rebuilding the world 2 -limitation-

安藤に会ってから2週間がすぎようとしていた。青島はカレンダーを見た。もう何度目になるか判らなかったが、だが彼に判っているのは、今週、つまり明日の土曜日からは、いつもどおりのルーティーンでいくならば、自分の「参勤交代」の番だということだった。

彼は電話に目をやった。これも何度目になるのか判らなかったが。手を伸ばし、送話機に手を乗せ、彼はカーブを描いたプラスチックの生ぬるい感触を嫌悪した。彼は電話がこれほど嫌いになれるとは思わなかった。彼は手を引っ込め、その代わり拳を握りこんで、それを唇に押し当てた。発されようとした人の名は、だからついに発せられなかった。

彼は無理に意識を仕事上の失敗に引き戻した。彼は二日前、取調べの最中に婦女暴行犯を殴った。理由はなかった。───あえて言えば、犯行を自供しながら、その男が、40がらみの元マスコミ関係者だったが、そいつが、"笑ったから"だった。取調べ机に向かい合って座った男の黄色い歯が、一瞬ちかりと閃くように微笑を、満足げな、"思い出し笑い"を、浮かべたのを見た瞬間、彼の拳は全く無意識に男の顔面に飛んでいたのである。

「先輩!」

後ろから羽交い絞めにされながら、青島は床の男に向かって怒鳴っていた。

「笑うな!笑うんじゃねぇ、この下種、クズ、クソ野郎っ!貴様、何を、何を笑ってやがる、何を思い出して笑いやがった?!貴様のその汚らしい頭んなかで、被害者のことを考えるんじゃねえっ!馬鹿野郎、殺してやる、絶対殺してやるぞ!この、最低の、クソ野郎が…!」

何事かと、刑事課中のあらゆる取調室から人々が飛び出してきた。暴対で一番大きい河合刑事がドアをぶち破るように駆け込んでき、喚き散らす青島を必死で押えていた真下警部補から受け取ると、引きずるように更衣室に連れて行った。気が触れたとしか思えない刑事の怒号の叫びは、更衣室のドアがぴしゃりと閉じられるまで二階の廊下じゅうに響き渡った。河合は手近のシャワー・ブースに青島を引きずり込むや、コックを全開に捻って頭に血が上った刑事をその下に突っ込んだ。

冷たいタイルに押しつけられ、水を頭から被ってずぶ濡れになった青島が、同じくずぶ濡れになった河合に礼を言ったのは、それからおよそ、5分以上経ってからだった。

「…スンません、河合さん…頭、冷えました…」

壁にぶつけた、いや、ぶつけられたこめかみの痛みを、痛みとして認識し始めてやっと、青島は小さく呟いた。流れ落ちる水で貼りついた髪の隙間からのぞく瞳に正気の光が戻ったのを確認して、河合は青島の喉元と肩を押さえていた腕の力を緩めてやった。

「大丈夫か」

河合は落ち着いた声で尋ねると、コックに手を伸ばして水流を止めた。流れ落ちる滝が止まると、青島には河合の背中の向こうに袴田が立っているのが見えた。

「青島。お前、今日は帰れ」

課長にしては珍しいシャープな口調だった。よく見れば、青い制服の胸元から下に点々と濃い群青の染みが飛んでいる。課長まで水がかかっちまいましたね、と軽く言おうとした唇は、痙攣するだけでまともな言語の羅列を作り出せなかった。

「青島、お前、メシも食ってないだろう」

異様なほど親身な口調で河合が言った。馬鹿野郎手間をかけさせるなと、刑事部屋ではそう怒鳴られたほうがよっぽどマシなのだと、その時になって初めて青島は気がついた。俺は───いったい何をした?取調べの最中に容疑者を殴るなど、警察に入って初めてした服務規程違反、いやそれどころか拷問を禁ずる日本国憲法第38条に対する違反だった。

「すいませ…おれ、やばい、こと…」

河合が突然ぶるりと震えた青島の肩を、厚い掌でぽんと叩いた。

「疲れてんだよ、青島。課長の仰る通り、今日はもう帰れ。あとはこっちでなんとかするから。な?」

「で、でも、おれ、取りしらべが…」

興奮に震える声をなんとかコントロールしようと口元を押える青島に、袴田がぴしりと宣告した。

「"でも"はなしだ。取調べもなし。青島お前は即刻帰宅したうえで自宅待機しなさい。署長と話し合って処分を決めたうえで連絡をするから、それまでは家から一歩も出るな。これは課長命令だ。判ったな?」

青島はのろのろと手をどけて、険しい顔つきの袴田を見た。銀縁眼鏡の奥の目に、怒りではなく恐怖に近い不安を読み取って、そしてその心配は自分に対して向けられているものだと悟った時、青島はうなだれ、すみません。と呟いていた。

「換えの服、あるか?なければ、俺のでよければ貸すが…」

もう一度青島の肩を叩いて、覗き込むようにスキンヘッドの暴力団対策課刑事は太い声でそっと尋ねた。惨めさを押し隠して、青島はなるべくしっかりとした動作で首を振った。

「いえ、制服ならあるんで、それで、帰ります。どうも、課長、河合さん、ご迷惑をおかけして、」

だが袴田は珍しい青島の素直な謝罪を遮った。

「私への侘びは文書で提出してもらうからいい。とにかく、今日はまっすぐ家に帰るか、さもなきゃ署内の仮眠室で寝るかしなさい。だいだいここ数日の君の顔は、見てるこっちが食欲がなくなるような代物だぞ。昼飯も食ってないのか?」

青島はその質問にはうんともすんとも言わず視線を泳がせ、河合はちらりと目を細めて課長を見やった。その意味するところに、袴田が溜息をつく。

「命令を一部変更する。署内の食堂でステーキ定食を食ってから帰れ。また帰る前に私にそのレシートを提出していくこと。───ったく、拒食症の女子高生じゃあるまいし、なんで私がそんなことまで面倒をみなきゃならんのだ」

この台詞に、河合が喉の奥で低く笑った。
怒ったふりで言い捨てた課長は、だが出て行く間際、敷居の上で立ち止まった。そして半ば独り言のように言った。

「私も、もし自分の娘が、と思えば、あんな犯罪に対して冷静ではいられないだろう。だが、やはり、どこかで私たち警官は、冷静でなければいかん。人を、その犯人を憎むのではなく、そいつが犯した罪だけを、憎まねばならん。警察は社会秩序のために犯罪を取りしまるのであって、被害者の復讐や、ましてやリンチのためであってはならないからだ。」

それから彼は青島の目に向き直った。

「わが国は、被害者にすら復讐の権利を認めておらん。なのにお前がしようとしていることは何だ?警視正はご立派な方だ。ご自分が被害者であることより先に、警官であることを忘れていらっしゃらない。だが、お前はどうなんだ?」

更衣室のドアの周りに人だかりができ、その中にはすみれの白を通り越して青ざめた顔も、真下の怯えたようなうらなり顔もあった。袴田は囁くような声で続けた。

「私はこれまで、お前が警視正とお付き合いさせて頂いているのはいいことだと思ってきた。だがそんな調子で、お前は本当に警視正のお役に立っているのか?残念だが、私は自分の考えに自信がもてなくなってきたぞ。」

それきり、立ち尽くす青島を残して袴田は去った。

      *

青島は煙草に手を伸ばした。二日間の自宅待機という名の謹慎/有給休暇のおかげで、考える時間だけは腐るほどあった。おかげで彼はいかに自分の部屋が荒れ果てていて、いかに冷蔵庫の中味が生ゴミと酒だけに占められていて、いかにここ半年の自分の私生活が破綻したものであって、いかに自分の精神が荒廃していたかを理解した。そしてその集積されたあらゆるゴミ溜めのまん中にすわり、彼はさらにビール瓶と大量の煙草の吸殻というゴミを生産しながら、電話を前に、ずっと考えていた。感じていた───いや、苛まれていた、と言ったほうが正確か?

とぐろを巻く憎悪。神経を焼き焦がすような憤怒。晴らせない、出口のないフラストレーション。安藤に語った白い悪夢。自己嫌悪。惨めさ。警察への不信。新城の突然の異動といっさいについて沈黙する高級官僚たち。袴田が去り際に残した言葉の痛烈な弾劾。屈辱。悲しみ。そして、室井。

室井。

彼は彼を形づくる全てを脳裏に描き出した。であった頃の彼を、共に戦友として戦った彼を、その場限りで生きてきた彼をそれまで経験したことのない高みまで連れて行き、輝くような世界を垣間見させ、そして彼自身が自分でも持っているとは思わなかった、何かとても尊くて貴重なものを捧げさせた、まっすぐな背中を。そして───そして、青ざめ、やせ細り、黒い双眸には暗黒しか映さず、はるかな断絶の向こう岸に、それとも光も届かない闇の淵に、じっと呼吸を止めて沈んでいる彼の青ざめた額を。

もう半年。

外見的な傷はほとんど消えた。残ったのは、胸の赤い、反吐が出るような刺青と、治しきれなかった骨折による指のゆがみだけだった。だが夜中に金切り声を上げて飛び起きる彼を、静かに泣きながら眠る彼を、うつろな目で自分の世間話に答える彼を、何かというと『申し訳ない』と呟く彼を、死体のように固まった体の中で実は足掻き苦しんで救いを求めて叫んでいる彼を、いったいどうすれば青島は守れるというのか?救えるというのか?癒せるというのか?
いいんです、大丈夫です、もう大丈夫なんです、もうあなたはそれ以上苦しむことはないんです、これからは俺が絶対にあなたを守りますと、もう何度彼は繰り返し囁き、励まし、新しく誓ったことろう?

だが、本当は、そう言ってもらいたいのは自分のほうだった。自分こそ、誰かにそう言ってもらいたかった。お前は無力で役立たずだと、毎日毎日室井の真っ黒な目に云われつづけるのは拷問だった。呵責だった。それが真実だった。いくら彼が口でありがとう、感謝してる、申し訳ない、もう私は大丈夫だから帰りなさいと告げたとしても、彼の心の奥底の耳は、室井の中から滲み出す聞こえない囁きを受け取り続けた。君の努力には感謝してる、でも。君の配慮や優しさには本当に申し訳ないと思っている、でも

正確に言うならば、このときの青島が向き合って立っていたのは、室井という"人間"ではなく、「無」だった。真空だった。

どうやったらこの感覚を、その経験がない者に伝えられるのか、たいていの人は言葉に詰まる。青島といえば、例えばこんな風に安藤に語ったりした。

『まるで、暗黒の宇宙空間に突然放り出されたような感じです。光はない。音もない。自分の手がどこにあるのかも見えない。頭を掻き毟って叫んでも、喚いても、宇宙には音を伝える空気がないから何も聞こえやしないでしょう?それと同じで、俺が声を限りに叫んでも、どんなに祈っても、何を言っても、何をしても、全部ゼロになっちまう、って感じなんです。全部真っ黒な宇宙の中にシュッと吸い込まれて、そして二度と帰ってこない。そんな感じなんです』

無を前にしたら、反応は返らない。声は唇から零れた瞬間に広大無辺の真空中に吸い込まれ、叫んだ自分の耳にすら届くことはない。そしてそれはちょうど、室井があの時に魂の底から上げた渾身の叫びが誰にも聞かれなかったのと、全く同じことなのだ。

彼にはそれがわかった。彼には室井が受けた拷問がいかなる種類のものだったのか、お陰でおぼろげなりとも理解できた。そして今、室井は自分がされたことと同じ事を、彼自身の中に引き受けた虚無で、彼自身にその虚無を与えた世界に向かって、彼の全身全霊を消耗し尽くしながら"お返し"をしているのだ、とも。

だとしたら、これは彼の罰だった。室井を救えなかった青島の罰だった。だがこの罰は───もはや半年にわたっていた。彼は室井の痛みがわかると思っていた、彼の煮えたぎる怒りは、ほかのどんな奴にも理解されないほど深く室井の苦悩に直結していると、おかしな話だが彼は自負していたのだ。その傲慢さに、そろそろ彼は気づきかけていた。

これまで、"あなたのお気持はわかります"などと、おためごかしを言う奴を青島は冷笑してきた。だが。

半年が過ぎていた。問答無用に生活は動き、新しい事件がおき、裁判が始まり、捜査は進展したり止まったり迷宮入りになったりし、人々は異動し、結婚し、妊娠し、別れ、新しい戦争が起き、様々な条約が結ばれ、子供達は卒業し、湾岸署は新人を受け入れた。だが室井は変わらなかった。虚無や無ほど頑固なものはなかった。それは変化を嫌った。誕生も変化も転換もなかった。何も動かなかった。彼が発した心からの慰めや励ましや許しを乞う言葉の全ては、どこにも当たらず、跳ね返ってもこず、反発すらされず、ただ飲み込まれていくばかりだった。壁に向かって話したほうがまだしも木霊が返ってくるだろうと思えるほど、彼は口でいくら ありがとう"とか"申し訳ない"とか言っていても───無反応だった。彼の心は死んでいた、動いていなかった。青島になど、なんの注意も本当には払っていなかった。彼の意識はつねに、文字通り寝ても覚めても、"あのこと"の上に、"あのこと"が生み出した苦痛と虚無の上にのみ、あった。

半年間、それでも青島は“虚無”に向かって語りつづけた。そして虚無に向かって語ることが、これほど消耗し、絶望的で、破壊的な影響を彼の生活にもたらすものであるのなら、その虚無を自己の体内に抱え込んで生きている室井自身の生活は、彼の精神世界は、一体どのような地獄を、惨状を、呈しているものなのか、と思った。だがせいぜいがそこまでだった。もはや青島にはsこから先を想像することができなかった。もう限界だった。もうこれ以上は耐えられなかった。彼は虚無を忘れたかった。生きている実感が欲しかった。太陽の光が、日常の喜びや笑いや冗談が、適度な仕事の愚痴が、気軽なおしゃべりが、なんてことない通常の生活が、喉から手が出るほど欲しかった。つまりがこれ以上自分の無力さに直面しつづける気力が、もうそのときの青島には、残っていなかった。

かれは”一抜け”したかった。室井の肩を掴んで引きずり立たせ、いい加減に生き直したらどうなんだと身体を揺さぶりたくなる衝動を押えながら、この陰鬱な地獄の中に室井と共に座りつづける気力が、もうそろそろ彼は尽きかけていた。彼は電話を見つめた。

『あなたは《神》になろうとしているんです。そんなことは人間には不可能なのに。』

テーブルの上には、雑誌が広げられている。

『室井さんから少し離れたらいかがでしょうか。思いやりも、愛情も、本当に必要なことです。けれど、それらは決して、あなたの犠牲の上に成り立ってはいけないのだということも、真実なのですよ。』

わりと堅めの記事を載せるので有名な週刊誌に、安藤医師とインタビュアーの女性作家がローテーブルを挟んで向き合って映っていた。たまたま駅の売店で買って、そしてたまたま安藤が載っていて驚いた。そして読みながら、彼は、なぜ安藤は自分に直接このことを言ってくれなかったのだろうかと疑い、それから、でもやはり、そういわれてもあの時の自分にはわからなかったのかもしれない、とも思った。

   *


『メサイア症候群、というのがありましてね』

『メサイア?あ、メシア。キリストとか、救世主のことですよね』

『ええ、英語ではメサイアって発音するんですけど。この症候群は病理学の教科書に載っているわけではないんですが、しかしわれわれ治療者の中では一番有名かもしれない病気でしてね(笑)これはね、われわれ治療者が、あたかも自分を救世主や神様になったような気になることがある、それを戒めるための用語なんです。よほど気をつけていないと、経験を積んだ治療者でもこの病気に罹りますよ、って、一番最初に研修医になった時に先輩から言われるんです。』

『自分こそ患者さんを救える、って思っちゃう』

『ええ。そういう風に勘違いさせる要素もたくさんありますしね。というのも、患者さんて、ちょっと良くなると、何もかも全部先生のお蔭ですとか、私を救ってくださってありがとうございますとか、もうものすごい信頼感というか、これも一種の狂信に近いんですが、まるで神様みたいに僕達を崇めてくれちゃうんですよ。治療者と患者が異性同士の組み合わせだと、恋愛感情を転移させられる───あー、転移っていうのは、ちょっと説明しづらいのですが、まあ一種の擬似恋愛感情だと思ってください───ことも、よくありますしね。』

『"アルジャーノンに花束を"とか、確かそうですよね』

『ええ、あれについては色々言いたいこともありますけど(笑)まあ今はそれは置いといて、ともかく、ここで本当に恋愛関係に入っちゃだめです。そこを治療者はうまく距離を測らなきゃだめ。この距離を取る、っていうのが一番難しいんですけどね。かんたんに突き放したりすると、患者さんは最後の拠り所と思って治療者に会いに来てるわけですから、この人からも見捨てられたと感じたら患者さんをさらに追い詰めることになりますし、ぼんやりぼかして言ってたら"オッケーなんだ"って思われて、夜中の3時に電話がガンガンかかってきたりとか、そういうことになっちゃう。ですから、治療者のほうは本当によほど注意して、何か少しでもそういう、全部こっちによりかかってくるような気配があったら直ぐにこまめに軌道を修正していかないとね。』

『でもその、適度な距離を取りつづける、っていうの、難しいですよねえ。永遠の課題っていうか…文学なんかだと、その距離の取り方に失敗してる人間ばっかり描くんですけど。でなきゃドラマが生まれないから(笑)』

『そうね(笑)。でも治療の場から言うと、ドラマといえば悲劇の場合が多いんで、ともかくドラマのない、起伏のない、つまらない人生に患者が一刻も早く戻っていけるようにとお手伝いするのが仕事なんですよ。だから僕、文学とか読んでると、なんでみんなこんなに不幸になりたがるのかなあとか思っちゃう(笑)』

『それは耳の痛い批評ですわね(笑)』

『いやいや、つまらない人生って言うのは言葉のアヤですよ。付かず離れず、っていうのは、実際は本当に難しいですからね。かなりスリリング(笑)"何にもドラマのない人生"ほど実現不可能なものってないと思います。だってそうするためにはセンサーをずっと働かせてないといけないから。ミス無しでいくってことでしょ。それは実際に無理だしね。で、そういうのに疲れちゃうと人は逆に精神をダルに…鈍らせちゃいます。これはまあ、一種の病的な退行反応ですけど。だから、僕達精神の専門家は、自分の今の状態はダルか、それともシャープか、ってのを通常以上に意識してる連中ともいえますね。今日の僕はちょっとダルだから、喋るときちょっと強めの表現を選ぼう、とかね。』

『あ、それで思い出したんですけど、私の知りあいのコック長さんに、毎朝梅干を1個食べてから仕事に行く人が居るんですよ。もう何十年もそれやってらっしゃるんですけど、全く同じ梅干が、日によって酸っぱく感じたり甘く感じたり、体調とか湿気とかで違うんですって。だから仕事に行っても、今日は甘めにしようとか、酸っぱめにしようとか、そういう風に自分の味覚もきちんと管理して仕事してるっていうの。私凄いなあと思いましたね』

『それ判りますね。そのお店教えてくださいよ、きっと美味しいだろうから(笑)』

『いいですよ、あとでね(笑)でも、結局、治療でも料理でも、プロっていうのになるのには、それなりの訓練や勉強や修行が必要なんじゃないかなって思いますね。なんだか職人さんみたいですけど』

『それはまったくそのとおりです。僕は精神科医を養成するのには最低でも10年の徒弟制を復活させるべきだと信じてるクチですから(笑)でもね、こういうインタビューや一般向けの読み物ですね、そういう出版物をちょっと読んだだけで、自分も誰かを治療できるとか思って手を出される人が多いんですよ。いや、この雑誌を批判してるわけじゃないですよ』

『だといいんですけど(笑)』

『いや本当、本当(笑)。でもアメリカの作家さんで大ベストセラーを出した人がいるでしょう。あのお陰で多重人格障害が有名になったりしたせいで、なんだかみんな半可通に詳しくなって。それで、こいつは精神分裂病に違いないとか、こうなったのは家族関係に問題があったんだろうとか、周りの人間はこういう風な態度をとってやれば治るだろうとか、そういう風に特に学校の先生とかマスコミの人は簡単に考えちゃう傾向が増えましてね。最近では患者さん自身が、先生自分は何々病です、とか宣言される方もいますからね(笑)』

『医者より病気に詳しかったりして(笑)?』

『よく勉強されている方いますよー。感心しちゃうくらい。「もうそれ以上本を読まないでください」って言うこともありますし(笑)───でも、このことは、僕がどの場所でも強調して言ってることなんですけど、訓練なしで本だけ読んでもだめなんですよね。よけいに病気が酷くなったりなんて、よくあります。ある程度元気になった方なら全然問題ないし、かえって有益とは思うんですけど、なんにせよ、いつ、何をすべきかについて最も適切な時期を選べるのは、今のところ治療者だけですね。こっちは責任がかかってますから。でも素人さんは、もし失敗しても───たとえば最悪の場合には患者さんの自殺未遂とかね、そういうところまでいくわけですけど、それについて責任を負えないわけですよ。善意で助けたいと思ってやってるけど、患者さんのほうはそれに答えてくれるとは限りませんからね。例えば普通の健康な人だったら、こちらのしたことに"ありがとう"で返してくれるようなことを、患者さんによっては"ばかやろう、くたばっちまえ"って返事が返ってくるとかね(笑)』

『えーすごい!そんな風に恩を仇で返されて、へこたれません?』

『いえ別に。それが訓練受けてるかどうかの違いかな。それに、恩返しってのは、無償の行為に対する恩でしょ、普通は。こっちはお金貰ってますから、どんなに罵倒されても給料のためだと思えば耐えられます(笑)』

『またそんなご冗談を(笑)』

『いやいや、これは本当に大事なことですよ。立派な精神科医になる条件は、堂々と患者さんに金を請求できるようになることです。これほんと。アメリカの精神分析家養成コースの卒業式じゃ、この三つの言葉さえいえればいい、って教えてますよ。"It's so difficult. I have no idea. Oh, pay the bill, please.(難しいですね。さっぱり判りません。あ、今日の代金をお支払いください)"。これがすんなり言えるようになったら一人前だってね(笑)』

『はあ〜』

『あのね、擬似恋愛感情が危険だって言ったのも、素人は危ないっていうのも、結局そこに"無償の善意"っていう、"お金じゃ払えないもの"が介在してるからなんですよ。』

『あ…なるほど、なんとなく判った気がする。───思うんですけど、それって好きじゃない男から言い寄られるのに似てません?キライじゃないんだけど、その人の好意には応えられない。だから申し訳ないなあって気持が募っちゃって、だんだん会うのも苦痛になってくる、みたいな。』

『患者さんの立場から言うと、まあそんな感じかもしれませんね。でも逆に好いてる男の方からいえば、俺はこんなにお前のことが好きで、こんなに無償の愛を捧げて、こんなにプレゼントもあげているのに、なんで応えてくれないんだ、っていう、恨みっていえばいいかな、が生まれてきちゃいますよね。でも好かれてる方からすれば、心を返せ、って言われるほうが、お金で返せ、って言われるよりも難しいわけでしょ。だって返せないんだもん。だから素人さんが手を出すのはやめて下さい、って言うわけです。実際、ご近所付き合いのよしみと思って善意でいろいろやってあげてたら、最後はこじれにこじれて訴訟沙汰になったとか、ありますよ。でも初めからお金で契約してる関係ならこういう問題は絶対に起きないでしょ。だから、お金をください、って言うのは重要なことなんです。』

『なるほどー』

『それにこれは治療者にとっても重要でねえ。初めのほうで言いましたけど。メサイア症候群。』

『あ、自分を神さまだと思っちゃうやつね。───そっか、神様はお金もらいませんもんね(笑)』

『そうそう。お金貰ってれば、自分は神様なんかじゃなくて、汚れた資本主義社会の一労働者に過ぎないと、まあそういう拠り所が持てるじゃないですか(笑)自分を偉い奴だとかお前を救ってやるとか思ってたら、患者さんは絶対に何も話してはくれませんよ。お互いにダメな人同士、まあなんとか融通しあって生きていけたらいいですね、くらいな感じが一番ですね。私はあなたの心の安定の努力する、あなたはそれに対してお金を払う、そういう契約関係は、どちらかが嫌になればカット−オフもできるわけだし、そういう基盤の上に、患者の精神世界の再建っていうのはスタートすると思います。』

『じゃあ、家族とか周囲の人とかのかかわりって言うのは?』

『それこそ自由です。欲を言えば、ただ一生懸命関わってくれるのがベスト。でも関われない人がほとんどなんですけど(笑)まあ、"人間関係を良くする唯一の方法"、なんかありませんよ。よくそういう本があるけど。とにかくその人の持ってる愛情とか、それまでの関係性とか、それに応じて、その人のできる限りのことをやっていくだけ。で、もうとにかく五里夢中でわあわあやってるうちに、何時の間にかそれまでのいろんな関係が組み変わって、最初の問題はいつのまにか違う問題に移っていってたわ、みたいな。そういう解決のされ方が多いです。
たとえば、お父さんは子供が家出するまでは全然家庭を顧みなかったのに、その後は仕事より家族に重心を移すようになったりとか。それで給料は結局下がっちゃった、っていう"問題"は生まれるんだけど、でも奥さんも子供もそれでもいいわ、って思えるようになったりとか。だから、一人の人間が変わるとか、“問題を起こす”っていうことは、必然的にその周囲の人の変化に結びつきます。だからそういうのを解決って言うんですかとか言われると、まあ元には戻ってないわけですから、そこらへんは肺炎が治って元通り健康になった、とかとは違いますね』

『あー、つまり、誰か"悪い子"とかがいて、その子が"いい子"に戻る形で問題が決着する、って言うことはない。そういうことですね?』

『そうですそうです。元に戻るってことは、一度問題が起きたら、もうありえません。その問題の持つパワーは衰えないまま、関係者の誰かが死ぬまでずっと持続しつづけるか、さもなければそこに存在していた関係性が完全に解体することで問題自体の消滅が図られるか、さもなければ多大な苦痛を経験しながらその関係者達自身が変わっていくか、です。で、私たちとしては、この最後の選択肢を選んだ患者さんたちを、なるべく滑らかにソフトランディングするように援助している、って言う感じですね』

『タフな仕事ですねえ』

『おや、そう思われますか?はは、患者さんには「先生は座って話をふんふん聞いてるだけで給料もらえていいなあ」なんて云われますけどね(笑)』

距離。

青島は子機を掴んだ。

自分は室井との距離を縮めようとしてきた。だが、それはまだ早かったのかもしれない。彼にとっても、自分にとっても。踏み込み過ぎないように自己をコントロールできる自信は、もうなかった。仕事上ではじめて完全に自制心を失ったことが、その証明のように彼には思えた。

彼は送話機を持ち上げ、それから大きく息を吸うと、短縮を押した。

 

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20020717


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