suicidal tendency -自殺傾向-


           

暑い夏の昼だった。

私たちは南国の石灰質の土壌をもつ、海にせりだした岬にいた。

青い錆びたトタン製のぼろ小屋が、猫の額のようなそれぞれの畑を前に数軒、強い海風に倒されそうになりながら並んでいる。

               

白く埃っぽいあぜ道を、私たちは一列になって歩いていた。

灼熱の太陽が容赦なく大地と人々の頭を焼いて照りつける。

ごく稀にちぎれ雲が過ぎたときだけ、地上の影は薄くなり涼しさを一瞬だけ感じさせるけれど、それはほっとついた一呼吸を奪うかのような素早さで、大地は元のフライパンにもどる。

人々は嘆息する。その呼気すら暑さを増すばかりだ。人々の額から汗が吹き出す。

まとわりつくシャツが不快だ。

前の男が空気中にのこしてく微細な汗臭さが不快だ。

だが同じ事を後ろの男も思っているに違いない。

私たちは石のように黙って歩いていた。

               

やがて道は、汚れた茶色の糸で四隅を囲まれた、小さな盛り土の所でどん詰まりになった。

それは墓だった。

それは私の祖父の墓だった。

私たち親族一同は、その墓の前に「報告」に来たのだ。

私の、あの事件の「報告」に。

        

祖父はある意味で厳格な人だった。田舎だったし、狭い社会の中での地主なんてそんなもので、祖父は旧家の「体面」を何よりも大切にしていた……そう、「何よりも」。

だから私は幼いときから「家門」に恥じないように生活することを求められた。

本物の祖父の墓は、代々の菩提寺にある。だからなぜ夢の中ではそんな墓だったのか判らない。それは塚と言った方がいいような、粗末な盛り土だった。

私たちはその墓の前に立った。

私はどうすればいいのか分からなかった。

ただ何を考えているのか分からない親族たちの無数の目が、私の背中を圧迫するのを、まるで後ろに自分が目を持っているかのようにはっきりと明瞭に感じていた。

けれど私は動かなかった。

ぽたりと汗が顎先から落ちた。暑い。暑い。…なぜ私はこんなところに連れてこられた?

「さあ――――」

苛立ったように、一つの声が私の背中に吐き付けられた。

私は卒然として振り返って、救いを求めるように群衆の中に母の顔を探した。だが彼女はどこへ行ってしまったのか、私はついに見つけだすことは出来なかった。自分を囲んでいるのはしばらくあっていない余所余所しい親戚の顔ばかりだった。

――――母は私を置いてどこかへ行ってしまったのだ。

どっと、孤独感が押し寄せてきた。

私を最後まで守ってくれるはずの母が、ここに来ては呉れなかった。

オカアサン。

ドウシテ、ボクヲマモッテクレナイノ…?

ナンダカココハ、コワイ。コワイヨー、オカアサン。

            

 *  

                         

「さあ、はやく、お爺さまに報告なさい。」

威厳のある恰幅のいい男が、野太い声で叱るように言った。

彼は項垂れ、人々の視線の力に押し出されるように、すくみながら墓の前まで進んだ。心の準備が出来ていなかった。ひどく恐ろしかった。その墓にはもの凄い圧迫感があった。

イヤだ、何かイヤなことがこれから起きる気がする。

逃げ出したかった。

しかし背後からの圧迫感に退くこともかなわず、彼は塚に張られた汚れた紐に、恐る恐る触れた――――そのとたん、その盛り土の背後から、一条の黒い煙がしゅうしゅうと蛇のようにのたうちながら巻き上がると、唖然として見上げる室井の前にたちまち靄靄とした人の形の柱となるや、瞬く間に死者が塚の上に現出していたのである。

「お――――じいさま――――」

肩を怒らせ、仁王の顔が、憤怒に恐ろしく歪んで自分を見下ろしていた。それは雷のような大声で家族を叱責した、まさにあの祖父の霊だった。

顔面に朱をはいた“祖父”は、唇をわなわなと震わせるや、苛烈に怒鳴った。

『家門の汚れめ!』

室井の身体が大きく震えた。

『汚らわしい…!わしの墓にその汚い足を踏み入れるな!わしのまえでその汚い息を吐くな!』

喘いだ室井は震えながら地べたに額をこすりつけた。

「す――――みません、おじいさま―――――すみません。僕は家門を汚しました。」

警察官のくせに誘拐され。男として生まれながら犯され。それを世間に暴露され。そしていま、室井の名誉は地に落ちた。室井「家」の名誉は地に落ちた。

室井の脳裏にこれまでのいきさつが、早送りのフィルムのように走りぬけた。その映像は時折止まり、胸に残るやけどのような傷跡や従兄弟の憐れみの微笑や叔母の冷たい同情の辞や犯人の声やマスコミのレポートや青島の悲痛な目つきや、両親の皺の深い手を映し出した。

恥ずかしくて町を歩けないと言った従姉妹。テレビは恥ずかしくて見られないと言った叔母。職場では、室井とはたまたま同姓なだけの他人だと言うようになった叔父。

それもこれも、ぜんぶ自分のせいだった。

『馬鹿者め!貴様はなぜあのとき死ななかったのだ。生き恥をさらしおって――――!』

室井のかみしめた唇から嗚咽が漏れ、押さえようもなく涙が乾いた大地にぽたりぽたりと染みこんでいった。

「も――――もうしわけ、ありません…ぼくは…ぼくは、恥さらしです、それなのに生き延びてしまいました」

両腕のあいだに顔を埋めるようにして、土下座した室井は嗚咽から絞るように謝罪した。

それは本当に自分の疑問だった。なぜあの時に自分は死んでしまわなかったんだろう、という。

申し訳ありません、と泣く言葉の上を、黒い空気がさあっと薙いでいった。祖父の足が室井を蹴ったのだ。

『命汚い奴!潔さのない下衆め!貴様が儂と血が繋がっているかと思うとぞっとするわ――――!』

身体を丸めて転がりながら、室井はなおもしゃくりを上げて、すみません、僕は家門の汚れですと謝った。

そうだ――――なぜ、あの時自分は死んでしまわなかったんだろう?

室井は泣きながら思った。

犯され、なぶられ、人間としての最後の尊厳を失いながら、なぜ命だけのこってしまったのだろう?

なぜ殺して貰えなかったのだろう?

なぜ「悲劇の被害者」で生を終えさせてくれなかったのか?

生きていたいなんて思わなかったのに。

親戚達は彼が当然の罰を受けているのだと言わんばかりに、土下座し、泣いて謝る室井を取り囲んで、白けたように見下ろしているだけだった。

その冷淡さ。

…死んでいれば、殺されていれば、こんな侮辱を今なお浴びることはなかった。

室井は尚続く祖父の罵声を耳半分で聞きながら、ふと思った。

死んでいれば、こんな叱責を浴びることはなかった。

死んでいれば、世間の冷たさに気がつかずにすんだ。

――――なぜこんな目に遭わなければならないんだろう?

それは怒りだった。     

親戚中の冷ややかな視線を浴びながら、一人土下座し泣いて許しを乞うている自分が、いったい犯した罪とは何だったのか?

――――けれど、室井家の名誉に傷を付けたのは、確かに自分がこの世に生き残っているからだった。

     

人々は地面にしがみついて泣く室井を、面倒くさそうにしらじらと見下ろしていた。

しかししまいに、青島が怒った口振りで言った。

(この時初めて、室井は青島がこの「裁判」に参加していたのだと知った。)

「あんたが謝る必要なんかない。あんたは被害者なんだから、なんでそんなこと言う。」

室井は汚れた顔を上げた。

その質問はその場からとても浮き上がってみえた。

それでも彼から常にそう言われ続けてきたことを不意に思い出し、青島が自分を励まそうとしているのもわかったが、室井は「そうだ、私は被害者なんだから、謝る必要はないんだよな」と言う代わりに、いつものように答えた。

それは甘えだった、青島からより一層の慰めを求めるための。

「どうせ、私は生きる価値のない人間だから。」

いつもそう言うと「そんなことない!」と返る反応が、今日は違った。

いらだちが頂点に達したらしい青島が、鋭く非難の言葉を吐いた。

「本気でそう思うなら、じゃあ死んでしまえばいい―――そうする勇気もないくせに!」

その言葉は室井の心臓に突き刺さり、室井は汗ばんだ頭髪の下に、怒りで蒼白な彼を見上げた。

室井はその茶色の荒んだ目の中に、自分の今の発言に対して一片の後悔もないことを見て取った。

すると、室井の中にある満足な心持ちがぱあっと生まれて、彼はほとんど大喜びで両手を打ち鳴らし、こう云いたいくらいだった。

「ついにお前は本音を言ったな!ほらみろ、やっぱり俺の思った通りだ!お前もやっぱりみんなと同じさ!」

青島の献身に際限なく甘えていながら、室井は「絶対にこいつは最後は俺を見捨てるに違いない」と確信していた。その予想が裏切られなかったことに、室井はとても満足したのだ。

と同時に、まるで果てしないサハラの大砂漠を抱えたかのような、だだっぴろい「空虚さ」が、ザアっと心中に広がっていった。

そこには誰もいない。乾涸らびた大気と、一本の道もない大地と、天井知らずの空があるだけだった。

――――ついに自分は、独りになった。

ふと手足が、頭が、急に抜けるように軽くなるのを感じた。

ここ数ヶ月、身を引きずるようにして生きてきた。まとわりつくものを払い落とせずに、ぼろぼろの布きればかりを身につけて。石を投げられ、唾を吐きかけられ、汚泥に漬かりながら生きてきた。けれど今、全ての糸やしがらみが全身からほどけおちた。それは幸福な開放感だった。

室井は視線をずらし、陽に光る岬の先端を見た。その向こうには青色しかなかった。突き抜けるような青さを抱いた空しかなかった。

―――――よかろう、なら死んでしまおう。

もうこれ以上私を助ける気がないんなら、私が死んでしまえばすべてすっきりするだろう?

あてつけるような気持ちは、確かにあった。だが自己を亡ぼすきっかけが、突然の祝福のように訪れたから、それに飛びついたというのが一番正確だった。

「じゃあ、そうする。それじゃ。」

死への恐怖?

もちろんあった。

だが彼はためらいが忍び込むより先に、てくてく歩いて岬を囲むさびた白い柵まで進んだ。

みんなはぞろぞろついてきた。 本当にやる気か、とこちらの気持ちを推し量るような気配があって、室井は彼らを冷笑した。

――――きっと、彼らは私が何か劇的な言葉を言うだろうと期待しているのだ。

死をもパフォーマンスにすることを期待しているのだ。 だがおあいにく様だ。私には、もう言いたいことなどなにもない。

室井はカンカン照りの太陽の下、あぜ道を柵まで普通の歩調で歩いて登り――――

そして、ガードレールをまたぎ越えるように、「柵」をこえた。

落下感覚。

視界いっぱいに蒼い蒼い海と、白い波頭の砕ける岩礁が広がる。

あっけないものだ。

死ぬなんて、存外簡単にできるものだ。

彼は安心した。

           

もうこれで、みなさんに迷惑をかけることを終わりにできました。

                   

   *

    

「――――それで終わりですか?」

「ええ、夢は。でも続きがあります。私が本当に死ななかったのは、たぶんその後の現実のおかげです。」

      

   *

                

がくん、と室井の体はベッドの上で大きくはねた。同時に目が覚めた。

体ががちがちに強張って、ぜい、ぜい、と荒い息を胸郭が繰り返していた。

「―――――大丈夫ですか」

遠慮がちな低い声が、室井の隣で聞こえた。室井はぎくっとして振り返った。素早い動作とはいえなかったが。

「…あお…」

つい今し方自分に自殺を決意させた男が、ベッドの脇に座って間近から室井を見ていた。そして室井は、傾けた視界の先で、枕元の自分の左手がしっかりと、青島に握られているのを知った。

「…青島。」

つぶやくと、青島は両手に包んだ室井の左手を持ち上げ、壊れ物を扱うように、そっと少し曲がった左の指に口をつけた。

「…ひどい夢を見ていたみたいで…起こそうか迷ったんですけど。」

「今―――――今、」

室井は手をそのままに枕からいざり上がって身を少しもたげた。視線の位置が同じになった。

「はい」

室井は穏やかに見つめ返す相手の鳶色の瞳にさきほどの灼熱の太陽と青い空の下で見た男の影を探した。

だがそんな男はほんとうに夢のように消えてしまっていた。

「君が、死ねばいいという夢をみた。」

自分でも言おうとも思っていなかったはずの言葉が滑り落ちた。

「―――――は?」

瞬間、青島の顔が悲しみで曇ったので、室井は急いで付け加えた。

「違う、君が死ねばいいと思ったんじゃなくて、君が私に私なんか死ねばいいと言ったという夢をみ…」

言いかけた言葉は最後まで持たなかった。突然青島が室井を抱き寄せたからだ。

ぎゅうっと押しつぶされるほどに強く抱きしめられて、室井はただびっくりしていた。

「―――――どうして、俺が―――――」

青島の声が震えていた。

続きは聞かれなかった。  

     

****

          

「彼がそのあと、なんと言いたかったのか判る気がします」

室井はさめかけた珈琲カップの手前で軽く両手を組んだ。

「あの夢は私の深層心理という奴でしょう。」

「あなたはどういう風にその夢を解釈されたのですか?」

「心理のプロに自説を披露するのは気が引けますね。」

室井は苦笑を浮かべた。安藤は温かい目で、

「この分野では違いますよ。患者さんがもっともその病気のプロなんです。差し支えなければ、聞かせてください。」

促されて口を開き掛け、そして室井はふと思い立ったように訊ねた。

「先生、私は―――――その、おもうのですが、こんな話を聞いていて、先生は苦しくないのですか?こんなイヤな、暗い話を聞いていて。―――――先生はどうも、私の気持ちが“判る”人のようです。だったら、余計に、辛くはないですか?」

安藤は頬笑んで見せた。患者達はみな、こう言うのだ。

PTSD保持者は、最初、自分の感じる苦しみなど言葉や表情では表現できないし、またたとえ出来たとしても、それは誰にも判って貰えないほど酷い出来事だったのだ、と信じている。

だがそのうち“この医者はどうやら判るのかも知れない”と思い始めると、今度は“自分はこんなに辛いのに、それが判るあなたはなぜそんなに平気な顔をして座っていられるのか”と、まるで一つの奇術を見ているかのような面もちで、こうたずねてくるのだ。

「私は全然辛くありません。そういう訓練を受けているのです。今日も午前中、ある事件のせいで家から一歩も出られなくなった患者さんの話を聞いてきましたが、でも私はぜんぜん辛くないのです。犯人に怒りも感じますし、お気の毒と思い同情もしますけれど、寄り添うのといっしょに落ち込んでしまうのは別のことなのです。」

安藤ははっきりと、噛んで含めるように説明した。

「そんなものですか…」

室井は憧れるように安藤を見た。黒い大きな瞳に見つめられて、安藤は少しどぎまぎした。

「いつか、あなたもそうなります。今は火傷したような状態で、何にでも過激に反応してしまいますが、薄皮が剥がれるように、思い出しても事件の痛みがそれほど激しく感じなくなる日が来ます。」

「そんなことが自分の身に起こるとは到底思えません。」

また硬い顔に戻った室井を前に、安藤はおどけていった。

「まるで別の世界のことを話されているように思うのでしょう?」

室井は目を見開いて安藤を見た。

「その通りです。よくおわかりですね―――――みんな“そう”なんですか?」

室井の質問には期待が混じっているようだった。

「ええ、みんな同じです。ただ、焦らないことです。そうなるには何年もかかることなんですから。」

「どれくらいかかるんでしょう?」

「そうですね。最低でも3年か、4年でしょう。」

「そんなにかかるんですか!」

それは、そんなに苦しまねばならないのか、という質問と同じだった。 安藤は安心させるように言った。

「劇的に直るのではないんです。ある朝、目が覚めたら、風邪が治ったみたいに元気になってる、というようなことはあり得ません。でも少しずつ、少しずつ、だんだんと直っていくんです。毎日毎日、ちょっとずつね。当然、時間がかかります。でも急に直そうとか頑張ると、余計に酷くなりますから、とにかく頑張ってはいけません」

この患者に“頑張るな”というのは、ウルトラマンに「戦うな」と命ずるようなものだが。 患者は難しい要求に眉間に皺を寄せて考え込んでいる。

「でも、病院に行かなければならないとか、そういう時間は短いですよ。私に会いたくなければ会わなくてもいいんです。
上がったり下がったりしながら、だんだん良くなっていきますから、私が必要な時は今日から何ヶ月後であっても会えばいいし、会わなくても大丈夫だと思えば、もう会わなくていいんです。」

「そんないい加減でいいのですか。」

「いいんです。」

安藤はきっぱり言った。

   

  

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20010227

    

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