trial 4  雨は降るがままにせよ


 

室井はときおり、別荘に行きたい。と呟く。

きまってそれは、母親の明子が秋田へ帰ってしまった週のことだ。しかもだいたい水曜日か木曜日で、要するにそれは室井が、明子の不在に疲れ、警察の仕事に疲れ、都会の煩雑さに疲れ、そして詰まるところ彼自身の精神に疲れたころに起きる。

青島はもちろん、あの大きな口でにっこりして、いいっすね、行きましょう、と答える。

彼はそのころ、望むこと自体の少ない室井の希望であれば何だって叶えてやりたいという一種の救済病にかかっていたので、もしそれが夜中の三時に横浜中華街の肉まんが食べたい等というたわごとであっても、彼が喜んで高速を飛ばして買いに行くのは間違いなかったのである。

しかし、青島の待望する病人の「わがまま」は、せいぜいがところ、「別荘に行きたい」と呟く程度なのだった。

「いいっすねえ〜。今頃はツツジも奇麗だろうし、また行きますか」

そして日曜に明子とバトンタッチすればいい、そのまま湾岸署にとんぼ返りして、と頭で計算している青島に、室井はふんわりと首を傾げた。

「君も行けるのか? そんなしょっちゅう他行届が認められるものだったろうか…?」

別荘行きは、疲労から無意識で零した言葉である。それがにわかに現実味を帯びた計画になって、彼の弛緩した精神が少し弾力を取り戻しはじめているのが、青島には判る。

「所轄は暇でしてね」

にやにやと笑いながら、青島は嘘をついた。けれども今の警察、というか湾岸署には、青島が出す月一程度の他行届くらいガタガタ言わずに認めねーかコラ、というような組織ぐるみの圧力工作が、哀れな中間管理職に対して行われているのは事実である。というわけで、青島は有り難い職場に頭を下げつつ、ほとんど毎回のように別荘に同行してきたのだった。

「そっか…?じゃあ、いつも付き合って貰って悪いけれど、また金曜の夜から出かけるとしようか」

想像力の欠如した室井に、青島ならまだしも、目の前にいない湾岸署の面々にまでそういう気配りをして貰っているなど、夢にも思いつかないことだ。けれどそれを室井に感謝して貰いたい、などと思う人間は、管理職の三人を含め、おそらく湾岸署には一人もいなかったに違いない。

そして、ともすれば能面のように動かない室井の口元にようやく微笑が浮か掠めるのを見るのは、それがたとえ錆びかけた笑みの切片であろうとも、青島にとっては本当に嬉しいことだった。

<何でもいいから予定を組むのは、無理のない限り、患者の回復にとても有効です>という安藤の言葉を、彼らは忠実に実行していた。

「いーえー、ぜんっぜん悪くなんかないすよ。あすこにいくとくつろげるし、ボケーッと出来るし、暖炉燃やすのもゴミ燃やすのも楽しいし、おれホント別荘好きですから。マジで他人ンちとは思えないっすよ。いや偉そうで悪いんですけど。それに週末に高原で別荘ライフなんて、フツーの刑事にゃ一生出来ない贅沢ですしね。…そうすっと、おれ室井さんのトモダチで、ホント良かったよなあ…」

最後は自然としみじみとした気分になって云えば、室井も頷き、そうだよな、物を燃やすのってなぜだか不思議に楽しいよな、と頓珍漢なことに同意している。

まだまだこういう風に室井はピンぼけなところがあるのだが、一方で青島は、こういう室井のピンぼけぶりは、別にあの事件のせいではなくて元からだったんじゃないかな、と思う程度には彼のことをよく知るようになってきていた。

考えてみれば、あの事件があるまで室井と自分はそれほど親しかった訳ではない。上司と部下に毛の生えたような、おそらく同志というのが一番適切な関係だった。いずれ、たまに思い返しては自分の熱さに対して苦笑するような、そんな各々の記憶の一部となるだけの関係。それで終わるはずだった。

けれども、今となってはどうにもそれだけでは済まないものがある。それを青島は自覚している。しかし、自覚しているからこそ大丈夫だ、とも青島は思っていた。

青島は駆け引きの得意な人間だ。ウソも方便で世の中を渡っていくべきだとも思っている。だじから今度は、自分自身と駆け引きし、自分でなく相手を守るために嘘をつく、というだけだった。

七転八倒して苦しみ呻く室井を前にしては、自分の甘ったれた感情などいくら抑圧しても不満はない。

   

…そう、信じた。

  

***

  

  

「貴様らいい加減にしろッ! おれの身に起こったことは映画じゃねえッ!ドラマじゃねえんだ!俺はふつうに生活してる人間なんだッ!!」

「室井さん!」

室井は土砂降りの夜の庭にまろびいでて、叩きつける雨の中、闇に向かって骨の腕を突きだし怒鳴っていた。素足は泥にまみれ、狂ったような絶叫は雨滴を貫いて走った。闇の中でカメラのフラッシュが走って、轟然と大地に降り注ぐ雨の筋を、まるで白い檻のように照らし出した。

「おい!撮るな!肖像権の侵害だぞ!」

口角に泡を吹き出させて喚き散らす室井を押さえ込みながら、青島も激怒に震え怒鳴った。こんな高原の別荘地の、雨の中でまでシャッターチャンスを狙って貼り込む連中がいるのか。

「地裁から業務停止処分をださせるぞ、撮るなったら!」

                      

「我々には知る権利がある!」

フラッシュの嵐がやみ、おもむろに闇のなかから若い声が聞こえた。

「…なんだと…?」

青島は耳を疑った。

――――「我々」だって?

暗闇をすがめても顔が見えない。雨だれが幾筋も立ちすくむ彼の頬を伝い落ちた。こめかみがずきんずきんと脈を打つのを自分で感じた。

――――「我々」だって?…「我々」って誰だ?

彼は貼りついた前髪の間から、「知る権利」を要求する暗闇を睨んだ。

これまでも、そしてきっとこれからも、事件の「登場人物」は報道されても、それを撮り、それを鑑賞し、それに気楽なコメントを加える「我々」は、いつだってガラスの向こう側、匿名の箱の中だった。「我々」とかいう連中は、いつだって安全な場所から爆弾の投下スイッチを押すように、被害者の傷を好奇心で抉っている。

ああ、あの時と同じだ…

冷え切った、細い身体ががくがくと震えているのを抱きしめながら、青島の心臓がきしむような悲鳴を上げた。

あの時、この別荘で、雪がうすく積もっていた、あの時、あんたは死に装束を纏って、あんな冷たい刃を自分の首に向けて立っていた。俺は止めた。俺は恐ろしかった。俺は震えるあんたを抱きしめて、折れるように細いあんたを抱きしめて、死なないで呉れと祈るだけだった。お願いだ、頼むからまだこの世にいてくれ、ただ息をすることだけでいいから、ただ一つだけ、この世から去って逝ってしまわないでくれと――――あんたは、だから生きてきた。生きてきてくれた。あんたが両手両脚に錘を引きずるような思いで飯を食い、仕事にも戻り、よろめきながらも再び歩きだしてくれたのを、その血の滲むような努力を、俺は、俺たちは知っている。

――――なのに、世界はなぜこうも冷たくあんたを苛むのだろう? 被害者に、ただ生きるだけが精一杯の被害者に、それでもなお「公共の利益」のために血を流せと要求することが、いったい「我々」とかいう連中にはあるというのか?

だが、匿名の「我々」は傲慢に、いや自己の正義を信じる人間はいつだって傲慢なものだが、怒鳴り返してきた。

「これはただの警視正誘拐事件じゃないんでしょう?警察権力内部での、権力闘争だという確かな筋からの情報がありますよ!だとすれば、我々一般国民には巨悪を知る権利があり、マスコミには真実を白日の下に晒す義務があるでしょう!それを明らかにしないでは、警視正ご自身が隠蔽工作に荷担していると思われても仕方ないんじゃないですか?!どうなんです?答えてください!」

青島は一瞬、その暗闇の男に対し、目が眩むような憎しみを感じた。それはほとんど殺意に等しかった。もし室井がいなければ、青島はその闇の男に向かって突進したに違いない。

だが彼は奥歯をぎりぎりと食いしばった。警視正、という呼びかけがされた瞬間、膝が砕けるように崩おれた室井を抱きしめて、彼は理性の限界に立ちながら叫んだ。

「それと、むろいさ…被害者の写真が、どういう関係があるっていうんだ…!」

だが、その情景が「絵」にでもなったのであろうか。あれが青島刑事だ、ああ例の…という声が灌木の向こうで低くやりとりされ、ますますフラッシュの頻度が増したのだ。

「やめろッ!!撮るなと云っているだろうが!」

青島は精神をどこかに飛ばしてぼんやりと泥水の中に膝を漬けている室井を背中で庇った。

室井は呆然と数メートル先の地面を見ている…いや、何も見てなどいないのだ。彼の精神が暗い世界を彷徨しはじめていることを、青島は痛みをもって感じることができる。

――――室井さん、ダメだ、‘世界’はそっちには無い…!

「警視正は正義のために闘ったんでしょう?」

フラッシュが止まって、暗闇が以前よりいっそう濃さと厚さを増した。叩きつける雨の音が燃え上がるように唸る。

「きさまらが『正義』なんて云うなッ!」

青島はついに仁王立ちになって叫んだ。奴等が憎かった――――憎かった、それはほとんど、犯人に対する以上の憎しみかも知れなかった。

室井の精神を再びあの奈落へ突き落としたことにも気がつかず、『社会正義』の仮面をかぶって一方的な正義を主張する、それは車にはねられた猫の上を、何度も別の車が轢きなおしていく行為に似ている。

ぺちゃんこになって、粉々になって、もうその瞳は何もうつさないのに、それでもその残骸上をなんどもなんども丁寧に様々なものが轢いていって、ついには道路に貼りついた毛皮の滓ようになって、そのころになってやっと現れた掃除人が、顔をしかめながらヘラでこそぎとっていく。ニュースバリューがなくなったと、肩をすくめながら。

室井は轢かれた猫なのだ。自分の身に起きたことが理解できず、ただ痛みにのたうち回って、空に足を掻きながら、尾で冷たい道路を叩きながら、向こう岸へ、向こう岸へと、懸命に血の混じった瞳をじっと辿りつくはずだった世界に注いでいる――――ああ、俺は、俺達は、どんなにあなたを助けたいことだろう。

奇跡が、神が、もしあるのなら、今こそお前達が出てこなくてどうするんだと、青島はなんど拳を振り上げたか。なんど怒鳴りちらしたか。

俺たちの叫びは天に届いているのか。天は俺達の、彼の悲鳴を聞かないのか。あの悲鳴が聞こえないのか。なぜだ、なぜ、この世にはこんな悲惨があるんだ。

その質問への、これが「答」なのか?世界から、彼に対して、我々に対して、与えられる答がこれなのか?

青島は激高して叫んだ。血の涙が頬を伝った。

お前らはカメラ「マン」なんていう「人間」じゃねえ。この声が聞こえないなら、この傷が見えないなら、おれはお前らをおなじ人間とは認めねえ!

「面白半分にかき立てて、写真撮って…てめえら本当はくだらねえ本の部数の心配しかしてねえくせに、偉そうな口を利くんじゃねえっ!」

苛烈な弾劾が青島の唇から迸った。彼の目は青白い炎を吐くように光り、拳はあまりにも強く握り締めたためにぶるぶると震えていた。

「…‘知る権利’だと…? 本庁の記者クラブに溜まってるだけで、流れてくる情報垂れ流して取材もろくにせず書き捨ててるだけのくせしやがって、何が国民だ、何がマスコミの義務だ、えらそうに…!…この人が誰か知ってるのか? 影でてめえらがコソコソ悪口いいながら、表だってはこわくて全然取り上げなかった警察組織の改革に、いのちをかけた男だぞ!きさまらみてえな虫けらの、100倍も尊い‘人間’だ! 人間なんだ! てめえらみていなクズ共に、これ以上かき回されていい人じゃねえんだよ!────おい、逃げるな! ネガおいてけ! ネガ出せ、コラァ!!」

               

「――――凄い啖呵だったな」

引き出したネガを何本かぶら下げて帰ってきた青島に、泥の中に膝をついたまま、室井はおかしそうに軽く笑った。

「君が名誉毀損で訴えられないか、心配だ――――上に知られたら、始末書ものかもしれないな」

心配している内容の割に、口調は冷めていた。室井は精神の失調がおきるとこういう喋り方になる。それを青島は知っていた。

「何枚だって書いてやりますよ。心がこもってないとどやされるかもしれませんがね。」

始末書は、確実に書かねばならないだろう。もしかしたら謹慎処分かも知れない。

一番悪質だったカメラマンを、青島はぶん殴っていた。頬骨を折ったかも知れない。折ってもいいと思って殴ったから、きっと折れているだろう。自分の右手も痛い。殴られた頬を押さえて、恐怖に凝り固まって自分を見た男の瞳を青島は思った。

唾棄すべき野郎だ。自分がなぜ殴られねばならないのか、てんで判らないという顔をしていた。

「ああいう連中は、形式さえそろえばいいんで、俺がどんな思いで始末書書いてるかなんてわかってりゃしない。俺が、心の中じゃもっと殴ってやれば良かったって後悔してることとか、いつかまとめてぶっ殺してやると思ってる、なんてこともね。――――それはともかく、泥だらけっすよ。」

そういう青島も下駄も履かずに飛び出してきたのだから、靴下から膝下まで泥まみれである。

別荘から漏れる光が二人のたたずむ場所あたりまでを照らし出していた。膝を半ば泥に埋めていた室井は、ああ、そうだな…と呟いて立ち上がる。

よろめくところを掴んだ肘は、すぐに振り払われた。

――――また振り出しか…。

青島はぶらさがった自分の手に視線を落とした。

青島にすら、触れられるのに怯える室井がそこに再び現れていた。

だいぶ慣れてきていたのに。

けれどまた、ゼロからやりなおし――――。

青島は室井を別荘へ促しながらひっそりと唇を歪める。急いではいけないと、一番苦しいのは彼なのだからと、けれど早く、治って欲しい、自分を受け入れて貰いたいと望む、紛れもないエゴが胸に巣くっている。

――――まだまだ、これからだろ、おい?

意識を反らせば、天でバケツをぶちまけたような豪雨がたちまち髪の地肌まで濡らして顎をしたたり落ちていくるのを感じることができる。その雨粒は、痛いほどの強さで彼の身体に降り注ぎ、火照った狂的な熱を洗い流して落ちていくのだった。

――――降れ。もっと強く。もっと冷たく。そしてなにもかも叩きのめして、押し流して、こそぎとっていっちまえ…。

<雨は降るがままにせよ>

誰かのブルースの歌詞だったか。ロマンチックになんて降らなくて良い、わざとらしく蕭々となぞ降らないでいい。雨は降るがままにせよ。ただ降るがままにせよ…。

青島はそうやってバランスをとってきた。

彼にとって自己を制御する最良の方法は、自分の居場所を見失わない唯一の方法は、そうして自分以外のものの存在を感じることにあった。

彼は室井にあまりにも近づきすぎていたから(もちろんそれは彼が望んでのことだったのだけれど)、ときおり室井の抱いている深い虚無に呑み込まれそうになるのだった。それはよくないことだと、彼はすでに充分に学んでいた。

「すげえ、雨――――」

ずぶ濡れの髪を掻き上げ、飛び込んでくる滴に目を細めながら天を仰いだ。不思議に頭が冷えていく。

人間の争いに関わりなく、ただざんざんと降り注ぐ雨の無感情な降り方が、どうしてか、ささくれた心にひどく優しかった。

しかし、それは青島にとってだけのようだった。

「――――ぜんぶ、洗い流してくれればいい」

大自然の運行の前には、なんて下らない争いをしているものだろうなんて哲学に浸り書けていた青島は、室井のその低い呟きに我に返った。

室井は草むらでおぼつかない地面をつま先で探るように歩いている。どうどうと屋根を殴りつけるような雨音にまぎれた声は、虚ろな響きを帯びて青島の耳朶に届いた。

「…全ての罪も、全ての記憶も。あらゆる苦しみも、わたしを作る全ての記憶も細胞も、なにもかも全部融けて、流れてってくれればいいのに。そして何万年もかけて、地下水脈にたどりついて、そして、そこにずっと、静かに漂っていられたら…」

満々と水を湛えた蒼い洞窟の中、音もなく、光もなく、ただ冷たく、凍るように冷たく、けれど穏やかに。

そこには誰かに対する怒りも、皮膚を泡立たせる恐怖も、臓腑を溶かすほどの憎しみも、堪えがたい苦痛も、存在しまい。

死者も生者もいない、永遠に等しい無の場所。

彼はそこを夢見た。

真空の宇宙で固く黒ずみ冷えていく、恒星の最期を夢見るように。

だが応える青島の声は苦い。

「良くない考えだ…室井さん、俺はあんたが人間でなければいやだ。」

室井はちらと不機嫌な刑事を振り仰いだ。

唇の端が少し上がった。笑ったつもりらしかった。

「…ときおり、この世の中は私にはひどく疲れる、憂鬱な、敵対的なものに思えるときがあってね。…そういうとき、こんなロマンチシズムに毒された夢想が浮かぶんだよ。現実逃避の一種なんだろうな」

そんなもの、ロマンという名に価するのか。

「俺は厭だ。――――たしかに楽かも知れない。敵も、マスコミも、犯人も、裁判官もいない。だけど、」

だけど、そこには俺もいない。あなたを慈しみ、育て、あなの回復だけを願って、それだけをつっかえぼうのようにして生きている、あなたのお母さんもお父さんもいない。あんたそんなところへゆきたいと云うんですか?

尻切れとんぼになった青島のしゃがれ声に、どんな続きを付け足したのか、しかし室井はやっと、自分以外の存在をおもんぱかる社会的義務を思い出したようだった。 ばつの悪い顔つきになって、

「もちろん、こんなのはただ、ちょっと、疲れたときにふと気が迷って思うことだ――――それに、君や母や父がいないと、とても困るんだしね」

と言い訳した。

――――困る?

青島の足が止まった。

呑み込みがたいものを飲み込めず、彼は息を止めていた。

困る、というのはどういうことだろう。

俺は、室井さんがいなくなったら、「困る」だろうか?――――いいや。

「俺がいなきゃ、困るんですか」

それは質問ではなかった。

どうしようもない悲しみが彼をうちのめしていた。持って行き場のない、何に向かえばいいのか判らない、押し殺した哀しみと怒りと苦悶が胸の奥に渦巻き逆巻いて、そしてそれは鉛のように、重く苦い痛みになった。

「…俺は、あんたがいなくなったら、‘困る’どこじゃねえよ…ッ!」

ネガを握りしめ、ひとりぼっちで街頭に取り残された少年のように肩をすぼめ、青島は地面に向かって叫んだ。

ぼたぼたとずぶ濡れの髪の先から、頬から、しずくがしたたって草むらに消えた。

なにが数万年後だ。 何が地下水脈だ。 この涙が大地を透徹して、暗黒の水槽に辿りつくのを夢見てなんて欲しくない。

俺はここにいるんだ。あんたはここにいるんだ。 それ以上のものなんて、俺は欲しくないんだ…!

室井は気圧されたかに見えた。自分の失言の意味の深さに気付いて、当惑しているようだった。それはどうにも誤魔化しようのない失言だった。

そう―――― けれど室井の胸中に、安堵とも言えないが、一種の脱力が生まれた。

そうだ。俺は、青島をすら、忘れてしまいたいと願ったことがある。いや、ほんとうは、願ったことがあるどころじゃない、毎日、いっそ青島も、両親もぜんぶひっくるめて忘れてしまえたらと、自分の名前も忘れてしまえたらと、そう願っているじゃないか?

しかしそれを認めれば、自分が恐ろしく罪悪感を感じるであろうと判っていた。

ここまで尽くしてくれる彼らに対して、「私は実は、こんなに親切なあなたたちも含めて、一切合切わすれてしまいたいんですよ、そうできたらほんとうに幸せなんです。ほんとうに、あなたたちが私の記憶から消えてくれたらどんなに嬉しいことか!」などとは、とても言えたものではない。

そう、なにか、感情が動いているとき、彼はそんな考えを持ったことはなかった。それよりは「申し訳なさ」のほうが勝っていた。

けれど、なにか「事件」があって、彼の感情世界が停止すると、彼はこの孤独な洞窟ともいうべき場所に舞い戻ってくるのだった。

「――――すまないことを云った」

自分がほんとうにすまないと思ってその言葉を口にしたのかどうか、彼には確信が持てなかった。空々しく響くんじゃないかとその方が気がかりだった。 案の定、気まずい沈黙がしばらく流れた。 俯いたまま佇立する青島の姿が、やけに巨大に感じた。

室井は青島の出方に不安を感じた。呆れた冷酷な人間だと見捨てられるか知れぬと思った。自分を残し東京へ帰ってしまうんではないかとも思った。

だが次の瞬間には、こんな自分は見捨てられて当然なのだから、それで仕方ないとも思った。哀しくも淋しくもなく、穏やかに、そう思った。

「…わかってます」

やがて、歯の隙間から押し出すように、青島は云った。哀しみに心臓を千切られそうだった。

室井の痩せた顔には何の表情も動かない。あの瞳には自分が、世界が写らないし、彼の心は此処には不在だ。

どうしようもない哀しみを少しでも逃がそうとするかのように、青島は頭を小さくなんども振った。

わかってます。 あなたがほんとうは俺もまとめて、洗い流してしまいたいと望んでいることくらい。

あの記憶に繋がる者すべて、今の人生に繋がるもの全て、あなたは失ってしまえたらと熱望していることを。もしその手段があるのなら、あなたはきっと躊躇無く、喜んで、俺との過去を忘れるだろうということを。

そして、その手段というのは、自殺という形でもっとも容易く成就するということを、あんたはとっくに、知っている…。

けれど、あんたがそれを望もうと、俺はそれだけは許せない。

許せないんだ。

         

どうどうと、屋根を破るように雨が降っている。

           

  * * *

                 

翌朝は、奇麗な青空が雲の隙間から覗いた。

昨夜の雨がうそのような初夏の爽やかな天気に、開けはなった窓から湿った土と林の匂いが高原の樹々の間をわたって流れ込んでくる。

そうして朝昼兼用の食卓につき、室井はぼうとしてぬるい珈琲の入ったカップを握っていた。

彼の前にはボールに入った菜っぱがあって、それは一種の病人食である。精神状態が悪化したとき、彼はそれしか食べられなくなる。

そこで彼はときおりその緑色のひらひらを口に運び、飾りのパプリカの黄色をしげしげと眺め、気が向けばそれを摘み、それからおもむろに珈琲をすすり、またぼうっとしては窓の外を眺め、テレビに視線をずらし、また菜っぱを噛むと言う動作を、かれこれ3時間以上くり返しているのだった。

テレビには、その日の朝はスペインの荒涼たる平原で草をはむ、ヒツジの姿が映しだされていた。

海に向かってなだれ落ちるようなガリシアの土地は、アイルランドのように石ばかりで痩せていて、小麦も栽培できない。石を積み上げただけの粗末な「小屋」は、家畜用ではなく人間の住居だ。どこまでも続くたれ込めた曇天の下、冷たい潮風に毛を逆立てながら貧弱な羊が身を寄せ合って寒さをしのいでいる…。

「スペインでも、田舎というのはずいぶん貧しいんだな」

朝から言葉少なで、今は窓から庭をじっとみたまま動かない青島の背中に、室井は機嫌を取るつもりで声を掛けた。昨日の詫び言のつもりもあった。

そのとき、青島が振り返って云ったのだ。

「あんたが死んだら。俺も死ぬから。」

室井は目を見開いて青島を見つめた。

外の方が明るく、青島の表情はよく見えなかったけれど、それでも厳しい、峻厳とさえいっていい顔をしているのが判った。

「…だしぬけに、なにを…」

「あんたを一人では死なせない。死ぬときは一緒だ。」

室井は、思わず小さく声を上げて笑った。青島の思い入れがまるでおもしろいジョークのように感じたのだ。

「まるで心中だな」

さぞまたマスコミに喜ばれるだろうと、そんなことを思った。自分のために死ぬと言われて多少心が動かされなかったわけではないが、その時の彼はそんな風にしか受け取れないほど、荒廃していたのだった。

「違います」

だが、室井の思いこみを、青島はぴしゃりと否定した。

「違う…?」

じゃあ何だ、と意外さに眉をひそめたとき、

「憤死です」

刑事はきっぱりと云った。

「――――憤死?」

高校の世界史の授業で、ボニファティウス八世がチェザレ・ボルジアに手袋で顔をはたかれ憤死した――――という使用法を最後に、憤死ということばを聞いたことがなかった室井には、すっとんきょうな台詞だった。

しかし、青島にはもっともしっくりくる言葉だったようだ。彼は大きく肯き、復唱した。

「そうです。憤死です。怒りのあまり、きっと俺は死にます。」

怒りのために死ぬ、というのは、室井には考えがたいことだった。

室井は死にたいと思ったとき、怒りがあったからではない。怒りを感じているときは、彼は生きようと思った。

彼が死に憧れるのは、もう何も考えたくも感じたくもないと思ったときだった。

かつて一課管理官だったとき、被害者の親族が「犯人を殺してやりたい」と云うのを何度も聞いた。聞き慣れたその言葉が、青島の口を通じて今また聞かされ、そして室井の中でその言葉を吐きだした遺族と青島の顔がだぶった。

室井の自失に頓着せず、青島は昨夜から積もった思いを一気に叩き出した。

「死ぬときは俺も一緒だ。…けど!あんたをこんな目にあわせたやつらに一矢報いてやるまでは、俺は死にません。あいつら全員をぶち殺して、破滅させて、あんたの仇をとるまでは、俺は絶対に死なない!

――――だから、あんたも、頑張ってください。死ぬより前に、闘わなきゃだめだ。俺はいのちをかけて闘う。あんたを守る。死ぬなら一緒だ。けど死ぬ前に、やるだけのことやってからじゃないと、俺は死んでも死にきれない。だからあんたも、死んじゃダメだ。あんたもあいつらをこのままにして、死んでもいいんですか。そうじゃないでしょう。

室井さん。俺はやる。 この戦いは、利益のためじゃない。俺やあんたのためだけじゃない。――――正義のためなんだ。」

  

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20011221

dedicated to my mam, and all my mothers.

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