shadow


            

ずぼり。

膝上まで、雪に埋まった。

ずぼり。

雪原はゆるやかな起伏をうねうねともりあげ、視界の切れる丘のさきっぽからひろがる空は、これ以上ないほど青く透明に澄んでいる。

呼吸するたび鼻の奥がしびれるほどの凍気が出入りして、彼は、カサカサに荒れて乾いた唇を舐めた。

ずぼり。

疲れた。

中天にかかる太陽は容赦なく頭上から照りつけ、暑さを持たない光線の鋭さに、彼は目を細めた。

曇天をかろうじて透って地上に届く、秋田の弱々しい薄光とは違う。彼の影を地上に縫い止めるほど強い光は、目に見える限りの雪面にはね返り、乱反射し、一つ一つの結晶が、まるで粉々になった鏡の破片を辺り一面にぶちまけたようにギラギラと輝き、眼底が痛むほどだった。踏めばパキンという音がしないのが不思議なくらいだ。

ずぼり。

それでも彼は進んでいた。

やっとここまで…。

ずぼり。

「ここ」がどこなのか、正確に知ってはいなかった。彼は足だけの存在になってしまったかのように、とにかく進むことしか考えていなかった。

眩しい…。

ずぼり。

ひどく疲れていた。

胃液があがってくるような疲労に思考がゼロになっていく。

――――おれはなぜ、なにを探してこんな山ン中を歩いているんだったけ?

  

自身に尋ねすぎて、もう形式的記号に近づきつつある疑問だった。それほど彼は長い間、何度も、この疑問をお経のように繰り返し尋ねていたのだ。そして以前は即座に浮かんだこの問題に対する解答は、このところ次第に、導き出されるまで暫くのタイム・ラグを産み始めていた。しかし彼はそれに気づいていない。

ずぼり。

…ああ、そうだ、そうだった。室井さんを探しているんだった。…なんでそんな大事なことを、俺は一瞬でも忘れてしまったんだろう? いそがなければ。いそがなければ。室井さんはあそこにいるのだ。俺を待っている。俺を呼んでる。泣いてる、あんな声で、そう、あんな風に…。

ずぼり。

だしぬけに、ばさっ、と羽ばたきのが間近に聞こえ、はっと青島は足を止めた。

ばさっ、ばさっ、という強い羽音は、背後からまるで彼におそいかかるかのように近づいてき、青島は反射的に頭をかばうように腕をあげ、腰を沈めて振り仰いだ。

すると頭上ちかくを巨大な鳥の影が、太陽を背景に一直線に飛びさり、そしてその黒い影は10メートルほど先に立っている、これまた影そのもののように真っ黒な木に、大きな翼をふわりとしまい込みながら舞い降りたのである。

カラス? それにしては――――とよく見ようと目を凝らしたが、ところがその黒鳥は、木の枝に止まると同時にぐずぐずと、まるで墨汁でできたヨーグルトみたいに柔らかくなり溶けていくのだ。

目を疑う青島の視線のさきで、それは大きな軟体動物のように平べったい黒い紐になると、枝から地面にぺろんと伸び、そしてついに自分の重さを支えきれなくなったように、ぽたり、と地面に落ちた。

おどろき呆れ、青島が唖然として立ちつくしていると、その黒いのし餅のような物体は緩慢にゆらゆらゆれながら立ち上がり、そのうちだんだん人の形をとっていき―――いや、いつかそれは、人そのものになっていた。 気づけば、黒いだぶついたコートを着た男が、ポケットに両手を突っ込んで、黒木の横にひっそりと立っていたのである。

「やあ――――」

たいして面白くもなさそうに、その男は云った。

「ご苦労さん。」

初対面と思えぬ挨拶である。青島はめんくらった。考えるまでもなく、自分にはこんな妙な登場の仕方をする知り合いはいない。なのに、どうもこの男は知っているという確信があるのだ。

もちろん友人でもないし、署の壁に貼ってあって、もう長年の知人のような気さえしてくる指名手配犯の顔でもない。ただ、もっとずっと昔に住んでいた街で、たしかにこいつとは何度もすれ違ってきた、というような、奇妙な既視感があった。

青島は、精悍だけれど、やつれて、不機嫌で、実際より少し老けてみえるようになった顔を微かに歪めた。

青島はよほどでないと人を第一印象で「嫌い」に区分しない。けれど、彼は、どうもこの男はイヤな感じがした。なにか危険な印象を受けた。だから彼は男をじっと見返しただけで、つけ込まれるような言動をしないが得策だと、自らも影のように黙りこんだのだった。

「ちょっと、聞きたいんだが」

しかし睨みつける先で、黒い男は青島の非友好的な沈黙を全く意に介さないで、ぽりぽりと頭を掻きながら続けた、

「じつは、あんたに答えて貰いたい問題があるんだ。」

青島は不快になった。 口角がそれを示してぎゅっと下がり、彼は肩を尊大にゆすぶって嫌悪を露わにした。

――――問題だと? 迷惑千万だ。

なにがそんなに〈問題〉なのか知らないが、俺はいまとても忙しいんだ。…なんで忙しいのかちょっと忘れてしまったが。 とにかく、こんなへんてこな野郎に掴まって、時間を無駄にすることは絶対に出来ないのだけは確かなのだ。俺にはすべきこと、行くべき場所があるのだから。

彼は男を無視して、コートのジッパーを一番上まで引き上げた。冷気が入り込んでくる。こうも晴れているのに、一体どうしてここは、ちっとも温かくないんだろう?

「俺の知ったことか。悪いが、そこをどいてくれ。」

ちっとも悪く思っていないのを隠しもせず、青島は男の方へ脅すように一歩踏み出した。

ずぼり。

足が雪に埋まる。

そして、ふと考えてみればここは雪原なのだから、道なんて在って無いようなものだ、と考える。つまり、自分はこの男をよ避けていくこともできるわけだ。 けれど、なぜか、彼はこの男が自分の進むべき進路上に、けったくその悪い黒い木をわざと生やしたような気がしていた。

男は青島のボルテージが上昇していくのに反比例して、ますます濃さを増し、沈んだ声になっていくようだ。

「聞きたいのは、」

距離を詰めても顔が判らないのはいぶかしいことだと思いながら、男を無視して通り過ぎようとしたときだった。

「室井さんについてなんだが――――」

だしぬけにぽんと、男は彼が死に物狂いでさがしている人物の名前を舌に乗せた。するどく振り返る青島の視線の先で、男はやはり、憂鬱げに呟いた。

「一体おまえ、彼をどうするつもりなんだい?」

一瞬、雪面が巨大な刃と化して、鉛色に輝いた気がした。

青空がぐらりとかたむき、そのトルキッシュ・ブルーの虚飾を脱ぎ捨てて、濃い濁った闇の色をその背後に浮かび上がらせたような…。

――――もしかして、この雪の下の大地は血のように赤いんじゃないか? ふと、突拍子もない考えが浮かんだ。 そしてもしかしたら、自分は雪のうえでなく、室井の肌の上に立っているのじゃないのか? この雪を掘れば室井の内部に到達するのではないか? この皮膚を破れば、温かい彼の血潮が吹き出すのではないのか――――?

「守るさ。」

自分の声は幻ではなく彼の鼓膜にちゃんと届き、肺から吐き出された息は、冷気に白く濁った。

そうだ、そうだ。これが現実ってやつだ。

雪が肌だの、地面が血の色だの…今おれは彼を捜しているんじゃないか。俺ときたら、ずいぶんおかしなことを考えつくもんだな? 青島は不思議にリアルな幻覚を完全に沈黙させるため、声をいっそう励ました。

「俺は彼を救う。当たり前だろ。」

すると、とたんに黒い枝えだから、いくつものコブシ大の黒い鳥たちが、ぽこぽことまるで生えるように産まれたのだ。そしてみるみるそれらは、芽吹くようにがふくらみ、花弁が開くように翼を広げはじめた。 異様な光景に息を呑み、反射的に彼が拳銃に手を伸ばすと、

「うん――――なるほど、なるほど。」

男はその方へちらりと視線を送り、ますます陰気な風になって云った、どうも気が進まない、という風情だった。

「しかしねぇ…、おまえは一回、その手を放しただろう?」

ほとんど鳩尾に一撃を食らったかのように、青島は呻いた。 それはあの時室井の別荘で、彼を置き去りにして逃げたときのことを指しているのだと、彼にはすぐに判ったからである。

「…なんで貴様が、」

――――なんの権利があって、貴様は他人の傷口に指を突っ込むような真似をしやがるんだ?

臓腑を灼き上げる後悔。おのが卑怯さへの憤り。全てを捨てて死を望んだ室井への怒り。哀しみ。そして、恐怖。

あえて言葉にしてお前の感情を説明せよと云われたら、これらの単語に変換できるのだろうか?…わからない。

ただ、おそらくそんなパーツに分けるより、自分のあの時の感情は、土にしがみつき怒号した、「オネガイダカラ…オネガイダカラ!イカナイデ、オレタチヲステテ死ンデシマワナイデ、ムロイサン!」に集約される気がする。

青島は今でも、あの時のことを思い出すと、唸り、髪を掻きむしり、ころがり回り、それでも足りないときは壁に頭をぶっつけて、物理的な痛みで内面の苦痛を代弁させ過ごしてきた。

事情を知らぬ人間が見れば、気がふれたと誤解してもしようのない狂態を晒してきた。 それはじつに、形容しがたい感情のうずだった。

そしてそれこそが、塞がれず、ぐじゅぐじゅと化膿し続ける、青島の内部についた傷口だったのである。

「もう二度と、逃げるものか」

ぎりぎりと、歯を食いしばって青島は応じた。眼光で人が殺せるなら、男はきっと即死していたにちがいない。

「おいおい、そんなこと簡単に云っちゃっていいのかい?」 けれど男はますます、物憂げに、軽薄な口調の似つかわしくない声で囁いたのだった。

「だいたいおまえの結ぶ〈約束〉は、時に余りにも軽薄すぎないかい?」

「なんなんだ、てめえ?」

詰られるならまだしも、その言葉は〈衷心からの忠告〉、とでもいうべき色合いを帯びており、青島は怒りをすかされ、鼻白んだ。

なんでこんな野郎が「忠告」なんぞするものか?

「うん、つまりだな…あの例の約束…室井さんとのあの古い〈約束〉ね。それから今回の、〈彼を守る〉とかね――――どだい美辞麗句に過ぎないことを、なんでわざわざ宣言する偽善を重ねるのかと思ってさ。」

青島はぎろりと目を剥いた。

「だって、あんな約束、はなから実現させるなんて無理だって、おまえだって、判ってたことだろ? お前はしょっちゅう「約束、約束」って云っていたけど、それは彼とお前との間のほっそいきずなを確認する以上の意味があったとは思えないしさ。それに、彼にたいする〈愛惜の情〉とやらいうものもね、いろいろ誤魔化しているけれど、実際は喰ってしまいたいっていうような愛情なんだろ? そういうのって、もしばれちゃったら、室井さんには酷い裏切りになるんじゃないかなあ。」

「…………」

絞め殺される寸前の鶏のごとく、呼吸もできずに凍り付いた青島を憐れむように、男はちらちらと彼を盗み見ながら続けた。

「だって、今じゃおまえは彼にとって〈保護者〉どころか〈加害者〉だもんな? まだ実際にやってないってだけで、お前はこころの中じゃ、何度も彼を侵した奴等と同じコトをしてるじゃないか。

――――まあもちろん、考えるだけなら自由だよね、頭の中ではどんなに彼にイヤらしいことをしたり、させたり、しててもさ――――だけど始末に負えないのは、表向きはお前が「親切」とか「友情」とかいうお綺麗な仮面をかぶり続けておきながら、本当は大悪魔だってことじゃないのかなぁ。

その点から見れば、奴等のほうが正直っていえば正直さ。奴等はけだもので、自分をけだものだと知ってて、けだものに相応しい振る舞いをしたわけだから。 けどお前は彼ばかりか、自分までも、俺は善人で保護者で正義の味方だって騙くらかしてるんだ。そうだろ? 自分でついた嘘を自分で信じてるんだよ。それって、単なる嘘より罪が深いよねえ…。」

「………」

昏倒しそうなほど青ざめ、彼は口を両手で覆った。吐き気がこみあげた。

男の云うことは恐ろしいほど正確に、彼の中にあるいちばん暗い部分を刺し貫いていた。

俺は――――俺は――――いや違う、俺はそんなつもりで彼を見てはいない!

だが〈青島〉は叫んだ。 やっきになって、自己を正当化する言葉を喚きだした。

違う!俺はただ、傍にいて、守ってやりたかった。助けてやりたかった。それだけだった! 大丈夫だと、俺は絶対にあんたを傷つけないと、絶対に見捨てはしないと、何度だって繰り返して、飽きるまで繰り返して、そうやって俺は、室井さんを救いたかったんだ。

男の顔は黒いばかりで、青島にはそいつが冷笑を浮かべているのか憫笑を湛えているのかは明らかではなかった。ただ〈青島〉は全世界に向かって抗弁したい欲望に突き動かされていた。

そうだ、もし神なぞ信じない、と彼が頑なに首を振るなら、いいや神はいる、と俺は繰り返した。

もうなにも信じられない、と泣くときは、いいや俺だけは違う、俺だけは裏切らない、だから俺だけは信じろと、そう云って何度しっかりと抱きしめ、彼をこの世につなぎ止めてきたことか?

そうとも、俺はいっそ必要ならば、彼の「信ずべき神」にもなったろう。彼を救うために神が必要なら、俺がその神になってやる。それがどんなに険しい道のりであろうとも、彼に命を与え、立たせ、歩かせ、そして再び世界に引き戻してみせる。生き延びさせてみせる。

――――その俺がなぜ、彼を騙す?

――――ほんとうかい?よく考えてみてくれよ。

嘲笑するかのように男は云った。

そんなに自信たっぷりなら、じゃあ質問だ。

質問・その1。抱きしめるとき、おまえの中に、全くぜんぜんそういう欲望がちらともかすめなかったと、神に――――いや、あんたは自分が神なんだそうだから、それじゃ「室井さんのいのちに誓って」言えるかい? 

よーく思い出してくれよ、例えばあの時さ。彼の夢の中でお前が、室井さんなんて死んでしまえばいいと云ったと、そうして彼が飛び起きた、あの時のことさ。それとも、雨の中錯乱して飛び出していった彼を羽交い締めにしたときはどうかな? もっと戻ってもいいんだぜ、あの炎の中、犯され、傷だらけになて横たわる彼の裸体に、お前はなにを思ったかな…?

質問その2だ。そういや、耳をかすめた彼のあたたかい呼気に、身が火照ったことはなかったかな?(俺は知ってるんだぜ。)

あいつらや、他の見知らぬ連中の、彼を見る視線の中に、彼について語る口調に、好色な、彼の服の中身を想像するようなひびきを感じたとき、なぜお前はそんなにも怒りを覚えるのかな?――――まるでお前には、彼らがなにを考えているのか、すっかり正確にわかってしまってるみたいじゃないか?

質問その3だ。今の親切が、未来で何か親密な形の報酬で支払われることを期待したことはないかい? もしくは今のお前の嘗めている辛酸が、他者からの名誉ある賞賛や感謝の念で贖われることを望んだことは?――――室井夫妻はお前にずいぶん感謝してるよね。もしかしたら、息子があんな目に遭ったのは、果たされることを期待していない「約束」なぞを彼に課した、お前のせいかもしれないのにさ!

「…あれ、顔色がわるいね。てっきりもう気づいてたんだと思っていたんだが、違ったのかな? …なあ、そう目を白黒させたまんま黙っていないでくれよ。あ!もしかして、今更、お腹の中に棲んでる悪魔をおれに指摘されたからって、怒ってるのかい?おいおい、そいつはよしてくれよ、俺の知ってるお前は、そこまで偏狭な男じゃなかったはずだろう?」

「…おまえは、」

誰だ、と霞む視界のなか、立っているのがやっとで青島は喘いだ。 男は次第に輪郭が明瞭になりつつあるようにみえた。 ただの黒い影が濃淡を生みはじめ、高い鼻梁や突き出た頬骨、彫りの深い眼窩がまるでピントを合わせていくようにはっきりとしてくる。

しかし同時に自分の視力が急速に劣化していくのだった。 見え始めた男の唇が言葉をつむぐのを、青島は倒れそうになる体を必死で起こしながら注視していた。力が流れ出すように抜けていく。

まるであの時のようだ。あの、腰を刺されて、マンションの薄ぐらい部屋の床に倒れこんだとき。

不思議なことに、なぜかあの時自分は、カーペットの荒いちくちくする肌触りだけをリアルに感じた。すみれの声も、母親の叫び声も、踏み込んできた刑事たちの怒号も遠く…ああ、けれど、あの時、俺をむち打つように正気に返らせたのは、彼のあのめいっぱい見開かれた黒の瞳だった…。

「おれかい?俺が誰だか判ったら、おまえはなにかほっとしたり、がっかりしたり、心配したりすることが出来て嬉しいのかな? だって俺の名前が判ったって、逆に判らなくったって、事情はなにも変わらないんだからね。…でもまあたしかに人間にとっては、〈判らない〉っていうのがいちばん不安で気持ちが落ち着かなくて、厄介なものなんだよね。AイコールA、BイコールB。かくて世界は明瞭に分割される――――Q.E.D.さだめしおまえも人類の例外じゃあなかったんだなぁ。」

「…お前は、悪魔か。」

「ははあ、そうくるか。だとしたら、おまえは心配かい? それとも、なるほどって納得してほっとするのかな。でも残念ながらおれがなに者かを決めるのはおまえ自身だし、おれはそれまでは天使でも悪魔でも、まして神でもないんだよ。だから好きなように呼べばいいし、それに、なんだったら呼ばなくてもいいんだ。」

「これは夢だ。」

男は大喜びして答えた。

「そうとも!大当たりだ!でかしたぞ!もちろんこれは夢さ。けれど夢ってのは、みんながそう信じているように、非―現実でもノン無―センス意味なイメージのゴミ溜め集積所ってわけでもないのさ。

夢は記憶さ。〈経験〉なのさ。ふつう経験の集積を人生っておれたちは呼んでいるんだから、だとすりゃ夢も立派に人生なのさ。だから人生は夢だっていう言い方は、レトリックなんかじゃない、まったく現実的リアルな真理なんだね。」

「なんだか、俺にはわけがわからなくなってきた。」

青島はいつのまにか、雪の中に両手と両脚をついていた。 青白い氷の結晶が、ついた両手の間に落とした視線にきらきらと拡大して映った。雪の冷たさを感じなかった。

彼は頭を振った。眠ってしまいそうだ。 男の近づいてくる気配がする。ブーツの先が見えた。黒だと見えたコートは深い緑色をしていることに青島は初めて気が付いた。彼はのろのろと上体を起こした。

「大丈夫かい?きっと疲れてるんだ。そうだろう?」

まるで宇宙服を着ているみたいだ。それだけの動作がたまらなくだるい。

「ああ、たしかに…」

おれは疲れた。

彼は閉じそうになる瞼を必死でこじ開けようと努力した。

そうだ、おれは、色々なことに怒り、走り回り、がむしゃらに働いた。室井さんがいなくなってから…いや、室井さんが帰ってきてからも。

進展のない捜査のことを思った。拷問のような裁判を思った。生きながら死んでいるかのような室井を思った。怯えて震えている手負いの獣のような彼を。

そしてその彼の周りにうろうろして、なにをどうすればいいのか判らぬながら、出しては手を引っ込めるような、しかし視線だけはずっと離すことは出来ない、そんな生活を。

俺はあれ以来、24時間を自分以外の人間のために使ってる。

これで疲れない人間がいるだろうか?

そうとも、俺は疲れたんだ。これで疲れない人間がいるのならお目にかかりたいくらいだ。

黒い男はうきうきと聞いた。

「じゃあ、きっともう、やめたいだろう?」

青島は考えた。 二律背反な生活。 伸ばさずにいられず伸ばす指先を、自分で切り落としていくような日々。

けれど。

「…ノーだ」

「なぜ?」

聞き返す男の声に、意外そうな響きはなかった。 それどころか、ひどく苦しげな厳粛さがあった。はなから諦めていたような、それでもかすかな希望を持っていたけれど、やはりそれが裏切られてしまった、というような。

なぜって? 夢の中で、声は奇妙に反響する声でたたみかけた。

《なぜだ?》

「――――うるさいな。なんでお前にそんなこと答えなきゃならない?―――そんなこと警官として、人間として、困っている人を助けるのが当たり前だからに決まってるじゃないか。」

ぽこり、と木の枝からまた一羽の鳥がうまれた。 そしてつぎつぎに枝から真っ黒い鳥の花が生まれていく。

「嘘だ」

「黙れ!」

青島は地団駄を踏んで怒鳴った。数十羽がいっぺんに鳥になった。 「なんでお前がそんなことを知ってるんだ!」

 《俺はおまえだからさ》

いんいんと響いたその言葉に、青島はやっと、不可思議な安堵感が湧いてくるのを知った。そうか――――お前は、おれか。俺自身なのか。

男は急速にその影を失い、濃淡がくっきりと色付けられ、そして灰色のヴェールを取り去るように忽然と現れたのは、自分が鏡でよく会っている男の顔だった。

『まだお前はさっきの質問に答えていない。――――さあ、立てるか?』

ひやりとした「影」の手が肘をささえ、青島はよろめきながら立ち上がった。

「親切なことだ――――質問って?」

『室井さんをどうするつもりなのか、という質問だよ。忘れっぽい男だな』

「お前は俺なんだからとっくに知ってるんじゃないのか」

目眩がするような青い空が雪原の上に広がっている。

『言い方をかえよう。お前は《室井さんをどうしたいのか》?』

「どうもこうも――――このままいくさ」

『鳥が増えるよ』

いいざま、数十羽の鳥たちが一斉に空に舞い上がった。一瞬空が暗黒に染まるほどだった。

「なんだこの鳥…」

『質問を変えよう。《室井さんを抱きたくないのか》』

青島は猛然と腹が立って怒鳴った。

「下衆な言い方はやめろ!俺は必要最低限しか触れてない。俺はあいつらとは違う!」

耳を聾するばかりの鳥たちの羽ばたき。

『…嘘をつくたび、あの鳥は生まれるんだ。その調子だと、いずれ空が真っ黒になってしまうよ』 男はうんざりしたように教えた、 『そうすると俺はあの中に呑み込まれてしまう。俺はこの世界で《悪》になり、お前はお前の世界で《善》になる。――――恐ろしいことだ。…恐ろしいことだ。』 「知ったことか」 恐ろしいほどの鳥たちの羽ばたき。もはや空も、あれほど輝ていた太陽も見えない。 《質問に答えよ》 視界全部が黒に染め上げられていく。眼球自体が黒い墨汁に沈んだかのようだ――――。 《答えよ》 青島はついに目を開けていられなくなって瞼を閉じた。 倒れた雪面には、だがぬくもりがあった。ゆびさきに触れた雪には、けれど弾力があった。 彼はまぶたをこじあけた。口になまぬるい液体が流れこんだ。彼の舌はそれを味わった。血の味がした。

《…アオシマ…》

自分の下で、裸体を血に染めて、室井が横たわっていた。

―――――――おお、神よ!

  *  *  *

「なるほど。よくわかりました。」

虎ノ門病院の診察室で、青島刑事は疲れ切ったようにソファに沈み込んでいた。

室井警視正の退院から、もう半年が過ぎ、室井のカウンセリングも始まっていたが、今日はとつぜんふらりと、青島刑事本人が診療にきたのだった。

「…先生、おれは、自分の《影》と話したんでしょう? あれが、おれの無意識なんでしょう?――――ほんとうに、最低だ。自分自身の汚らしさには反吐が出る。」

コップを握りしめて青年は陰気に呟いた。

安藤はその意見には同意しなかったが、あえて訂正はしなかった。訂正は自分でしなければならないものなのだ。

「無意識というのは意識で捕らえられないから無意識なんですよ、青島さん。まあ確かに私たち精神科医は、夢が無意識をとらえる手がかりになるとは考えていますけどもね…。  ところで、どうしますか? とても分かり易い、単純な夢ですが、あなたには私の意見が必要でしょうか?」

「単純――――ですか。」

「ええ、あなたもほんとうはお判りになっているのでしょう。ただ、その結論を先延ばしにしたいのではないかと思いますが。私にはあなたが云って欲しい言葉が判るような気がします。」 「俺にはそう単純だとは思えません。」

固執するように青年は繰り返した。安藤は腰を落ち着けた。

「そうでしょうか――――あなたは室井さんをさまざまな意味で愛しているけれど、無理に神様になろうとしていることに、あなたの《影》が反逆したということ。

確かにあなたの《影》はだいぶ辛辣でしたけれど、その意見には傾聴すべき点がたくさんあるということ、そしてもう一つ、あなたが大変お疲れになっていること――――いずれにせよ事件から離れて、あなた個人の休みが必要だという、その警告に私には思われます。

…だいぶ、お疲れなんでしょう。」

青年は苦笑した、そういえば夢の中で、彼は随分疲れた疲れたと繰り返していたのに気が付いたようであった。

「なるほど。そんなことはないと思っていましたが、どうもそうみたいっすね。…休み、か…そういえば、事件以来、気が休まったときは、なかったなあ…」

気が休まるどころか、きちんとした休日を過ごしたことがあるのかも疑わしい。

久しぶりに会う青島刑事はひどく痩せていた。休日返上で働いている、過労死寸前のサラリーマンによくこういう人がいる。本人は「充実した生活」を送っているつもりなのだが、実際は限界を超えているのだ。そういうとき、夢がこのようにしてブレーキを掛けることはままある。

「ちょうどいい時期でしょう。夢のお告げに従って、青島さん、室井さんから少し離れてみたらいかがですか?」

そっと、安藤は《解答》を提示した。 ぴくりと青年の肩がふるえ、視線がおちつかなげに手元の珈琲カップと膝元を行き来した。

「――――はあ、でも、室井さんは自分よりもっと大変ですし…」

一週間おきに、室井の母の明子と青島が室井の官舎に泊まり込むようになって、もう3ヶ月になる。

「一週間ごとの参勤交代」と冗談でネーミングされたこの制度は、室井の自殺防止と拒食による衰弱死の予防という、重大な使命を帯びたものだった。 だが安藤とのカウンセリングが始まってから、室井は次第に安定を取り戻してきたように見える。

いつか青島刑事はその手を離さねばならない。 その時期を安藤は慎重に計っていた。

「そうでしょうが、いつまでもあなたが傍にいるべきでないことも確かでしょう。お母様には今まで通り、参勤交代していただいて、あなたはひとまず手を引いて、室井さんに一人でいることはどんなことだったか、思い出してもらってもいい時期になったと思いますが。」

青年は、承伏しかねるようだった。

「――――しかし、心配です。」

心配なのは君の方だ、と安藤は思ったが口には出さなかった。 安藤は座り直した。

「私は、以前、あなたに申し上げたことがあった気がします。『室井さんの傍に、いま不埒な考えをする男性を置くべきではない』と。

 まあ、お待ち下さい、私はなにもあなたが不埒なことを彼にするにちがいないなんて、ちっとも思ってはいないんです。それどころかその逆です――――あなたは、そうですね、あなたの《影》の言葉をかりれば、《神》になろうとしているんです。そんなことは人間には不可能なのに、です。」

不服そうに青年は口を尖らせたが、反論はしないようだった。そりゃそうだ。人間は神にはなれない。

「青島さん、あなたは室井さんを大事にする余り、ご自分のことを二の次にしてしまっていますけれど、それは違うんです。

彼は確かに病人です。彼に対するには、普通の人に比べ、遙かに慎重で、思いやり深い配慮と労りと愛情が必要です。けれど、それはあなたの犠牲の上に成り立つものであってはいけないのです。

もちろん、あなたは何ら犠牲を払っているつもりはないと仰るでしょう。それどころか、そうすることが自分には喜びなのだと仰るかもしれない。 けれど、あなたの《影》の声に耳を傾けてみると――――あの影はあなたの闇の声ではありますけれど、しかしあなたのもっとも親密なパートナーでもあるのです――――私は医者として、あなたの献身を手放しで喜ぶべきでないという気がします。あなたは彼の家族ではないのです。あなたにはあなたの役割が、もっと他にあるのです。」

青年は骨ばった手を膝の上で組み、俯きがちに聞いていた。

「そうは思われませんか、青島さん。」

「――――ええ、先生。」

顔を上げたとき、彼の瞳にはやや明るさと、そうして何かを吹っ切る者特有の力が戻っていた。

「――――ええ、そうです。俺は、認めたくなかったんです。俺が彼にとって危険な存在だということをね。

――――けど、そう、俺はきっと、きちんと先生にそう言って貰いたかったんだな。

室井さんから離れろと、誰かにそう言って貰いたかったんだ。でないと自分一人の決心じゃつきかねたんです。」

「今室井さんから離れるのは辛いことだと思いますが、長い目で見ると、私にはこれが最善に思えるのです。いつもイヤなことばかり云う野郎だと思っておいででしょうが…」

哀しげに目をしぱしぱさせる安藤に、

「とんでもない」

青島はにやっと笑みを返した。

たしかにイヤなことばかり云う野郎だと思ったことはあったが、それでも青島が彼を憎んだことは一度もない。

「また、へんな夢を見たらご相談に上がります。――――自分でどうすべきか、決心が付かなければ。」

「いつでも歓迎しますよ」

           

  *  *  *

            

参勤交代をやめる、と青島が言い出したときは、まさに青天の霹靂だった。

「――――え?」

血の気が引いて、ただ握りしめるしかなかった受話器の向こうから、ことさら明るい青島の声が銅線にのって届いた。

『だから、おれもう、室井さんちに行くのやめようと思うんです。室井さん、そろそろ俺がいなくても大丈夫でしょ?だからさ。』

耳の奥で砂が流れているような、ザーッという音が青島の声に重なって聞こえる。

あわただしく切られた受話器を機械的に戻し、室井は電話台の前に呆然と立ちつくした。

               

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20010819

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