second rape 1


      

 魂は殺されても生き返ることが出来るのだろうか?

 もし生き返ることが出来るのなら、それは何度目までだろうか?

 何度目までなら、息を吹き返す力をひとは保持し続けることが出来るだろうか?

 被害者は一度殺される。

 このとき運が良ければ、魂は苦闘の末に息を吹き返すことができる。

 だがしかし被害者は再び殺される――――社会によって。

 これが「セカンド・レイプ」である。

         

 今度あなたを殺すのは、実際の犯人ではない。

 友人であり、もしかしたら恋人であり、会社の同僚であり、運が悪いと両親であり、親戚であり、弁護士であり、裁判官であり、記者やマスコミや評論家や上司である。

 あなたを取り巻く全ての事物の「無理解」こそが、こんどはあなたをレイプする。そして今度の犯人は、自分がレイプしているということに、決して、気づかない。

 あなたは怒りの矛先を見失う。誰もあなたの声を聞いていないから。

 例えば電車であなたの足を踏んでいるのに、声を上げてもそいつは気がつかない。そして友人とプロ野球の結果や仕事の段取りや女の話を続ける。あなたは黙り込む。誰もがあなたをレイプしているのに、あなたは声を上げたのに、それに気がついてもらえないことが理解できない。

 そう。

 誰もあなたの痛みを理解できない。

 もしかしたら、誰かが気がついて「くれる」かもしれない。もしあなたがその屈辱的な立場に甘んじられるほど寛大であるなら、あなたはそこで「気がついていただけたこと」に感謝して引き下がるべきである。それ以上の要求を社会に対して行うことはやめた方がいい。

 けれど、もし、そこでも納得がいかないとまた大変だ。

 あなたは人々が振り返るまで叫びつつづける。恥も外聞も構っていられないほど痛いのだ。だからあなたは「当然だ」と思って叫ぶ。「痛いじゃないか!なぜ判らないんだ?」と。

 すると人々は振り返るだろう。

 何人かはあなたの悲鳴を哀れなナイチンゲールの歌声のように聞いて同情の言葉を恵んでくれるだろう。

 けれど酷いときには「金がほしいんだな」と軽蔑されるだろう。

 親切な人は「君の苦しみはお金に換算するとこれくらいになるよ」と助言してくれるだろう。

 そして大部分は、あなたの涙に眉をしかめ、あなたに「お気の毒に、でも…」と声をかけては通り過ぎていくだろう。

 それであなたは気がつく。

 自分が望んだ反応はそんなものではないのだ、と言うことを。

 けれどあなたの足を本当に踏みつけていった奴は、なにかもごもごと呟くともう雑踏の中に紛れ、あなた一人が足早に目的地へ向かう人々の中で取りのこされていく。

 ――――それは目眩のするような感覚だ。

 やがてあなたは気がつく。

 「早く忘れろよ」と慰めてくれるひとよりも、お前なんか見るに耐えないと、そんな苦しみなど見たくないと、あなたから目を背けて唾を吐いていったひとの方が、はるかにあなたの痛みを理解し、あなたを傷つけなかった人間だったということを。

 この社会では、あなたの心底からの叫びはことごとく届かず、あなたの身を折るような願いは全く理解されず、あなたの身に起きた出来事は「あまりにも醜く、不幸すぎるから」聞きたがる人間はおらず、あなたのやつれた外見はひとを遠ざけ、ねじ曲げられた性質は「元からそうだったからそんな目に遭うのさ」と受け取られがちだ。

 ――――実際そうなのかも知れないのだ。

 その人の性質が事件以前と以後とでどう代わったか、正確に観測することが出来ることなどあり得るだろうか?まるで一山いくらの果物のように?

 そして、最後にあなたは気づく。

 ひとは聞きたいことしか聞かず、見たいものしか見ないのだと。だから世界は美しいまま回るのだと。

 この世界は、あなたの苦しみを見ないことで美しく輝いていけるのだ。ということを。

 あなたは生きていくために選択を迫られる。

 自分の身体に刻まれた醜さを「忘れ」、心の叫びを凍らせて、過去を隠して再び社会の中に埋没させて貰うか。

 それとも――――絶望も、希望も抱かずに、身に汚れも傷も何も抱えて、時折は聞かれないと判っている悲鳴を上げながら、ひとり細く長い道を歩き出すか。

 どちらも辛い道である。

 どちらの道も、その歩んだあとの土は、にがい塩の味がするだろう。

 けれど死なずにそれを歩き通したPTSD保持者たちを、私たちは畏敬と賛嘆とを込め、「サバイバー(生き残り)」と呼ぶ。             

               

          *

                              

 帰京して初めの仕事は、従犯と目される男の面通しだった。

     

「――――大丈夫ですか」

質素なソファに並んで座って蒼白な室井の横顔を見ているだけなのに耐えられなくなって、青島はつい優しい自分を演出するようなセリフを吐いた。

室井は青島をふりかえった。だが瞳には自分が映っていない。

 恐怖。

青島はその瞳に押し込められている、瀕死の獣の中に息づくような暗赤色の光に、胸を殴られた気がした。

――――行かなくていい。

とっさにそう言いそうになった。

そしてそれは本当に、室井が、心の底から、世界中の人に言って貰いたい言葉であったろう。『お前は行かなくていい。これ以上苦しみを味わう必要はないのだから…』と。

けれども、しかし室井は行かねばならぬ。犯罪を「告発し、立件し、裁判にかけ、処罰する」ためには、この社会のルールに従って生きていくためには、君は君の義務と責任を果たさねばならぬ。

そういう動かしがたい命令が、やはり社会というものから突きつけられていた。

青島も、室井も、それを過ぎる程良く知っていた。そういう社会で生きてきた。

だから、今から室井がしなければならないことは、当然しなければならないことなのだ。「警察の捜査に協力することは市民の義務」なのだから。

「大丈夫か」の問いかけの答は無論「大丈夫とは思えない」である。個人的にはぜんぜん大丈夫なことではないのだ。けれども、そうだとしてもなお、室井は文字通り“身を切られる”覚悟で行かねばならないのだった。

だから青島の浅薄な質問は宙に浮いた。

室井の振り返った瞳はそのこと全てを雄弁に語っていた。

――――大丈夫なわけないだろう。けれど行かなければならないだろう。それとも、お前はそう言いさえすれば、私が“大丈夫だ。心配してくれてありがとう”とでも言って、にこにこ笑って出かけられると期待しているのか?それとも“大丈夫じゃないからやめたい”とだだをこねるとでも?私が絶対にそうしないだろうとお前は思ってそう言っているんじゃないのか?と。

明らかにそれは非難だった。

青島は自己のあさはかさを悔いた。が、性懲りもなく、

「大丈夫ですよ。ここは署内ですから。」

そういってコートの上からでも細い腕を掴んで青島はおどろいた。(室井はコートを脱ぐことを頑強に拒否した。スーツを着てこなかったから、という理由を青島達はもちろん信じなかった。)かたかたと小刻みに震えているのだ。

「室井さん――――?」

その呼びかけに、身を強ばらせた室井は一度ぎゅっと瞳を閉じた。自由に動く左手がコートをわし掴むのを青島は瞠目して見た。

「怖い…」

囁きは吐息に紛れていたけれど、青島には聞こえて、青島は顔を歪めた。

力強い腕の接触に、脆い室井の理性は恐怖に負けた。頼れる出口を与えられた甘えは一気に堰を切り、怯えがそれを加速した。

「あおしま…」

頼む、あいつに会いたくない。

開かれた揺れる瞳の痛ましさに、青島は室井を抱きしめたいと思った。たぶん、室井も抱きしめられたいと思っていた。その意味するところは微妙にずれていたけれど。

青島は襲いかかるのが巨大な津波で、共に海に沈むのであろうとも、その最初の一撃から彼を守るために立ちたかった。そして室井にとっては今の彼を包み込んでくれる物は青島であろうと一倉であろうと岩であろうと構わないのだ。

「イヤなんだ」

室井は横におそるおそると首をふりながらそう呟いた。縋るように見上げる瞳の色は青島を呪縛した。

イヤだ。あいつなんか、見たくないし、見られたくないんだ。

あいつを思い出させないで呉れ。

ここにあいつがいて、同じ空気を吸っていると考えるだけで、イヤだ。本当にイヤなんだ。怖いんだ。怖い。

どうか言ってくれ。行かなくていい、帰りましょう、と――――。

「室井さん…」

青島は明らかに大きく震えを示しはじめた上半身を、ついにぎゅっと抱きしめた。

「判りました。やめましょう。このまま帰りましょう。」

しがみついてくる身体を抱き込んで、青島が(あなたの逃亡に荷担しよう)と囁いた瞬間だった。

一倉が、ノックもせずにドアを開けて入ってきたのである。

「――――準備が出来たぞ。」

控え室で身を寄せ合う二人にイヤそうな視線を投げると、一倉は大股に近づいて、ソファに根が生えた石のように埋まっている室井の腕を取って立たせた。そしてがっしりと肩を抱きしめる。

「安藤先生から、無理と思ったらやめていいとのことだ。だが、今日を延ばしてもいずれせねばならないことだ。やれるな?」

室井は間近から一倉を見上げた。 夢から突き落とされたような目をしていた。 イヤだ、と言うことを許さない一倉の気迫と、もっともな言い分に、室井は力無く睫毛を伏せた。

「………ああ。」

「よし。」

室井の心情が判らないわけではない。だが、今は行かねばならない。今は闘わなければ、一生逃げることになる、ぞれは室井が死ぬことだ。室井の室井たる資質が死ぬことだ。

「それじゃ、行こう。」

一倉は痩せた室井の背中を強く押した。

のろのろと、室井は歩き出した。死刑場に引かれる囚人のように。

            

            *

        

7人の男達が並んでいた。手に番号の振られたカードを持たされて、みな一様に不安を憮然とした顔つきの下にちらちらさせている。彼らはこの「面通し」がなんのためなのか教えられていない。不安なのも当然だった。

だが、もっとも不安だったのは――――いや、恐れていたのは――――折れそうな膝で体をささえている、室井の方ではなかったか。

         

                 

――――ああ、そこにはあの男の顔があった。

忘れ去ることなどできない。

あの時、俺をみて嗤った。突き倒され、縛り上げられ、殴られ、痛みに呻いている私を見下し嘲笑した。ああ、お前だ。

怯える私を嗤いながら服を切り、犯しながら、嗤った。お前が。

泣きながら許してくれと願った私を、せせら笑いながら、何度も何度も何度も何度も犯していった――――お前が。

お前がいる。私の数メートル先にいる!

――――怖い。

             

青島は、室井が蒼白な額にたちまち脂汗を浮かばせ、がたがた震えはじめたのを信じられない思いでみたが、細い片方の腕をしっかりと握った。もう片方では一倉が同じようにしている偽善に、八つ当たり気味の怒りを感じながら。

(いまの室井さんにこんなことを要求しやがって、同情するようなそぶりはやめろ――――この、血も涙もない冷血漢め!)

    

室井は自分が震えていることにも気づいていなかった。       

怖い。

怖い。怖い怖い怖い怖い怖い…

イヤだ。

イヤだ。やめてくれ。どうか誰か私をここから連れだして誰か――――

         

「5番です」

室井の蚊の啼くような声に、刑事は手続きに則って訊ねた。

「たしかですね?」

――――「たしかか」だと?!

室井は瞬間、自分が発狂するのではないかと思うくらいの怒りを感じた。

いったい自分にどうやって間違いようがあるだろう!

あの三日間自分を犯し続けた男の顔を、いったいどうして他の誰かと見間違うことが出来るだろう!

貴様は見間違えられるのか?

例えば貴様の子供を殺した男の顔を、貴様を刺し殺そうとした犯人の顔を、貴様に唾を吐きかけて嘲笑した男の顔を、貴様は忘れることが出来るのか?

――――たしかか、だと!

あいつが俺を犯した男かどうか、たしかかと聞くのか?

あいつのペニスが俺のなかに突っ込まれたことが、たしかか、と聞くのか?

あいつの酒臭い唇が俺の耳を噛んで『イイぜ』と生あったかく吹き込んだことが、たしかか、と聞くのか?

あいつが――――あいつが俺の、身体も、心も、尊厳も、プライドも、人間への信頼も、すべてを踏みにじっていったことが、たしかか、と聞くのか?

「――――たしかです」

震え、顔をそむけながら、室井はくいしばった歯の隙間から絞り出した。

一倉か青島の腕が自分の腕をきつく掴んでいるのを感じていたけれど、それすら振り払いたい。怒鳴りちらしたかった。

「たしか」に決まってるじゃないかっ!

なんで判らないんだ、あいつがあの顔があの声があの手があの腕があいつのペニスがいったい俺に何をしたか?その証拠はこの「私」じゃないか。私の身体に残ってるじゃないか!見えないのか?俺の声が聞こえないのか?

この私の身体を見ろ。私の指を――――私の心を、私の胸の入れ墨を見ろ。

貴様らは、あれほど俺をいろいろ調べたじゃないか。私の身体の写真をとって、私が見ることも出来ない場所にある傷も見たじゃないか!

それなのに、それなのに、なぜまだ『たしかか』と聞くのか?

…ああ、たしかだとも。たしかにあの男さ。

貴様は『お前をそんなふうにやり殺そうとした男はあいつで間違いないか?よく思い出してくれ』と言ってるんだろう?

思い出すことなんてないのさ。俺はいつだって俺の身体を、俺の指を、俺の顔を見るたびに思い出していたんだから。

暖かい布団にくるまれてもなお、俺はシーツの感触に震えた。ナイフとフォークを使いながら、俺は胸の上を滑っていったコンバットナイフを思い出した。

だから「思い出す」事なんてないのさ。

俺はそれ以外、考えられないんだからな!

    

「青島巡査部長?」

薄暗い室内で、事務屋は次に機械的に青島に尋ねた。

「間違いありません。あいつです。5番の男です」

室井は大きなマジックミラーの前から身を返すと、よろめきながらドアへ向かった。

一刻も早く、この陰惨な建物から出ていきたい。それが無理でもとりあえずこの恐ろしい部屋にもうこれ以上一分一秒でも長くいたくない。

物にすがりながら出口を求める室井の意図に気づき、一倉が背中からそれを支える。

「気分が悪いか?どうしたい。」

死にたい。さもなきゃお前ら全員死ね。

反射的にそう考えて、室井はひやりとした。混乱している、俺は――――。

労りに対して感度が鈍っている。心が機能していない。一倉の声には明らかに自分を心配する配慮があふれているのに。

「吐きたい…」

代わりに切実な身体の要求を伝えた。

「わかった。」

――――たしかですね?

一倉が抱えるようにして室井を部屋から連れだした。

――――はい。絶対にあの男です。

閉じられるドアの向こうの応答は、室井には異世界のことばの如く響いた。

           

喉奥に指を突っ込んでも吐けるものは何もなかった。

朝は茶とパンひとかけしか喉を通らなかったからあたりまえだ。

せきあげる胃液が喉を灼くばかりで、唾液にまじって排出口から流れていく。 冷たい水に指を浸し、呻きながら、あまりの苦しさに殆ど泣きながら、室井は胃液を吐き続けた。

吐き気が止まりそうになるたびに、あの顔が目の前をよぎり、すると再び激烈な吐き気がこみ上げ洗面台に突っ伏す――――ということを繰り返した。

一倉は黙って背中をさすり続けた。

もういっそ、この排出口に私ぜんぶが流れていってしまえばいいんだ。

朦朧とした頭の中で、その願いだけが染みつくように明確に浮かんでいた。

   

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