室井別荘 3 〜青島〜


                  

 別荘地を抜けたところにあるしみったれた八百屋に入ると、青島は益体もない野菜を酷く逡巡しつつ買い込み、さらにこまかいヒビの入ったプラスチックの覆いがかかった公衆電話の前をしばらくうろうろしてからやっと決心して、財布に挟んでおいた名刺を取り出した。

 何回か呼び出し音が続いた後、留守番電話に切り替わる直前になって、相手が出た。

「あ・・、安藤先生、ですか?警察の青島ですが・・」

『ああ!青島さん、どうもこんにちは。どうされましたか』

 勢いのある声に、青島は自分が悪夢からちょっと覚めたような、不思議な新鮮な空気を感じる。

「いや・・・どうこう、というか・・・今、大丈夫ですか」

 いきなりどこから話し出せばいいのか、電話を掛けたくせに躊躇って、まず相手のことに逃げた。

 安藤はしゃきしゃきした口調で、

『ええ、でも今自宅におりますので、そっちの電話にお掛け直しくださいますか。この携帯は緊急用なので、申し訳ないのですが』と答えた。

「承知しました。じゃ、あとで・・・」

 青島は公衆電話を一旦切った。電子音が鳴りやむ前に、苛々しながら再び挿入する。携帯を持ってもいるのだが、安藤と同様、緊急時にそなえて回線を空けておきたいので、長電話になりそうなときは普通の電話を使用することにしていた。

 カードが機械に呑み込まれてから、青島はもう一方の番号をガチャガチャ音を立てながら押した。時計を見ると、5時半を数分過ぎたところだった。何故こんな時間に自宅にいるのか考え、それから今日が日曜日であることに気づく。

『安藤です』

 ワンコール目で取られた電話に、青島は開口一番に謝罪した。

「すみません。お休みの日なのに」

『いえいえ、いいんですよ。それより、どうなさいましたか・・・』

 はあ、と青島は曖昧に答えて、ちょっと口をつぐんだ。何かあったら私は君をサポートするから、という安藤の言葉にすがって、直情径行に電話を掛けたものの、一体何をどう説明すべきなのかわからなかったからだ。安藤はそういう人間に慣れているのだろう、辛抱強く青島の切り出しを待っているようだった。

「あのですね。」

 ふいに青島は自分が警察官であることを思いだした。混乱している場合ではない。問題を整理し、分かっていることと分かっていないこと、事実と推測、話せることと話せないこと、それらを選り分け再構成するのが刑事の仕事だ。

「今、僕たちは秋田にいません。」

 取りあえず自分たちの状況を伝えるべきか、と予定外の行動を教えた青島は、

『ええ、存じてます』

 というあっさりした返事に拍子抜けした。

「何故ご存じ・・ああ、室井さんのご両親から連絡が?」

 別荘へ移動するとき、敵を欺くにはまず味方からとばかりに、青島たちは少々スパイ小説じみた脱出劇を演じた。といっても単に室井父が通勤する車のトランクに青島が身を隠し、室井は後部座席で荷物の下に隠れてマスコミを誤魔化したのだが、さすがの青島もトランクに閉じこめられるのは初めての経験だった。

『ええ、なんでもずいぶん冒険をされたようで。』

 受話器を通じてその“冒険”を笑っている気配が伝わる。

『それに、おいてけぼりにされた警察の方から、私の方まで問い合わせがありましたしね。新城さんの甥御さんはずいぶん仕事熱心なかたですなぁ』

 やや皮肉まじりの声に、青島は小さく笑った。新城の“問い合わせ”はそうとう嫌な経験だったのだろう。

「連絡したら絶対に反対されると思ってのことなんすけど、ご迷惑おかけしました」

 同病相憐れむといった風に“迷惑”を詫びる青島に、安藤が同じ経験を持つもの特有の親しみをこめた口調で、

『まあ青島さんが一緒についていらっしゃるのだから、心配ないと、申し上げておきましたよ』と今の青島には痛いところを突いてきた。

 そんな言葉で新城が納得したとも思えないが、今自分たちは本荘署の管轄を遠く離れた他県にいるから、新城が新手の警備官を派遣するのに時間がかかっているのかもしれない。ここについてからおよそ24時間が経過するのに、来客はなかった。

「それが、・・・僕にはこれ以上、室井さんの側にはいられない、と思うんです」

 これまでの明るさを裏切る落ちたトーンに、安藤が真剣な声で尋ね返してきた。

『側にいられない?・・なぜそう思われるんですか?差し支えなければお話しいただけませんか?』

「・・・・・」

 青島は躊躇った。室井の側にいられない理由はたくさんあった。
 だから、その中で最も本源的な理由を探した。

 青島は唇を舐めた。

「・・・僕が、彼を傷つける可能性があるからです。」

 曖昧な言い方なのに、安藤には青島の言わんとするところが分かったのは流石だった。

『では、彼は事件の事について、ついにあなたに話したんですね?』

「ええ、はい・・・」

 安藤が大きく息をするのがわかった。喜んでいるようだ。

『そうですか。それなら、彼が混乱し、つらい経験を思い出すことでまた傷つくのは当然のことです。しかしそうすることで彼は回復の軌道に載っていくんです。あなたが心配になる気持ちはよく分かりますが、今はそれでいいんですよ。これから何年もかかることですが、少しずつ、それは実体から切り離された記憶になって、彼をおびやかす力を失っていきますから、全く貴方が心配することはないんです』

 青島を説得しようとする安藤の、少々見当違いな解説に、青島は重く繰り返した。意味もなく緑色の公衆電話の渠をたどる。

「でも、俺が、彼にとって危険なんです・・」

 安藤の困惑が見えるようだった。

『どういう意味ですか?彼に事件を思い出させるから、ですか?それは理由になりませんよ。彼は思い出さねばならないのです・・それがもはやただの“記憶”になるためには』

 青島は右手で額を押さえた。

「安藤先生」

『はい』

「俺は・・先生に嘘をついたんじゃないかと思います」

『どの点についてですか?』

                     

『・・・俺が・・室井さんを愛している、と云う点です』

 長い逡巡の末に聞こえてきた返事に、安藤は思わず、ったく!と云うようにメモを取っていたペンを握りしめた。

 うすうすそんなことも在るんじゃないかという気はしていた。

 だが、あまりに間が悪い・・・しかしいつでも、患者達は自分たち部外者の目から見ると最悪に間が悪いのだ。

 何も、今、気づかなくても良いだろうに・・・と思う反面、今だからこそ気づいたのだ、ということも安藤には分かっていた。

 安藤は内心の失望を押し隠して確認した。

 公衆電話からなのだろう、時折車の通過する微かな音が聞こえる。

「あなたは室井さんをそういう意味で愛している、という事ですね?」

『いや・・・はい、多分、そうです』

「室井さんに、そういう意味での何らかの意思表示をしましたか?」

『するわけないでしょう!』

 ガツ、という何かを殴る音が受話器に押し当てられていた方の鼓膜を震わせた。たぶん電話機本体かガラス扉かを殴りつけたのだろうが、受話器越しでも響いた其の衝撃に、思わず眉をしかめ一瞬耳を放してしまう。再び押し当て、待つこと数瞬後に、

『・・・すみません。でも、俺もそこまで馬鹿じゃないつもりです』

 怒りを押し殺したような声が返ってきた。

 安藤は取りあえず、すみません、言葉が過ぎました、と謝った。

「あなたを信用していないわけじゃあないんです。そこの所は誤解しないで下さい。・・では、そうなる前に物理的に彼と離れたい、という事ですね?」

『そうです』

 必死で怒りを抑えているようだった。安藤は話させるため冷静に質問した。

「いつ、そのことを決心されましたか?」

『さっき・・・いや・・・昨日の夜、あの人が事件のことを話して・・・全部吐き出して、思い出して・・・ずたずたになって。俺はあんなあの人を初めて見て・・・』

「そうでしょうね。彼の様子は?」

『・・・15時間くらい、つまりついさっきまで、死んだように動かなかったです。暖炉の前に横になったきり、何も反応しなくなって、飯も食わないし、でも寝てるってわけじゃなくて、ずっと何かに耐えるみたいに、身体丸めて』

「それを見ていて、あなたも歯痒かったんですね?」

『・・というか、自分の無力なのが、腹が立ちました。側にいるのに、何もできない』

「みんなそう思うんです。それはあなたの責任じゃないんです。私だってそうなんです」

『・・・でも・・・』

「差し支えなければ、さっき、と仰った、その時どんなことを話されたのか、お話し下さいませんか。もしかしたら、なにか良いアイデアが浮かぶかも知れません」

『・・・話すっていうか・・・俺が、暖炉に火を入れようと燐寸を擦ろうとしたんです。そしたら室井さんが、燐寸で火は点かないって教えたのに、俺は学習能力がないって、昨日以来初めて喋って』

「ほほう、しかられちゃいましたか」

 笑いを含めて云うと、

『ええ、まあ。まいるっすよね。初めに云われるのがそういう事なんだから。』

 青島の口調に少し明るいものが混じる。

『で、俺がホットミルク飲めますか、って聞いたら、それは・・・あの、白い液体がですね、アレを・・・思い出すから、飲めない、と』

「そんなことを云いましたか!」

『ええ、はい。・・・でもなんで俺に教えてくれなかったんですか』

「教えようにも、知らないんだから仕方ないでしょ。そうか・・それで彼は吐いたのか・・・」

 入院中、点滴から徐々に食事に戻していこうとした初っぱなに、室井はすさまじい嘔吐の発作に襲われて、吐き気止めを注射して押さえたことがあった。ものを入れていないせいで、胃が痙攣したのではないかという本人の答弁に、内科医含めてスタッフドクター達はころっと騙されていたことになる。

 牛乳がダメだったとは。しかしその後、本人は出されたものは飲んでいた・・・はずだ。それとも、もしや全て捨てていたのか?

『じゃあ・・先生達も知らなかったんですか』

「知ってたら教えてます」

『じゃあ、肉とか生臭いものもダメっての、ご存じでした?』

「いいえ・・・・でもまあ、病院では生臭いものはでませんし、たまに肉類が出ても、彼は黙って食べていましたから・・・。つまりはあなたにはそんな我が儘を言えるっていうことですよ。それだけあなたを信頼して居るんです」

 勿論、その信頼が青島刑事にとっては重荷になることもあるのだが。

 青島は衝撃を受けたように黙り込んでしまった。

『・・・室井さん、日本酒党だったのに、それも飲め無くなっちゃったんです。監禁箇所の畳に・・日本酒の臭いがこびりついてたんです。それを思い出すからって』

 病院で酒などでないのだから、それこそ全く安藤には初耳だった。

「室井さんは本当にあなたを信頼して居るんですね。そういう風に少しずつ話していければ、それが回復に繋がりますよ。どうかあなたももう少しご自分の気持ちを突き放してお考えになって、室井さんを今は支えて上げられませんか」

『それが・・・』

 青島の歯切れが悪くなった。

『おれ・・どうも、間違えたみたいだ』

「? そうですか?何を間違えたんですか?」

『かわりに梅酒飲ませたんですよ・・・・したら、室井さんが感謝してる、って俺のおかげで助かった、みたいなこといって・・・でも全然あの人助かって無いじゃないですか?』

 安藤は上擦り気味の青島の云いたいことが分からなくて、言葉を待った。

『俺、あの人が・・・自殺、なんてこと考えるはずがないと思ってた。あの時俺は否定したけど・・・先生、彼は死にたがってる。』

「あなたにそう確信させる出来事があったんですね?」

 知らず、安藤の眉がひそめられた。

 事件を告白した今、室井の精神は非常に危ういバランスの上に立っている筈だ。それなのに、なぜ青島はそんな事を言うのか。というより、警備すべきその彼を置いて、なぜ青島は外出したのか?

『彼は否定しなかった。“何故死のうなんて考えるんですか”って聞いても、』

「ちょっと待って、なぜそんな会話になったんですか」

 安藤はイヤな予感が黒雲のように湧いてくるのを感じた。

『なぜって・・・何でだったか・・ちょっと思い出せないっすけど』

「そうですか・・じゃあ、まあ、思い出したら言って下さい。それから?」

 少し失望するが、先をせかす。本人に思い出せないなら、大したことではない。安藤はそう思うことにしている。

『俺・・・あの人が、実は弱いんだって、分かって。でも室井さんは自分が弱いって事許せる人じゃないんです。それなのに俺、つい“あんた弱いじゃないか”って云っちゃって・・・でも強い室井さんで居てくれないと、俺、あの人を囲い込んじゃいそうだったし』

 何を馬鹿なことを。

 合点がいった安藤は、怒鳴りつけたい気持ちを空気の塊を呑み下すことでやり過ごした。

 青島刑事を怒鳴ってどうする。カウンセリングのイロハもしらずに、他人を癒せると思う方が間違っているのだ。それは最初から分かっていたことだった。

「・・囲い込んで、なにか悪いことがあるでしょうか。スポイルしても良いじゃないですか。人間はみな弱いんです。室井さんだけが特別だなんて・・・きつい言い方かも知れませんが、それはあなたの抱いた幻想にすぎませんよ」

 安藤は沈黙する受話器の向こう側に投げつけた。

「弱いのは、青島さん、あなたもではないですか」

 室井は強い。安藤はそう思っていた。

 あそこまでの過酷な経験のなかで、彼は生き延びることを選んだ。入院直後から取り調べに応じ、犯人と戦う意志を捨てなかった。それが怒りからであろうと、警官としての矜持からであろうと構わない。戦っている内は人間は死なないものなのだ。

 怖いのは、インターバルだ。

 常に気を張っている人間でも、ふいにすとんと穴に落ちるように気が緩むときがある。一週間働きづめの後の、何も予定の入っていない日曜とか、ルーティーンワークに心身がちょうど疲れる水曜日などに最も自殺が多いのはそのせいだ。彼らは悪い意味で自分と向き合ってしまう。そして世界から断絶している自己に耐えきれず、死を選ぶ。

 何人もの患者がそういう風に、この世からひょいと去っていった。必死の努力をしてもなお届かない、その度に安藤ら医師たちは自己の無力を思い知らされ、どうしても生まれてくる虚しさと戦って来なければならなかった。

「室井さんに変わらないで欲しい、そう思うのは分かります。しかし一度起きてしまったことを、無かったことには出来ません。・・・あなたは昔の室井さんを求めているのかも知れない。しかし彼は変わります。生き延びるために変わるんです。それを否定することは、今の彼を否定することになってしまいます。昔の彼にはもう戻れないのだから、彼は行き場がなくなって仕舞うんです」

 云いながら、安藤はどうしても責めるような口調になってしまっている自分をとめることが出来なかった。

 私はやはり間違えたのかも知れない。やはり青島刑事に頼むべきではなかったのかもしれない。家族なら、愛情を持っていれば、子供の変化を歴史的プロセスとして受けとめることが出来るから、こんな困難には直面したとしてももう少し違った出方になっていたかもしれない。その後悔が、精神科医としての冷静さを欠けさせていた。  

 しかしもちろん、今更そんなことを云っても仕方なかった。

「・・・もしあなたが今の室井さんとの新しい関係を作ることが出来ないと云うのなら、あなたはここまでです。」

 石のように黙り込んだ受話器に向かって、安藤は、あたかも何かの臨終を宣告するような気持ちで告げた。

『ここまで・・・?』

 ささやくような声が遠い電線を伝わって、安藤は痛ましさに眉をしかめた。

 これから自分が吐く言葉が、青島にはきっと冷たく響くだろうと分かっていたが、それでも安藤が守るべきは、第一番に室井警視正の心だった。だから云った。

「そうです。あなたがさっき仰ったように、やはり室井さんからしばらく離れた方がいいと思います。一年か、三年か、彼の心が落ち着くまで。・・とりあえずは警備の担当を変えるように、新城管理官に連絡せねばなりませんが。」

 受話器の向こうの凍りついたような沈黙は、ブラックホールのように医師の言葉を無表情に呑み込んでいくばかりだ。
 医者をやめたくなるのはこういうときだ・・。

「・・・なぜならば、あなたの感じている愛情を、今の彼に、これまでと考えの変わらないあなたが掛けるのは、あなたにも彼にも悲劇的な、余計に傷を深くするようなことになるおそれが強いのです」

 室井は変わらねば生きていけない。

 それを分かって貰いたかった。

 それは青島にもまた、変わることを要求していることなのだが。

 だが彼を「愛している」とあれほどの熱情をこめて云うのならば、その言葉に期待することは出来ないか?

「・・・本当は、青島さん。あなたは自分の同姓への愛情を認めることが出来ないのではないですか? だから彼に変わらないでいて欲しいと望んだのではないのですか? 強く、手が届かない、付け入る隙のない、尊敬すべき上司の彼に室井さんが戻ってくれれば、あなたはその感情を一時の過ちとして処理できる・・・」

『みごとな推理です。先生、あなたは刑事になれますよ』

 ふいに、それまでずっと黙りこくっていた青島の、硬く、冷たい、でもどこか上の空な返事が聞こえた。

 安藤には、きっと今あの青年は怒りで無表情になっているのだろうと見当をつけることが出来た。自分のプライバシーを土足で踏み荒らされた者の怒り。

 安藤は冷静に切り返した。

「私もしょっちゅう、自分は精神科医に向いてないと思っているのは事実です。こんな風に云うことが、あなたを傷つけるのは分かっていました。でも事実から目を背けることでいい結果が生まれることはほとんどありません。こう云っては申し訳ないのですが、私はあなたの室井さんへの“愛情”に、賭けたのです。」

『俺の気持ちが・・・俺の存在が、あの人を傷つけることになっても?』

 囁くような声だった。

「私達は皆、多かれ少なかれ他人を傷つけて生きています。ですから問題は、相手を傷つけていることに対して、どれ程自覚できるのか、ということだけです。そしてそれは要するに、相手への配慮や関心を、自分がどれくらい持てるか否かの問題ではないかと思います。」

 短い沈黙が流れた。

                      
   *

                  

『・・先生・・俺、なんか悪い予感がします』

 返答が帰ってきたとき、青島の低い声には一人前の男の張りが戻っていた。

「彼は今、一人ですか」

『・・・初めて置き去りにしてきちまった!俺は!』

 頭を掻きむしる青島が見えるような気がした。

「まず電話です。急いで!」

『すみません』

 叩きつけるように、電話は切れた。

             
***

                     
「・・・・・出てくれ、室井さん・・・・・!」

 気が狂いそうな思いでひた走りながら、青島は応えない呼び出し音の不吉さに震えた。

                    


                   

 どこかで電話が鳴っていた。

 反射的に青島からか、と思い、次に、きっと怒り狂っているであろう新城からかもしれない、と考える。両親なら、携帯に電話してくる筈だから・・・。

 不肖の息子、という単語が浮かんだ。

 これまで、父母には心配ばかり掛けた気がする。
 昔から、親の思う通りにならない、我の強い人間だった。
 迷惑ばかりかけた。
 最期の最期まで、彼らに逆縁の苦しみを与えることになるかも知れないのは、申し訳ないと思う。
 こんな愚かな息子のことははやく忘れて、彼らは彼らの人生を生きていってくれればいいのだが。

 父は、きっと怒り狂うだろう。
 それで良い、と思う。
 母は、きっと泣くだろうけれど、・・・彼女は強い人だから、大丈夫だろう。
 青島は・・・・。

 青島は、どうだろう。

 私としては、納得、して欲しいと思う。

 いさぎよさだけは忘れなかったと、室井慎次はそういう人間であったと、そう思ってくれれば良いかと思う。これから死ぬ人間が、未来のことをあれこれ考えるのは可笑しいのだけれど、あまりに疲れてしまって、そんな空想でもしないと死ぬ元気もでない。

                          

 室井は湯船から壁に縋りながらよろめき出た。身体が異常に重い。水の浮力で騙されていた身体は、手枷足枷をつけたように自分を床に押しつけようとしている。

 室井はバスタオルにのろのろと手を伸ばした。

 それから苦労して身体全体を丁寧に拭き清めた。

 洗面台のガラスに胸の牡丹が赤く映ったが、いつも腹の底から沸き上がる嫌悪感も、もはや遠い向こうの出来事に感じられた。

 湿ったタオルを丁寧に折り畳んで洗濯機に入れると、室井は裸で和室へ向かった。

 電灯を落とした六畳の、衣紋かけにかかった大島紬を引っ張り落とす。

 着道楽だった祖父が、わざわざ生地から織らせた着物である。結局本人は一度も袖を通さず、その渋好みの高級品は、体格のよく似た孫のもとに渡った。

 室井は重たい腕をなんとか操ってとろとろ袖を通すと、冷たい絹の感触が何故かなつかしく、乾いた裸体をすべらかに包みこんだ。

 だが帯を取り上げようと漆の衣装箱に屈んだ途端、身体を支えきれずにかくりと膝が砕けて、室井はあっとその場に崩れ落ちた。

 ざらっとした畳の感触が、あの時のことを思い出させる。

 室井はぐっと唇を噛み締めて、一瞬牙を剥いて襲いかかってこようとした記憶のバックラッシュをなんとかやりすごした。

 それから、やがてゆっくりと、骨張った指を伸ばして、祖父の愛用した博多帯を取り上げた。
                          

 首吊りは室井の美的感覚上選択しなかった。もっとも、しようと思っても、適当な梁もない家だったし、第一、今の室井の体力では庭の桜に紐をくくりつけることすら出来そうもなかった。

 薄暗い台所へ行くと、彼は記憶していた食器棚の下の開きから、サラシに巻かれた細長いものを一本掴みだした。  くるくると布を巻き取ると、そこからは刃渡り30pの細い刃が、綺麗な波紋を描いている。切れ味に定評のある有名店の作だが、ここ数年は使われていない刺身包丁だった。

 室井はためらいがちに、左手の親指をゆっくり刃に押しつけると、一つ息を吸って、それから、すい、と横に引いた。
 ぽたり、と台所の床に雫が落ちる音がした。

 同時にジンとした痛みが生まれる。

 どくん、どくん、という脈の感触が、奇妙にはっきりと知覚できた。

 指先が熱い。

 こんな時でも痛みは感じる。

                    

 室井はあかい雫のしたたる親指を袖でぬぐうと、静かに部屋を横切って、縁側の引き戸をからりと開けた。

 途端に、どっと冷気が雪崩れ込んでくる。

 一面に積もった青白い雪の上を画布にして、針葉樹の影が染め抜いたように鋭い真っ黒の模様を描いている。

 月光に誘われるように、室井は素足のまま庭へさまよい出ていった。

 片手に下げた金属片が、冷気を吸収して硬く光った。

 半ば凍った雪が、踏むたびに身体の重みを少しだけ耐えて、それからさくりと崩れ、足跡を残した。

                

 人生最後の足跡は、彼の誕生を記念して植樹された樹齢35年の桜の大木に真っ直ぐ向かってつけられていった。

                    

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