Waiting Here-Part One-


 

テーブルに置かれたキャンドルライトの揺れる灯火だけが、その部屋の唯一の光源だった。窓やドアやステレオなど、あらゆる光を産みそうなものは全て黒い布で覆われ、部屋は真の闇に沈んでいる。これだけのことをするのは一仕事である。そしてその通り、これは"儀式"だった。部屋は垂れ下がる布で覆い尽くされ、次に音楽が用意される。

いつもどおり、彼は布を持ち上げた。CDを挿入し、Track15をセレクトする。リピートボタンを押し曲が流れるようにしてから、彼はそっと布を下ろした。

蝋燭の二つの灯りだけがぽつんと輝く闇の中で、彼はチェストから巻かれた絹の布地を取り出した。彼はそれを時間をかけながらゆっくりと広げていった。滑らかなシルクが指をそっと撫でていく。彼はそれですっかり片付けられたテーブルを、平らでしわのないように細心の注意を払いながら覆った。それからキャンドルを持ってきて、丁度テーブルの二本足の間に立つようにきちんとおいた。シルクの布地が灯火を反射し、彼の皮膚にも光のさざなみを映した。


彼は再びチェストに戻り、そこから凝った彫刻で飾られた箱を一つ、取り出した。こげ茶色の木でできた長方形の箱の表面には、荒削りだが美しいケルト民族の文様が浮かび上がっている。箱は細長く、薄く、そしてかすかな消毒薬の匂いがした。留め金は金でできていたが、しかしそれは古く、くたびれていて、その箱が随分古い年月を経てきたものだということを示していた。彼はテーブルの縁とちょうど平行になるよう気をつけながら、それをテーブルの中心に置いた。蝋燭の光が木製の箱の表面に反射して、まるで踊るようにちらちらと揺らめき輝いた。

これでよし。

彼はゆっくりと腕を伸ばし、Playボタンを押した。流れ始める、吐息に近い歌声は、彼には"聞こえる"というよりも、"感じられる"ものだ。魂の奥底で。

───I hurt myself today, to see if I still feel

歌詞がゆっくりと彼を渦に包み込むように流れていく。彼は箱を見つめた。そっと手を伸ばし、掛け金を外す。

───I focus on the pain, the only thing that's real

蓋を開け、指をその中に横たわっているナイフに走らせた。これをはじめてショーウィンドウの中に見つけた時のことははっきりと覚えている。ひとりぼっちで、街を歩いている時だった。いつものように。その時、銀色の輝きが彼の目を射抜いたのだ。

彼は思わず歩みを緩め、ショーウィンドウを覗き込み、そして立ち止まった。彼はそれをぼんやりと見た。蓋の開いた箱の中、赤い豪華なベルベットに包まれて、それはあたかも優美な貴婦人のように静かに横たわっていた。それは"完璧なるもの"だった。短い栗色の取っ手の先に、長く、薄い刃がシャープな線を描き、鎮座していた。彼は自分がどれくらいの間それを見つめていたのか知らない。だがとにかく彼はいつのまにか店のドアを押し開けると、それを買ってしまっていたのだった。

自分の小遣いをぜんぶはたいてしまうことになることなど構わなかった。これから先の一ヶ月はスパゲッティとチャイニーズ・ヌードルだけで過ごさねばならないことも、どうでもよかった。ただ、彼にはそれを自分の手の中に感じることが必要だったのだ。その鋭い刃の先端が、自分の手首の中に潜りこみ、青白い皮膚を切り裂いていくのを感じることが、絶対に必要だったのだ。

彼は箱に安置されたナイフをそっと持ち上げた。重みを味わうように、刃に映る炎をまるで観察するような目で見つめながら、手の中で幾度か持ち替えた。

初めて自分の肉を切った時のことはよく覚えている。いやそれどころか、それは彼の人生で最も鮮やかな記憶だった。彼のファースト・キスも、初めてのオルガスムも、初めてのセックスも、これに比較しようはない。

14の時だった。酒乱の父親がいつものように荒れて、死ぬ一歩手前まで彼を殴りつけた。その時折れた骨の痛みと打撲とで身動きもできずに床に横たわっていた彼の中に、父親は何度も侵入してきた。その時の体の痛みと心の痛みとを、何かの言葉で表現するのは不可能だ。痛かったか、だって?苦しかったか、だって?───そんな、“痛い(hurt)”とか”苦しい(pain)”とか言う言葉が意味を失うときがある。ただ暗闇なだけだ。ぜんぶ真っ黒なだけだ。

父は息子を置き去りにして出て行った。殴られ、血を流し、ほとんど息も止まりかけていた彼を、生きようと死のうと知ったことかというばかりにその場に捨てていった。だがあたかも瀕死のけだものが、それでも本能で生きのびようとするかのように、彼はベッドまで血の痕を引きずりながら這っていった。そして粉々に割れた鏡の上を彼の腕が泳いだ時、彼は突然自分を襲った痛みにあえいだ。

ベッドに苦労して背を凭せ掛けて身を起こし、前腕を見下ろせば大きなガラス片が彼の腕にぐさりと突き刺さっていた。彼はそれを引き抜こうとした。そして偶然にも、彼は傷口を逆に切り割いてしまったのである。彼の目がかっと大きく見開かれた。

これまで経験したどんな痛みとも、異なった感覚だった。その瞬間、泣き叫ぶ彼の精神と肉体の意識・感覚が、この一本の、灼熱の、彼の魂を貫いて燃え上がった細い線の上に凝集した。彼は感じた。ただ、"感じた"のだ。その痛みの純粋さは、他のあらゆるものを押し流した。

震える手で、今度は彼はゆっくりと彼の腕に沿って破片を滑らせていった。信じがたいほどの苦痛の快楽が、彼の全身を電流のように走り抜けた。全ての思考、全ての感情、全ての知覚が、この燃えるような激痛の前にシャットダウンされた。

そうだ。この時初めて、彼は本当に"心安らげる場所(home)"を発見したのである。



彼は頭を振り、ナイフをひっくり返した。ただ単に始めてしまうのはつまらない。期待にはスリルが含まれる。自分の手の中に、あの解放へのキーが握られていることを感じながら、怒りと狂気が燃え上がるに任せているのはいわく言いがたい魅力があるものだ。

彼はこれまで誰にもこのことを話したことはなかった。絶対に誰にも判ってもらえないだろうという気がしたからだ。成長するにつれ、彼は自傷行為について書いてある本なら見つけられる限り片っ端から読んでいった。彼の選択は間違っていなかった。特に傷跡を見られないようにすることは決定的に重要なことだった。彼はある本に見つけた言葉を肝に銘じていたのである───"儀式的な自傷行為、つまりカッティングがあれば、性的虐待が疑われる。"

彼は誰にも知られたくはなかった。誰にも“疑われ”たくなどなかった。そして誰も、かつて疑ったものはいなかった。

何年もの間ずっと、この欲望は高まり、また減退し、時に彼を圧倒し、そして完全に他者に対しては藪の中であった。一度など、二年ものあいだナイフに手を伸ばすことなく過ごしたこともあった。だが彼はいつもここに戻ってきた。いつもこの、唯一の真実なもの、破綻した生活の中で唯一の壊れないもの、しっかりしたもの、確実なものへ、帰ってきたのだった。

そしてここ数ヶ月、ナイフへの欲望は次第に高まってきていた。

始まりはゆるやかだった。まず最初にバフィーとウィロウが彼を置き去りにして大学へ行ってしまった。彼女達はだんだん離れていき、そして彼をより一層孤独にした。

それから父親の虐待が以前より頻繁になった。いったんは"珍しいイベント"になっていたものが、このごろは次第に回数がふえ、いつあの手が自分に向かって伸びてくるかと思って、眠れない夜が続いていた。

こんなふうに彼が引きこもっていけば行くほど、ナイフのもたらす苦痛は、救済に、隠れ家に、彼を現実世界へつなげるたった一本の生命線に、なりつつあった。もしその痛みを感じられるなら、それはまだ生きているということだった。彼の心の一部はこんなことは間違っていると叫んでいたが、だとしても、もはや彼には止められなかったのである。

彼は傷を隠すのにますます巧妙になった。ガラスの破片を使うより、鋼鉄製のメスを使ったほうが目立たない。さらには例え彼自身がそこを指さしたとしても誰も気がつかないようにすらやれた。というのも、誰も、たとえ恋人のアンヤでさえも、彼の足のかかとや、時計のバンドの下などをよくよく見ようとするものなど居ないのだ。そんなことまで、彼はとっくの昔に学んでいた。

だがその頃スパイクが、彼に押し付けられてきた。それで彼は自傷行為を一時中止しなければならなくなった。どんなに慎重にやったとしても、必ず血は出る。そして吸血鬼のスパイクに血の匂いが嗅ぎ分けられないはずがない。それはスパイクが、他の皆と決定的に違う点だった。

彼はこれまで退治してきたヴァンパイアから、血を求める欲望の何たるかを理解していた。必要なのは”苦痛”だけじゃない。"遅さ"が大事なのだ。スリルを楽しむことが───彼の皮膚に赤い線が引かれ、それからぱっくりと二身に分かれていくのをじっと見ている時に感じる、あの苦悶こそが、大事なのだ。いやそれだけじゃない、それ以上に’素晴らしい’のが、血が傷口から盛り上がり、腕を伝ってちろちろと流れ落ちてくるのを唇で舐めとって飲み下すとき。そう、この時がベストだ。このときだけが彼を、あの絶望の時から救い出し、彼を頂点まで連れて行ってくれる時なのだ。

まるでダンスをしているような感じだ。生への解放と死への滑落との、細い分割線の上にじりじりと近づいていって、そしてそのエッジの上で踊るような───血が染み出るけれど溢れない、そのぎりぎりの線の上でステップを踏んでいるような。もう一押しで、ほんのちょっと余分な力を入れるだけで、それで彼のささやかな現実からの逃避は最後のものになる。血管から溢れ出し、腕を伝い落ちてゆく彼の血は、ほんのあと1ミリの深さで、彼を永遠のかなたへ運び去る。そんなことは判っていた。判っていて、だからこそ、それが世界で最も真実で、最も純粋なものだったのである。


だがスパイクが居れば話は別だった。彼はナイフに手を伸ばすことはできなかった。だがありがたいことに、彼のちっぽけな人生において、まだ神々がもう少しは何か良い事を残しておいてやろうと考えたのか、彼の父親はスパイクが居る間は彼に指を触れようともしなかった。彼は自分が父やナイフに立ち向かえるほど強くなったのかなと思ったが、ともかく彼の父親は彼に構うことはなくなったので、それで彼は自分の苦痛をアンヤとのセックスにぶちまけることで癒そうとした。

憤怒は彼の核に達する深さで燃えていた。セックスは良かった。悦楽だった。だが十分ではなかった。ただ彼の病的な熱を、痛みを、一時的に鈍らせる役に立つだけだった。そしてスパイクが去った。彼は再び孤独になった。彼はスパイクの後ろでドアが閉まった瞬間に、ナイフに手を伸ばさなかった自分に驚いた。

彼はそれからしばらく呆然としていたが、それからきっとアンヤが全てをまるく収めてくれるに違いないというアイデアに飛びついた。彼は再び希望し始める。誰かが、きっと誰かが、自分を癒し、この痛みをやわらげてくれるに違いない、と…

そして彼女が去った。一週間前のことだ。

彼らはベッドに座っていた。何もせずに。本当に何もせずに、ただその日にあったことを喋っていただけだった。そしてアンヤが突然立ち上がって、くるりと振り返ると、彼の顔を見下ろして言ったのだ。

「話があるの。私、もうあなたと居ても楽しめない。だからもうあなたとは終わりにするわ」

「ええっ?」

彼はぽかんと口をあけて叫んだ。他にどう反応しようがあっただろう?

「そうなの。私あなたとは別れるわ。あなたは私を愛していないもの。ただセックスのために私を使ってるだけ。人間の男なんてみんなそういうもんだって判っていたけど、私は自分の彼氏にそんな男は欲しくないの。私はあなたにはもったいないんだわ」

それを最後に、彼女は出て行ったのだった。彼はもちろん追いかけようとした、だが彼女の顔に浮かんだ表情が、彼を凍りつかせた。

それ以後、彼女は陽気なんてものではなかった。彼女はバフィー達に、ザンダーと自分はあまりにも性格が違うから別れたと触れ回り、その無遠慮さはザンダーをうちのめした。さらにバフィー達はこの説明になんの疑問も抱かず納得して、ウィロウなどは例の如く、"かわいそうに、ザン。苦しいなら何でも言ってきてくれていいのよ"と同情心一杯の声で電話してきた。

それで終わりだった。

彼はその週、抜け殻になったように過ごした。仕事に行き、ヴァンパイア退治に出かけ、家に帰る。だが何もかも奪われたように感じていた。全てを失ったように感じていた。彼をなんとか繋ぎとめていた碇が、ついに人生から引き抜かれたのだ。

そして昨夜。父親は泥酔して帰ってきて、地下室の階段を喚きながら降りてくるや、彼を壁に叩きつけたのだった。衝撃に気を失った彼は、肋骨に父親の足が何度も送り込まれる激痛に意識を取り戻した。続いて、きっとそうなるだろうと思っていたが、彼の父親は彼のパンツをずり下げると彼にのしかかり、突きこみ、彼をずたずたに引き裂いていったのだった。

すべてが終わった時、彼はバスルームに這って行った。シャワーで血を洗い流しながら、父親が彼の肛門を裂かずに終えてくれたことを、奇妙なことに彼は感謝すらした。

そして今朝。

彼は目を覚ました。全身は赤や青や黒の色とりどりの痣痕に覆われていた。彼は電話を掛けた。同僚に仕事を休むと告げた。それからまた少し眠り、目を覚ました。そして、心を決めた。

もういい。

もうたくさんだ。

彼は彼の流す血だけがもたらしてくれる恩寵しか、もはや望まなかった。



というわけで彼はここに座り、手の中にある救済を、恩寵を、ひねくりまわしているのだった。怒りも、苦痛も、もうたくさんだった。

彼は左手にナイフを持ち、右袖をまくりあげた。白いなめらかな肌が誘惑してくる。彼はほとんど心を空にして、刃の先端を突き刺した。

───ヘヴン(天国)…

小さく息を吐き、目を閉じて、彼は頭を仰け反らせた。

───ヘヴンだ…

ゆっくりと、彼はナイフを引いた。その一つ一つが、悲鳴をあげつづけている彼の魂に安らぎをもたらした。いったん手を止め、見下ろせば、10本の線が平行に走っている。

やり過ぎた。彼は思った。

これまでにないほど大量に、短時間に、彼は切ってしまっていた。だが彼の頭の中の声は、もっとだ、もっとやるんだ、と叫んでいた。彼はナイフを右手に持ち替え、今度は左腕にはじめた。傷はより速く、深く、執拗になり、もっとだ、という熱望だけが燦然と彼の神経系統の中で輝いた。

しなくなってから随分たち、そして癒されるべき苦痛はあまりにも深く、またあまりにも醜く焼きついていた。彼の指先から精確さが失われ、彼は狂ったように切り始めた。

そして最後、左腕を空中にもちあげると、ナイフの先端を左手首のこぶの下に突き刺した。

これで、今日はおしまいにするんだ…

そして、そのまま一気に肘の付け根まで引き切った。

───しまった!やりすぎた、やりすぎた、深すぎた!ゴッド、ノー、ストップだ、ストップだ、ストップだ、ノー、ストップだ、ノー、ノー、ノー、ノー、NO NO NO!

その瞬間彼は自分が最後の一線を踏み越えたのを悟った。

血がどっと、堰を切ったように溢れだした。傷の深さは───あまりにも深かった。コントロールが狂い、救済だと思っていたものが危機に転じた瞬間だった。

彼は飛び上がってバスルームにすっ飛んでいくと、常備してある包帯の一つをひっつかんだ。血を止めなければ。彼は死にたくなどなかった、ただほんのちょっと、ほんの少しだけ、苦しみから解放されたかっただけなのだ。

半狂乱になって今度はタオルをつかむと、強く傷に押し当てた。だが止まらない。

周囲全てが血溜まりになっていっていた。めまいが彼を襲い、彼はバスタブに崩れるように寄りかかった。やりすぎた。やりすぎた。どこもかしこも真っ赤な血だらけだった。むせ返る鉄の混じった生臭い匂いに嗅覚が痺れるように麻痺していく。

彼はタオルを押しのけると新しいのを巻きつけ、それを押えるためのベルトを探して手を伸ばした。止めなければ。止めなければ。僕はこんなことをするつもりじゃなかった。僕はこんな風な終わりを望んでいたわけじゃなかった。

目が焦点を失い、彼はずるずると床に崩れ落ちた。力を失った腕が表情を隠すように彼の顔の上に落ちた。

血は止まらなかった。

 

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