second rape 5 報復


 

その男は、室井にとって「恐怖」の具象に他ならなかった。 「恐怖そのもの」が、彼の数メートルさきに、生きて、しゃべって、笑って、呼吸していた。

いくらミラーから目を背けても、聴音マイクを経由して男の声が聞こえてくる。

その第一声、のたくたした、舌の絡まるような声で、「ムロイ?」と自分の名前を発音されたとき、彼はおぞましさと嫌悪に震え上がった。

それはまさに、あの時自分を陵辱し、いたぶり、踏みにじっていった、失神しかけた彼の耳に卑猥な笑いと共に吹き込まれた、「音」だった。

彼の頭脳は、たちまち一つの音声を彼の耳朶の中に再生した。

(おいおい、早すぎだよムロイサン。もうマグロになられたら、おれ、ツマラナイじゃない…?)

どん、とよろめいた室井の肩が壁に当たった。

もはやどす黒く見えるほど険悪な顔になっていた青島が、それでもすばやく気を遣って手を伸ばしたが、室井は避けた。青島の顔に傷ついた影が走ったが、室井の知ったことではなかった。

彼は両耳を塞いだ。壁にみをこすりつけてへたり込み、悪霊に怯える子供のように、彼は身を震わせた。

        

       *

      

一倉はなぜ、新城に無理を云ってまで、室井にその男を見るよう強制したのだろうか。

のち青島に糺されることになったその理由は、けれども、一倉自身にもよく判らなかった。とにかくそのときは「そうせねばならぬ」という、どこから来るのか不明な思いこみが、彼の頑丈な胸郭のなかでうまれ、がっしりと動かなかったのである。

たしかに端から見ていても室井の疲弊は、「神経がワイヤーでできている」と評価される彼にすら、痛ましさに直視するのが憚られるほどのものだった。

彼は友人を見下ろした。

吐くものがないのに手を喉奥まで突っ込んで吐き続け、両眼は涙で赤い。自力で立ち上がる力もなく、小児麻痺の幼児のようにくにゃくにゃとした体を、一倉はやっとソファに横たえたのだ。

額に滲み出した汗で頭髪は皮膚にべったりと張りつき、異常な血行を示して赤い斑点が荒れた皮膚に浮いていた。無精ひげの生えた痩けた頬から顎に、だらしなく開いた口の端から飲み込めなかった唾液か一筋垂れていた。

一倉は黙ってハンケチでその口元をぬぐった。それから濡れて色が変わった袖と胸元も拭いてやった。

――――これは室井ではない。

彼はあまり直視しないようにしながら、心の中でひそりとその考えを咀嚼した。

これは室井ではない。それよりも、精神薄弱者やホームレスに似ている。警察大学校時代から付き合いのある友人は、死んだのだ。

一倉は「被害者」の姿をはじめて見た。

それまで一倉の知る被害者は、会ったときから被害者で、泣き叫び、疲労困憊し、麻薬に冒され、ぼろぼろに「なっていた」人々だった。つまり彼らの「普通の」状態を、健康だった「以前」を、一倉はしらなかった。その落差を彼は見ていなかった。

たとえて云えば、彼はぺちゃんこに轢かれた猫を見たことがあったけれども、目の前でぺちゃんこに「轢かれていく」猫を見たことはこれが初めてだったのである。

彼はだから、怯んだ。室井に、これ以上の努力を、恐怖に直面することを要求するのは、苦悶にのたうつ猫の上を、さらに重ねて轢いていくような行為と同じなのではないかという気がした。そんなことを平然と行える人間がいるだろうか。たとえワイヤ−並の神経を持っていたとしても。

だが彼は彼の内部の命令にしがみついた。

自分は間違っているかもしれない。この男の精神は耐えられないかも知れない。その恐怖がなかったわけではなかった。けれど彼は瞑目し、頭を微かに振った。迷いを振り切るために、彼にはそれだけの動作が必要だった。目を開けば、彼の瞳は再び透明な力強さを取り戻していた。

「…新城に頼んで、被疑者の取調をマジックミラー越しに見させて貰えるようにした。室井。行って、奴の云うことをよく聞くんだ。そしてお前を打ちのめした野郎が裁かれる場を、その目で見ろ」

「一倉さん」

青島が一倉の肩を強く掴んだ。間近に青島の朱を帯びた顔があった。

「これ以上、こんな場所に彼を置いておくことは出来ない。」

置いておきたくない、ではなく、「出来ない」と青島は言った。それは宣戦布告に似て聞こえた。

彼を解放しろ。さもなくば、と。

だが一倉は一倉で、そこに「青二才の勘違いした保護者面」を見て取っていた。いつだってそうだった。こいつは、この男は、「わかったふり」をしていつでも室井を迷わせる。

「貴様は口出しするな!」

腕を振り払われた青島は、しかし即座にネクタイの結び目ごと一倉のワイシャツを引き掴むや、顔を触れんばかりに近づけて一倉を睨み上げた。

二人は互いの目の中に真の憎悪を認めた。

「…彼を殺す気か?」

細められた目が黒く染まり、口角の下がった青島の口からその質問が囁き漏れた。

青島は未遂に終わった室井の自殺を目の前で見送った人間だった。彼は室井の自殺を「万が一」のことでなく想像できる唯一の人間だった。その恐怖。

だが一倉はその恐怖を知らない。彼は無知なものの強さではねつけた。

「室井は、この程度では死なん。」

室井は泥沼にはまりこんでいる。ご立派な誰かさんは病人と一緒に沼底に沈んでやるのが優しさだとかほざくのかもしれないが、そんな女の腐ったような気色の悪い関係など、一倉は願い下げだった。

沈みたいならけっこう、貴様だけ沈めばいい。二人で沈むなんて俺は認めない。俺は室井を引き上げる。なんとしてでも。そのためには貴様ぐらい、いくら踏み台にしたって痛むような良心は持ち合わせていない。

「貴様は室井をスポイルしてるだけだ。ヤツは一人前の男だ。なのにお前はこいつを腐らせようとしている。それがわからんか?」

確信などあったわけがない。それは願望だった。祈りだった。 お前はこの程度のことでは死なない。お前には再び立ち上がるだけの力があるはずだ。そうだろう?

自分を見つめ返す青島の目に冷たい殺意が光っていた。そのとき初めて一倉は、青島の目がきれいだということに気が付いた。

「もし「そう」なったら…」

ぞっとするほどうつくしい目で、青島はそっと囁いた。

「あんたを殺してやる。」

      *

――――殺すの殺さないのと、何を一生懸命になっているんだろう。

横たわった室井の白い唇がひきつれのように動いた。

緩んだ視界のなかで、二人の男たちがとても深刻な顔をして、他人の未来を争っている。それが奇妙に可笑しい。

――――私なんかのために、ふたりとも、親切な…。

外見からは彼の顔は能面のように凍り付いて見えていただろうが、彼の腹の中では、冷笑とまではいかない、苦笑に近いものが動いていた。

「…いいよ…一倉。青島。行こう。新城の好意を、むだにしないことにしようよ…」 

どうせ投げやりな未来に何が起ころうと構うものかと、室井はその時いっさいの想像力を停止させて、一倉に同意したのだった。

  

***

 

もしその部屋に、マジックミラーごしの薄ぼんやりした光源だけではく、観察室専用の明かりのスイッチを入れていたら、彼の秀でた額にぽつぽつと汗の玉が浮かんでいるのが見えただろう。

けれどそれは近寄って見なければあまりにも暗すぎて判らなかったし、そして現在の彼に近寄ることを許されるのは、おそらく母の明子か、父親かだけで、ひょっとしたら青島なら可能かも知れなかったが、それでもやはり、ぜんぜん室井当人に歓迎されないだろうということは明らかだった。

そして常軌を失った彼の精神は、そういう姿を一倉や、青島や、その部屋を用意して待っていた刑事――――彼はこの男を知っていた。細川という、かつては彼の部下で、今は新城の側近のような男だったから――――には、どんなに惨めに哀れっぽくみえるか、ということを、もちろん考える余裕など与えなかった。

彼の繰り返す浅い呼吸音は、まるで動物が死ぬ間際に漏らす喘鳴のように、ひゅう、ひゅう、と響いた。そしてそのひびきは、薄ぐらい小部屋の空気をいっそう湿めった、陰気なものにした。

青島には、その呼吸音が「嫌だ 嫌だ 嫌だ 嫌だ、、、、」と呟き続ける“ことば”に聞こえた。

青島と一倉は、そんな哀れな病人から視線を引き剥がした。

そして、うっかり瞬間に見交わした互いの目の中に、全く同種の憎悪と、怒りと、悲哀を帯びた苦痛と、愛とを見いだし、ぱっと眼をそらした。

そして光があふれる鏡の向こうの世界を――――犯人と、新城と、書記係の刑事が対峙する部屋を――――食い入るように覗き込んだ。

そうでもしなければ、より憎い者に一刻も早く目を向けなければ、彼らは互いに首を絞めあっていたかもしれぬほどのすさまじい憤怒に捕らえられていた。

 

 *

            

「だ〜か〜ら、俺はそのひとが室井とか言う名前だって知らないって。ただ俺は頼まれて、食い物とか運ぶバイトをしただけだよ。いきなり陳から電話がきて、食い物を運ぶだけで5万くれるし遊ばせてくれるっていうからやっただけさ。仕事もないし暇だったし、金のためだよ。陳がやったことかもしれねえけど俺はしらねえよ」

「じゃあなんで暴行したんだ!」

「正当防衛だよ!俺は蹴られたんだぜ。だからやりかえしただけさ」

「そんな言い逃れが通用すると思ってるのか!裁判所は絶対にあれを正当防衛とは認めないぞ。被害者は監禁されていたんだ。」

「あれ?おれ、SMごっこでもしてるのかと思ったぜ。だっていやがってなかったぜ。その人――――だれだっけ、ムロイサン?」

「ふざけるな!被害者の調書を見せてやろうか。貴様がやったことがここに全部書いてあるんだ」

「そんなの嘘っぱちだ!俺を陥れようとしてる陰謀だ!俺はなにも悪いことはしてない!」

「貴様、ふざけるんじゃねえぞ。医師の診断書も見せてやろうか?そんな言い逃れが通用すると思うなよ。」

「指を折ったりしたのは俺じゃねぇよ。それも陳だ。俺は殴ったり蹴ったりしてねえよ。」

「さっき暴行を認めたじゃねえか」

「だから正当防衛だって。あいつが蹴ってきたからやりかえした。殴られたら殴り返すだろ?そういうことさ」

「それで縛られてる人間を暴行したのか?いい加減にしろよ、貴様」

「暴行なんかじゃねえよ。だってあいつ泣いて喜んでたぜ。やられながら『お願いだからもっと』って言ってた。けつをつきだしてさ。感じてたんだよあいつ。だからあれは暴行じゃねえよ。お互い楽しんだのさ。和姦だよ。な?俺は何も悪いことはしてねえんだよ。あいつも一回ぐらいはイッたかもしんねえ。そうだ精液調べてくれよ。床とか壁とかさあ。ひいひい言ってたんだから絶対ある――――」

                

「ぶっころす!!あの野郎、殺してやる!」

「青島!!」

一倉が飛び出そうとする青島を羽交い締めにして阻んだ。

「貴様があの野郎に指一本でも触れて見ろ、裁判はぜんぶひっくり返る。あの野郎、俺達を挑発してやがるんだ」

「じゃあ黙ってろっていうのか?!こんな――――こんな野郎をいちいち裁判に掛ける必要がどこに――――」

そして青島はふと気づいた。

「――――室井さんは?」

      

 *

  

屋上の柵を乗り越え、ビルの端までよろめくように走った。埃っぽい屋上に膝を突き、膝くらいまでの高さしかない最後のコンクリのボーダーラインをわし掴んで、彼は全身で息を吐いた。

涙は出なかった。余りにも感情が混乱すると人間は涙もでないものなのか。

「…………く……………」

くそったれ、と怒鳴りちらしたいのか、やめてくれ!と泣き喚きたいのか、みんなぶっ殺してやると誓いたいのか、自分でも判らなかった。たぶんその全てだった。

『けつを突き出しながらあいつ、「お願いだからもっと」って云ってた』 

「………ざけるな……っ!!」

ぐぅ、と喉奥で何かを潰すような音がした。

切れるほど噛み締めた唇は確かに痛覚を刺激していたが、しかしそんなものは彼の今抱いている真っ黒い感情の100万分の1にも満たない些細な感覚だ。ぽたりと滴が灰色のアスファルトに黒い染みを作り、それで彼は自分がやっと泣きはじめるという行為を選択したのを知った。

『お互い楽しんだんだよ。SMごっこさ』

「ふざけるな!ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな………っ!!」

コンクリにしがみつきながら彼は叫んでいた。骨張った指の爪がはがれるほど強く石を掴み、頭を狂ったようにふりたてて彼は叫んでいた。

『あいつも感じてたんだよ。な、調べて呉れよ、あいつの精液がどっかに残ってるかもしれねえ』

「ふざけるな……っ!!…う…うう……」

神はいない、神はいない、神はいない、神はいない…!

ついに彼は冷え始めたコンクリートに突っ伏して嗚咽し始めた。すると、どっと惨めさが襲いかかってきた。

              

この二ヶ月、這いつくばるようにして生きてきた。地面を舐めるようにして、その細い命をつないできた。

何がなにやら判らなかったが、それでも生きて欲しいという周囲の願いと、漠然とした死にたいする禁忌とで、彼はそのひ弱な生命を繋いできたのだった。

            

彼は事件後暫くの間の、明白な記憶がない。

特に病院での事情聴取のやりとりなどは、素晴らしいことに(と室井はのち、自分でそう言った)ほとんど忘れてしまった。事情聴取を受けたということは覚えているが、どんなことを喋ったのか――――もちろん「事実」を喋ったのであるから、捜査に役立つ情報を話したのであろうが――――全く、きれいに、消えてしまっていた。

だから当時彼の周囲に現れた刑事達の顔も、彼は記憶していない。彼が記憶していたのは、新城の存在と、青島の不在だけだった。

彼の記憶能力が向上し始めるのは、実家での療養が始まってからである。といって、これもやはり全てを覚えているわけではない。

ただ彼は、例の酷い夢と、実家でしきりと雑煮を食べたということだけ覚えていた。青島が思い出させようとしても、彼は自分が雪が見たいと云ったことも、それを見て「綺麗だ」と呟いたことも、覚えていなかった。

にもかかわらず実家での療養は彼にとって最高の治療であった。というのも、彼の記憶はこのころから、時系列順に格納されるようになったからだ。

相変わらずフラッシュバックは悲惨な影響力を彼の精神上に行使していたが、にもかかわらず、実家という、事件以前の過去をもつ場所は、彼に「それ以前の過去」というものの存在を、自然に呼び起こす力を持っているようだった。

それで彼は次第に、あの事件が「大過去」と「今」との「間」に起きた出来事であったのだ、ということをゆっくりと納得していったのである。同時にひどく精神のバランスを崩し始めた――――つまり、これが安藤の云う「熔解」だった。

別荘での自殺未遂は、そういう不安定な状態のなかで、青島が彼を見捨てたという思いこみによって生じた。

土壇場で生者の世界に引き戻された彼は、けれど、そのときはまだとうてい正常な――――といって、PTSD患者がまあまあ正常になるのには、少なくとも年単位の時間が必要なのだが――――状態とは言えなかったのは当然である。

別荘から東京へ向かう車中、彼の表情はずんずん曇り始めた。

別荘も実家も、所詮は現実逃避にすぎない。彼はそれに気が付くほどには回復し始めていた。

東京に向かうにつれ、彼の中にわけのわからない真っ黒なかたまりが太った蛇のように蠢き、のたうち始める。彼は青島を見る。両親の顔を思い出そうと努める。すると少し蛇はおとなしくなる。が、しかしやはりまた蛇は腹の中でぐねぐねと動き出す。次第に太り、大きくなっていく。

彼の思考は錯乱し始める。今にも叫びだしたくなる。出所不明の、異様な不安が押し寄せてくる。

直面せねばならない「現実」が、巨大な黒雲のように前方に立ちふさがって見える。東京の星のみえない空は不気味に暗い。自分はあの壁に突入していくのであるか。木っ端みじんにされてしまうだけではないのか。

しかし青島は黙々と車を走らせている。彼は少し安心し、また少し不安になる。不安の嵩は、走行距離のメーターに比例して増えていく。

東京に帰るとは、そういうことだった。東京で暮らす、とは、その不安の中で錯乱と正常の間をいったりきたりしながら暮らすということだった。

それでも彼は生きてきた。青島と、両親と、友人らの親切と援助に支えられて、ここまで呼吸を続けてきたのだった。

        

――――もう死のうか。死んでも良いだろうか。ここからあのコンクリートに向かって飛び込んでも、それがいったいどれほどのことだろう?

数十メートル下の歩道を、白い服を着た女性が歩いていくのが見える。今自分が目の前に落ちたら、彼女はさぞびっくりするい違いない。

東京の、夕日の傾いていく空を彼は見た。

白っぽいビル群が関東平野一体に広がっていた。一部だけ突出した新宿の高層ビル群が夕陽に輪郭を光らせている。排気ガスのために薄黄色がかった夕焼けが、ピンクやオレンジ、そして透明なブルーを空に描いている。

それなりに綺麗だと思った。

だがその空間の広大さも、今の彼には何の感銘ももたらさなかった。この猥雑な都会の日常風景が、自分が最後に見る景色であるか。

もう何も残っては居ない、という喪失感は、あの時いらい心の中に巣くい、そしてこのころには彼の人格全体を浸食していた。

彼はけっして自分が元に戻ることはないこと、彼の喪ったものは決して取り返しが付かないものであること、自分には愛すべきものがなくなったこと、いや、何かを愛する力がもう自分から失われたこと、を知っていた。

彼が抱いているのは荒涼たる世界だった。もしかしたらそれは「世界」ですらないかもしれなかった。なぜなら、この1200万の人口を抱える世界有数の大都会のなかで、彼の抱く「世界」には人っ子一人いなかった。それどころか、鳥も歌わず、花も咲かない、草木一本も生息しない世界だった。

孤独?そう、それは孤独かもしれない。しかし彼もまた、その「世界」で風化していく白骨同様、乾涸らびた骨片の親戚だった。

だから彼は孤独を感じる最後の意識を消去してしまえば、その砂漠の中の白い砂の一部として、また世界に抱擁されるのかも知れなかった。それを希望と見るべきか?細胞が原子の単位まで分解し、数十億年の旅に出ていくことを――――彼の精神がついに無機物の単位に分解されることを。

東京の夕陽は、まるで青ざめた病人のようにその色を濃くしていっていた。猫の爪のように透明な月が、うっすらと紺青の夜から浮き上がってくる。

視線を下にずらせば、白、黄色、黒、銀色…さまざまな色彩の車のボンネットが、彼の眼下をひっきりなしに右往左往していた。

彼は少し想像してみた。あのトラックは宅配便だ。誰かから誰かへの、いろんな思いを込めた荷物をたくさん積んでいる。

あれはタクシー。どこへ向かうのだろう。女が二人、乗っているようだ。

濃紺の高級車。書類を繰っているのが見える。ああ、私もかつてはあんな風に、仕事をしていたことがあったものだ…。

視線を遠くに放てば小学校の校庭がビルの谷間に見える。冬なのに、半袖と短パンの体操着で、ボールを追いかけ集まったり開いたりしている。もう少し近ければ、彼らの甲高い変声期前の声が聞こえただろう。

だが、そのどれも、彼をこの世界に引き留めるほどの魅力を持ってはいなかった。彼は自分から、彼を取り巻いていたもの、彼が生涯をかけて探求し続けたもの、彼の抱いていた夢、希望、それらすべてが脱落していくのを感じた。

――――飛んでしまおうか?

今なら死ねる。そう、一瞬だけ、不幸そうな母の顔を忘れたことにして、一歩踏み出しさえすればいい。あとは物理的重力の法則が、どんな後悔も追いつかないスピードでこの忌まわしい肉体と一緒におぞましい記憶を始末してくれるだろう。

ビル風がシャツの裾を吹き上げた。コートがばたばたと体を叩いた。奪われるほどの熱も持たないと思っていた体だが、頬にかかるほど伸びた前髪を掻き乱す冷たい晩冬の都市の風は、彼に寒さという観念を思い出させた…。

(あんた、自分一人で生きていると思うなよ!)

耳朶に甦った声は、彼の心の表面すら波立てず、さらりと風とともに消えていった。

彼はコートのポケットから、燐寸と煙草を取り出した。さっきエレベーターで、震える手を隠すためにポケットに突っ込んだ、そのとき青島の忘れ物に気が付いていた。

彼は一本取り出し、燐寸を擦った。強い風の中でそれはすぐに消えた。彼は燃えかすをしばし見つめ、その黒く変色した突端を何となくつまんだ。かすかな痛みと熱さを感じ、それはやがて茫洋とした温みに変わった。

彼はおもむろに燐寸に火をつけることに熱中し始めた。ざらついたビルの屋上にしゃがみ込み、30pほどの高さのあるコンクリートのボーダーラインの影で、彼は風を避けて火を熾そうと無心に努力し始めた。またたくまに数本がアスファルトの屋上に無駄にばらまかれ、彼は燐寸が後三本しか残っていないのを数えて、慎重になった。手の中に燐寸箱を握り、すっと側面の擦過板を擦る。今度はうまくいった。

彼は銜え煙草を、その小さなオレンジの火にそっと近づけた。乾燥した冬の大気の中で、アメリカの煙草はちりちりと軽い音さえたてて燃えだした。

室井は尻を落とし、コンクリの絶壁に凭れて、眼を細め、その煙を味わった。懐かしい味だ――――いつだったか、この煙草を吸ったのは?

(やめちゃだめですよ、室井さん)

再び男の声が甦った。

『やめちゃだめだ。やめたら負けることになる。中にいないと変えられないんだ。室井さん、あんたはやめちゃだめだ』

室井は思い出に向かって微笑んだ。だがたちまち笑みを消すと、彼はまた陰鬱な光をそのひとみに映して、東京の夕闇に沈み始めた風景を眺めやった。

(絶望は虚妄だ、希望と同じように)

そうだ…その通りだ。かつて私の抱いていた希望も、今私が抱いている絶望も、おなじく、虚妄だ。――――とすれば、私は虚妄に生き、虚妄に死ぬのか。疲弊した苦笑が彼の唇をよぎった。

組織の改革も、人生をかけた勝負も、血道を上げた出世レースも、うつくしい夢も理想も、もはやどうでもよかった。あれほど以前執着していたものが、死を前にしては彼を引き留める何の力も持たなかった。

別荘では自殺は阻止されたものだった。彼は自分の意志でこの世にとどまったのではない。だから生きるにしても死ぬにしても中途半端だった、

今は、自分自身の手で生か死かを選ぶことができる。

邪魔者は何もない。

     

このとき、彼ははじめて自分の生命を冷静に秤に掛けた。

しんじつ、どっちに転んでも構わなかった。

生きることも死ぬことも大したことではなかった。奇妙な冷静さが彼を支配していた。

死ぬにしても苦しみからの逃避として死ぬのではなく、それは一つの方程式を解くような感覚で、答が死ならそれに従う。生ならそれに従う。そういうものとして生も死も現れた。

それは名誉も自尊も恐怖も絶望もなにもかもを切り離して真っ裸になった人間が、それでも生きていたいと思えるかどうか。それだけを見極めた瞬間だった。

彼は一倉を忘れた。青島の顔を消した。

父と、そして最後に母親を消去した。これで、逢いたいと思う人間はもういなくなった。

そして彼は最後に、彼を錯乱せ、このコンクリートの崖っぷちまで連れてきた、先ほどまで恐怖でしかなかった男の顔を、叩きつけられた醜悪な言葉を、まさまさと眼前に描き出した。

『けつを突き出しながらあいつ、「お願いだからもっと」って云ってた』 

室井は喉奥で唸り、煙草を噛み締めた。

恐怖などなかった。あったのは――――

そのとき、まるで太陽が爆発し、蒸発したかのようだった。

その瞬間、灼き上げられた彼の神経系から誕生したのは、彼の中に勃然と生み出されたのは、真に純粋な、まじりっけなしの、「憎悪」だった。燦然と煌めく、「全て」への怒りだった。

彼は初めてその男を恐ろしいとは思わなかった。恐ろしくなど無かった。恐怖も悲哀も越えた世界に、彼は初めて足を踏み入れていた。そこは憎しみだけに充ちた世界だった。それはいっそ美しくさえある、完全な憎悪と怒りの世界だった。

そして、この憎しみこそが彼をこの世につなぎ止めたのだった。

それぞれの「不幸」。それぞれの「幸福」――――それが何だ?

愚かで、教育もまともに受けず、犯罪がなぜ犯罪なのか、なぜ他人を傷つけてはいけないのかの意味も知らない男。

あいつが貧しく、愛情に恵まれず、その結果としてあんな人間になったのだということを、室井は知っている。だからこそ、彼は赦そう赦そうと努力してきたのだった。そしてそれをけっきょくのところ許せない自分の「いたらなさ」こそが、彼を絶望させ、自分自身に愛想をつかさせ、自殺を願わせた彼の「心の弱さ」だった。

それは徳高い社会一般では「優しさ」や「道徳」として高く評価されるものかも知れなかった。しかしその道徳や優しさこそが彼を死に向かわせたものだった。

自分は恵まれている。自分は幸福な人間である。家庭にも、友人にも、仕事にも恵まれ、誰からも傷つけられることもなく生きてきた。だがあいつは違うんだ、犯罪者は違うんだ。彼らは自分の人権が侵され、傷つけられることがあまりにも多すぎて、ついには他人の人権を傷つけることにも鈍感になってしまった、かわいそうな、恵まれない人々なのだ。だから、だから罪を憎んで人を憎まず――――いつか、彼らも改悛するときが来る、その時まで、「恵まれている」私は待たなければならないのだ、と。

そうすることで室井は、犯罪者がいつか自分の痛みを「判ってくれる」と信じていたのだ。足を踏みつけられたものの痛みを、必ずいつかは理解すると、同じ人間なのだからと、それを期待していたのだ。その一方で、彼らを許せない自分の狭量さを責め苛み、自分の弱さにくじけそうになりながら、それでもまだ、彼は人間の善さを信じていたのだ。いつかきっと、と。

『強姦じゃない、和姦だよ。あいつが誘ったんだ。「お願いだから」って、あいつは泣いて頼んだんだからよ』

だがこの台詞を聞いたとき、室井の中で何かが切れたのだった。

――――とんだお門違いだった。

彼は怒りのあまり歯ぎしりした。それは自分の「優しさ」や「道徳性」への怒りだった。

犯罪者が真実の涙とともに悔い改め、被害者がそれを寛大に赦す――――そんな大団円を期待した自分が、大間違いだったのだ。

彼は最後の煙草の一本を吸い終わると、空中に放った。燃えかすが彼の身体のかわりに風に巻かれながら落下していった。彼はそれを見送った。

室井は今こそはっきりと、自分が不幸であることを認めた。

心の奥底では決して認めようとはしなかった、自分が惨めで、踏みにじられ、唾を吐きかけられ、汚れきった「レイプ被害者」であることを、彼はこの時初めて心底から認めたのだった。

彼はもはや、高潔な人格者であろうとする努力を、煙草と一緒に投げ捨てた。「優しく」「道徳的」な自分は煙草と一緒に投げ捨てた。

そして罪に許しを与えようとする一段上の――――あたかも神の立場から、彼は犯罪者と同じ程度にまで自分を引き下げることを受け入れた。

侵害された人権が、天から降ってくる神の恩寵のように、奇跡的に回復されることなどありえない。

奪われたものは、奪い返さねばならない。奪った者が謝罪しながら返してくれるなんて、期待する方が大馬鹿だったのだ。

――――俺は、こんなやつのために死なねばならぬほど価値のない人間じゃないはずだ…

夜がぐんぐん始まろうとしていた。

――――鬼にもなろう。

彼は燃えるような目で光を灯し始める街を見つめた。

盗られたものが返してもらえないからと云って泣いてばかりいたあげく、この俺がこんなところで身投げするのか?あんな、唾棄すべきゲス野郎のために?

――――いいや!いいや、死んでなるものか…! 俺は、人間は、こんなところで、あんな目にあって、あんな奴にあんなことを云われながら自殺するために産まれてきたわけじゃない…!

立ち上がりしな、細い身体はよろめいた。だが彼は断崖から絶対に落ちないようにコンクリに手を衝いて身体を支え、後じさった。

――――死んでなるものか…

奪われたものは奪い返さねばならない。

報復など野蛮だと、誰か安全な場所で幸福に暮らしてる連中は説教するかもしれない。が、俺にとっては「だからなんだ?」というだけのことだ。あいつらが俺にしたことの野蛮さを、他のどんな奴等だって補償してはくれなかったじゃないか?――――いいや、こんな考えも間違っている。もう俺は、誰かが何かを「してくれない」ことで泣いたり喚いたり死にたいと望んだりするのは、もうやめた。

もう俺は誰にも期待しはしない。犯罪者にまで期待するなんて、俺はほんとうにバカでお人好しで大間抜けだったことに今気が付いた。

俺はもう誰かに何かをしてもらいたいとは金輪際思わない。誰かに俺の痛みを分かってもらいたいなどと一切思わない。誰かに愛されたいとか理解されたいとか尊敬されたいなぞとは、もはや二度と思わぬ。

奪われた俺の人権を、誰か他人に取り返してもらいたいとは思わない。自分で取り戻すまでだ。そのためには鬼にもなろう。極悪人と対決するために極悪人になる必要があるのなら、俺は死なないために、喜んで極悪人になってやる。悪いか?そんなことは報復の連鎖を招くだけだっていいたいか?じゃあ他の誰かが俺に代わって極悪人になって、俺の奪われたものを取り戻してくれる親切があるか?ないだろう?なかったじゃないか? 誰にだってそんなものはありゃしないさ。他人のことなんかに構ってる余裕はないものな。でも別に構わない、俺だって同じだから。俺だって、もう自分のことしかあたまにない。もう俺は他人のことを考えてやるのはやめた。犯罪者がもとはかわいそうな人達なんだから大目に見てやろうなんてこれっぽちも思うのはやめた。

ああ、そうだ。俺は人間を憎む。

俺をこんな目に遭わせた世界を憎む。あいつらを憎む。俺からすべての貴重なものを奪い取って何も気が付かないやつら全員を憎む。

こんな俺はさぞ嫌われることになるだろうだって?気が狂ったと思われるかも知れない、だって?ふん、俺はまだそんなことを心配しているのか。なに構うものか!俺だってお前らが大嫌い、痛くもかゆくもあるものか。俺の持つ世界は俺の立つこの30pの円のなかだけ。それ以外の世界がどうなろうと、それ以外の世界が何をくっちゃべろうと、それ以外の世界が崩れ落ちようと、俺の知った事じゃない。

だってお前らは俺の声が聞こえないんだろう?俺の叫びが聞こえないんだろう?だったら俺だってお前らの声は聞こえないさ。

お前らには俺は転がってる石ころみたいなものなんだろう?だから俺を蹴飛ばして踏みにじって襤褸クズのように扱っても何とも思わないんだろう? だったら俺だってお前らを石ころみたいに扱ってやるさ。お前に感情や血が流れているとは思わない。踏みにじって蹴飛ばして叩きのめして、お前の死体の上で笑ってやる。

だって俺達は「SMごっこ」をして「お互い楽しんだ」だけなんだう?俺にとっては「泣くほど良かった」ことなんだろう?だったら俺もお前に同じ事をしてやる。泣きわめくお前の上で嗤ってやる。

これこそ「フェア」ってものじゃないか?

…そうだ、そうしたら、お前には俺の気持ちが「ほんとうによく」分かるだろう。もしかしたら、俺達は互いに、「真に理解し合える」関係になるかもしれない。それは一種の神的「共感」かもしれないぜ。

彼の頬は乾いていた。目は甘い涙ではなく憤怒で充血していた。顔は紙のように白く、青ざめた唇は細かく震えていた。

だが彼は風に向かって立った。

自分は間違いなく不幸だが、それは自分の責任ではない。自分は不幸に「させられた」のだ。ならば。

――――報復してやる。

彼は潰した煙草の箱を宙に投げた。

 

   *

 

「――――あいつも一回ぐらいはイッたかもしんねえ。そうだ精液調べてくれよ。床とか壁とかさあ。ひいひい言ってたんだから絶対ある…」

その瞬間、男は椅子ごとひっくりかえった。

「管理官!」

全員総立ちで悲鳴がわき起こる中、新城は痛む手を振った。

「――――騒ぐな」

「――――こ…公務員の暴行だ!取調中に拷問を受けたぞ!!弁護士を今すぐ呼べ!」

「うるさいっ!!」

窓ガラスが震えるほどの一喝だった。

小柄な身体がその瞬間、部屋の一杯に広がったように見えた。警察官も犯人も全員が、その圧倒的な威圧感に凍り付いた。

しんと静まりかえった中、新城が、おい、と顎をしゃくって、細川を呼んだ。弁護士を呼んでやれ。

しかしそれから新城は、まだ床にひっくりかえっている薄汚い犯罪者を見下ろした。

殴られた頬を押さえたまま、男は恐怖に固まって新城を見上げていた。自分が飛んでもない火遊びをしていたことにやっと気が付いたという風だった。新城の顔はほとんど感情がないんじゃないかと思わせるほど、皮膚が青白くつるりと光って見えた。

彼は低く、ゆっくりと云った。

「…最近、留置所でよく自殺者がでるな。どこから紐だの針金だの持ち込むんだか知らないが、留置所の管理がずさんだと、よくそういう思い切ったことをする被疑者が多くて困るものだ。」

新城は横を向き、ペッと唾を吐いた。

「――――もちろん、これはただの世間話だがな。」

  

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20011003(1005rewrite)

    

セラピーを受ける前、事件後二ヶ月?ホテル生活、明子官舎にて刃物の処理、慎一家の処分始める

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