室井別荘6 〜重さ〜
夜がまさに訪れようとしていた。
頭上で色の濃さを増す空と足下から痺れるようにはい上がる冷気とが、ようよう昂ぶった青島の神経を醒ました。
青島はきつく抱きしめていた腕を少し弛め、小さく身じろいだ。室井を封じ込めるように櫻の巨木と自分との間に彼を挟み、自分の頭を木の幹に付けていたから、離れるときぱりぱりと髪から乾いた木っ端が落ちた。
腕の中、室井の言葉にならない叫びは今はおさまり、力無くすすり泣く嗚咽だけ、青島の咽下に生温かく吹きかかっていた。
青島は自分の固まりついたかのような鈍い腕を動かし、できるだけそっと、室井の膝下に差し入れた。そして室井をしがみつかせたまま、ぐっと抱き上げた。
…軽かった。
恐ろしく軽かった。
だがその軽さは彼には喜びだった。
意識がある人間は軽く、意識のない人間は重い。
たとえ地球を抱き上げられたとしても、ただ室井の死体だけは、青島には決して抱き上げられない唯一のものだった。
だからその軽さは彼には喜びだった。
青島は一歩を踏み出した。
室井が辿った足跡を、二人分の重さで反対側から踏みつぶしていった。
薄闇に沈む別荘へ。
―――――世界へ。
木製の古いバルコニーの階段は、二人分の体重で軋んだ。
青島はその段を、一歩一歩を足裏に刻みつけるようにして上がった。もし百段あっても、彼は登らねばならなかった。
室井が一人で歩き出すまで、自分は1000キロでも、彼を抱いたまま歩かねばならない。
それが、彼を一度見捨てた自分の負うべき務めだ。
そんな気がしていた。
開け放したドアを通る。
中は外と同じくらい冷えきっていた。
暖炉だけがその寒さに対抗するように、紅い炎を上げていた。
青島はその前に室井を下ろした。
そこは昨日から彼の定位置になってしまった、慟哭と、苦痛と、そして安息の場所だ。
それから青島は無言でとって返し、ドアをがたぴしいわせながら閉じた。 そして毛布を取って来、かちんかちんに凍りついた室井の体を包んだ。
室井は泣き疲れた幼子のように虚脱して、下ろされたときの姿のまま転がっている。
青島は何も言わなかった。
ただ彼は室井の足指にそっと触れ、それが軽く凍傷を起こしかけているのに眉をひそめた。
だがやはり何も言わず、風呂場に引っ込むと、洗面器にぬるま湯を張って持ってきた。
それをソファの前に置く。 それから再び彼は毛布に巻かれた室井の身体を抱き上げ、ソファに座らせた。
室井はされるがままになっている。
開きっぱなしの瞳はもう乾いていた。だがそれは、酷いカタストロフの後遺症で、意識が一時的に拡散しているだけのことだった。
ゆるく合わさった上下の唇の間から、微かな呼気が蝋燭の炎をやっと揺らす程度のかそけさで繰り返される。かくん、とまるで物のように、支えのない頭がソファの背もたれに転がった。
青島はそれを間近で見やった。だが、何もせず、何も言わず、溜息もつかずに、彼は洗面器と室井の傍に両膝を衝いた。そして厳粛な表情のまま、そっと彼の両脚を持ち上げる。
それから静かに、洗面器のなかに浸していった。
入れた途端、びくりと足は逃げようと跳ねた。
痛いのだ。
だが青島はかまわず足首をぐっと押さえつけた。それはなんなく抵抗を封じられた。
「……いたい」
ぽろりと、言葉といっしょに室井のばかみたいに大きな瞳から水がこぼれ落ちて、それはソファの張布に濃い染みを作った。
だが、青島はじっと洗面器の中にゆれる青白い爬虫類じみた室井の足指を見つめているばかりだ。
「…いた、い。 あおしま―――」
子供のように、室井は繰り返した。
続けざまにぽろぽろと、水滴が零れた。
―――――でも本当に痛いのは、どこなんだろう?
指?足?体?心?
どれひとつ、まともなものは持たない自分だった。
だからきっと、全部が痛いのだ…。
がんぜない訴えに、青島ははじめて口を開いた。
「…痛むのは、細胞が生きてる証拠です。完全凍傷になったら、指を切り落とすことになる。俺は、これ以上あんたに―――」
そこで青島は言葉を探した。
「あんたに、傷を残したくない」
上手く言えなかった。
青島は、室井が今も完全なのだと云いたかった。
壊れてなどいない。欠けたところなどない。ただ、いまはちょっと、バランスが崩れているだけなのだ、と。
だが上手く伝えられなくて悔しかった。
ふいに、彼は室井の親指を口に含みたい欲求に駆られた。
接吻したかったのではない。
食欲だった。
ぬるま湯の中、ゆらゆらと膨らみを白く光らせている親指を見た瞬間、青島の中に、それに思い切り食らい付きたいという欲望が腹の中で爆発する強さでこみ上げたのである。
それは自分の口中の熱で彼を温めてやりたいという言葉に変換して美しく表現することも可能かもしれなかった。
だが、それはやはり、食欲に一番近いのだ。余りにも自分の欲望に忠実に云うならば。
青島は驚愕して、自分に押さえつけられ水中で弱々しくもがいている白子のような青白い足指を呆然と見つめた。
―――――喰いたいのか、俺は?この人を?
だがありがたいことに彼がその事について深く考える余裕はなかった。
青島は弾かれたように身を起こすと、室井を背後に庇った格好でホルスターの拳銃を引き抜いていた。
「手を挙げろ。でなければ撃つ」
青島の悪夢を一瞬で吹き払った黒い影は、ガラス戸の向こうで両手を軽く肩まで素直にあげた。
そして答えた。
「青島巡査部長。一倉だ。…情報通信局の、室井と同期の、一倉だ。」
* * *
引き戸が開かれ、名乗ったとおりの人物が現れたとき、室井の瞳は静かに閉じられ、また開いた。
しかしその中には何の思考も感情も動かないように、一倉には見えた。
壊れたマネキンのようだ。一倉は思った。きっと、なぜ俺がここに来たか、どんな思いでここに来たか、何を託されてここに来たか、などは全く考えることも出来ていないにちがいない。それどころか、そんな疑問が浮かんでいるかどうかすら怪しいものだった。
そして何より、ベッドに仰臥していたときより尚悪い瞳の暗さが、一倉には衝撃であった。こんな瞳の室井は見たことがない。
だが一倉はこんな瞳になってしまった者を知っていた。かつて南米に出張していたとき、自分も数回面識のある政府要人が、反政府ゲリラに誘拐されたものの、数週間後に運良く生還したという事がある。拷問の末利き手の指を三本失った男は、帰ってきたとき、こんな目になっていた。
だが、病院での室井はこれほどではなかった。殴打痕など外見は酷いものだったが、しかし、これほど悪くはなかった。
一体、何があったのか?
答を求めて、一倉は横に視線を動かし、横に走る傷を作って頬の下半分に血をこびりつかせている男を見た。
一倉もよく知る所轄の小僧刑事は、追いつめられた狼のように、狂的な熱と不信を帯びた視線を一倉から外さない。そして銃口は外しているものの、指は引き金にかかったままだった。
なるほど新城が手を焼くと言っていた筈だ。だが。
「貴様ら、こんなところにひっこんで、何してやがる?」
一倉はぐいと肩をそびやかすと、暖炉の光だけに照らされて寄り添う二人を満腔の怒りを籠めて睨みつけた。
―――そろいもそろって、馬鹿めらが!
二人を、特に青島を、ぶちのめしてやりたかった。
20010111 室井別荘完結。
正月にこんなものを書いていました。カニバリスト青島。もう何もかんもすまん…。
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