second rape 4 -pride-


                     

「だから、俺はやってませんて。えん罪ですよ」

「そんなはずあるか!このモンタージュとそっくりじゃないか」

「なんで俺が誘拐なんてしなきゃなんないんだよ。だいたい誰を誘拐したって言うんだ」

「しらを切るのもいい加減にしろ!さっきの面通しで、被害者が見えていたんだ。もうお前がやったって分かってるんだよ。」

「へえ――――?」

(被疑者の顔にかすかな動揺が見られる。)

             

「意外に、しぶといですよ」

取調室の隣の部屋で待っていた眼鏡の若い刑事は、のっそりと入ってきた一倉、怒ったような顔つきを隠すのに苦労している青島、そして焦点の合わない虚ろな瞳を二つの穴のかわりにはめ込んでいる室井を、観察されている、と感じられない程度に一瞥し、誰にともなくそう報告した。

被疑者をマジックミラー越しに観察するための、その陰鬱な部屋は、古くて陰気な警察署のビルの中でも、もっとも暗い、日の差さない廊下の端にあった。

頑丈だけが取り柄のような、用具室かなにかに見える鼠色の鉄扉をくぐれば、意外にも大の男が20人は収容できるほどの広さがあったが、しかしたとえそんな鮨詰め状態でなくとも、その部屋から人々の受ける圧迫感と窒息感は少しも軽減されないだろう。

そしてその灰色の壁からにじみ出てくる圧力は、先日から精神的綱渡りを演じながらここまで来た室井には、ほとんど耐え難いものだった。だから彼はほんとうのところ立っているのがやっとで、体はぐらぐらと揺れ、瞳の焦点はあわず、そしてそんな自分が他からどうみえているか、なんてことに気を配る余裕なども、もちろん有りはしなかったのだった。

      

室井はその薄暗い廊下を歩んでくるときから、全身で「否!」を叫んでいた。何に対する否なのか、彼にはこれと指し示すことは出来なかったけれども。

しかし彼を挟んだ二人の男には、その「否!」は「取調室になんて行きたくない」という「否」や、「犯人の顔なんて見たくない」とかいう限定的な意味に翻訳されて理解された。

もちろんそれもある。しかしもっと根元まで遡るならば、この青ざめた病人は、世界中に対して「否!」と叫んでいたのだった。

彼は、犯人の顔を見ることも、声を聞くことも、そもそもまだこの建物の中にいることも、そして必然的に犯人の吐いた息を自分が吸っているだろうということも、なにもかもが想像するだに耐え難い苦痛だった。

にもかかわらず、彼をこの場所から振り返らずに逃走させることを許さない、一般社会のルールや、暗黙の規則や、無言の命令があった。

――――その中には、「彼らにあまり格好の悪いところを見せたくない」という今となっては破産した彼のプライドや、「犯人は隔離されているのだし、マジックミラーは厚さ2pの強化ガラスでできているのであって、それをぶち抜くことはショットガン並の破壊力が必要だ」と冷静に論考して彼を引き留める理性もあった。それに彼の腕をしっかと捕らえて離さない一倉の強い腕の力も、もちろん、彼を止めておく大きな物理的力であった。

だが、それらすべてに対し、彼の非合理的な感情は、「否!否! 俺は嫌だ! こんなことは承服できない!」とわめき散らしていたのだった。だがこの叫びは彼の皮膚の内側に閉じこめられて音声にはならなかった。だから余計にこの「否!」は内攻した。

彼ははっきりいえば、ついさっき自分の下した決断を、ほぞを噛むほど後悔していたのだ。

(なぜうっかりと一倉の提案なんかに乗ってしまったんだろう? なぜ俺は、「いや、そんなことはダメだ!俺は今すぐこの場所からおさらばして一人にならなければならない。俺はせめて暫くの間は人間になんぞ…お前たちになんぞ、会いたくはないんだ!」と云わなかったのだろう?)

彼は狂いかけた頭で、こんな残虐な試練を思いついた一倉は自分に何の悪意があるのかと疑った。そして一倉と闘ってはみたものの、結局は自分を庇ってくれなかった青島の冷酷さと不甲斐なさ(!)を怨嗟した。

結局は誰も、俺の苦しみを知りはしない。だって、もしお前らが俺の感情を、感じているものを、腹をかっさばいてでも見ることが出来るなら、絶対にお前達はおれをこんな目に遭わせようとは思わないはずなんだから…

(――――逃げようか?)

その部屋の敷居を跨ぐときの彼の気持ちは、おそらく、アウシュビッツのガス室を生き延びたユダヤ人が、50年ぶりにまたその部屋へやってくるときの心持ちにぴったり重なるものだったろう。

たとえそれが半世紀前の出来事で、収容所は観光地になり、ナチも虐殺も過去の記憶になったのだと教え諭されたとしても、彼にとってガス室が与える恐怖はまったく過去のものではない。彼は現在ただ今ガス室に押し込められ、天井から水の代わりにガスが降ってくる音を聞き、嘔吐物と大便にまみれる人々の苦悶の悲鳴と恐怖と、そして死を、再体験する。

(逃げよう)

鼠色の扉が開いたとき、彼の全身は強ばり、脚は止まり、彼は真っ黒な目で一倉を見上げ「入りたくない」と喉に詰まった言葉を押し出そうとした。

だが一倉は顔を背けてその懇願を拒絶した。彼の腕をしっかりと握り離さず、旧い友人はかぼそい抵抗をする痩身を“ガス室”に引きずり込んだ。

「入るんだ。――――そしてお前の見るべきものを見ろ。」

    

  *

  

ただ、見る、ということだけが、彼にはあれほどの苦痛であった。

彼の打ちのめされた神経はたまらなく休息を求めていた。嘔吐するものがなければ、自分の内蔵を引きずり出してでも吐き出したいという破滅願望がおさまることなくあった。

彼にはそれ以上なにかの刺激を――――それがたとえ青島の「大丈夫ですか」という配慮に充ちた声であろうとも、一倉の「俺は味方だ」という宣言も――――受け入れる余地はなさそうだった。

彼は心から、世界が彼一人を取り残して回っていってくれることを願っていた。どうかほうっておいて欲しかった。できれば眠りこんでしまいたかった。何も感じたくなかったし、できればもう誰にも、自分を呼ばないで欲しかった…。

だがその嘔吐の時間が過ぎて(何事にも終わりが来るものだ!)、虚脱のなかに束の間の安静を手に入れた彼に、一倉が「新城に頼んで、取調を見させて貰えることになった」と告げたのだ。

頭の芯に鉛の棒を入れたみたいになっていた室井は、ぼんやりと随分上の方にある友人の白い顔を見上げたが、それがどういう意味なのかを理解するまでに、かなりの時間がかかった。

本当はその意味するところを悟りたくなくて思考の働きが鈍っただけなのかもしれないが、いたづらに時間をかけても結論が変わるわけではない。

一倉があの恐怖と死にもういちど直面しろと云っているのだと判って、若干色彩の戻ってきていた顔色は、たちまち臨終の老人の皮膚じみた漂白された白に変わった。やや動きはじめていた生気はさっと再び干からび、しぼんでいった。ただ信じがたいことを聞いた、というように、熱っぽい目だけが感情を乗せて一倉を見上げた。

――――いまのは、酷い冗談だろう…?

     

   * 

          

一倉は、一瞬自分が室井の葬式に参列するというデ・ジャ・ヴを覚えた。

彼は怯んだ。それは近い将来、自分はこの顔を棺桶の中に見ることになるだろうという、奇妙にリアルな幻覚だった。

そしてその幻覚は、胸を鉄輪で締め付けられるような息苦しさと、やり場のない哀しみ、怒り、無力感を、まるで本当に棺を前にしたときのようにありありと、彼の心の中に生みだしたのである。

悲惨と汚辱を細胞まで目一杯に詰め込まれたら、人間は非人間になるしかない。

その標本が、この室井という人間だった。

その瞬間、さしもの自信家の彼も、継ぐべき言葉を失っていた。

    

彼は心から室井が立ち直ることを望んでいた。そのためには室井が自力で立ち上がり、恐怖に直面し、闘い、そして乗り越えていくべきだと信じていた。これまでと同じように。これまで彼が乗り越えてきた、各種の試験や差別や困難や壁のように。

それが楽観的にすぎると非難されようと、一倉は、キャリアとして型はずれと評価される室井の本領がそこにあると信じていたのだ。

室井は永遠の革命家だ。乗り越えていく者だ。

入庁してすぐに様々な汚濁に直面した室井は、他の多くの者と同じように沈黙した。沈黙しなかった者は脱落した。同期20人の中、すでに4人が去っている。

しかしそれは彼がその環境を与件として受け入れることに同意したからではなかった。彼はキャリアとノンキャリの分割線、男と女の分割線、裁く者と裁かれる者の分割線、所轄と本庁の分割線――――それらを室井はすべて、黙々と、「再検討」しはじめたのである。

それは言い換えれば「枠組み自体を問い直す」という、途方も無い仕事であった。

そして数年――――。

おもむろに、彼はその分割線がもたらす利と不利とを「単純に」(ここがミソだ)計算して、「合理的」帰結に従って、キャリアにとって不利となる改革を行うべきだと進言しはじめたのであった。

みなは仰天した。キャリアもノンキャリも等しく仰天した。そんなことを、「今頃になって」言い出すキャリアは初めてだったからだ。

入庁したキャリアの行く道はこうだ。それなりの希望を抱えて入庁する。ところが翌日、みなは数十年の長きにわたって積み上げられた汚物を発見してぎょっとする。気の短いものは喚きだし、この汚物は一体なんだ?なんとかしろ!と人々に触れて回る。

ところが人々は動かない。去年も同じことが起き、一昨年も同じ情景が繰り替えされ、そしてそれはけっきょく、数十年に渡って続いてきた日常風景なのだから。今更なにを騒ぐことが在ろう? 一年もすれば、肥溜めに漬かってるのが当たり前になる。肥溜めに漬かってるのが嫌なら辞めていく。そして残った連中の中で、なるべく居心地の良い肥溜めに移ろうという熾烈な競争が行われる。それだけだった。

ところが室井は違った。

彼は本気で肥溜めの浄化に取り組む気になった、まことに奇妙な掃除人だったのだ。

というわけで、彼はキャリアの中でたちまち「異端」になり、「反逆者」となり、「英雄気取りの、青二才の、政治を知らない男」としてこき下ろされた。

一方でノンキャリは彼を「高潔で、純粋で、正義を追究する、警察の希望の星」などと呼び、当人の思いをよそに素晴らしい偶像をこね上げていった。

一倉はその両方を嗤った。室井の最も親しい同期として彼を見続けてきた一倉には、室井の「変節」、もしくは「転向」など、笑止千万だったからだ。「転向」?何を云ってる。奴は変わっちゃいない。はじめから、奴は「キャリア」でも、「ノンキャリの味方」でも、はたまた何の事やら意味不明な「所轄の希望の星」でもなかった。ヤツはヤツだ。室井慎次は徹頭徹尾、室井慎次でしか有り得ないだけなんだ。

まったく大笑いだった。

だから、室井がある事件で「政治的な判断をした」と言われたときの周囲の反応も、一倉には失笑しかもたらさなかった。

分割線を乗り越えていくこと、レッテルを破壊していくこと、それこそが室井の本質だ。だから室井はとうぜん、「希望の星」などというハリボテも破壊するに決まっていたのである。それが「裏切り」だと非難され、一方でキャリアのオヤジ達からは「彼も大人になった」と評価され、…見当違いも甚だしい。

一倉は生半可な論評が可笑しくてならなかった。それで彼は一人ゲラゲラ笑っていた。

だが、一方で一倉は、室井が「政治的決断」を下したと聞いたき、ああ、これでお前は孤独を選んだんだなと思った。誰に――――特に、あの所轄の小僧に――――誤解され、さらには恨まれ憎まれたとしても、「警察機構の改革」のためにと、ひとり歩き始めたんだなと。

それはまるで雲の中にとけ込んで聳える山の頂を目指すような遠い険しい道のりだった。だが一倉は、いちどこの山の頂上を霞むガスの隙間からでもかいま見てしまった者は、そこに向けて登りはじめずには居られないということも、また、理解していた。

そこで彼は上ばかり見ている者がときおり足元がおろそかになるのを知った者として、素知らぬふりで邪魔になりそうな石ころを蹴飛ばしておいてやったり、あんまり天気が悪そうだといまは動かない方がいいと「予報」してやったりもしてきたのだった。

――――俺なら這いつくばって山登りなんざ真っ平だが、それでも登りたいなんて酔狂が居るってんなら、まあ手伝ってやらないでもないってだけさ。俺は怠け者なんでね。後方支援以上はやりたくないんだ。

うそぶく一倉に、無口な山男は特徴のある黒い目を細め、そっか、と呟いた。

彼はこういうときに友人が作る、控えめな微笑が好きだった。もしかすると、自分が苦労していることも、この顔をたまに見たくなる、というそれだけが理由なのではないかという気がするくらいに。

だからその上、お前がいてくれてよかった、と飛んでもないことをぺろっと言うので、彼は酔いにまかせて小さな頭にヘッドロックをぎゅうぎゅうかけてやったのだった。

――――そして室井は、またたくまに3合目まで取りついた。

『警察庁警備課長に命ず。』

捜査一課管理官の次に用意されたポストは、前年度入庁者6人を牛蒡抜きにする大抜擢である。当然、同期の出世レースのトップであった。

   

一倉はその、ちょうど数ヶ月前に、素晴らしい栄達と輝かしい前途とに囲まれ、祝福されていた男を見下ろした。

そこには頂上だけを見つめて登り続ける登山者のひたむきさも、強靱さも、それどころか彼の第二の天性にも思われた不屈の闘志の片鱗すらも、みられなかった。吹雪にあった上に磁石も地図も失って、頂上に向かうどころか山を降りることも出来なくなった遭難者、それがいまの室井だった。

しかも脱出しようと――――それが勝負を「降りる」ことを意味するのであろうと、はたまた「逃げ」であろうと――――じたばた足掻きもしやしない。救援信号すら出そうとしない。

まるで雪の中にとけ込んで、このまま永遠に埋まってしまうのが一番だというようなていたらくでソファに埋まり、怯えた目で義務からの解放を、弱さへの寛恕を、願っているだけの男だった。

勿論一倉は冷酷な男ではなかったから、この哀れな男を前にして、胸が切り裂かれるような同情と憐れみを感じなかったわけではない。けれど、そこが一倉の一倉たるゆえんであったが、同時に彼は室井の「ふがいなさ」に対し、激しい怒りを抱いたのである。

彼は「同情」などという生煮えのものは大嫌いだった。

甘ったれた同情なんかが人を助けることは絶対にない。そんなものより金や、雨の漏らない住居や、まともな飲み水や、一杯の酒や陽気な音楽の方が、よほど人を救う力をもっている。

それが中南米で二年過ごした彼の結論だった。

それらすべてに手を伸ばせば取れる立場にありながら、なお死んだふりをする室井など、彼には甘えたボンボンの我が儘にしか思われなかった――――いや、そう思いこもうとした。

そうすることで、室井の受けた打撃を矮小化し、そんなものはさしたることではないのだと云うことで、彼は反射的に室井を励ましているつもりだったのである。

      

  * 

    

青島が横たわる自分の前に立ちふさがるようにして、「絶対にそんなことはさせられない」と云うのが聞こえた。

そのとき、青島のズボンの裏の皺を眺めながら、あ、また暴走しやがるかな、と思って、なんだかおかしかったのを覚えている。青島は自分に甘いのだ。自分を「守る」ためには一倉くらい殴りかねない。

自分の自殺未遂が青島にとって相当の衝撃であったのか、彼の精悍な輪郭がほとんど荒削りと言ってもいいほどの剛い鋭い線に変わったことに室井は気づいていた。夜の関越を東京に向けて飛ばしながら、ハンドルを握り、前方だけをじっと見つめて一言も発しない横顔を、助手席から室井はぼんやりと見つめた。

室井は事件以来、誰かの何かの感情を読みとるということがもう出来なくなっていた。だが、その厳しい輪郭を眺めていると、彼の冷え切った心はどこか少しだけ温かくなり、不安が少しだけ遠くに押しやられる気がした。

青島のコートをかぶって、リクライニングしたシートに身を沈めて、規則的に過ぎていくオレンジの道路灯に半身を照らされながら煙草の匂いを嗅いでいると、そのセダンが義務と恐怖と隠微な戦争に取り巻かれている東京ではなく、美しい童話の生みだした遠い銀河ステーションに向かって走っていってくれているような幻想すら抱けたのだ。

しかし一倉だって自分に甘いのだ――――ということもまた、室井はとうに知っていた事実だった。

昨日今日の話ではない、昔からそうだった。警察大学校時代から、嫌みやからかいやお節介という名のオブラートにつつんで自分を心配そうに見守ってきてくれたことに、彼は気づかないほど鈍感ではなかった。

でなければ、なんでわざわざ別荘まで、自分を迎えに来るものだろう? 何曜日かという時間の観念は彼にはもう失われていたけれど、スーツに縒れたネクタイとワイシャツという格好で現れた友人を見れば、彼がどれほどの犠牲を払って駆けつけてくれたのかということも想像がついた。

自分を思う二人の人間が、それぞれの方法で、自分を守るためによかれと思うことを争っている。

一倉は恐怖に、死に、直面することを。青島は愛情に包まれた繭の中で傷を癒す――――もしくは、せめてしばしの間でも流れ出る血を止めることを。

室井にはそれだけで充分だと思えた。感謝というのとは違う。当時、彼は感謝するということができなかった。

   

            *

        

  

「あのころ私は、どのような感情を持つのかが判らなかったんです。」

室井は奇妙な喋り方をした。なるべく正確に話そうという悲惨な努力の結果、彼の言語は日常に使用されるものから遠く隔たってしまっていた。

「もちろん、何も感じていなかったわけじゃないのです。なんというか、私に残っていたのは、アメーバ程度の原始生物でも持つような、とても基本的な感情…たぶん、危険に対する恐怖とか、安全性への欲求とか、そんな程度のものだったんじゃないかと思います。

それ以上の細かいものは、つまり、愛情や憎しみや喜びや楽しさや哀しみや憎しみ、のようなものは、当時の私にはまだ高級すぎたものだったんです。

たとえば、――――そう、たとえばここにカップがあります。そうすると、「これは丸い」とか「白い」とか「コーヒーが半分残っている」とか、人は無意識にいろいろと判断をしていますよね。私は、何かを「感じる」というのも、それと同じことだと思うのです。

つまり、「遊園地に行くのは楽しい」とか、「葬式に出るのは悲しい」とか。泣くのも笑うのも、実は経験の蓄積があってのことで、感情というのもひとつの学習の成果だと思うんですよ。

ところが、私は「あのこと」のあったときから、自分の学習成果をきれいさっぱり忘れてしまったんです、たぶん。

これは恐ろしい――――というか、非常に不思議な状態でした。

もちろん感情はあったんです。「何か」は感じていました。けれど、その感情がどんな感情なのか、それにどんな名前がついていたのか、判らないんです。

つまり、たとえば葬式に行くとしますよね、そうすると私は何かを感じて居るんですが、それが悲しいのか嬉しいのかそれとも別の感情なのか、判断できない。そんな風なのです。

だから私は、記憶に従って生きる、一種のロボットみたいになりました。というのも、どう振る舞いたいのかが判らなくなってしまっていたので、どうも以前自分はこういうときにはこういう風に喋ったり感じたりしていたんではないかな、というような記憶を掘り起こして、それで反応していたからです。つまり、葬式に行ったとしたら悲しそうな顔をして見せておく、という風にです。

万事がこの調子でしたから、仕事にしても会話にしても、私はほんとうに困りました…いえ、困るというのも変なのです。混乱していた、というのが正しいですね。

とにかく私は自分の感情が選べないのですから、「困っていた」とも言えません。

このことは、母や青島に驚かれたのですが、私は、実は、犯人に怒りを感じても良いのかどうかすら判らなかったのです。

まず恐怖が先に立ってしまっていたんでしょうね。怒りとか憎しみなんて、複雑な人間が抱くものですよ。

だから、私はその時まで、感情と言えば「恐怖」か「安全」しか持っていなかったです。

その私に「怒り」を呼び覚まさしてくれた出来事が――――憎しみと、哀しみと、そして死んでたまるかというプライドを呼び起こしてくれたのが――――あの、卑劣な、殆ど人とは思われないあの男の、極め付きの侮辱の一言だったのです。」

     

    

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