PTSD


 

 手を開いて、閉じる。単純な動作を、もう何回繰り返したろうか。

 煙草があれば迷わず火を点けていたけれど、室内で吸う習慣が無くて、そうすることは躊躇われた。そしてこんな時にまでそういうルールをきちんと守ってしまう自分の律儀さに自嘲する。

 手をぎゅうっと握ってみる。掌に爪がくい込んで、痛い。ちゃんと痛みを感じてる。

 精神は死んでる気がするけど、ちゃんと痛覚は残るんだな。そう思った。

 有形無形の暴力には慣れてるつもりだった。自分が他人を傷つけたことも、他人に傷つけられたことも、今まで生きてきて何度もあったことだと思う。でもそのときの傷つき方と今回のこれとは根本的なところが違う。

 今回は、何に一番傷ついたと言って、相手に同じ人間として扱われなかったことにあるのだ、と理性が分析している。

 喧嘩とかは自分の理解を教えたい人とやるんだ、というのは事実で、つまりは相手も同じ人間・・共通言語が成立する人間として見ているからあり得る人間関係なんだと思う。

 ところが人格を否定された上での暴力というのは、自分の人格が崩壊するほどの衝撃を与えるものなのだ。今まで寄って立ってきた世界が、ぐるりとひっくり返って、空が実は地面だったんだと突きつけられるような感覚だ。

 悪意や逆恨みによって引き起こされる反撃的な暴力なら、私にも理解できたと思う。私の行動や存在が、誰かにとっては自分の存在を侵害するものと感じる人間がいるのは当然のことだから。

 あの時、私の混乱しきった頭の中では、こんな事は信じられない、私が被害者になるなんてありえない、そういう考えでいっぱいだったような気がする。

 ふだんから権力的な立場に着いているから、私は他人の権利や自由をなるべく侵害しないように行動することを自らの義務と課していた。だから、逆に自分が誰かに権利を侵害されると言うことがあると考えても見なかったのである。

 それは私が職場から一歩出れば、簡単に権利を他人に侵害されうる弱い一個の人間なのだと言うことを思い知らせた。

 今となっては。

 今更なぜ反撃を躊躇うのか?事件があり、被害者がおり、加害者もそろっているではないか。何故私は加えられた暴力に対して報復しないのか。

 しかし共通言語が存在しない加害者に対して、一体どのような罰を下せるだろう。そもそも罰とは何なのか。制裁なのか、それとも被害者の痛みへの贖罪なのか。

 ならば被害者の痛みを加害者が知るというのが一番の贖罪であるはずだが、そもそもそれが出来ないのだから仕方ない。しかしそれでは私のこの喪失感は裁判に勝利することよって埋められるものなのだろうか。

 いいや。 決して埋められはしない。

 失われたものの代わりに、手に入れたものもあるはずだ。手に入れたもの・・。

 世界観が転倒する中で、私も少し用心深くなる視野を広げたということだろうか。それとも他人への恐怖と自己防衛本能の発達か?それが賢くなると言うことなのか。

 心の一隅に砂漠があって、そこは私の持つ生き生きとした生への喜びや新鮮な感動が死んだ、風も光もない世界だ。

 疲れたとき、私の魂がそこに迷い込むと、私のこころはそこに広がる、のっぺりした虚無に絡め取られる。

 音のない闇の砂漠を一人歩いているような気がする。

 どこに向かって、何を求めて生きてるのかわからなくなる。

 そう言うときは、早々に眠ってしまうことで本格的な精神の死を避けるのだけど。

 

 そんな夜は、横たわる自分の身体を、一千光年も遠いもののように感じるのだ。

back


1999・9・19

生まれて初めて書いた論文以外の話です。
暗いわ・・・・。

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送