生還



 一瞬、高校時代に戻ったのかと思う。

 じゃあ、今までのは全部夢か?と都合のいい解釈に心が傾きかけたが、母の目に浮かんだ涙が、自分の経験を真実であったと伝えた。

「気が付いて、よかった・・。慎次。帰ってきてくれて、ほんとによかった。可哀想に、だけど、ほんとによかった・・・」

 ぽろぽろ泣き、嬉しそうに笑いながら、同じ事を繰り替えし繰り返し、母は私の顔をなで回した。そんなことをされるのは記憶にある限りではなかったことだから、私はとても驚いて・・・そして母の愛情、というものに、照れくさいけれど、一方で震えるほど安心していた。

 もしここが実家のベッドだったら、きっと子供のように母の胸に縋り付いて本当に泣き出したと思う。そして自分がどんなに非道い目にあったか、洗いざらいぶちまけて、泣きながら、けれど少しはすっきりして安らかに眠ったことだろう。

 けれどここは病院だった。そして自分は30も過ぎた大人で、そして自分の身に起きたことは、まだ捜査段階の事件だった。犯罪事件には保秘義務が発生し、例え肉親でも内容を話すことはできない。

 私は警察官だった。

「母さ・・・・ごめ・・・しんぱ・・、かけて・・」

 声が自分でも驚くほど掠れて、喋りづらかった。

「何を言ってるの、この子は・・・わたしに気を使う必要ないのよ、病人のくせに。もっと早く助けてあげられなくて、でも母さんなんの力もなくて、ただ祈るしかなくて、それだけ・・・」

 また涙が頬を伝う。室井はその涙を包帯に巻かれた腕を持ち上げて、掬った。指先に温かい水分が触れ、濡らしていく。枯れ果てた心まで潤すように。

「なかんで・・・もう。大丈夫・・だから・・・」

 母が笑う。涙と笑いでぐちゃぐちゃだが、こんなに母の顔を観音様のように綺麗だと思ったことはなかった。

「父さんはそろそろ戻ってくるわ。」

「・・どこ、・・って・・?」

 その質問に思考が変わって、彼女は明るく笑った。

「今、お昼なのよ。ほっとしたら、おなかがすいて。ここ3日、とんと食べるのを忘れてたのよ。さっき、母さんが食べて帰ってきて、交代で父さんが食堂に行ったの。でっかい病院だから、食堂も広くて綺麗で、驚いたわ。さすが東京ねえ」

 妙な感心の仕方をしている。

 室井は母のあけっぴろげな評価に微笑し、そして笑うと切れた唇が引きつって痛いということに気が付いた。喉も乾いて痛みを訴えていたが、水分が欲しいとは思わなかった。

「・・・ここ、け・・さつ、びょう・・ん?」

「いいえ、私もそうなのかと思ったんだけど、虎ノ門病院よ。頭を打ってるし、脳外科の先生で有名な所にしたんですって」

「・・・だれ、が?」

「新城さんって、小さい方。あんなに小柄でも、警察官なのね。とてもてきぱきとなさっていて、あなたが救出されたときも、すぐ知らせて下さって。迎えのヘリまでチャーターして下さったの。だからあなたが病院に着いてからそうたたないうちに、私たちも東京に来れたのよ。本当に、良い方ね。あなたからもお礼を言ってね」

 熱に浮かされた頭ながらも、新城の本意を推測する。

 警察病院は、内部の者ならいくらでも出入りできる。
 
 今回の事件では、誰が味方で誰が敵なのか分からない。自分の息のかかった病院で守った方が安全だ・・・そう判断したのだろう。

 新城の親戚に医者がいる、というのは小耳に挟んだことがあったが、虎ノ門病院だとは恐れ入った。

「・・ちょくせつ、・・ってあげて。もちろ・・ん、俺も、・・けど・・」

 それにしても、なんと喋りにくいことだろう?

 咳をしたら血がでそうなほどに痛む。

 もっとも痛みは全身に散らばっていて、一カ所に集中することも出来なかった。そのくせ全体がぼうっとぼやけたような感覚で、自分の身体なのにとらえどころがない。

 全身麻酔のあとのような感覚だが、どこかに外科手術が行われたのだろうか。

 母がいたわるように、室井のがさがさになった前髪をくしげずった。

「もう何回も言ってるわ、昨夜から。そしたら、お礼なんて言わないでくれって言われたわ。警察の当然の仕事ですからって。まったく、世の中には変なコトする警察も沢山いるようだけど、あなたや新城さんのように立派な方がいて、社会を守っているのね。母さんは、ほんとうにあなたを誇りに思います」

 室井は答えずに目を伏せた。苦笑が浮かんだが、それを母は照れ笑いと受け取ったようだった。

 今回の事件が内部の犯行である可能性が強いと知ったら、お嬢様育ちで世間知らずな母は何と言うだろう。警察など辞めて仏門に入れと勧められるかも知れない。母の実家は福井ではかなり大きい禅寺だった。

「気が付いたのか、慎次」

 懐かしい声に視線を動かしてみると、病室の引き戸を静かに滑らせながら入ってきたのは、電話越しでなく数年ぶりに直に顔を見る、父だった。

 入室する前から話し声に気づいていたのであろう、わずかに紅潮した顔と潤んだ目が、いつも無口な父の心中を表現してあまりあった。


 しばらく無言で見つめ合う。

 息子は、父も老けたな、と自分の掛けた心労を思い、父親は、心身共に傷ついた息子の無惨な姿に声もなかった。


 投げ出された両腕に巻かれた白い包帯が痛々しかった。左肩を覆うように巻かれた包帯は、左鎖骨を角材かバットのようなもので折られた部分を補強してある。

 端正だった貌には、左の口許に殴られた痕がひどく、こめかみは青黒い痣が醜く広がっている。

 きっと受け流すように殴られたんでしょう、でないと顔の骨格が変わってましたよと、そういう医師の説明に、一体どういう反応をすれば良かったのか。

 今は手術服に隠れて見えないが、全身には無数と云って言いほどの打撲痕と刃物による裂傷が残り、特に肛門にある凄まじい裂傷は、息子の身に何が起きたのか、疑う余地もあたえなかった。

 それから、たまらなく厭わしい気分にさせられる、胸の入れ墨・・・。

 それらのことだけで、より詳しい説明などを与えられなくとも、息子を拉致した犯人達がどんな種類の人間で、どんなに冷酷な暴力が息子に加えられたか、家庭裁判所調査官だった彼にははっきりと理解できた。

 拉致されていた間の事を想像するだけで、身が切り刻まれる思いがする。

 救出後、息子の死体のような身体を前にして以来、彼はひどい頭痛と吐き気に襲われていた。そしてこの凄惨な姿に怯むこともなく、息子の生還を単純に喜べる妻の真の強さに、いざというとき男親はダメなものだ、と情けなく思った。

「・・・生きて帰って来れて、本当によかった。・・・本当に」

 もう少し優しい言葉はないものかと思う。

 だが掛け値無しの真実の言葉でもあった。

「・・ん・・・ほんとに、・・・ごめん・・・」

 口下手でそっくりな父と息子の会話はそれきりだった。

 だが息子の瞳が大きく揺れるのを見ると、父はきゅっと眉尻を下げ、鼻の奥がツンとするのをやり過ごした。

 彼は黙ってベッド脇に寄って、点滴の針が刺さったままの息子の手を、力を込めてぎゅっと握った。

 その薄い手の肉が、生命のかそけさを象徴して、この命があと一歩で失われるはずだったことを改めて知る。

 昨夜、ヘリから降りた直後に会った担当の医者の、今日が峠です、という言葉に、薄暗い廊下で膝が砕けそうになった。そうならなかったのは、妻が半狂乱で、医師にすがってお願いです助けて下さいと連呼したからに他ならない。妻のお陰で冷静さを失わずに済んだだけなのだ。

「・・・さ、顔色が悪い。しばらく寝なさい。私たちはずっと、ここにいるから」

 息子は嬉しそうに目を細めた。

「・・ん・・・・。大丈夫、だから、もう心配・・な・・で・・・東京見物でも、してって・・・」

 こんなときに何を言っているのか。そう怒鳴りつけようと思ったが、息子らしい気遣いからくる言葉にそうもできない。こんな姿になっても、一生懸命自分は大丈夫だというメッセージを送ってくる息子に、彼は熱くなった目頭を妻に見られないように必死でしばたたかせた。

 息子の枕元に張り付いている妻は、その言葉に素直に呆れる。

「馬鹿だねえ、そんな暇あるわけないでしょう。でも、着替えとってくる必要はあるわね。秋田には昔のしかなくて、とりあえずいつもの浴衣だけは持ってきたけれど。あなたの家の鍵はあるの?」

 母親らしい実際的な言葉がこの場合は有り難い。

 頬笑みつつ、略取されたときから鍵の入った鞄は見ていないから、きっと中身ごと東京湾かどこかの井戸にでも沈んでいるだろうと考え、

「・たぶん、無・・と、おもう」

 聞き苦しい声に、息子の負担を思った父親が切り上げるように妻を咎めた。

「警察の官舎なんだから、管理人かなにかいるだろう。私が探すから、気を回す必要はない。とにかくお前は早く元気になりなさい」

「ん・・ありがと・・ほんと、何もかも、ごめ・・・」

 目が醒めて待っていたのは、自分を優しく包む親の真心と愛情で、それが一番、地獄に等しいあの三日間と今とが断絶しているのだということを室井に納得させた。

 身体の緊張が溶けるようにほぐれていくのがわかる。

「もうひと眠りなさい。私達はずっと、ここにいるから・・・」

 髪を梳く柔らかい感触と優しい呪文を合図に、麻酔の残滓もあって、温かい闇に呑まれるように意識が遠くなっていく。

 茫洋とした身体は奇妙に熱く、おそらく苦痛を和らげるため鎮痛剤が投与されているのだろう、などという論理的な思考も、一度気を許せばみるみる拡散していって、どこまで明瞭に意識してのことか、もうわからなくなっていった。

 
   * * *

 

 落ちた目蓋の裏に、緑のコートがひるがえる。


 それはつねに、室井にとって、夢と現実との間に、生と死の狭間にかかる橋だった。

 だが、今その橋が真っ赤に燃えて、炎の中に崩れ落ちようとしている。

「・・おちる・・・・」


 息子が唇を動かすのを両親は見たが、何を言わんとしているのかは分からなかった。


 誰かが焔の向こうから、手をこちらへ差しのばしている。

 何かを必死で怒鳴っている声が聞こえる。


 手を伸ばそうとした。が、縛られていて果たせなかった。

 彼を呼ぼうとした。だが、喉に巻き付いた針金が、呼吸すら奪った。

 犯人の刃が彼へ向かって空を切る。


「あお・・・・!」


 ひるがえる緑のコート。ぶつかってくる躯の重さ。

 同時に、炎に巻かれた天井が、二人の上に凄まじい音をたてて落下してきた・・・

 

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これもかなり初期に書いたもの。入院してるのに親が来ないのは変だと思って書いた話なので、面白くも何ともない。で、あとの方は加筆訂正しました。

1999/10/18

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