認識の極北 -rebuilding the world 1- 


あのとき、私は人間として扱われなかった。もっと簡単に言えば、私は「もの」だった。さらにはっきり言えば、「穴」だった。精液をぶち込むための、嘲笑を浴びせるための、小便をひっかけるための、なぐりつけ、ねじ込み、犯し、打ち砕くための、穴だった。

だがもちろん、この穴には感情があった。あなたと同じ、通常普通の人間が持っている、感情である。さらに声もあったし呼吸していたので、一応その「穴」にできる限りの大声で叫んではみた。わめいてもみた。説得も試みた。最後は血と涙と汚物にまみれながら「どうかお願いですから」と云ってもみたのだった。

だが、それは言葉の最も純粋な意味で、無駄(Helplessness)だった。

               

室井は、今となってはどちらが獣だったのか判らぬと思っている。

端的にあの三日間、彼は「言葉」も「意味」も奪われた状態にあった。

腐った畳に転がされている間、彼の話す(泣き叫ぶ)言葉はことごとく無視されるか、ふさがれるかで…もし彼らが気が向いた場合には、嘲笑された。しかし彼は実のところ、その方が断然マシだった。これは反語ではない。完全に無視されるよりは、それが嘲笑や、罵声や、皮肉であっても、「人間として相手にされる」ということは、ほとんど相手に混じりっけなしの親近感を抱くきっかけにもなり得る「恩恵」である。というのもそれは要するに、便器に対して嘲笑や罵声を浴びせかける人間はいないのだから、そうされることによって彼は、その瞬間にはまだ自分は便器ではないのだ、ということを思い出させて貰えたからである。

しかし殆どの時間、彼は要するに、「穴」だった。

彼は「王様の耳はロバの耳」と毎日、毎日、吹き込まれ続けた穴の「気持ち」が判るんじゃないかという気がした。秘密を誰かに云わずにおれなかった床屋の気持ちではなく、破廉恥な秘密を吹き込まれ続ける穴の気持ちが、である。

そして勿論、彼の穴に突き込まれ続けたのは、「王様の耳はロバの耳」に勝るとも劣らぬ非現実的な現実であった。童話と異なるのは、それが紙の上ではなく皮膚の上に――――精密にいえば、彼の皮下組織をえぐる深さで――――起きたという点である。

彼の所有するものは、それが心であれ、体であれ、身につけた衣服であれ、全く尊重されず、一顧だにされなかった。彼が持っていたものはすべて奪われたか、さもなければこれから奪われるものだった。

そのうえ彼は自分がなされていることの意味を、なぜ自分が、という疑問への答を、与えて貰えなかった。彼の筋肉も、若さも、職務上の権力も、安価なビニールテープ一本で無意味になった。 彼のなす行為は――――いや、彼には「行為をなす」ことなど出来なかった。

彼は完全に客体だった。彼は状況をコントロールする事など出来なかったのだ。世界は彼の外にあった。いわば、彼は路傍に転がる石のようなものだった。放置されるか、石蹴りの対象になっているかだ。

だから、彼はある時、もう自分は石になろうと思った。いや、自分は既に石なのだと思った。

石は名前を持たない。石になる、とは、彼とその他とを区別するいっさいの指標を消滅させることだ。

彼はまず自分の名前を忘れた。いや順序が逆だ。理性やプライドや怒りや疑問や優しさや羞恥などの、うるわしき「人間性」こそ彼が真っ先に捨てたものだった。

ついで彼は時間を数えるのをやめた。3日=72時間=4320分という客観数字は、一秒が無限に延びていく時空においては無意味である。だから彼の主観時計は、その針をあの一瞬で止めた――――「神はいない!」と、そう宇宙のどこかに叫んだ瞬間に。

そして彼は世界との交信を断った。

                                

世界は消滅し、自己も消滅した。だから同時に彼は自分の内部で「なぜ」と質問するのも停止した。

「なぜ」自分はこんな目にあうのか?

「なぜ」この男たちは自分を選んだのか?

「なぜ」世界にはこんな人間が存在するのか?

「なぜ」神は助けに来てくれないのか?

この、一介の人間にはとても耐え難い苦痛の果てに、この苦痛を少しは耐えやすくしてくれる、より高位で殉教者的な崇高さが約束されるのか?

もちろん、これら質問の答は全て「ノー」である。

苦痛は苦痛であり、屈辱は屈辱であり、折れた骨は折れた骨である。

拷問には、例えば結核患者の書いたサナトリウム文学に必ず漂う「喪失の美学」の甘さも、キリスト殉教伝にあるような、人をうっとりとさせると同時に力づけるような宗教的、もしくは法悦的「栄光」も、いっさいまったく、存在しない。

だとすれば思考は無駄であり、感情は邪魔だった。生きていく上で、不要なのである。苦痛以外のことしか訴えない知覚など、そんなに長時間人間は耐えて持ち続けられるものではない。

女は女として生まれるのではない、女にされるのだ、と云ったのはボーヴォワールだった。この気の利いた哲学者の警句を、彼は「人間は石として生まれるのではない、石にさせられるのだ」と言い換える資格を持つ人間だった。さらにボーヴォワールはこうも云った。「私は女であることを選択する」と。

与えられた『女』というスティグマを自ら選び直すことによって、逆説的に女の尊厳を高らかにうたいあげたフェミニストの歴史的金言は、では、彼の場合にはどう働いてくれるのだろうか? 彼は「石」であることを選択するのか?

これはクエスチョンのたて方自体が間違っている。成立しない。石が何かを選択することはありえないから。

だから、もし何かを選択せんがためには、人が単に存在するためでなく述語的な意味で「生きる」ためには、彼は、石から人間に戻らなければならないのである。

                                     

別荘で、物質的に死ななかった石=室井の、凍り付いた針が動き始めた。

時はメルトダウンし、未来と過去と現在が混淆し、互いの境界線を浸潤した。めちゃくちゃになった精神は、他者と自己、敵と味方、内部と外部、上と下…の線引きが出来ず、彼は笑うと同時に泣き、怒ると同時に赦した。引き裂かれた精神を繕う途方もない仕事をするのは、既に死亡した「神」ではなく、引き裂かれながら悶絶している彼自身のみだった。

こういう、石的人間は、表面上とても平坦に見える。以前の彼を深く知らなければ、「冷酷なほど冷静な人間」と感じる人もいるかもしれない。

しかし彼の世間向けに被るマスクは、彼にはいかなる表情も作れないがゆえの、代替作用なのである。

彼の感情は、全く無いか、それともありすぎるかだった。PTSD患者には「中間」や「適度さ」や「日常」は存在しない。

彼は底のない穴にいる。落下しているのか、それとも浮いているのか、判らない。自分の居場所が分からない。何が見え、何が見えていないのかも判らない。だとすれば、彼が昼の光の下にいようと、それは暗黒のなかにいるとおなじ事である。

認識の絶対不能状態とはこういうものだ。

この「世界」で、彼は五ヶ月間、「生きた」。

      

たとえば産まれたばかりの赤ん坊に、犬は犬として見えない。それは「!」としか形容できない「もの」である。

認知心理学者の研究によると、「イヌ」と発音するその物体がいわゆる「犬」だと幼児に認識出来るようになるためには、およそ数年の時間と経験が必要だと云う。

PTSD患者も同じである。PTSD患者というのは、通常生活を行っていく上で、人が余りにも当たり前でいちいちそんなことを考えもしないで生活している「自明のこと」がある、たとえば「イヌ」は「犬」だというようなこと、そんなことまでもが信じられなくなっている人々のことである。

彼らには「日常」がない。彼らはいわば生まれたての赤ん坊のようなものだ。ただしほんものの赤ん坊と違うのは、彼らは生まれた瞬間から社会の中で歩き出すことを要求される、ということだ。

世界は一度振り出しに戻っている。彼らはもういちどこの世界――――ただし、過去の世界とは全く違う、と深く確信している新しい恐怖に充ちた世界へ放りこまれる。

人々が、なんでそんなことが?と疑問に思うような、ある種の匂いや、ある服の色や、ある種の音や、何かを思い出させる叫び声、金属の光、壁の厚み、それらが今度はまったく新しい意味をもって浮かび上がってくる。

具体例を挙げよう。

たとえば以前なら、紐は紐だった。当たり前のことだ。

だが紐を見た瞬間、室井はそれを「!」としか云いようのないモノとして認識した。

もちろん過去の記憶は、それが荷物の梱包に使われたり、古新聞をまとめたりするのに使われるものだ、ということも彼に思い出させるのだった。――――もちろんそうに違いない!一つ数百円で売られているビニールテープの使い道など、ふつうそう言う目的にしか使われないものだし、実際そう言う風にのみ彼は使ってきたのだから。

けれど一度世界が崩壊したPTSD患者にとっては違う。それは彼を縛り、窒息させ、手足の血流を止めて爪の先まで冷え切らせ、彼をあんな状況から逃げ出させることを阻んだ、拷問具であった。

紐はもはや紐ではない。

それは「お前を縛ってあそこに連れていってお前にああいうことをするために」使われるものだ、という「認識」が、理性も光も届かぬ心の深層で彼を捕まえる。だから彼は紐を見た瞬間、震え上がる。息が詰まり、目の前が黄色く霞み、筋肉が不自然に強ばる。彼は動けない――――ちょうど、まさに、あの時のように。

逃げろ。

彼の防衛本能が命ずる。

逃げろ。それは危険だ。さもないとそれはもう一度、お前をあんな目に遭わせるぞ…。

「あんな目」というのがどんな目なのか、知らないPTSD保持者はいない。彼は震える。いそいで周囲を見回す。囁いてくる声が聞こえないふりをしようとする。周囲ではふつうの、日常の、市民生活が送られている。人々の談笑、機械の電子音、風やクラクションの音…。

彼はわななきながら首を触る。手が自由に動く――――そうだ、紐はない。おお、もちろん紐はない、だってここはあそこではないのだから。

彼は顔を覆う。手は動き、足は動き、人々は彼の体に触れずに通り過ぎていく。そうだ、今は安全なのだ。

彼は言い聞かせる。

ここでは、もう、あんなことは起こらない。大丈夫、歩き出せる。ほら、一歩だ。ほら、二歩だ。そうだとも、私は自由に歩いているじゃないか?息も、もちろん、十分に吸えている。大丈夫、安心しろ。もう大丈夫なんだ…。

            

これが、こういう風に思うものが、紐だけではないのだ。

ブルーと茶の服がダメだった。もちろん、そういう服を着ている人間は「彼ら」ではない、というのは頭では判っている。だが「頭」など、身体に刻みつけられた恐怖の前にはあまりにも弱いものである。

日本酒がダメだった。酒瓶を見るのもダメだった。酒瓶が飛んでくると云うことではなくて、酒屋に集う人間達がいつ豹変して自分に襲いかかってきたり誰かを襲ったりするか判らないと信じていたからだ。

髭がダメだった。あの時に自分の肌に触れた感触、それを思い出すだけで彼は気が狂いそうになって自分で自分の頭を殴る。思い出すな!忘れろ!そう叫びながら。

畳がダメだった。それは座ってくつろぐところではなくて、押さえつけられ、のし掛かられ、恥辱を受ける墓場でしかなかった。

34年間が振り出しに戻った。おかげで毎日が新鮮な驚きと"恐怖"に充ちていた。

彼は自分のそばを通り過ぎていく人間がいつ襲いかかってくるかは判らないと思っていた。電車で隣り合わせたサラリーマンが、いつ自分の体に手をのばしてくるか判らないと怯えていた。自分の背後から走ってくる車やバイクは誘拐犯の一味かも知れぬと妄想した。

車を走らせながらこのまま電柱に激突するか東京湾に突っ込んで死にたいという願望を歯を食いしばって振り切って官舎に辿りつき、訳の分からぬ疲労感におしひしがれて玄関の鍵を開けるとき、最後に彼は、かならず左右を確認した。

 

PTSDの「治癒」とは、この日常をひたすら繰り返していくことである。とにかく恐怖でしかない日常に慣れていくこと、そのためには感受性を鈍磨させることが、いわば生き残りの必須戦略といってもいい。

有り難いことに人間はなんにでも慣れることができる動物だ。恐怖と苦痛と恥辱に慣れ、善も美も信じず、猜疑と憎しみと人類への軽蔑だけを食料とするような人間がはたしてまだ「人間」と呼ぶに価するのかは別にして――――けれど患者は、そうすることで息をし続けるほか、彼の生存を維持することも出来ないのである。

とにかく当時の室井には、生きているということは、まだ死んでいないということだ、という程度の認識しかなかった。

この期間はどれだけ続くだろうか。

私には正確なことを云うことは出来ない。

受けた打撃の大きさ、持ち前の性格、周囲の援助、環境の安全性、この四つの条件が比較的良く揃っていれば、それほど長くはかからないと思われる。おそらく1年程度で、一人で近所に外出するくらいのことは可能になるだろう。

この一年の間に彼の交友関係は激減する。あらゆる会合や同窓会に出席することを彼は拒否する。仕事以外では、彼はロボットか無能の人である。なぜなら彼は一個の巨大な悲痛であって、彼の周囲の人を決して幸福にしないから。

しかしこれは残念なことではない。友達が減ってもいずれ新しく作れるし、必要な会合はそれほど多くはないものだ。彼は絶対に安全な人々にだけ囲まれ、繭の中で再生のためのレッスンをしている。周囲からはどんなに無為無策、無能の人間にみえようと、彼の内部では「このままではいけない」という囁きが、「苦しい!」という呻きとともに、共生している。

彼は震え、おののき、泣きながら、一秒ごとに生命を延長させることで安全を確認していくのである。そういう無限のステップを踏んでいくしか、PTSDの治療法などない。

安藤の教えてくれた白い袋は、それでもこの状況から抜け出る一歩だった。それは彼の周囲がすべて暗闇であるとは限らないということを教えた。だとすれば、すべての人間が危険なわけでもないし、すべての畳がおぞましいわけでもないはずだ。

患者は演繹し始める。じりじりと、少しずつ、彼の生存圏を広げ始める。

            

こんなことがあった。

ある時、ビルの壁際でキャッチセールスに腕を強引に捕まれたことがある。いつ頃のことだったかは覚えていないが、彼は――――彼は道を行くとき自分の視野が極端に狭まることに気づいていなかった。彼は一時期、地面だけを見て歩いていたのである――――パニックに陥った。

恐怖の余り声を挙げたようだが覚えていない。喉が締め上げられるような息苦しさを感じたから、声も出なかったのかもしれない。

体が凍り付いた。彼は若い男の顔を凝視した。視界が黄に染まった。

遠ざかる意識の片隅で、彼は自分の体が広大な世界の中で見えないほど小さな「点」に縮小していく既視感を覚えた。あの時、自ら「石」になったときのように。

だが男は逆に、室井の反応に驚いたようだった。自分は腕を掴んだだけである。なのにまるで悪魔に会ったような顔で見つめられたのだ。男の顔に、反射的な、あっ悪いことをした――――という、小さな罪悪感が走った。

そしてそれを読みとったとたん、室井は、自分の肉体感覚を取り戻せたのである。「点」に凝縮しかけていた自己が反転し、骨格内に膨張し、世界が彼の皮膚まで戻ってきた。

上手く云いがたい。この感覚を一般人にも判りやすく云えば、つまりそれは、「安堵」だった。

――――ああ、あいつらではない!こいつはあいつらではないんだ…!

彼は思わず膝が崩れそうになった。それほど「こいつはあいつらではない」というのは喜ばしい認識だった。いや、ほとんどヴェートーヴェン的な歓喜だった。

確かに男のやり方は無礼だっただろう。(東京ではありふれたものだが。)けれど、彼は自分の恐怖を察知して、さらにそれに対する罪悪感を覚えた、その男の人間的な感情の動きに、恐ろしく感動していたのである。それは彼が室井を人間として認めているということだった。彼が今は「あそこ」にいるのではないという証明だった。

キャッチセールスにほとんど親愛と感謝の情を抱いた室井は、しかし恐怖の残滓は拭えず、体は時間が止まったように凍り付いていた。

その時間を動かしたのは青島である。

凍り付いた室井の代わりに、一瞬後、青島がそいつをビル壁に叩きつけていた。

        

 

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