによくなるからな」
スパイクの声は細く震えていた。
「みんな来てくれてる。ここにいる。心配要らない、すぐ元気になる。さあ眠るんだ」
ザンダーを眠らせたくはなかった。だがスパイクにはザンダーのがっくりとやつれた顔色を無視することは出来なかったのだった。
「俺はいつでもここにいる。心配するな」
冷たい手がザンダーの髪をそっと撫でた。
「二度とお前を一人にはしない。愛してる。だが今は休んでくれ」
「スパイク…愛してるよ」
かさかさの自分の唇の上に、優しい冷たい唇が押し当てられるのを感じた。
「眠れ。目が覚めたら話そう」
ザンダーは頷いた。とても疲れていた。目を閉じると、彼は闇に引き込まれるように眠りに落ち込んでいった。
スパイクはただじっと、痣と包帯に覆われた少年を見下ろしていた。
「誓って、奴の心臓をお前に食わせてやる。俺の命を引き換えにしてもだ」
彼は唇をザンダーの唇に押し当てると、それから椅子を引いてザンダーの頭の隣に自分の頭を乗せた。
とても疲れていた。やっとザンダーの目を見られて、声を聞けた。だからやっと眠れる。
彼はスイッチが切れるように眠ってしまった。だから誰かの優しい手が自分に毛布をそっと掛けてくれたのも気付かなかったし、自分の額に誰かのキスがそっと落とされるのも感じなかった。
バフィーは一歩さがると二人を見下ろした。ウィロウが彼女の隣に立っている。
「スパイクは本当にザンを愛してるのね」
「そうね」
「わたしもいつか、こんな風に愛されたいわ」
バフィーはぽつんと言った。
「きっとそんな人、たくさん現れるわよ」
バフィーはただ頷いただけだった。
「警官はどこ?誰がやったのか突き止めなくちゃいけないわ。」
部屋から足早に出て行くバフィーの後を、みなは追った。
「バフィー、しかし、どうして警官に?」
ジャイルズはバフィーの思考についていこうとしながら呼びかけた。
「だって、犯人は人間に決まってるじゃない。さもなければスパイクがとっくの昔にそいつをミンチにしてるはずよ」
隠微な笑みが彼女の顔に浮かんだ。
「計画があるのよ。犯人を捕まえたら、スパイクにどんな風にそいつを拷問したいか言わせるの。同じことじゃないと判ってるけど、私が代わってやってあげるのが一番だと思うわ」
彼女は驚愕にひっくり返っているみなを後ろに、さっさと歩いていった。
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