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「略取誘拐、三日間の監禁、意思に反する刺青、暴行による肋骨2本、左右の手指合計6本の骨折、脱水症状と肺炎の併発。打撲、裂傷、擦過傷は数え切れません。一部ナイフによる切り傷有り。長期にわたって首を絞めることによる肺胞の損傷、性的暴行、極度のストレス下にいたことによるptsd、…」

「待った。その…ptsdとかいうのは、何の事かね?」

新城は地検検察官のしなびた顔を黙って見つめ返した。

色素の薄い老人の瞳が、半透明な光沢を帯びて真面目に新城を見つめかえした。

「それから、君の話では、被疑者も被害者も男性だった気がするのだが、性的暴行と言うのは…?」

新城は忍耐というものを今回の事件ほど試されると思ったことは無かった。

「検事は、失礼ですが、あまりテレビを御覧にならない?」

新城は、書類に埋まったデスクの角に両手をつき、紙の隙間から顔を突き出すようにして、しぜん新城を見上げる形で顔を仰向かせた老人に、ほとんど怒りを押し殺しすぎて無機的になった声で「質問」した。

しかし老人はそんな警察官の態度に慣れているのか、ひるむ様子も、逆に怒りを微塵も浮かべることなく、軽く肩をすくめると未決書類の山に顎をしゃくってみせた。

「交通法違反を除いた犯罪事件の数は、東京では年間3000件を超える。それに対して検事の数は何人だか知っているかね?────君だって司法界のお寒い事情は知っているだろう。」

くだらないテレビなぞ見る暇があるなら仕事をする。

それはそれで職務熱心な検事の心構えだったが、しかし、そんな事情は、警視庁に通っている新城こそが言いたいことだった。

────特捜本部を、今おれが何件掛け持ちしてるか知ってるかね?

喉から出掛かった言葉を新城は無理やり飲み下した。

────これまでに扱った事件のうちの何件が、もはや「継続捜査」と言う名のお蔵入りになったか知っているかね?

そのうち何件の被害者が生きて帰ってこなかったか、そして何人の犯人がいまだに不明か知っているか? 

被害者の死体が見つかったときの捜査員の気持ちを、そして視界の端っこにひらひらしてる加害者の尻尾も捕まえられない、警察の「お寒い事情」を、あなたは知っておいでですかね?

「…もちろん知っていますとも。3000件の犯罪の全部が全部起訴され、あなた方のお仕事を増やしているわけではない、と言うことも含めてね。────この事件の被害者の室井氏は、現・警察庁警備局警備課長です。」

新城は幼稚園児に言い聞かせるようにゆっくりと一つ一つの発音を区切りながら言った。

"現・警察庁"の言葉に、疲労か暑さかでうるんだ老人の目に初めて《興味》らしき感情が動いた。

ちくしょう、なんて暑い部屋だ。頭まで煮えそうだ。

「ああ…知っている、そうか、あの事件か。…《性的暴行》?」

やっとコトの本質に思い当たったかのように老人の目に理解が動いた。

新城は脇の下に滲み出す汗に、不機嫌を通り越して殺意すら抱きながら、それでも心証を悪くしないように彼の出来る最大限の努力をしつつ、答えた。

「そうです。同性同士では強姦罪が成立しない現行の刑法では、そうとしか表現できかねる犯行です。」

「なるほど。それで捜査一課管理官自らお出ましというわけですか。」

仲間意識の強い警察官の世界では、警官に対する犯罪はしつこく追及されるものだから。

その納得が動いた検事の顔を、とつぜんぶちのめしてやりたいほどの衝動が襲った。

違う。 室井さんが自分と同じ警察官だからじゃない。 この犯罪がかくも許しがたいのは、彼が身内だったからじゃない。…だからといって彼は自分の犯人への憎しみの大きな要因が、被害者が室井だから、という理由だということを認めることは出来なかったけれども。

新城にとって室井は常にアンビヴァレントな感情を引き起こす存在だった。

怒りと軽蔑と不愉快さ。自分が、何かにつけ異色だった前・管理官と比べられているのを、新城は知っている。

しかし同時に、憧憬に似た、なにか遠い昔に自分たちが「失ったもの」への、けして届かない愛惜のようなものを、あの細い背中を見るたびに何故自分は抱くのだろう?――――どうして「失われたもの」は、なぜ私たちにかくも美しく感ぜられるのだろう?

室井が「喪ったもの」は、彼にとってどのように見えているのだろう?

「私は、彼が警官だから――――これが警官に対する犯罪だから、あなたに本気になってくれと云ってるわけじゃないんですよ、検事さん。

…あの被害者は、本当に馬鹿なんです。自分のやろうとしていたことを実行すれば、相手がどんな手段に訴えても彼を停めるだろうと想像もしなかったお坊ちゃんなんです。読みが甘かったんです。

彼は彼が立ち向かおうとしていた相手の、改心と改革を心から望んだだけでした。

その結果が相手にとって不利なものであろうとも、彼の信じた高邁な理想や理性的な正義のためには、万人が膝を屈するだろうと、――――彼自身が真っ先に膝を屈した人間だったから――――そう天真に信じてしまったのです。言い換えれば、彼は、相手の善良さを信じたのです。社会の善良さを信じたのです。

彼は人が自分と同程度に賢明で、自己犠牲的で、忍耐強く、理性的で、理解に充ちていると勘違いしていたのです。 まったくお人好しなんです。とても日々犯罪と渡り合う警官とは思えません。彼は、どちらかと言えば坊主かイエズス会宣教師になって、アマゾンの奥地でミッションに殉死するのが至福のような人間なんだと私だって思います。

それが彼の過失です。けれど、私にはそれが彼をこんな目に遭わせるほどの過失にはどうしても思えない。

彼は愚かだっただけです。

ツァーリに生活の苦しさを訴えさえすれば、皇帝様は彼の支配する子供達を見捨てるはずはないと信じていたロシアの農奴のように、その善良なる人間性へのひたむきな信仰を、彼が挑戦する相手に対してまでも期待したのです。彼は人間を信じすぎたのです。それだけが彼の過失でした。」

検事は黙って聞いていた。

やや呆然として新城が自分が何を云っているのかと言葉を切ったとき、

「――――犯人は、では、この男よりもっと上にあると――――もっと組織的な犯行だと、君は云うのだね。そしてその証拠は自白以外にみつかっていないということも、これまでの捜査報告からも私には明らかに思える」

検事にとっては、公判が全てだ。公判で有罪に出来なければ起訴する意味がない。

このような凶悪犯ならもちろんゆうゆうと公判を維持できるが、それ以上の悪へメスをいれるつもりなら、証拠不十分で容疑者はその件には無罪となるであろう。

   

* **

  

何故こんなにこの事件が腹立たしいのだろうか。新城は考えてみた。

組織の改革に理想を抱き、常に他者への配慮を念頭におき、悩み、苦しみ、それでも理想へと向かう不器用な人間に、足を引っ掛けころばして、さらにつばを吐きかけて踏みにじり、徹底的に「略奪」していった。

何を? 何を奴らは奪っていったのか?

新城は、面通しの際にみた彼の瞳を思い出した。 彼はあのような瞳を持ってはいなかった。

あれは、捜査1課管理官の新城には見慣れた、「被害者」の目だった。 びくびくして、怯え、身をすくませ、そして何もかもを疑う人間の目。

そこには理想も、希望も、意思の光さえもなく、追い詰められた小動物の偏執的な猜疑と絶望だけが奥に燃えていた。

それは自分の知る室井の瞳ではなかった。 そこにいるのは、あれほど自分をいらだたせ、敗北感を味合わせ、嫉妬と同時に憧れを抱かせたライバルはいなかった。

――――だから許しがたいのだ。

室井の体はこの世に残り、残酷な傷も癒えた。 けれど、彼をして他者と隔絶せしめていたあの頑強な精神は、果たしてこの世にあるのか? 彼はいったい何を見ているのか?彼は何を感じているのか? ────あれで生きていると言えるのか?

たぶん、それは、室井自身も答えられない質問に違いない。

加害者は何かひどく巨大なものを奪っていったのだ。

それは生命よりは小さいかもしれないが、それでも、生命の次に大きな物だったのだ。

「しかし、それだからと言って、彼だけを特別扱いにすることは出来ないねえ。彼が警察官だというなら、よりいっそう我々は公平を期するべきだから。判事も、そうでないと、かえって被疑者に有利な判決を出さないとも限らない。」

「被疑者に有利?!冗談じゃない。こんな奴は死刑にしてやったほうがいいクズだ。最大限の求刑を求める。情状酌量の余地はない。あんたも紙ばっかり読んでないで取調べをしてみればわかるだろう」

礼を失した警官の言葉に、検察官は太い白髪交じりの眉をぐいと吊り上げた。

「いいか。君がやけにこの事件に入れ込んでいるところから見ると、この被害者の人とは無縁ではないのだろう。だからこそ警告するが、こんな程度の犯行で、上限いっぱいの求刑などはできない。全治2ヶ月の重症は傷害罪としては非常に重いが、しかし一方ではありふれているのだ。しかも主犯ではない。前科もない。何度か街中での喧嘩で交番に引っ張られてるが、傷害事件もまして誘拐事件も引き起こせるようなタマじゃない…こいつはタダのちんぴらだ。」

そんなことは判っていた。だが。

「私は時間がないんですよ、検事さん」

時季はずれの異動命令が待っていた。九州の中枢である県警本部の課長職。左遷か栄進か微妙なところである。

だが検事はそんな事情は知らない。彼は新城を見上げながら、曲げた指で調書を二三度叩いた。

「いったい君は私にあれこれ要求をつけてくるが、それなら私にも言いたいことがあるね。――――この事件では、こいつはただの操り人形なんじゃないのか。被疑者について読んだかぎり、どう考えてもこれはこのちゃちな脳みそから産まれる犯罪じゃない。 被害者が警官だというのなら、誘拐なのに金銭の要求もなく、生きてかえってこれたこと自体がヒントだ。

こんなことは「紙を読んでるだけ」の私にだって想像が付くんだから、「現場を張ってる」君たちにもとっくに加害者の目星はついているんだろうね?なのに逮捕に結びつかないのはどういうわけだ?」

立て板に水を流すような言葉をいちど切って、検事は声を落とした。

「――――私も警察内部のことは薄々想像がつく積りだ。が、と言うことならなおさら、これはこっちに持ちこむべきことなのか。」

見上げた先で、八つ当たりは迷惑だと向けた刃を跳ね返された警官は、青ざめていた。

検事は長く息を吐き、背もたれに身体を預けた。それから少しせり出した腹の上で両手を組む。

「もちろん私は起訴するとも。こんな恥ずべき犯罪を起訴しないで、いったい私の仕事はなんだと思うからね。判事から最大限の懲役をもぎ取って、このくそ野郎を刑務所にぶちこむさ。そこから真人間に更正させるのは刑務官に任せるよ。

――――しかしね。それでこの事件は終わったことにはならないね。 もちろんあんたが死に物狂いで主犯を探しているのは判っているよ。その眼の下のくまを見れば、私にも同い年くらいの子供がいるんでね、少し休んだらどうだといって遣りたくなるくらいだ。

────だがね、新城さん。この事件は、主犯を捕まえて終わりになる事件なのかな? もちろん捕まえてもらいたいよ。だが、この主犯の《上》に、もうひとつの主犯があるんじゃないだろうか。私はどうもそんな気がする。そしてその《上》か《下》かは知らないが、そこが押さえられないと、その主犯は見つからないんじゃないか────そんな老婆心がもたげるのだ。 …どうやら君は、私の言っていることが判っているようだね…」

伊達や酔狂で検事をやっていられるはずがなかったのだ。東京地検はそれほど甘くない。

新城はこめかみがぴくぴくひきつるのを押さえようもなかった。

しかしここでイエスともノーとも言えなかった。どこでどう《上》に漏れるか判らなかったから。だからこそ新城は自分の足でここにやってきたのだが。

「――――君はどうやら大変苦しい立場にいるようだ。」

やがて、老人は溜息を吐くように呟き、身を起こしながら落ち着いた声で新城に云った。

「いつでも検事をやめて弁護士で食っていける人間の言うことではないかも知れないが、迷ったとき、私は自分の死ぬ間際のことを考えて決めることにしている。私は後生が怖いのでね。棺桶に入るとき、自分が裁いた人間が目の前に立ったとしても、やっぱりオレの求刑は適正だったと言える検事でありたい。

君の友人を思う気持ちは分かる。私にも、友はいるから。その友にかかる非道が行われたとすれば、逆上しないでいられる自信はない。けれど私は司法に身を捧げた人間として、やはり一片の私心もなく、犯罪に見合った求刑を行えるようでありたい」

「あなたは…あなたは、こんな犯罪は大したことではないと云うのですか。この程度の悲惨はありふれていて、"それほど"の罪ではないと?」

「殺人に比べれば、ということだ。参考までに言って置くが、私が今までで死刑を求刑した事件は2つしかない。一人は叔母の家に金の無心に行って、その金額が思ったより少なかったからという理由で寝たきりの叔父まで殺して逃走した男、一人は少女ばかりを狙って4人の強姦殺人を繰り返した男だ。

いずれも更正の見込みがなく、反省の色もなく、被害者の苦痛を想像する能力が欠如していた。 だが今回の従犯は反省もしているし、もう二度とやらないと云っている。初犯だし…貧しい家庭で、両親は離婚、放任されて育ち、知能レベルも低く、倫理レベルはさらに低い。中学から悪い仲間に引きずり込まれ、そこで与えられる評価だけが彼を仲間として認めてくれた。正しい社会生活をおくれるように自己を育成するチャンスが彼の人生にはほとんどなかった。

――――私が弁護士のような口を利くと思っているんだろう?だが判事はこういう事情を斟酌するのが仕事なのだ。その判事の思考をよんで、妥当なところで求刑するのが私たちの仕事だ。」

検事は眼鏡を外し、疲れたようにしばし目頭を押さえた。

「このまま一杯まで求刑しても10年。執行猶予はつかないが、実際はせいぜい懲役7年がいいところだろう。 真面目に務めれば、数年で出てこれるかも知れない。

人一人殺しても、この国ではめったに死刑判決はでない。交通事故なら過失致死でも1年半だ。 被害者にはほんとうに気の毒だと思う。けれど、この国の刑法がやれるのは、ここまでなんだよ。」

  

  ***

 

室井は車を買った。

中古の白い目立たない大衆車を買った。

金を出しただけだったけれど。

     

  *

           

ごく短距離を使うだけだから、動けばいい。できればなるべく環境を汚染しないものがいいから、型は古すぎないやつで。外車はダメ。2ドアもダメ。RVもダメ。ミニもダメ。とにかくごく目立たない、普通の色で、普通の形のセダンがいい。100万くらいで買いたいんだけど。引き取りはあさってくらいまで。無理かな?

緑色のコートを着た男は凝った四駆で乗り付けたから、中古車屋の店員は首を捻った。

二台目を買うには遊びがなさすぎる。変な要求だ。そんな車なら溢れているから希望に添うのは簡単だけれど。

即金で払う、という気っ風のよさのかわりに、客は何台も試乗して足回りや頑丈さに注意していた。

車のプロではないようだが、人あたりの鋭さが素人ではないと思った。暴力団か警察関係かのどちらかだろう。売った車も、一度何かで使ったらお払い箱になるのかもしれない。

店員は二番目にお奨めの車を「これがお客さまの条件にいちばん合っていると思います」と強力に営業した。

彼は商品を彼なりに愛していたから、一度だけで潰されるなら、一番いいものを手放したくはなかった。

             

そうしてごく普通のありきたりのセダンは、ぴったり100万まで値切った青島の努力によって六本木にある室井の官舎に、翌々日届いた。

それは室井の仕事復帰の、ちょうど前日のことだった。

     

* *

        

家から出られなくなった(ということに室井は気が付いていなかった)息子のために、明子は生活の場を二ヶ月間、東京に移した。

その間、マンションを探し、家屋の売却に苦労して、引っ越しから親戚への対応まで、いっさいの手続きをしたのは慎一だった。そういうことは明子にまかせっきりだった彼は、生まれて初めて家計簿や電卓と格闘し、銀行や市役所で煩瑣な書類に何枚も住所と名前を書いて印を押した。

マンションを購入したとき、彼は後のことを考え名義に息子の名を書いた。相続税対策というより、息子に、「自分が所有している財産がある」ことを意識させたかった。

なんでもいい、要するに、彼らは息子を地上に縛り付けておくためのものをうずたかく積み上げて、二度と死のうなど考えないように、息子の意識を現世に向けておきたかったのである。

息子の「なにも家まで売らなくても」という反論を、彼女は屋敷の維持生活費に多少の粉飾を加えて提示することで、転居の必要性を息子に説明したが、息子は仄かに笑って首を振った。

「母さん達がおれのためを思ってくれてるのはわかるけど…」

明子は息子の細った姿を見る。

機械じみた微笑を、私たちを心配させないために浮かべ、茫洋と喋るようになった私の息子。

鋭敏な精神を宿していた瞳はまるで重要な部分が眠り込んだように霞み、こうして時折浮かべる歯を見せない笑みはくちびるの端に引っかかっているようで、本気で笑えないことを侘びているかのように自虐的だ。

「そこまでやって貰っては申し訳ないよ。」

救出後から、"申し訳ない"ということばが、室井の口ぐせになった。何をして貰っても、申し訳ない、と云う。

東京にずっといてもらって、申し訳ない。

父さんに一人住まいをさせて、申し訳ない。

事件以来ずっと迷惑かけて、申し訳ない。

なかなか精神的に立ち直れなくて、申し訳ない…。

「なにも申し訳ないことなんかないわ。それに、あなたが良くてもわたしがあの家はもうイヤなんです。売ると決まってせいせいしたわ。」

ぴしゃりと云えば、息子は溜息を吐いて苦笑するかに笑った。

母さんらしいね、という強情さに呆れたような微笑は、裏側に、どうでもいい、という投げやりさが同居していた。

              

    

ついに夫が慣れない「単身赴任生活」に倒れたとき、彼女は一週間おきに秋田と東京を往復するということになった。

今度は明子がやせる番だったが、それでも窮屈な舅姑との同居生活を20数年にわたって堪え忍んだ彼女である。彼女は息子に疲労を気づかせることなく、ついに高熱を発して倒れるまでの半年あまり、この不規則な生活を続けることになる。

ところで彼女がいない一週間は、青島が代わった。といっても毎日泊まれるわけではない。宿直があったし、特捜がたてば自宅にすら帰れないのが刑事だ。

けれど、明子が帰ってしまう月曜日には、必ず室井は精神的に追いつめられ調子をめちゃくちゃに崩したから、週はじめ、青島はそれこそ万難を排して六本木に通った。

もっとも室井はその青島の配慮に気づいていたかどうか疑わしい。会話らしい会話はほとんどなく、開いた瞳はどこを見つめるのか判らず、精神安定剤の効果なのか、感情が鈍麻しているらしかった。

ただ一つ面白いのは、食器を洗うという行為にだけは熱中したことだった。青島の分まで洗ってくれるから、これには恐縮だった。

「そんなの、自分でしますよ。」

「ついでだから。それに、君には世話になりっぱなしで申し訳ないし。これぐらいやってやる」

     

それからもう一つ、室井には趣味ができた。

アイロンがけである。

彼は週に一回、たっぷり一時間かけてアイロンをかけた。その隣で青島はテレビなどを見つつ室井を見守る。

洗濯物を出さないのは、それがたとえクリーニング屋であっても他人の手が触れたものを直接肌に着たくない、という理由だったということを告白されたのは、室井がだいぶん快復してからのことだ。

けれど薄々そんなことじゃないかと想像していた青島は驚かなかったし、それに、室井がなにか一心に行動しているのを見るのが青島は好きだった。

だからそれがたとえ、手首に包帯をした上司がシャツのアイロンを黙ってかけているという居心地の悪い情景に直面することであっても、室井からそれを取り上げることが、彼にはできなかった。

それに、このころの室井はテレビも新聞も見なかったし、音楽も聴かず、本も読まなかった。

夜9時までには帰宅し、適当に食事をとって入浴して洗顔を済ませたら、青色の薬を飲んですとんと寝る。

ただ食事をし、風呂に入り、着替えることに異常な時間がかかることを除けば、判で押したように、毎日、毎日、この生活の繰り返しだった。

                 

              *

       

室井には、この当時の記憶がほとんど無い。

いや、その言い方は正確ではない。 記憶しているのかどうか良く分からない状態だった。

事件の「犯行の記録」とでも云うべきことは、聴取する刑事に喋った。彼に喋れる限界の所まで喋った。 ただし、それは、すべてではない。すべてを喋る、なんてことは不可能だった。彼は事実だけを喋った。発狂しなくてすむ程度の事実だけを。受け入れやすい事実だけを。

嘘はついていない。ただ、「すべて」ではなかった、というだけだ。

「初めての面談のとき、あなたの顔は仮面をかぶったようでしたね」

今はそうではなくなったけれど、と、安藤はただでさえ細い目をほとんど糸のようにしながら云った。

「――――そうですかねえ?」

室井は首をひねる。まるで、陳腐な小説が「無感情」の人間を描写するときに使うことばそのままだと、口元が嘲笑に引きつれそうになるのを礼儀正しく隠して。

私は、あのとき、何も感じていなかったのだろうか?

「あのときは、先生に会うのが、怖かった」

「イヤなことを喋らされると、思ったんでしょう。そう思われても仕方ないのです。私も、この顔を見るたびにあなたがイヤ〜な気持ちになってらっしゃらないか心配なんです。」

醜い顔をすまなそうにくしゃくしゃにしながら、安藤は身をすくめた。

「イヤな気持ちにはなりませんよ――――来るときまでは、ちょっと気が重いですが。けれど、不思議に先生に会うと、会っているときはつらいんですが、二時間過ぎると、ほんとうにおかしいんですが、体が軽くなるように感じます――――母も青島君も、そう感じるようです。私は、行きと帰りじゃ歩く速度が違う、と」

何を喋ったり感じたり考えていたのか、思い出そうとしても思い出せない自分に困惑する室井に、感じたり考えたりしないように精神が自動的にブレーキをかけていたんでしょうと安藤は笑った。

ついでながら、青島すら、このころの季節の感覚は無い。

冬だったし、寒かったというのは記憶しているのだが、クリスマスのイルミネーションとか正月とか自分や室井の誕生日とか、そんな冬の風物詩よりも、感情が怒りと憎しみに振り切れていたようで、彼の方は精神安定剤ではなく、強力な胃薬の服用が避けられなくなっていた。

どんな華やかで明るい景色も、彼の尖った心臓の上を滑り落ちていくだけだった。

それは室井夫妻も同様のようだった。

      

* *

     

「一週間おきの参勤交代です。」

二週間にいっぺん、週末に秋田から東京に来て一泊し、妻とともにまた秋田へ帰っていく室井の父親は、青島にお堅い冗談を云った。

微笑する彼の髪は、もうほとんど白くなってしまっていた。

青島は、初めて会ったとき彼の髪が息子に似て黒かったことをぼんやり覚えている。

まるでこの一家には二ヶ月の内に10年分の歳月が一気に下ったかのようであった。

白くなった髪も。手や額に深く刻まれた皺も。その疲れたような、けれど誰かの為を思う、底を知らない優しい微笑も。

「今は飛行機も新幹線もあるから、楽なものですね。コンビニというのも、これまで使ったことがなかったのですが、あれも素晴らしいものですね」

妻のいないあいだ、コンビニに並ぶ出来合いの総菜や弁当でしのいでいるのであろう。

高齢の男が、要塞のような新築マンションで、がらんとした部屋にちぐはぐな和風の家具に囲まれ送る一人住まい。その侘びしさと困難さが想像するだにしのばれて、青島は何か適切な相づちを打つことが出来なかった。

「このまえやっと、段ボールがなくなりましたのよ」

けれど彼の妻は明るく口をはさんだ。

「まったくこの人はなんでも適当に押し込めるんだから困るわ。物には置き場所というものがあるのに、目の前に見えなければいいと思っているんですもの。クローゼットに調味料を仕舞った段ボールを見つけたときには、私、目眩を感じましたわよ」

「冬だったから、腐らなくて良かったな」

「何を他人事みたいなこと云ってるんです。私が気が付かなきゃ新築の家に虫が湧いているとこよ。清水から飛び降りるつもりで買ったマンションにさっそく虫がつくなんて冗談じゃない――――ねえ、青島さん?」

青島は肩をゆすって笑った。

「や、でも、よく入りましたよね、あれだけの豪邸の荷物。」

「豪邸なんかじゃ――――でも、だいぶ配ったり捨てたりしましたの。実家の蔵に仕舞って貰ったのもあるし、博物館に引き取ってもらえるものはそうして頂いたし、別荘に運んだ物もあるし…」

指折り数える物品の行き先に圧倒されながら、そんなもの全然いらいなからと、ぽんと他人にやってしまう室井夫妻の根性の座り具合に、青島は彼らの覚悟を見た。

                  

じゃあまた一週間お願いしますと室井夫妻が帰っていってから、青島は鉄製のドアにしっかりと鍵とチェーンとをかけた。

公務員の官舎に侵入する馬鹿などいないと昔は青島も信じていた。しかし今はそんなに無邪気ではない。

腹が、何か重油でも呑んだようにずっしりと重くなったが、けれど青島は真っ直ぐに彼らを見つめて、その覚悟を自分も引き受けたいと思った。やり方は違うけれども。

息子を守るためなら、彼らは最後の一円さえも惜しまないだろう。

そして室井を救うためなら――――いや、そんなことが出来る自分ではない。犯人に「法的に」報いをつけさせてやる、それしか出来ない。そのためには鬼にもなろう。

実際、憎しみが腸を圧迫するような黒々しさで盛り上がってきて、目の前が真っ赤になる気がするとき、青島は自分が鬼になっていると思う。

牙も角も生えてこないのが不思議なくらいだ。自分という人間が、こんなにヒトを憎むことが出来るとは思わなかった。

けれど歯がゆかった。

犯人を殺してやりたい。けれど、殺したからと云って、室井の傷は消えるのか。

否。

否…。

消えないのだ。

恐ろしいことに、この傷は消えないのだ。

何によっても補償不可能なものがある。それが罪だ。

なぜ犯罪がよくないのか、青島は初めて理解した。

なぜ「悪」が悪なのか、なぜ犯罪が「してはいけないこと」なのか、青島は、本当に骨髄に達する思いで理解した。

なぜ罪が罪なのか。

それは、埋め合わせが何によっても、不可能だからだ。

神さえも、犠牲者を救い、その痛みを代わりに背負うことはできない。

どんなに誰かがその苦痛のいくらかを担いたくても、どんなに本人がその荷物を下ろしたくて泣きわめいても(もしそうできればだが)、彼はその荷物を自分の背中から引き剥がすことは、どうしても出来ないのだ。

それが「傷」というものだ。その交換不可能性こそが、絶望的なのだ。

だが、この「傷」とて、殺人に比べればましである。犯人がどんなに侘びても死者は答えないが、精神が存在していれば、犯人の謝罪が届くこともあるかもしれないから。もっとも侘びることができるような精神構造を持つ犯人が、そもそもそんな犯罪を行うのかどうか、怪しいところだが…。

何によってもあがなえず、神すらも帳消しにしたり代わりになってやれない。

ケロイドを顔面に焼き付かせて生きるような日々だ。

その苦痛を他者に背負わせる行為を、犯罪という。

   

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20011006

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