blood -血統-


   

車庫に車が入る音がした。明子はとうに12時を回った壁掛けを見上げた。何度目か知らない。

彼女は老眼鏡をおいて立ち上がった。夕方、なんとなく作ってみた甘酒を温めなおそうと考えたからだった。

外はさぞ、寒かろう…。

立った台所の床の冷たさに、明子はちょっと震えた。

慎次には、この寒さがどんなに堪えるだろう。あの子の痩せた身体には。折れた骨には、どんなにこの寒さが厳しいだろう。

別荘は去年春に出かけて以来、うちのものは誰も使っていない。きっと布団もなにも冷え切っているに違いない。こんなことなら、正月にでも行って布団を干すぐらいはしておけばよかった。

しかしもちろん、毎年明子に正月にそんな暇があるはずもなかった―――――親戚じゅうが室井本家に年始挨拶に回ってくるからだ。

暖炉の薪も十分だったろうか。貯蔵場所は青島刑事に何度もいっておいたけれど、火の付け方を教えるのを忘れていた。慎次はちゃんと教えられるかしら。

――――慎次は大丈夫かしら。

家を離れるのを誰にも気づかれないために、おにぎりを数個持たせるだけで精一杯で、ろくにお総菜も作ってやれなかった。食事はちゃんと取っているか。本当は一緒に行きたかった。でも私まで居なくなったら慎次が家を出ることがばれてしまう。そう言われて諦めた。私に車の免許があればよかったのに。でも電話もできない。盗聴器が仕掛けられていたことが判ったから。

――――盗聴だなんて!

そのことを思い出して、明子はぐいと腰を伸ばした。乱暴にぷつぷつと泡をあげはじめた白い液体を匙でかき混ぜる。

――――こうなれば徹底的に戦ってやるまでだわ。

戦う、ということがどういうことを具体的に指すのかは判らなかったが、とにかく明子は息子を守るためにはいかなることも―――――たとえそれが犯罪に類することであろうとも、やってみせるつもりだった。

「ただいま」

がたりと重い音がして、疲れた顔をした夫が勝手口から白髪頭をくぐらせて現れた。溶けた雪で肩口が少し濡れていた。

「おかえりなさい」

しんとした家に妻の明晰な声が響いて、夢想から覚めたように、慎一はすこし目を見張る。

「ああ…まだ起きてたのか。…寝てていいのに。」

休みが必要なのはあなたの方よと云われそうなほど疲れきった声でそう応えると、彼は壁に手をついて狭い勝手口から体を押し上げるように足を上げた。

「こんな夜にのんびり寝てられるほど心臓じゃありませんわ」

靴をそろえる気力もない夫をわざと放って、明子は甘酒を湯飲みにつぎ炬燵まで運んだ。炬燵の温度を強にする。

「けっこう、遅かったわね」

生返事しか帰ってこないことを見越して、明子はわだかまる思考の重さを振り落とすように言った。

「警備の方、気が付いてないみたいですよ。マスコミも、何も言ってこないし」

今夜の二人の脱出は、今の所うまくいっているようだ。

「そうか」

あいかわらず物憂い返事だが、それでも古い時計の秒針のすすむ音だけがさっきまでの明子の友だったのだからましなものだ。

音を消したテレビには、「世界の天気予報」が映っている。

ローマ・曇、ボンベイ・晴、ナイロビ・晴、ジャカルタ・晴、東京・晴…世界はだいたい晴れているらしい。でも秋田は今夜も雪だった。別荘はどうだろう…ちょうど列島の背骨のように連なる山脈を越えたあたりに位置しているのだけれど。

「車は貸して貰えたんです?」

青島刑事にはうちの車を貸すことにして、同じ型のを持っている義妹の車とをすり替えたのだ。

半ば雪で覆われたナンバープレートまできっちりチェックされるなら話は別だが、そうでなければこの闇のなか、すり替えに気付かれる心配はない。明日以降のことはレンタカーを利用するか、または中古でも買うか、それはまた考えるつもりだった。

「まあ、それはそうだろう。もとは俺がやったやつなんだし」

夫の不機嫌な口振りから、あまり妹との会合は楽しいものではなかったのだろうと察せられた.

彼にとっては血の繋がった妹なのだから耐えられることも多かろうが、明子は義妹が嫌いである。できれば助力など願いたくはなかった。慎次のことは無論心配でせめて義妹の家までは一緒に付いていきたいと思ったが、一方でマスコミや警察に不審に思われると困るので自分はついて来るなと云われたときは、少々ほっとしたくらいだった。

明子は声に労りを籠めて、ごそごそ着替えている音のする隣部屋に呼びかけた。

「甘酒、はいってますよ。のみません?」

「うん…それじゃあ、いただこうか。ちょうど、呑みたかったところだ」

例えそんな気分ではなくとも、そう言って老妻の労りを受け入れる夫である。

外向きのジャージから綿入りの冬物に半纏を羽織った彼は、背中を丸めるようにして定位置の座卓に重たげに体を運ぶと、両脚を掘炬燵に突っ込んで、ふうと腹から零れる深い吐息をついた。

それから本当はあまり好かない甘酒のぬくみを、皺の寄った掌に移すように両方の手で囲む。隣で明子も同じようにした。

水っぽい雪が軒に落ちるぽそぽそとした音が、二人の間の沈黙を埋めるように積もっていく。 さっきまで炬燵の四辺を埋めていたうちの二つが欠落したら、その空間の埋め難さははげしくて、かけっぱなしの薬缶からしゅんしゅん吹き上がる蒸気だけがいたづらに部屋の湿度を上げるばかりだ。

明子は空になった向かいの場所をぼんやりと見つめた。息子が数時間前まで座っていた場所の向こうには小さなテレビがあって、いまはインド洋に浮かぶ島と珊瑚礁が映っている。最近はテレビも衛星放送しか見ない。新聞も雑誌も読みたくない。彼女には日本のことでは知りたくないニュースが多すぎた。そのせいで、日本とはぜんぜん関係ない外国の事情にばかり詳しくなっていく。けれど世界には美しい場所があるのだということを雪に振り込められながら知ることは、彼女の重要な気晴らしの一つになっていた。

  *

「青島さんはいい人ね」

彼女はここ一週間、家族の笑顔の絶えないように気を使ってくれた青年を思い、言った。

このところ、息子の顔に表情が出てきた。救出直後に比べ(といってもその直後は話したくても話せなかったのだが)すこしずつだが口数が増えた。 相変わらず事件については堅く口を閉ざしているが、凍りついていた感情が実家の気安さによって融けつつあるのか、ひどく苛々したり我が儘になったり憂鬱になったり、とにもかくにも感情に波が現れるようになった。次第に扱いにくくなる息子を、青島刑事は巧く受けとめてくれていた。

正直言って、なぜこんなに親切にしてくれるのだろうかと思った。あまりに当たり前のようにしているのでいつしか慣れてしまっていたが、しかし彼の息子に対する献身は並大抵のものではなかった。

要人警護、というのが実際どんなものなのか明子は知らない。けれど、門前の立ち番警官は数時間で交代しているのに、青島刑事はここ一週間ぶっつづけの24時間交代無しで息子の警護をしていた。彼個人の時間がない。

明子ですら買い物や就寝の時は息子と別なのに、青島刑事は1日にほんの数回外出するだけで、それも警備警官との見回りや所轄警察との連絡を、慎次の入浴や午睡の時間を見計らって行っていた。

    

「青島さん、あなた、お休みはないんですの?」

日曜日に、彼女はついに聞いた。彼が来て4日目だった。

「はあ?休み?なんのです?」

青島刑事は相変わらず旺盛な食欲で白米を掻き込みながら逆に訊ねた。

「何って、警備のお休みですわ。今日は日曜日ですよ。いつお休みを取られるんです?」

「ああ、僕にはないんです、それ」

あっけらかんと青年は云った。

「ないって…」

唖然とする明子に、青島はくったくなく笑った。

「僕は『特別』なんで―――こんなふうに四六時中他人がいると気ぶっせいでしょうけど。済みません。」

「まあ。他人だなんて。なんだか親戚の男の子を預かってる気になって、そんなの全然感じないですけど、でも」

疲れるでしょう、と言いかけたのをおっかぶせるように、青年は、

「いやあ、ついに室井さんの親戚にまで格上げかあ。俺、自慢できるっすよ、同僚に」

とおどけて云ったので、後は、何でそれが格上げなんだ、第一何で自慢なんだ、という息子との応酬に紛れてしまった。

もしかしたら、あの軽口は、息子に気を遣わせないための方便だったんじゃないか、とは、後で食器を洗いながら気がついた明子である。本当は交代要員もつける筈だったのだけれど、青島刑事がそれに反対して休日返上で働いていたのだと、明子はあとから新城管理官から聞いて知った。しかしそれであればなおさら、なぜそれほど息子に尽くしてくれたのか分からない。根ほり葉ほり聞いても、「室井さんは、今の警察の期待の星なんですよ」と笑うばかりだった。例の写真週刊誌の記事によれば、青島の刑事復職に息子が運動したということはあるようだったが、それはそれで「自分は何もしてない」と息子は主張するし、やっぱり良く分からない。

でも、二人の間に何か特別な絆があるのは確かで、だから明子は、青島刑事はやはり『特別』なのだと思った。

***

   

慎一は、今し方まで会っていた妹との空転ばかりの会話を思い返し、苦い気持ちになっていた。

   

「…というわけで、なるべく早く家を出たいと思って居るんだ。」

オーストリア製だとかいう、彫刻された布張り椅子の座り心地の悪さに、慎一はもぞもぞと尻を動かした。本家と違って近代的建築の妹宅は暖かく、床暖房とエアコンだけで、石油臭をだすストーブは不要だ。家具はヨーロッパ製で統一され、ベネチアングラスだとかいう目の飛び出るほど高いぴらぴらした照明器具がオレンジ色の光で部屋を満たす。

それはそれで統一感が取れているわけだが、好きか嫌いかで言えば、慎一は箪笥と火鉢しかないような簡素さの方が好きだった。もっとも妹の趣味に口出ししたことは一度もない。

「本家を出るなんて…そりゃあ、慎次くんのことはあれだと思いますけど…でも、ねえ。なにも兄さんがそこまでかんがえなくっても…」

「別にきみにどうこうしろと云ってるわけじゃない。屋敷を他人に貸すのがまずいなら、君たちが代わりに住めばいいと思っている。ただ、私たちは引っ越そうと思う。人が住まない家は荒れるから、それが困るならお願いしたいと、こういうわけなんだ」

「そりゃ判りますよ、マスコミもいやだしねえ。でも、そうは云っても、兄さんが室井家の長男なんですよ?それに、いずれ慎次くんが結婚して、跡継ぎが出来たらどうするんです。本家なのにってもめるのは目に見えてるじゃないですか。」

「もう跡継ぎがどうのという時代じゃないだろう。それに、慎次も今は結婚なんてそんな状態じゃないんだ。あてにならない未来のことより、おれは現在を基準にしたいんだよ」

「まあ、慎次くんも大変な災難にお遭いになって、真当に可哀想だわ。…なまじよく出来て、警察なんかに入ったのが間違いのもとだったわねえ。」

その言い方に潜む何かに、慎一はさっと目の端をつり上げると、平然たる面もちで湯飲みを口に運ぶ妹を鋭く見つめた。隠微なものを感じた。信じがたいことだが、冷笑か、もしくは軽蔑に近い憐憫を探り当ててしまったのだ。かっと頭に血がのぼり、口中にもたつくような不快さがこみ上げ、それはどういう意味だ――――と糺そうとしたとき、だが、そういえば。と慎一はかつて一笑に付した妻の言葉を思い出した。

「晴美さんは、聡くんの出来が慎次よりよくないからって、ずっと嫉妬してらしたのよ。聡君が慶応に入った時、ここぞとばかりに‘大学は東京がいいらしいからねえ’って何度も云ったわ。慎次が仙台なのをバカにしてる言い方だったわ。」

その時は、何を下らない、お前の考えすぎじゃないのか、と愚かな女の争いを切り捨てたのだが。

慎一は今初めて妹の顔を見たように思った。

太り、白髪も増え、皺の寄った薬指には、巨大なサファイアの周りに小さなダイヤをはめ込んだ指輪がでんとのっかっている。誠司くんの収入が知れるものだ。もっとも自分は銀行勤めを羨ましく感じたことはない。 それにしても一緒に田んぼを走り回ったあのほっぺたの赤い妹が、数十年たつとこんな底の知れない年増女になるのかと、慎一は薄ら寒く思った。 夜中だというのにびっしり化粧をした唇がぺらぺら言葉を紡ぎ出すのを、慎一はなるべく見ないようにしながら座り続けた。

「…第一、加奈子も納得しませんよ。あの人はいつだってここの財産を狙ってるんだから。もし私がそうしたら、すわお姉ちゃんがいいとこどりしたってぎゃあぎゃあ云うに決まってるんです。自分は父さんに一番可愛がってもらったくせに、死ぬ寸前まで東京から出てこないで、葬式ばっかり口だして。相続のときも色々あったじゃない。私もう懲り懲りだわ。」

「加奈子にはおれの方から説明してきかせるよ、そんなら」

この妹とは話せば話すほど疲れが増してくる。早く切り上げたくて、慎一は安請け合いをした。そして本当に、慎次と青島刑事を問答無用に先に出させて良かった、と思った。

こんな会話を彼らに聞かせたくはない。

      *  *

「――――この家を、売ろうかと思うんだが」

帰り道、音を立てるワイパーの向こうに、ライトの範囲だけ照らし出された白い夜道を睨み付けながら考えていたことを、彼はついに口にした。

家を売る。

売るならば、分割は必至だ。この広大な敷地を一括売却できるとは思えない。

それは先祖から連綿と受け継がれてきた家門の土台を、自ら突き崩すことを意味していた。

だが妹二人を説得する能力は自分にはないし、まずその気力が既に失せていた。

明子は夫の顔をしばらく見つめた。本気かどうかを確認するような目つきだったが、やがて、「かまいませんよ」と答えた。そして、「結構、維持費もかかりますしね」と付け足した。

「そうか、そんなにかかってたか」

家計など妻に任せっきりの慎一が苦笑すると、明子も心得てると言いたげにくすりと笑った。

慎一はふいと、黒光りした梁や柱のぐるりを見上げた。

梁の構造が見える高い天井にはツバメが巣を作ったこともある。白いヘビが走ったこともある。まだ子供の時分だ。縄跳びを投げ上げて、それが取れなくなって、祖父に大きに叱られたこともある。しばらく梁からぶらぶら下がっていた縄を見るたびに、随分反省もしたものだ。

それは歴史だった。ここ数代のものでない、数百年ものあいだ修理をされながらも、この家の屋根を支えてきた太い梁だった。

しかしもはや慎一にはそれを支え続ける意欲が失われていた。

長男として、室井の本家として、下らない事だと思いつつも、世間体や体面を重視してこなかったかと云えば嘘になる。それを守るために、それなりの苦労も努力もしてきたつもりだった。「本家の長男」として、やはり窮屈なほど真面目にやってきたと思う。

しかし今回の事件は、慎一にとっては体面を取るか息子を取るかの二者択一であって、あのような写真が出回った以上、彼はついに体面を守ることも放棄する腹になった。体面というのは守れる気がしているうちは守る価値があるような気がするものだが、一度それを失う覚悟がつけば、何を後生大事に守っていたのかという気持ちがするから不思議である。

それにしても、と慎一は思った。

半世紀以上にも渡る気詰まりさと努力に対する報いが、これなのだろうか。

そんなに本家本家というのなら、どうぞ持っていってくれという心もちで妹に切り出した話だった。だがこの家を手放されるのも嫌、代わりに引き受けるのも嫌では、慎一はどうすればいいのか。その嫌だという理由に、いま妻が口にした「維持費」の問題があるのなら、彼としては我が妹の情けなさに、もう笑うしかないという気持ちだった。

     

明子は、夫にとってかなり重大な決心の要ったであろうことを思って、嬉しかった。

室井邸は文化遺産に指定されないのがおかしいような建築物である。時代に合わせて多少作り替えたとはいえ、おおむねの構造は変わっていない。他人さまには歴史的遺物として興味深いものだろうが、そこで生活するに適しているかといえば全く別の問題で、それはつまり家事を任された彼女にとっては不便極まりないということを意味していた。余所から嫁いできた彼女にはこの家に幼少期からの愛着があるというわけでもなし、それどころか一種の桎梏でさえある。

しかし本家の嫁という立場からそれを表向き表明するのは我慢せねばならず、それで結婚以来30数年夫にこぼすだけで忍んできたのだが、いま夫からそう言い出してもらえるのならこれほど有り難いことはない。彼女にはもともと守るべきものは息子しかない。室井家の家屋敷がどうなろうと、彼女は全く興味がなかった。それより夫が本腰を入れて息子の防衛に廻ろうとしている覚悟が感じられて、彼女は嬉しかったのである。

「定年まであと2年だし、この家がいくらで売れるかわからんが、ね」

たぶん、こんな家を買ってくれる物好きがいるとは思えなかった。 だが明子は微笑して励ました。

「蓄えもあるし…あの別荘もあるわよ。なんとかやっていけるわ」

本当を言えば、公務員の夫の給料などたかが知れていて、本家の体裁を整えるためと家屋の維持費にかなりとられて若い頃は本当に貯蓄などできなかった。だが実家の内情を知っている息子が親孝行にも国公立一本で学費をすませてくれ、その分が楽だったのと、また派手さを嫌う二人の簡素な生活とで、年金が出るまでは普通にやっていけるだけの物は用意している。

「マンションを買う余裕はないかな」

驚いて明子は思いこんだ様子の夫の顔をまじまじと見た。

「マンションを買うつもりなんですか?」

「あの別荘は古いし、だいいちセキュリティも問題があるだろう?境界線もないようなものなんだから。その点、最近のマンションはオートロックのものが多いじゃないか。本庄にはなくても、秋田にはけっこうそういうマンションもあるだろう。俺の職場にも近くなるし…」

「それって、つまり、慎次のために…?」

「うむ…」

まだ若い息子が、老親と田舎のマンションに閉じこもって生活する。世間から身を隠し、社会から切り離されたところで、穏やかに。

――――それが、ここまで大切に育て、ひたすらその成長を楽しみにして、平凡に老いてきた夫婦の間の、未来への希望ともなっていた、わが子の人生の帰結なのだろうか?

社会的経済的に成功して貰いたいと願っていたわけではなかった。でも親の自分たちよりは少しでも幸せな、豊かな生活を送ってほしいとは思ってきた。まっすぐすぎる質が生きにくさの原因になっているほど真面目な子に、お前の持てる力を社会へ還元させよと教えてきたのは私たちだ。その結果がこれなのか。

けれど明子は、息子の社会的生活以前に守るべきものがあると思った。それはもっとも単純にいえば息子の生命であり、生き延びることであり、そしてなお「生き続けること」であった。

「いいんじゃないですか。なんとかなりますわよ」

 煩いだろう親戚中の顔を思った。誰一人、救いの手をさしのべてくれた者はいない。いや救いどころか、同じ所に立って寄り添い、私たちの嘆きを、私たちの受けた苦痛を、何処にも吐き出せずに圧殺された慟哭を、心からの涙と共に理解してくれた親戚などいなかった。共に怒ってくれた親戚は、只の一人もいなかったのである。

「身代金を払ったせいでお金がなくなったんだって、雑誌に書かれるだけのことよ」

こんな家、こちらから棄ててやる。

明子は昂然と言った。

人は自分の見たいものしか見ない。聞きたいことしか聞かない。

私たちの苦しみや叫びは、常になにか違うものに変換されて受け取られ、表現されてきた。痛みを痛みとして、苦しみを苦しみとして、そのまま受け取ってくれる人の、なんと少ないことだろうか。そしてそのまま受け取ってくれたとしても、なおやはり私たちの置かれた状況の身動きならなさはなんだろう?

監視・盗聴・マスコミ・冷淡なコメント・好奇な視線。

それが被害者に――――ただ生き延びるための必死の闘いを、今この瞬間もしている被害者に向けられる、世間の大方の態度なら。

こんな社会、こちらから棄ててやる。

   

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