second rape 3


   

母親はすでに何度も来院していた。

息子の状態。「先生、本当に息子は大丈夫でしょうか?何か他にできることはないですか?」と繰り返される質問。彼女の、犯人や、親戚や、世間や、マスコミへの怒りと悲嘆を肯定し、「できたら息子さんもいらっしゃって、お話できればいいんですがね。」と言い続けたこと。

そして初めて、事件後4ヶ月を経過してから、クリニックではなく新宿の喫茶店ならと妥協して出かけてきた患者の、マスクをかぶったように表情の動かない顔。

今日は3回目のセラピーだった。

いや、正確には、4回目だ。

一回目、母親と青島刑事に付き添われた彼は、どうしても車から降りることが出来ずに約束をすっぽかしてそのまま逃げてしまった。

二回目、30分の遅刻。彼は「本屋に寄っていて時間がうっかり過ぎてしまった」と言い訳した。

セラピーの開始のとき、安藤は室井に『事件のこと、もし話したくなければぜんぜん喋らないで結構です。』とくりかえし念押しした。これからきっと厭な気分になるであろう事を予想していた患者は、半信半疑の顔で、なんども安藤の「本音」を探り出そうとした。

――――だって、私は「あのこと」を喋りに来たのではないのですか?

安藤は頬笑んだ。

『いいえ。無理に喋るとかえって悪化しちゃいますから、喋れないなら喋らなくていいんですよ。』

――――本当に?だったら私は本当に何にも喋りませんよ?

『かまいませんとも。』

そうは言っても絶対に「その話」に持っていくつもりなんだろうと疑っていた患者は、言葉通り安藤が全くそっちには触れなかったので、逆に不安にかられたようだった。そのため患者は、まるで餌をちらつかせる釣り人のように、「その話題」をちょっと持ち出しては引っ込めると言うことを何度も繰り返した。安藤がすわと食いついてくるのを試すかのように。

しかし安藤はゆうゆうと構えていた。ここで自分が根ほり葉ほり暴き出し、「その話」を引き出すようなことをしても――――じっさい、そうすることはとても簡単なのだが――――患者には恐ろしいカタストロフがもたらされるだけなのだ。

以前は精神医学者の間でも、カタストロフが起きれば患者の症状に改善が見られると信じられていた時期もあった。が、最近はその学説が否定されている。耐えきれずに自殺する者、発狂する者、悪化した者も多く、治療効果があるとはお世辞にもいえないということが明らかになったからだ。

というわけで、その日患者は事件のことを殆ど喋らずに帰っていった。

しかしそれでよかったのである。「この医者は嘘をつかないようだ」ということと、「この医者は自分に無理強いしないらしい」という、安心感を植え付けること。それだけが初回の面談の目的であるからだ。

  

三回目。彼は時間より早く現れていた。それは、患者が口では「私はもう人間を善きものだとは信じません」と何度も言ったにもかかわらず、彼自身は極めて時間に厳しい、信義を重視する人間であることの証明だった。

そしてこの時から本格的に始まった診療は辛いものだった。

支離滅裂に想起され繋がっていく「記憶」はほとんど新宿の喫茶店で話されるべき内容ではなかったかもしれなかった。

けれどその一方で、安藤には、それでも尚まだ患者の喋ったことが、彼の身に起きた全てのことを包み隠さず言ったことだとは思わなかった。

じっさい、室井は、自分が「レイプされた」、とはけっして一度も言わなかった。それが最後のプライドなのか、「自分はそうたいしたことをされたわけではない」と思いこむために、「レイプ」を「暴行」といいかえているだけなのか、それとも口にしてしまうことで、その事実を否定しようもなく白日の下に晒し、しっかりと「歴史」の中に確定されてしまうのを恐れてでもいるのか、患者は、一度も自分が強姦の、もしくは強制猥褻致傷の被害者だとは言わなかった。

  

そして四回目の今日。室井は「自分の当時の心情」を縷々語った。今度も、事件そのものには触れなかった。

この日、事件以来、5ヶ月が経過していた。

                   

「…きょう、あなたのお話を伺っていて、いくつか気がついたのは」

患者は、きゅうに現実に引き戻されたように瞳の焦点をあわすと、ええ。はい。と肯いた。

「室井さんは、『〜しなければならない』『〜すべきだ』という言葉を、今日5回も使われましたね。」

室井は虚を突かれたようだった。

「――――そんな言い方をしていましたか?」

「ええ、何度も」

患者は一瞬考え込んだようだった。

「…ええ、そう云われてみればそうかもしれません。…そうですね、そう言う言い方は自然ではないのかもしれません。もっと、自然に思うように思考していくべきなのかも…」

安藤がわらったので、室井はちょっと口をつぐんだ。

「…また、私は『べきだ』という言葉を使いましたね」

苦笑する微笑の人間らしさに目を止めて、安藤は優しく云った。

「室井さんはとても頭がよろしいし、責任感が強いから、いろいろ考えすぎてしまうんですよ。それは考えない人間よりずっと素晴らしいことですが、かといってそのせいで余計に自分を追いつめてしまっているかもしれませんよね。

でも考えるなっていったってそんなこと無理ですから、ちょっと子供の遊びと思われるかも知れないけれど、私の云うことを笑わずに聞いていただけますか?」

「私が先生の仰ることを笑うなんて…」

「ははは、精神科医なんて子供みたいなものですから。――――それじゃ、その前に、ちょっと思い出してくださいますか。少しで良いです。ダメだと思ったらすぐにそう云って下さいね」

「はい。」

緊張した室井は憂鬱に眉のあたりを曇らせて神妙に答えた。

「室井さんは、世界が憎いと仰った。憎いけれども、それを受け入れるために許そうゆるそうとなさっている。しかし、そんなことは、申し訳ないですけど、全くする必要はありません!“赦す”なんて、とんでもない。絶対に赦してはいけません!

犯罪を赦すことは、それだけで罪なのです。私たちは神ではなくて、人間です。いつか、本当に、心から自然に、「もしかしたら」許せる日が来るのかも知れない。しかし、それを強制することは、神様にだってできないのです。

…あなたは、彼らを、そして今の世界に存在する同じような「悪」を、赦せない自分、というものがいて、それで苦しんでいらっしゃる。そんなことで悩む必要はありません。 憤りを感じるのはあまりにも当然で正当な事です。なのにあなたは“悪を許せない自分”を責めていらっしゃる――――そんなことは筋違いです。たとえ仏だって、そんなことを望んでいるとは、私には思えません」

室井は黙って聞いていた。「絶対に赦してはいけない」と安藤が断言したとき、患者の大きな瞳の底に暗紅色の炎がちかりと揺らめいた。

「けれど、私は、“この世界の悪を許せないならこの世界では生きていけない”というのも、また違う、と思うのです。というのも、室井さんは“この世の全て”を憎んでいるわけではないからです。

お話を伺っていれば、ご両親、それに青島さん、それからご友人達――――もちろん判ってくれない人々も、またご親戚もいるでしょう。けれど、あなたが“感謝している”と仰った人が沢山いますよね? 室井さんは、そういう人たちまで憎んでいますか?」

「ああ、いいえ――いいえ、もちろん―――。…けれど、その、時々、その非常に疲れたりすると、青島君すら私は、そのう…」

小声で、首をすくめるように告白する室井に安藤はわかりますよと肯いてみせた。

「けれど、ご両親だけは違うでしょう?」

今度ははっきりと肯いた。

「それはそうです。母も父も、私をずっとかわらず守ってきてくれました。父は家まで売却してしまいました。…私はそれについても、非常に申し訳なく思っています。いい年の大人になっても、まだ自分は両親に守られている雛のようで…」

再び自己嫌悪の蟻地獄に戻っていこうとする室井を、安藤は急いで引き戻さねばならなかった。

「そうらしいですね。売却に一番反対されたのはあなただったとか。お母様から伺いました。

でもいいじゃないですか、家くらい売ったって。モノなんていくらなくなっても、ご両親はあなたを守りたかったんですから。それに、親が子供を心配するのはいくつになっても当たり前ですよ。

実際私の娘ももう20越えてますが、一回就職して辞めちゃって、今はまた弁護士になるんだって云って法学部に入り直す勉強してますから。いったいどうなることやら」

「はあ、そうですか」

患者は眩しそうに安藤の子煩悩な会話を受けた。

未来への計画。それは室井が失って久しいものだった。

実際、彼は一ヶ月先のスケジュールを立てることが出来なくなっていた。彼には自分が一ヶ月後も、いや、明日も、この世界に存在し続けている、ということが、どうしても「自明のこと」とは思えなかったからである。

室井は気づいていなかったが、彼の季節感も失われていた。

時間は「あのとき」に凍結したままで、彼には「春」や「夏」や「秋」や「冬」というものがどうしても「実感として」感じることが出来ていなかった。季節はまるで車窓ごしに流れる映像のように彼の瞳の上を通り過ぎていった。つけくわえれば、彼はほとんど寒暖も感じなかった。彼は常にコートを身にまとったが、それは寒さのためではなく、防護のためだった。

また、「あのとき」に失調した体感は、彼の「感じないようにする」努力のおかげで、部分的に彼の痛覚を麻痺させていた。彼は常に頭痛に悩まされていたが、そのお陰で折れた肋骨と鎖骨、排便時の物理的な痛み、折れた指を使うときの痛みを「感じない」状態にすることに成功していた。

また、彼は暫くの間味覚もなかった。(彼はそのとき、どうせなら嗅覚を失いたかったのにと思った。)

食事は彼にとってほとんど自分の忍耐力に挑戦するようなしろもので、口を開いて何かを入れるという行為自体が、例の「汚いものをつきこまれた」記憶に結びつくために、食欲はどんなに腹が減っていても感じなくなった。ただ溶かす物のなくなった胃が自らの組織を溶かしていく故の痛みが、イコール彼に食物の必要を否応なしに自覚させ、仕方なく彼は、しぶしぶ、なるべくさっさと、そこに何かを放りこんで存在を主張する胃を黙らせてしまうことにしていた。

また言うまでもないことだが、性欲は全くのゼロになった。というより、性について考えたりする事だけでも苦痛だったので、マイナスになったと言えるかも知れない。

ただひとつ、睡眠だけが、彼に安穏をもたらした。例の砂漠の夢以来、彼は夢を全く見なくなっていた。夢を見ないための方策として、疲労しきるまで働くか、瞼が落ちそうになるまで何かを読み続けるか、睡眠薬を規定の二倍飲むか、していたのが功を奏したのかも知れないし、どうしてもいけないと思ったら、彼は「寝ない」という奥の手を使ったのではあるが、それでも、何物にも邪魔されず、何者にも触れられず、一人っきりで丸まって何も感じないでいられる時間がある、ということは、彼には最も幸福な時間の過ごし方だったのである。…といっても、目が覚めると彼はいつもがっかりしてしまうのだったが。「もう目が覚めないとありがたいんだけれど」と、毎晩こっそりと願いながら眠っているから。

「頑張ってください、とお伝え下さい」

室井は、やっとのことでそう応えた。

チャレンジできる若さ。通常の範囲内の喜怒哀楽。人生における「進路の悩み」。

羨ましい。

それはとても傲慢かもしれないが、そんなありきたりさこそ、室井が失った事柄だった。

時間感覚を失い、従って未来を失い、赤剥けになった神経系は、他人にとっては穏やかな陽光を、彼にはまるで原子爆弾の一閃のように灼くほどに痛く、他人には穏やかな風が、骨から肉を千切るかのように冷たく鋭く、感じるだけだった。

彼の語る言葉は感情がないか、さもなければ、溜息か、悲鳴か、苦痛の絶叫にしかならなかった。

     

安藤は焦点を再び失った患者の目を見つめた。そしてさらりと続けた。

「ありがとう。あの子も、じつは職場でいろいろイヤな目に遭いましてね」

「…そうでしたか…」

室井は、苦いものを飲んだような顔つきになった。憤激と同情とおぞましさに、彼はテーブルの下でハンケチを握りしめた。安藤は気分転換を図った。

「まあでも、本人はいたってのんびりしてましてね。この不況下に大丈夫かって思うんですが」

「勉強すれば、受かりますよ」

室井はふわりと応えた。無味無臭の返事だった。

「そういえばね、我が家では、夕食の時間に、“本日の自分の馬鹿”について各自報告しあうんですよ」

本日の自分の「馬鹿」という言葉に、室井が「…?」と首をひねる。

「…なんですか、それ?」

「そうですねえ。たとえば、昨日デパートでトイレに行きたくなったそうなんですがね。だけど女性用トイレがめちゃくちゃ混んでいて、でも我慢できなくて、漏らすよりはマシかと男性用トイレに飛び込んだ、とか。ですけど。

入るときは幸い人が居なかったらしいんですが、出てくるときは三人くらい居て、すごい恥ずかしかったと言ってましたねえ。…どっちかいうと、アサガオに向いてたってる男のほうが恥ずかしかったろうと思うんですがねえ…」

「…それは、娘さんがですか?」

「いえ、妻です」

「…そうですか」

室井は笑うべきか、同情すべきか悩んだようだったが、彼の凍り付いて働きの鈍くなった想像力も、流石にこの光景を想像しては笑うしかなかったようだった。

「まあ、うちはみんなこんなんですが、家族ッてえのはいいものですよ」

「――――ええ、感謝しています。私も。家族には。本当に」

青島が、一生懸命自分に“今日の失敗談その1”を話して聞かせる熱心さを思いうかべ、室井は口元をわずかにほころばせて肯いた。といっても、彼は家族というわけではなかったが――――まあ、家族のようなものだ、今は。

共通の思いを持つ者同士、親密に目を見交わし、安藤は続けた。

本題だ。

「だから、室井さん、大切な人がいるでしょう? だからこの社会全てが憎いはずはない。」

「ええ、そうですね」

今度こそ室井ははっきりと首肯した。それを確認し、安藤は慎重に切り出した。

「じゃあ――――あなたが憎い、と思うものを、全部あげていってくれますか。なるべく、具体的に」

室井はさっと顔を強ばらせた。

「…たくさんありますよ、きっと。」

「かまいませんよ。ぜんぶ、仰って下さい。ただし、具体的に」

この『具体的に』というのが味噌なのだ。それは室井も理解したようだった。

室井は目を閉じた。

――――「憎いもの」。

彼は慌てて目を開けた。

どっとあの「記憶」が襲いかかってくる予感がしたからだ。

彼は目を開け、じっと安藤が安心させるように、自分を待っているのを確認し、自分が温かい部屋の中に座っていて、手足は拘束されておらず、動かそうと思えばどんな風にも動かせること、首には何も巻かれていなくて自由に呼吸を吸ったり吐いたりできること、周囲には暗闇でなく副都心の喫茶店の喧噪があること、…そして、少し離れたところに、煙草を吸いながら雑誌をめくっている緑色のコートを視認して――――ああ、なんて安心する色だろう?

彼は震えるような安堵の吐息を吐いた。

もはや彼は、あの深緑色を愛していると云っても過言ではなかった。

彼は視線を安藤にもどした。安藤はじっとかすかな笑みをたたえて、彼が切り出すのを待っていた。

「――――髭がダメです。」

彼はその「hige」という音声をくちにするだけで、あの忌まわしさ、おぞましさが全身に呼び起こされるのに震えながら云った。

「…あれだけはダメです。耐えられません。車を運転していても、隣のドライバーの顔にあれがついていると、もうダメです。気が狂いそうになります。テレビに映るヤツにそれがあるのも、ダメです。」

室井の手がそわそわとかすかな首の痣をなぞるように動いた。視線は落ち着きを失い、緑色のコートと安藤の間をいったりきたりした。

「なるほど」

安藤は必要以上の同情を示さずに、メモをとりながらさらっと云った。そういうほうが患者に冷静さを促す。

「それから?」

室井は厭な記憶から必死で逃れるように、いった。

「…具体的ではないかもしれませんが、“重さ”がダメです」

「“重さ”?」

「なにか、こう、重たい布団とか、自分にのしかかってくるようなものが…でも、そんなもの、布団ぐらいしかありませんね」

正確に言えば、自分にのしかかってくるような男、という意味だったが、室井は犯人以外に自分にそんなことをしそうな人間を思いつかなかった。室井は緑のコートの肩が少しゆれたのを見なかったし、安藤が少し目線を深くしたのにも気づかなかった。

「じゃあ、それは軽い布団に変えてしまいましょうか」

「もう変えてしまいました。じゃあ、これは削除ですね。」

「はい、削除と。」

安藤は二本線をメモ帳に引いてそれを消した。

「それ以外は?」

「そう…」

室井は尻を椅子のうえで動かした。苦しい。

記憶が彼を捕らえていた。彼の目尻に涙がにじみだし、青ざめた額には汗がぽつぽつ浮かんできた。室井はわななく指で珈琲カップの縁をなぞった。

それだけで安藤には、患者がいまどんな苦痛を堪え忍んでいるか判ったが、止めなかった。

まだコントロールできる。まだ、大丈夫だ…。

彼はわずかに指骨の曲がった手で目を覆った。

「……青と、薄茶の、服がダメです。安っぽい、…工場労働者の作業着にあるような、色なんですが。それを、…着ていたので、そういう色が視界に入ると、もう…」

患者はぎゅっと眉を寄せ、下唇をきつく噛んだ。喉奥から呻きか嗚咽に近い吐息が漏れた。

「なるほど。それから?」

安藤は声から同情を隠すのに苦労しながら、さらに訊ねた。

室井は怒りを感じたようだった。頭をふり、ああ、と呻き、握りしめた拳でテーブルをだん、と叩いた。

(思い出させないでくれ、話さなくていいと言ったじゃないか、このうそつき、うそつき、うそつき――――!)

食いしばった歯の隙間から患者は「記憶」の断片を押し出した。

「……日本酒がダメです。」

腐った畳の上。転がる一升瓶。刺青に吹きかけられた酒。目の前をよぎった足。『もう気絶しちまったのかい?』と顎を持ち上げた靴。そのつま先にこびりついていた乾涸らびた泥…臭い湿った靴下が口を割って入ってきたこと…。

「……瓶を見るのもイヤで。…酒屋の前を通るのもイヤで。…臭いはとにかく、全然ダメです…」

室井はすすりあげた。

おう、先生、もうかんべんしてください。

けれど医者はたたみかけるように聞いてきた。

「なるほど。それから?」

室井はもはや憎悪をこめて安藤を睨みつけた。

…だが、その狂的な熱を込めた瞳はふいと蝋燭が消えるように光を失い、焦点は鈍い諦めを包んでぼんやりと拡散した。

ああ、あなたがそんなにもこれ以上ゼロの私から引き出したいというのなら、もしこれ以上何かを私の中から奪えるというものならば、そんならどうぞなんでも奪っていってくださいというように。

彼は首をゆらゆらと夢遊病者のように振りながら、ひるひると啼くように続けた。

「…夜の、道路が。…ダメです。…誘拐された所は、もう歩かないし、…毎日車で、通勤していますけれど…、ダメです…」

後ろから羽交い締めにされたこと。脇腹に走った電流。衝撃と恐怖。その後の暴行と陵辱と…

――――おう、先生、もうかんべんしてください。

「それ以外の道路は大丈夫ですか?」

室井は頭を振り、泣きながら反芻した。地下鉄への道、新宿の雑多な通り、桜田門の外堀通り…。

「…だいじょうぶ、です……思い出して、いないときは、だいじょうぶ、です…」

「そうですか、それじゃあ、それ以外は?」

それ以外…。

室井はすすりあげながら思った。

けれど、緊張のぷつりと切れてしまったような心には、何も「憎しみ」をもたらすほどのものは浮かばなかった。愛しさを呼び起こすものも、けれども同時に消滅していた。灰色の世界。濃淡のない…。

けれど彼はその苦しさの中に「何も感じない」故の安楽を発見して、そのまま眠り込みそうだった。ああ、そのまま眠り込んでしまいたかった。眠りたい、眠りたい、眠りたい…。

安藤は、表情をすうっと失い目を閉じようとする患者の顔をみて、まずい方向に誘導したとヒヤリとした。ヒステリー患者の失神する前兆に似ていた。

やりすぎたか?まだ早かったか? 

それでもここで後戻りはできなかった。

「青島さんに意見を聞いてみましょうか?」

室井は、ぼんやりと安藤の顔を見返した。それから「アオシマ」という音に反応するように緑色の背中を見た。

瞳の中に、ほんのわずかな、生気ともいえないが、とにかく何かの波が動いた。

室井はのろのろと顔を覆い、ふかいほそい溜息を、なんどもついた。

患者の心の中でさまざまな闘いが行われているのを、安藤は目に見えるように思った。

諦めと、自分を叱咤する励まし。

憎しみと、「もう、なにがどうだって…」という無気力。疲労。

彼を励ます人々への感謝と、にもかかわらず立ち上がれない自責の念…。

そして繰り返し生気される恐怖の、絶望の、精神の死の記憶。

室井は両手の中に顔を埋めたまま、首をふった。

それらの混沌とした感情にもまれながら、彼は避けて通ってきた“そのこと”を、握りしめていた掌に隠していた醜い固まりを、安藤の元についに開いて晒すように、血を吐くように言った。

「――――ダメなんです……!…性的なものが、すべて。…“あれ”を思い出させるものが、すべて、ダメなんです…!」

おさえた両手の間から、ぽたぽたと水滴と共にしゃがれ声がこぼれおちた。

だらしなく開いた襟からのびる汗ばんだ首筋。おぞましい臭い。のしかかって、見下ろし、にやにや嗤った男達の顔。怖い。吐きかけられた侮辱の言葉。伸びてくる、湿ったごつい手。恐ろしい。肌を滑った汗と、たちこめる精液の臭い。ああ、イヤだ、やめてくれ。そしてジッパーを下ろす音。厭だ…!とりだされる、あの…。

「先生…ダメです…!…赦してください、私には思い出せない。もう耐えられない…!やめて、やめてください…!」

安藤は目の端でグリーンのコートの背中が大きく動くのをとらえ、まだだ、と押さえるように手をテーブルの下で振った。

頭を振り立て、拳を噛んで慟哭しだした室井に、安藤はゆっくりと声をかけた。

「大丈夫、わかってます…わかってます。室井さん。」

捜査資料は非公開だが、安藤は医者の立場から、室井の身体上に残された陵辱の痕を通じて、彼の身に何が起きたかを、正確に――――おそらく、客観的には一番正確に知っている人間の一人だった。

鼻腔と直腸から検出された複数人の大量の精液。この時感染させられたであろうと推測されるクラミジア性病。そして大腸内から検出されたアルコール。(…この話は室井は誰にも、捜査員の事情聴取でも、話していなかった。しかし医師たちは、彼の肛門を経由して、何らかの方法で、度数15%以上の日本酒が注入されたことを知っていた。)

患者が故意に話さなかったのか、それとも「忘れて」いたのかは判らない。医師はそのことを新城管理官には伝えた。この警察官僚は、青白い顔をいっそう引きつらせ、微かに肯いたが、その後事情聴取の際に患者にそのことを覚えているか糺したのか、は、安藤達は知らない。

(結局新城はこの件について室井に質問をしなかった。傷害罪で立件するための罪状には、肋骨、左右両手の親指と小指以外の骨折、首を締められ呼吸困難に陥ったため肺の一部浸潤がみられること、本人の意志に反する刺青、全身への打撲、その他のもので充分だったからだ、と彼は説明した。)

「…言葉にしなくてもいいです。ただ、そのことはだめだということがわかっていればいいんです。――――申し訳ありませんが、もう少し――――言葉にしなくても良いですから、肯くか、首を横に振って、答えてくださいますか――――ごめんなさいね、でもそれは、でも、記憶です、大丈夫。今はもう、ここは大丈夫ですよ。安全な場所です。今は、誰もあなたにそんな酷いことをできません。おわかりですよね?――――そう、よかった。すみませんね、本当に、つらいことを思い出させてしまって。でももう少し――――あ、まだ厭ですか?言葉にしなくていいです、ただうなずくか、首を横に振ってくださいね。

――――そういう、性を思い起こさせるものが、全てだめなのですね?」

室井は顔を覆ったまますすりなき、微かに肯いた。

「それじゃあ、たとえば、街角の女性のポスター、あれはどうですか?」

室井はこの質問に少し悪夢から引き離されて、朦朧としながらも、少し考える、という方向に頭を使うことが出来た。

…そうか、あれも確かに、女性のバストとヒップをことさらに強調しているから、セクシャルハラスメントだと騒ぐ女性団体があったではないか、と膨張しうずく頭の片隅でおもう。――――しかし、自分はそれを見てどうだろう?

それを見ることによって「興奮する男」というのを考えるだけで、こめかみがずきずきし、嘔吐感がこみあげた。

けれどポスター自体は不愉快だが、「憎い」というほどのものではない。「憎い」というのは――――。

室井はその先を考えるのを断ち切るように、目を上げて、いいえ、と呟いた。不愉快ですが、憎くはありません。

泣きはらして真っ赤になった目を、安藤は申し訳なさそうに見返して、ハンケチをお貸ししましょうかと訊ねた。患者は、一生分に匹敵するほどの涙を、今流している。室井のハンケチはもう用をなさなくなっていた。

しかし室井は首を振った。他人に触られたり、他人のものを触ったりするのは、今この瞬間においては彼には耐え難い苦痛だった。母の差し出すものと、青島のコート以外は、たとえ青島当人であっても室井は突き飛ばしただろう。正直に言えば、この瞬間、室井はすべての「男性的なるもの」が憎かった。

「それでは、皮膚はどうですか?人間の皮膚です」

やや近づいたけれども、相変わらずそれは「性」に分類されるのか?というような質問に、室井は少し不思議な気持ちになった。

「…皮膚を見るだけで耐えられないという人がいるのですか?」

「いますよ。といっても、その方は黒人に暴行されたので、黒い肌が全部だめなのですが」

室井は歯を食いしばった。

しかし彼は今吐いたものを自分で喰ったという顔のまま、首を横にふった。

「皮膚はどうやら大丈夫です。もしそれがだめなら、私は自分の指を見ることも出来ないでしょう」

「よかった。では、胸は?」

核心に近づいてきた質問に、室井はますます唇を捲り上がらせ歯をむき出した。が、彼は首を振った。

突然、まわりくどい、もってまわった質問に、怒りがこみ上げた。

――――なぜさっさと言わないんだ?

室井の真っ赤な目を、安藤はのほほんとした目で(室井にはそう見えた)見返した。

――――おまえが聞きたいのはどうせ「あのこと」なんだろ? 「あのこと」が聞きたいんだろ? お前は精神の専門家ぶってるけど、やることは他の奴と同じなんだろ?…けっきょくおれにはなんだって変わりゃしないのに、なんでさっさと済まそうとしないで、そうちょっと離れたところをくすぐるようなことしやがるんだ? その方がおれにとって親切だとでも思ってるのか?どっちみち言っちまえと思ってるんだろ? どっちみちお前のききたいことなんざ同じなんだろ?俺にはお前もあいつらも同じさ。親切ごかしの優しげな目をしやがって、この、えせヒューマニストの、サディストの、冷酷な医者め…!

心中で罵倒をあびせながら、室井は憎々しく聞きかえしてやった。

「あなたは、さだめしこのことを聞きたいんでしょう。私が、…」

ところが。

ペニス、という言葉が、どうしても、出なかった。

喉元に大きな石が詰まっているみたいに、どうしても、その単語が出なかった。

出したいのに、出そうと思っているのに、出ないのだ。

室井は呼吸を整えればいいのかと息を吸った。そして再び、その単語を口にしようと唇を動かした。

「…わたしが、…」

そして、やはり、出ない言葉に、彼は驚愕とした。

脂汗を浮かせ、喘ぎ、絶句し、シャツの胸もとを骨張った指が出口を求めるように引きむしるのを、医者は気の毒そうに見た。

――――判っていますよ、と安藤は呟いた。

「…言葉にしなくてもいいんです。“そのこと”がだめなのは、知っています。…ただ、“そのこと”を、毎日、トイレに行かれたときは、耐えられていますか?それを聞きたいんですが」

室井は半ば黄色くなった視界のなかで、安藤を食い入るような目で見た。額から脂汗が流れた。疲れて、脳がしびれたようで、頭は重さに耐えられずふらふらし、口内はからからに乾ききっていた。

ぱくぱくと、酸欠の魚のように喘いだ彼は、…やがて、ついに、窓ガラスに頭を預けるようにしながら、微かに肯いた。無駄な抵抗を諦めた、屠殺される牛のような哀しい受容性が伏せた瞼に現れた。

「――――はい、…見ないように、してますし…」

そういったとき、室井の頬にまた透明な液体が滑り落ちた。目を閉じ、涙を拭う力も失って、額彼はを窓ガラスにもたせかけていた。ひやりとしたガラスの冷たい感覚がひどく懐かしかった。とてもとても頭が痛かった。薬が欲しかった。もう、眠りたかった。もう、ずっと、ずっと眠って、眠って、できればこの世から消えて無くなってしまいたかった。

「申し訳ありません――――申し訳ありません。あと、もう三つだけ。もう三つだけ。…勃起した性器は――――」

「だめに決まってるでしょう!!」

拳でテーブルを殴りつけて室井は吼えた。

けたたましい音をたて食器が飛び上がる。一斉に店内の視線が集中するのを、室井を隠すような位置に座っている青島の身体が阻んだ。

だが室井はもうそんなことに注意を払っていなかった。室井は嗚咽した。なりふりかまっていなかった。肘をついた両手で、再び水滴をぼろぼろとこぼし始めた両眼を押さえた。細い肩が震えた。間断なく呻きが漏れた。ニス塗りのテーブルに、隙間から零れた涙が点々と水たまりを作っていった。

安藤は、白髪の増えた患者の頭頂を見つめながら、そっと、続けた。

「…すみません。それを“特定”してもらうことが、どうしても必要だったのです。すぐにらくにしてあげます。だからあと二つ…いや、一つだけ。――――例の、刺青は、どうですか?」

室井は、よろよろとしながら、深い疲労と苦痛に滲む目を起こした。思考の質とスピードがきわめて劣化していた。

安藤の質問を理解し、考えるまで、通常の人間の10倍以上の時間がかかっていたが、室井はもちろんそんなことに気がつかなかった。

やがて彼は、ふらふらと、首を振った。溜息を吐き、ほそぼそと、囁くように、彼は泣きながらしゃべった。

「…もちろん、イヤです…。でも…憎いというより…削りたいというのは…自分の弱さで…馬鹿みたいだ…これを抱えてれば、削らないで持ち続けていれば…奴等に屈服していない気がして…わたしが、まだ闘っている証拠の気もして…ああ、でも憎いです、でも…でも、わたしは、闘わなければいけない…ああ、でも苦しい…先生、苦しいんです…もう、もう、わたしには、よく、わからないんです…わたしには…」

「なるほど」

安藤はこんなになってもまだ「闘って」いる患者の克己心に呆れた。無茶苦茶だ。

しかしそうすることが患者の自尊心を高めているのであれば、安藤は、もちろん、肯定的に励まさなければならないのだが。

患者の嗚咽が自然に止まるまで、安藤は根気よく、すみません、思い出させてしまって。でもそれは記憶なのです。大丈夫です。ここは安全です。もう何もあなたを怖い目にはあわせません。大丈夫、大丈夫、大丈夫…と声をかけ続けた。

どれほど過ぎたのか、慟哭がやみ、熱を孕んで潤んだ瞳が再び安藤に焦点をあわせ、蒼白な唇が「すみません、みっともなく…」と謝罪のことばをつむいだとき、安藤はしんそこ患者の強さに舌を巻いた。

「まったく謝る必要なんて、全然ありませんよ! 治療とはいえ、こっちのほうが酷いことをしてるようなものなんですから。」

本音だったが、患者は首をちいさくふり、唇を歪めただけだった。もしかしたら笑みのつもりかも知れなかった。

「…さて…。それじゃあ、このほか、なにかありますか?」

患者は再び顔を歪め、涙を湛えた目を周囲に彷徨わせた。それは、緑のコート―――街の喧噪――――安藤の顔――――と先ほどと同じように順繰りに周り、最後に安藤に戻って、…そして不思議そうに呟いた。

「…あの…どうやら、それ以上は、無いようです…。へえ…意外に、少ないものですね…」

患者の面もちをみながら、安藤は椅子に座り直した。

――――少ないとは思わないが。

しかしそう指摘することは患者を喜ばせる事柄ではないので、安藤は肯定も否定もせず、歯を見せずに笑ってみせた。

「じゃあ、室井さん。子供の遊びをしますよ。…いいですか?」

室井はやや緊張して、神妙に肯いた。しかしもうこれ以上何を言われても何を思い出さされても、これ以上酷いことはないかもしれないという奇妙な希望に力を得て、室井はなかば自棄ぎみに医者の指示に身を委ねた。

それを確認し、安藤は催眠術をかけるときと同じ準備をする。

「…それでは、肩の力を抜いてください。あ、背筋をのばさなくってもいいです。リラックスして――――そう、そしたら、大きな、大きな、白い袋を頭に思い描いてください。サンタが持ってるような、とっても大きなヤツです。――――しましたか?」

室井は、真面目に、はい、と肯いた。

「それはとても、とても、大きな袋で、宇宙全体も入るものです。――――いいですか?」

室井の脳裏に、星が散らばる宇宙の暗黒の中に浮いている、巨大な白い袋のイメージが浮かぶ。

「では、室井さん、目をつぶってくれますか。」

蒼白な瞼を閉じた端正な顔は、まるで蝋のように白く生気を失っていた。安藤はゆっくりと言葉をつむいでいった。

「ではまだ頭の中に、白い袋がありますか?――――そう、そうしたら、その中に、一つずつ、さっきの、憎い、汚いものを入れてしまいましょう。

まず、髭。それから青い色と茶色い色…。――――入れてますか? 次に、お酒、そしてあの道路、場所。それから刺青、そして、私たちには言葉にすることができなかった汚いもの…。

…さて、どうですか? 袋は溢れちゃいましたか?」

「いえ…まだ余裕があります…」

患者は瞼をぴくつかせながら呟いた。安藤は唇を舐めた。

「よかった。…それじゃ、次に、“紐”を用意してください。丈夫な、太い、しっかりしたやつです。――――しました?

そしたら、それで“袋”を縛ってください。思いっきり、ぎゅうううううっと、絶対にそれらが出てこないように。二重三重に縛ってしまってください。――――どうですか? 縛りました? 縛ったら、目を開いてもいいですよ。」

室井は想像の中で、巨大な袋を縛り上げた。

ぐにゅぐにゅと動いているそれは気味が悪くふくれあがっていたが、室井は紐で出口を満足するまでぎゅうぎゅうと縛り上げた。

そうしてから袋をみると思わず白いふくらみを蹴飛ばしたくなったが、そんなことをして、もし袋が破れては大変だと思いとどまって、そうしてから、彼は目を開いた。

      

午後の日差しが、小さなテーブルの上を斜めに照らしていた。

珈琲カップが縁を白く光らせておいてある。

店内にはピアノが小さく流れ、煙草の煙がうっすらとした靄を漂わせていた。

かちゃかちゃと食器のこすれ合わされる音、窓の外のクラクション、青島の背中、先生の顔、(なんだ、ずいぶん心配そうな顔をしてるな。)珈琲には薄いクリームの膜が張っている。

それはさっきと変わらない景色の筈だった。

それなのに、彼はなんだか少し、気分が軽くなっているのに気がついた。

「…どうですか?」

安藤が聞いた。

「…なんだか、変です」

室井はふいに、笑い出しそうになってしまった。

なんだ?この感覚は?

まるで――――まるで、そう、なんだか自分は以前「普通」だった時のように、自分の身体に、心に、しっかりと手応えがある気がする。この身体は自分のもので、今触っているこの机の表面は、ちゃんと自分の指の下にあるのだ、というような…。

こんな小手先ワザのマインドコントロールが効果があるなんて?

「先生、なんだか、私はやけに気分がいい。こんな気分は、久しぶりです」

その言葉よりも、室井の口元に浮かんだ天真な微笑に、安藤は自分の治療の効果を見て取ってにこりと笑った。

「ああ、それならよかった。――――おっと、でも、まだ終わりじゃありませんよ。…その袋は、どっか心の片隅に片づけてしまいましょう。――――片づけました?そう、しっかりね、どこでもいいですから、どこかにしまっちゃってください。

…それで、そう、二三ヶ月して、少しは大丈夫かなと思えるようになったら…、その袋をちょっとだけ開けて、中を覗き込んでみてください。それで、あ、まだダメだ、と思ったら、迅速確実にまた縛り上げておくことです!そしてもう二三ヶ月してから、またちょっと除いてみて、また縛る…ということを繰り返してください。

――――どうです、意外と効くでしょ?」

室井はせっせとその作業をしてしまったようだった。

ふたたび目を開けた彼は、信じがたいことに、ほとんど有頂天一歩手前になっていた。

「ええ、本当に――――これは素晴らしい!たいへんよく効きますね…!これは、いったい、どういうことだろう?」

「ちょっと思い出してみましょうか?たとえば髭を。…そうしたら、まず袋を探してきて…紐をといて…」

思い出すのに時間がかかるように障碍を設定するのがこの方法の目的だ。人間の心とは、じっさい不思議なものである。

「ううん…なんだかきつく縛りすぎてしまったようで、なかなか取れないんですが…」

室井は目を閉じながら、首を傾げて困ったように呟いた。

「じゃ、止めておきましょう。無理することは絶対に禁物です。そんじゃ、袋を元の所にしまっちゃってください」

まだ思い出すのは辛すぎるのだ。それを悟って、安藤は「テスト」をうち切った。

室井もやはりわざわざイヤな気分になりたくない、と思ったのだろう、素直にその袋を彼の心のどこかに片づけたようだった。

  

しかし――――しかし、なんという奇跡だろう!

室井はほとんど感激していた。

「イヤな気分になりたくない」と思えると云うことは、今自分は「いい気分」ということで、それまで薄ぐらい灰色一色だった自分の感情世界の中に、とつぜん濃淡が生まれたということだった。

信じられない。

しかし事実だった。

室井はきょろきょろ喫茶店の中を見回した。

黒いテーブル…しかしその黒が「黒」として、ニスの禿げかけたところとそうでないところの差とか、光線のあたり具合、花瓶に活けられた花がそこに映る影、それから店員の白いブラウス、喫茶店の壁の薄汚れたストライプの薄茶、医師のノートにひいてある青い罫線…、室井はとつぜん、それらがそれらの色として、存在を主張し始めたことに驚いた。

「驚きました」

頭を小さく振りながら、室井は云った。

モズグリーン以外の全ての色を認識することを、自分がシャットアウトしていたことに、彼は5ヶ月目にして知ったのだった。

   

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200104013

セラピーを喫茶店で行うこともあります。要するに患者の同意さえあれば大丈夫です。    

             

  

   

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