Waiting Here 11-2
うろうろ行ったり来たりを繰り返すのは、今回ばかりはザンダーの番だった。
キチンのカウンタには酒のボトルがずらりと並び、テーブルにはポテトチップとプレッツェルが山をなし、レンタルしてきた映画はデッキにすでに収まり、音楽もあとはボタンを押すだけ。また、もしバフィーがスパイクを攻撃しようとした暁には、自分が止めにはいってもいいと恋人の吸血鬼に認めさせてもいた。それで今は約束の時間がくるのを待つだけという状況なのだが…。
みんな一緒になってくるはずだ。ジャイルズが運転手役を買って出てくれたから。ということは、少なくとも、みんながこれを知るのは同時ということだ。
彼はまたうろうろ歩き出した。
「ペット。目が回るんだが」
スパイクは腕組みして冷蔵庫にもたれている。外見では『冷静』という題のついた絵みたいに落ち着き払っているが、しかし実際は鎌首をもたげてとぐろを巻いている蛇のように準攻撃態勢に入っていた。スレイヤーがザンダーが考えている以上に最悪な行動を起こした場合にそなえ、彼は前もって、あらゆる可能な脱出口をチェックしておいたのである。
「だめだ…!僕にはとても耐えられない。いますぐ逃げよう。スパイク、君ブラジル好きだったよね。ブラジルに行こう。ずっとリオには行ってみたかったんだよ」
思わずスパイクは噴き出した。
「おいおい、これはそもそもお前のアイデアだぜ。とてもやれねえと今になって気が変ったのか?」
「うん。いやかわってない───くそっ」
「じゃあよ、ほっといて勝手に気がつかせることにしようぜ。俺たちがまさに床でやってるところを発見させる、とか」
《ふむ、我ながら悪くないアイデア》
「スパイク…。それ笑えない…」
《ふん、どうせ僕は気が弱い腰抜けだよ。ちえ。》
その時エレベーターのシャフトが上がってくる音がした。足音。それからゴンゴン、と玄関のドアを叩く音。
ザンダーはスパイクを振り返って、"love you(愛してる)"と口の形だけ動かし、そしてドアを開けた。
「われらがつましき屋敷へようこそ」
少女達は口々に、お招きありがとう!とさざめきながらなだれ込んできた。バフィーは最後だ。土壇場になったせいか、彼の心にはきゅうに誇らしい気持ちが湧いてきた。
「凄いじゃない!ワオ、これぜんぶあんたのものなの?あのジープ誰の?わあ、このカウチすてき!でっかーい」
さっそくがなりまくったのはアンヤだ。
「あら、スパイク。あなたも招かれてるとは知らなかったわ」
その声に、みんながいっせいに振り返った。スパイクがゆっくりと身を起こし、ザンダーの隣に寄って立つ。
《さあ、本番だ》
バフィーがザンダーに向き直った。その顔には明らかに不審と嫌悪が浮かんでいる。
「あなた、なんで彼まで招待したの?」
大きく息を吸うと、彼は手を伸ばしてスパイクの手を握り、彼女をまっすぐに見つめた。
「招待したんじゃない。僕らは一緒に暮らしてるんだ」
その瞬間、部屋は墓場のように静まり返った。全ての視線がいっせいに二人の繋いだ手に集中した。
しかし今度もまたアンヤが沈黙を破った。
「───ま、そろそろ云ってもいい時期だったわよね。ずっとご大層な秘密みたいにこそこそしてるから、こっちも気がつかないふりしてるの大変だったし」
彼女はぴょんとザンダーの前に飛び出ると、元彼氏のほっぺにキスをした。それからスパイクにも同じようにする。
あら、スパイクのこんな顔、もう一生おがめないかも。
「ほんとよね」
ウィロウもタラの手を取りながらにこりと笑って言った。
「ふたりとも、あんまり隠し事は得意じゃないみたいだし」
そんなに強く握り締めたらスパイクの手が折れちゃうわよ、とからかいながら、ウィロウもザンダーにキスをする。
タラはそういうことはせず、いつものようにもじもじしながら二人を見た。
「ね、ザンダー、スパイク。二人とも、先週わたしたちのパーティーに招いた時、インヴィテーション・カードの宛名が『ザンダーとスパイクへ』になっていたの、本当に気がつかなかったの?」
彫像のように固まっていた二人は、この時になってようやくぎくしゃくと顔を見合わせた。いいや。全く。全然。気がつかなかった。
「でも…どうして…だって…すごい気をつけてたのに───なんで?」
どもりまくるザンダーを見て、三人の少女たちはついに爆笑した。
「だって、ここ一ヶ月くらい、すんごい幸せそ〜な顔しながらルンルン歩いてるんだもの、判るわよ。まあスパイクはもっと酷かったけど。でもそうじゃなくても、彼はあなたのことを私がタラを見るような目でみてるから…」
「それにあんたたち、男でしょ。男って匂いがあるのよね。いなくなった後でも五分くらいは残ってるのよ」
アンヤはああヤダというように頭を振った。
「バカでも判るわよ。で、これは単なる提案なんですけど、あたくしたちはただの人間なんで、まあ"ただの"っていうのはちょっとあれだけど、ともかく。人間だからって、鼻がないわけじゃないのよ。───というわけで、部屋を出る直前にオルガスムに達するのはやめていただけないかしら。」
腕組みし、眉をきりりとあげて彼女は"提案"した。全く、「男」ってやつは!
スパイクとザンダーは度肝を抜かれたように顔を見交わすばかりだった。しかし振り返って、そしてすぐに気がつく。バフィーとジャイルズは微動だにしていない。特にバフィーは黙って二人を見つめていたが、だがその顔に書かれた表情は明らかだった───怒り、軽蔑、憤怒、殺意。
彼女がずかずか近づいてきたので、ザンダーは素早くバフィーとスパイクの間に割り込んだ。
《さあ、おいでなすった…!》
彼女の剣幕に、スパイクがとっさに逃亡の体勢を取るのを背中で感じる。
「バフィー、たのむ、説明させてくれ」
その瞬間、彼女の手はぱっと上がり───そして彼の顔に水をぶちまけたのであった。
「ヘイ!?何すんだよっ?!」
彼は叫んだ。そして気がついた。これは水ではない───聖水だった。ぶちまけられた瞬間、スパイクはげっと息を飲むやザンダーから飛びのいている。
しかし当のバフィーも目を瞬き、口をあっけに取られたように半開きにしてザンダーを見つめていた。
「ザン、あなた…ヴァンパイアになったわけじゃないの?あたしてっきり…」
「ンなワケあるか、このくそアマ」
スパイクは比較的安全なカウンターの後ろから吐き捨てた。
「俺がそんなことするわきゃねえだろう」
バフィーは水滴を滴らせているザンダーを見上げた。これっていったい?
「…ちょっとまって。考えさせて。誰もあたしにこの二人ができてるってメモをよこしてくれなかったんだもの、こんなのってないわ。」
彼女はザンダーの肩をがしっと掴むと、ザンダーの顔を真剣に覗き込んだ。すぐに横から上がる獰猛な抗議の声は無視する。
「説明して」
それから彼女はザンダーを自由にしてやった。さっとスパイクがザンダーに歩み寄って大丈夫かと手を伸ばしかけ、それからはっと手を引っ込めるのを見る。ザンダーは聖水でずぶ濡れだから触れないのだ。
「聖水攻撃はこれでおしまいかい?」
ザンダーは落ち着いた声で尋ねた。これだけで終わるとは思えない。アンヤとウィロウとタラは単純に喜んでくれたようだが、バフィーは違う。ザンダーが吸血鬼になっていないか確かめるだけでおわるはずがない。だいいちまだスパイクを殺そうともしていない。
ジャイルズはただ彼を見つめていた。
「そうよ」
ジャイルズが眼鏡を外して拭きながら、空咳をした。
───ということは、自分の観察眼は正しかったわけだ。ザンダーは近頃ずいぶん生き生きと楽しそうで、一体何があったんだろう、と不審に思ってはいた。さらにこの一週間前には、二人が顔を寄せ合ってひそひそ何か話しているところを目撃してもいた。会話の内容までは聞こえなかったが、しかし、あの甘いトーンの声は明らかに…
「みんな、とりあえず一杯飲まないかね?私はぜひ飲みたい。それから二人に説明してもらうことにしようじゃないか」
全員がこの適宜なアドバイスに顔を見合わせ、それからめいめいが飲み物を手に取った。その間もザンダーは互いに視線を背けあっているスパイクとバフィーの間に立つように気を使う。それから居間に全員を案内した。それぞれが腰を落ち着け、居間のまん中に立った彼とスパイクを、それで…?というように見つめる。
「さてと…思ったより驚かれなかったようなんで、随分説明が楽になったけど…」
彼はどう進めたものかと迷いながら切り出した。スパイクに視線をやって少し笑みを送り、それから心を決めて話し始める。
「…そうだね。まず最初から始めよう。───数ヶ月前のことだ。スパイクと僕は友達になった。あることがあって…」
ザンダーの顔が一瞬曇ったが、しかし彼はすぐそれを振り払った。スパイクは励ますようにザンダーを見つめている。ザンダーはちょっと頷いてから続けた。
「ともかく、あることが起きて、スパイクはそのときに僕を助けてくれたんだ。それであの地下室にまた来てくれて、それでこのアパートに引っ越す時もいっしょについて来てくれた。そのうち、それまで以上の気持ちも感じるようになって───で、彼が例の瀕死の重傷を負ったときに、ついに僕らは自分達の気持ちを認めたってわけなんだ。お互いに愛してるって云って…」
このとき、ザンダーは無意識に幸せそうな微笑を浮かべた。
「…で、今、ここにこうしているってわけなんだ」
スパイクはザンダーが話し終わったあと、彼らの顔を見回した。ジャイルズは複雑な顔をして彼を見返し、アンヤは嬉しそうに笑っていた。ウィロウとタラは顔を輝かせていて、そしてバフィーは…困惑はしているようだが、しかし殺意に満ち満ちている、というわけではなかった。思っていたよりはかなりいい、といえるだろう。
「てことは、あんたたちは付き合ってるってわけね」
バフィーは切り出した。驚いたどころではなかった。彼女はザンダーを見つめた。
「あなたがゲイだとは思わなかったわね」
「僕もだよ」
ザンダーは静かに答えた。
「で、今はスパイクと付き合ってるってわけね」
バフィーは何かを振り落とすように首をふった。じろりと全員を睨むと立ち上がり、ゆっくりと近づいていく。スパイクはじりっと後ずさった。ザンダーは飛び出して二人の間に割ってはいる。
「バフィー、聞いてくれ。彼は何も悪いことはしていない。そして僕は彼を愛してる。だから君が彼を殺すことは許さない。これは僕が決めたことなんだ」
バフィーはザンダーを睨みつけた。
「結構ね。いいわ、殺さないわ…今は。」
彼女はザンダーをおしのけるとスパイクの真正面に立った。
「スパイク。もしあんたが、どんな意味においても彼を傷つけたなら…」
魔法のように彼女の手に杭が現れていた。
「あたしは1秒たりと待ってはやらないわ」
そして切っ先を彼の心臓の真上にぐっと押し付けた。
「本気よ。ザンダーを傷つけたら、あんたはその瞬間に塵よ」
スパイクは顔の筋肉一つ動かさず、彼女を見下ろした。
「スレイヤー。もし俺があいつを傷つけるようなことがあれば、俺は自分で自分を突き刺すだけだ。そんな喜びを他人に与えてやるつもりはない」
バフィーは探るようにスパイクの顔を見上げた。二つの透明な青い目がただ彼女を見つめ返した。そこには何の嘘も偽りも隠れてはいなかった。それこそが最も彼女を驚かせたものだったかもしれない。
───そして彼女は袖の中に杭をしまった。
「いい覚悟だわ。でもそれだけじゃ充分とはいえないわね」
彼女はくるりと背中を向けてカウチに戻るとドサリと腰をおろした。
「あたしにはあともう一つハッキリさせておきたいことがあるのよ、アレグザンダー・ラヴェル・ハリス。あなたがあたしや彼氏に親切に優しくお節介を焼いてくれるのと同じように、あたしはあなたにも同じようにしてあげたいから。」
そして彼女はにっこりと、悪魔的に笑った。
「で、どういう風にヴァンパイアと人間の男の子が恋に落ちたのかしら?もっと詳細に聞かせて欲しいわよねェ、みんな?」
ザンダーとスパイクは、そろって天井を見上げた。
*
その後のパーティーは大変すばらしいものになった。みんなわいわい笑いあい、ガンガンアルコールを飲みつづけ、ザンダーにかかった聖水は乾いたし、スパイクは隣に寄り添っているし、まだちょっとスレイヤーの行動に不安を覚えていたみたいだったけど、けれどみんなが手に手を取って帰り支度にかかったとき、スレイヤーは、ただあとに残る二人にちょっと視線をとめただけで何もいわなかった。
それ以外は何もかもうまく行った。みんなはめいめいにアンヤの例の「男の匂い」に関する台詞と聖水がザンダーにぶちまけられた時のスパイクの表情のもの真似をして(ブラッディ・ヘル、俺はそんな顔はしていない、とスパイクは何度も主張したが)笑いあった。ほんとうに、夢のようなひとときだった。
「連中を誤解していたようだ」
スパイクが突然言った。
「そうかもね」
眠たげな声でザンダーが応えた。
「あいつらは、ほんとうにお前の友達だったんだな」
「違うよ。”僕たちの”友達だったんだよ」
「…かもな」
そして二人は共に眠りに落ちていった。
半年後。
「俺を二度もWal-Martなぞに連れてくるとはホントに信じられない奴だなお前は」
スパイクは唸った。今度ザンダーが結ばされた約束は、スパイクに買い物カートを押すのを許すというものだった。
「ほー。冷蔵庫にあったアイスクリームを全部食べちゃったのは君なんだけどね。でもって夜中に開いてる店はここだけなんだけど。朝なら勿論べつですけどね、朝ならさ。───もう、他にもいろいろ入用だったんだから、いつまでもグズグズ云わないこと。」
"
ザンダーは買い物メモを見ている。
「まずは歯ブラシからはじめよう。両方のバスルームに置いときたいからさ。」
スパイクはへいへい、と頷く。
彼はやっとザンダーを大学に行くように説き伏せたのだった。それで今はザンダーは夜間大学に通っていて、だいたい自分と同じスケジュールで動くようになっている。
当初ザンダーは強硬に嫌がった。自分は大学なんて無理だ、と言うのである。だがスパイクは執拗に食い下がった。とにかく一度やってみろと、いやがる背中を宥めすかし、時には脅し、しばしば励まして、ともかくもそっちの方向に向かわせたのである。
実際、ザンダーも大学に行きたくなかったわけではなかった。だが彼の成績はあまりにも劣悪で、ウィロウのように大学からのスカウトどころか、高校教師からの進学指導もなされなかったのである。従って彼は漫然と高校を卒業し、そのままフリーターをやっていたというわけだった。
だがスパイクは"ザンダーはバカだ"という固定観念を揺るがして、とにかくまずは学力をチェックしろと命じた。それからヤイヤイ云って受験勉強をさせ(家庭教師はスパイクである)、推薦状やら健康診断票やらの必要書類を取り揃え、一切合財を願書に書き込ませ、最後に封をして切手を貼ってそれを夜中に投函した。つまり、ザンダーを講義の初日に教室までひきずっていくこと以外は全部、スパイクがやったのである。それだって、ザンダーがもし行かないと言い張れば、スパイクはなんとかして彼を教室に連れて行く方法を編み出したにちがいない。
そして今、ザンダーは楽しんでいた。新しいことを学ぶという喜びを、彼は生まれて初めて知ったのである。そう───彼は実は、かなり頭がよかったようだった。まだ専攻を決めずに様々な授業を覗いて回っていたが、要するに彼の成績不良は、落ち着いて勉強ができる環境にいなかったことが原因だったのであろう。
ただ彼が一番驚いたのは、実は勉強が面白いということではなくて、スパイクの頭の良さだったかもしれない。自分の勉強を手伝ってくれるので気がついたのだが、どうしてどうして、スパイクはずいぶん教養があるようだった。もしかすると大学に通った経験があるのではないか、とすら思うようになっていた。聞いても応えないだろうと思って聞いていないのだが、今度しこたま酔っ払った時を狙ってぜったいに探り出してやるつもりだった。
「石鹸もなくなってたぜ」
ザンダーは、ああそうだった、と頷き、買い物カートにコットン・ボールを放り込んだ。
「じゃあ僕は歯ブラシ取ってくるから、君は石鹸よろしく」
歩き出そうとして、だが腕をつかまれ引き止められた。
「何だよ、さよならのキスもなしか?」
スパイクの眉が例の悪辣な表情を浮かべて面白そうに上がっている。
「10フィート向こうに行くだけなのに?」
とりあえず抗ってみせるが、
「10フィートでも別離は別離だ」
ザンダーはくすくす笑いながら、わがままな吸血鬼の頬に手をそえ、口付けた。二人は不必要に注意を引きたくないので普通は公共の場でキスなどしなかったが、しかし今は水曜の午前3:30である。一体誰が自分達を見ていることがありえるだろう…。
「貴様がうす汚ない男娼だってのはずっと昔から知ってたがな。」
毒々しい呪詛と、ついで強烈なアルコールの臭いが、二人の背中にびしゃりと叩きつけられた。
スパイクはさあっと毛を逆立てるように身を強張らせた。振り返るまでもない、この声は、ザンダーのクソ親父のものだ…!
まるで世界がずんずん遠ざかっていくかのようだった。
ザンダーは、酒の臭いをぷんぷんさせた父親を前に、自分が蒼白になっているのも気がついていなかった。いや、気がつくとか気がつかない以前に、彼は考えることも、何かを思うことも、分析することも、それとも統合することも、できはしなかった。
家を出てからは、一度も両親を見ることも、声を聞くこともなくすごしてきた。はっきり云えば、彼は親などこの世にはもういないかのように振舞ってきた。だがいま、目の前に父親が立っている。しかもスパイクと口付けるところを見ていたのだ。
空白になった意識の片隅で、彼はスパイクの怒声を聞き、その瞬間、とっさに手を伸ばして今まさに飛びかかろうとしていたスパイクの腕を捕まえた。
「スパイク!だめだよ、監視カメラがある…!」
必死でそれだけつむぎだし、渾身の力でザンダーは憤怒と殺意を全身から放射する吸血鬼にしがみついて引き止めた。スパイクの胸の奥からは、低い、餓えに狂う狼が獲物を前にして出すような恫喝の唸り声が洩れてくる。虹彩を縁取った黄色い光が妖しく輝きを増していく。
スパイクにとっては、この恥ずべき男がまだ生きて、呼吸して、あまつさえ町なかを我が物顔で闊歩しているというこの事実そのものが、彼の愛するものや、慈しむ全てのものへの許し難い侮辱であった。───だが彼は退いた。
「…父さん」
ザンダーはまっすぐ彼を向け、自分の父親を射抜くように見た。
「あんたには、僕の人生に口出しする権利はない。放っておいてくれ。」
「父親に向かってその言い方はなんだ?口のききかたに気をつけろ!」
息子の胸に指を突きつけ、父親は脅した。これで充分だった。スパイクはザンダーを後ろにつきのけると、フル・バトル・フォームに変貌した。驚愕に後ずさる姿を異形の黄色い眼でにらみ据え、どっと恐怖の匂いがアルコールでたるんだ体から噴き出してくるのを嗅ぎ取って、唇をゆがめる。
よろしい。これくらいではとても気はすまないが。
「貴様にはザンダーの親を名乗る資格はない。こいつに話しかける権利もない。二度と声をかけるな。豚め」
もしザンダーの父親の心臓が悪かったら、これを聞いた瞬間におそらく心停止していたに違いない。それほどその言葉には、まるで血を滴らせているような憤怒と憎悪と殺気が篭められていた。
ただ目の前のろくでなしの頭を引き千切ってやりたい衝動に、スパイクの鉤爪の形に曲がった手は開いたり閉じたりを繰り返していた。監視カメラが在ろうとなかろうと、チップさえなければ彼は間違いなくこの男をズタズタに引き裂いていただろう。
だが彼はザンダーの手が背中に触れるのを感じた。
「行こう。こんなふうに話す価値もない奴だよ」
いい捨てるやザンダーは背を向けた。この期に及んで父親面を押し付けてくる男の顔を、それ以上見続けるなど耐えられなかった。スパイクはザンダーの父親の顔に向かって牙を剥き、冷たい息を吐きかけて確実に一瞬は心臓を停止させてやってから、すぐにザンダーのあとを追った。
ザンダーは足早に歩いた。頭を高く上げ、決して振り返らず、まっすぐ店を出て行った。だがジープに辿り着くころには、彼の全身はがたがたと震えはじめていた。縋るように、片手と額を冷たい鋼鉄のボディに押し当てて、もう一方の震える手で吐き気をこらえるように口を覆う。その間、ともすればくずおれそうになる体をスパイクはしっかりと抱き寄せて、背中をさすってやっていた。
「…ちくしょう…」
「ああ。本当にな。よく頑張ったな」
「まだこんな気分にさせられるなんて…信じられない…」
「判ってる、判ってるよ」
神経性のチックが頬を走って、スパイクは歯を食いしばった。
「だがあいつは、もうお前には手は出せない。」
「…うん」
ザンダーは向き直ってスパイクの肩に深く頭をうずめた。そして深く息を吸い込む。もうすっかり馴染んだスパイクの匂いをかぐことで、そうだ、自分はスパイクの腕の中に───世界で一番安全な場所に───いるのだ、と確かめる。
「…行こう。あいつが出てきたときに、見られたくない」
スパイクは何も云わず、小さく頷いた。
帰りはスパイクが運転した。ザンダーは震えながら助手席に身を丸めていた。
そして一人は恐怖で、一人は瞋恚で、内臓まで真黒に塗りつぶされたような苦悶を抱えた二人は二人とも、一台の車が、ずっと自分達を尾行しているのに気付かなかったのであった。
一週間後
エレベータが上がってくる音が聞こえて、彼はドアをちらっとみやった。随分早い。
スパイクはほんの10分前に出かけたばかりだった。明日の国文学の試験のためにガリガリ勉強していたザンダーはコーヒーを飲みつづけ、従ってついに頼みのカフェインが切れたのである。
彼は足音がちかづいてくるのを聞きながらノブに手をかけた。手にもった本から目をはなさずに。
そしてドアを開けた。
「お帰り、やけに早かった…」
それ以上続けられなかった。顔面に強烈なパンチが飛んできたからである。
こういう場合、痛みより先に感じるのは驚愕である。ついで爆発するような熱さが顎から顔中に広がるのだ。
よろめき、アルコールの臭いを嗅ぎ、そしてかすむ視界の中で彼が見たものは、憎悪に燃える目で自分を見下ろしている彼の父親の姿だった。
「うす汚い男娼め…ところ構わず乳くりあいやがって、おかげで俺は町じゅうの笑いものだ…!」
罵声と同時に胸倉をつかまれると、こんどは壁にしたたかに叩き付けられた。後頭部がいやな音をたててコンクリに激突し、ブラックアウトしかけた瞼の裏に火花が散った。床に膝を打ちつけ、苦痛に喘ぎ、手を衝いて、しかし彼は必死で出口へ、外へ、ほとんど四つん這いのまま逃げようとした。だが振り上げられた足がバットのように肋骨に叩き込まれ、彼はついにその場に崩おれた。体を丸め、両手で頭を庇い、続く攻撃から身を守るので精一杯だった。そのとき父親の罵る声を彼は聞いた。
「ごくつぶしの、期待はずれの、できそこないめ!もっと前に殺しておいてやりゃあよかったんだ…!」
ふたたび首根っこを掴まれると、壁にめり込むような勢いで叩きつけられた。だが今度は玄関のすぐそばだった。彼は死に物狂いでノブに手を伸ばし、そして…引っ込めた。彼は両眼を見開き、息を止めて、父親の手の中で鈍い光を放つ鉄の欠片を見つめた。
「…だが今からでも遅かあない」
胸に柄までナイフが沈んでいったとき、ザンダーは最後の力で警報装置を叩いていた。
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