My precious (いとしいひと)


 

モルドールの暗黒の塔は、天を刺すように高く鋭くそびえていた。半ばでぱっくり二股に割れた二本の塔の間からは塔と同じ色の煙が恐ろしい音を伴って吹き上がり、そのために空は本来の色を失って、分厚い黒雲がフロドの視界一杯にどこまでも遠くたれこめていた。

フロドは震えていた。

縦長の暗黒の瞳の淵を地獄の炎が取り巻いた冥王の「目」が、今や彼が隠した指輪に気づき、フロドの方を直視しようとしているのを知りながら、しかし彼はもう動くことができなかった。彼の立っているのは千尋の谷の絶壁のふちで、まるでガラスのように切り立っており、彼ほど小さなホビットでさえ隠れられる岩場は無かったのである。
彼の手は無意識に胸に下げた指輪を求めてさまよった。今や指輪が異様な黄金色に輝き、持ち主のもとへ帰る喜びに舌なめずりしているのがフロドには痛いほどよくわかった。

───早くしないと冥王が気づいてしまう…!

だがどんなに焦っても、いったい早く、何を、どうすればいいのか? 
彼は前後左右を狂おしく見回したが、周りには隠れる場所も安全な岩場も何も無かった。全ての行く道も戻る道も閉ざされていた。

───ああ!サムは一体どこへ行ったんだろう?僕をこんなところに置き去りにして?

一瞬そう非難めいたことを思って、そして彼は思い出した。サムは、とうにこの真っ暗な谷底へ、「フロドの旦那!」と最後の悲鳴をあげてむなしく落ちていってしまったのだということを。必死で差しのばされたサムの手を、フロドが掴む暇もなく───。

そうだ、サムももう死んでしまった。どこまでも自分についていくと言ってくれたサムすら。

涙が新たに彼の汚れた頬に白い筋をつくった。絶望が、疲労に気を失いそうな彼の全身に蛇のように襲い掛かって彼を締め上げた。
フロドは下を見た。何処まで落ちれば底にたどり着けるのか判らないほどの暗闇しか、そこには見えなかった。

ああ、けれど、そこにはサムがいた。先に行って、僕を待っている───。

フロドは指輪をかたく握り締めたまま、爪先をじりっと動かした。パラパラと小石が崖を転がり落ち、ニ三度跳ねたあと空中に放り出されて、あとはもう真っ暗闇のなかに飲み込まれて消えてしまった。そのときだ。

冥王の目が指輪の声を聞き取り、ついに岩肌にはり付いているフロドを発見したのだった。とたん、全山がきしみをあげるように咆哮する異様な轟音を聞くや、彼の立つ岩場がぐらぐらと揺れはじめた。全身が総毛立つ恐怖におそわれ、フロドは思わず片腕を庇うように上げた。塔のてっぺんから迸り出た暗黒の「力」がすさまじい憤怒と勝利に燃え、すさまじい歓喜の叫びをあげながら彼の喉首に一直線に駆け下りてくるその息吹を間近に感じたとき───フロドは声にならない悲鳴をあげて、まっさかさまに谷底へと身を躍らせていた。

  *

「───ロド!フロド、大丈夫か?」

頭をゆすられ、きゅうにフロドは現実へ引き戻された。頬をなにかにぴしゃぴしゃ叩かれ、彼はまぶたをこじあけた。

「……ここ、は…?」

開いた視界には灰色しか見えず、フロドは目をしばたたいた。霞がかかったような頭では夢も現も計りかねて、彼の顎をくすぐるものがガンダルフの長い髭だと気づくまでに数瞬かかった。

「…ああ、ガンダルフ!…ああ、僕、いま、恐ろしい夢を見ていました」

絞り上げられたような喉から出たのは喘ぎに近かったが、それでも声を出すことで、ようやくフロドは現実感を取り戻した。

「ありがとう、起こしてくれて、」

目をこすろうとして、彼は自分の指が震えているのに気づいた。

「もうちっと早う気づいたったら良かったんやけどな。けどもう大丈夫やで〜」

灰色の髭のとなりにひょいとエルフの美しい顔が彼を覗き込んできたので、フロドはとつぜん眩しさに目を細めた。それをどう判断したのか、エルフの眉根が寄り、

「うーん、まだ青い顔しとんな。あかんなぁ。」

つぶやいたレゴラスの白い指があがり、それからそっと、フロドの額を抑えるように触れた。

すると不思議なことに、指先から何か清浄で透明なものが、すうっと額に流れ込んでくるような奇妙な感覚をフロドは覚えた。そして突然、彼は胸のあたりがふいに軽くなり、体の強ばりがみるみるほどけていくのを感じたのである。

重い鎧が抜け落ちるような心地よさに、彼は大きく息をついてレゴラスを見上げた。

「───ありがとう。なんだか、気分が随分らくになった気がします」

「そおね?ほなよかったわ」

レゴラスはにこりと笑うと、さっさとガンダルフとフロドを残して焚き火の傍に帰っていった。

  

ちょうどレゴラスとガンダルフが見張り番の時間だったようだった。

フロドはまだ鼓動する心臓の上を無意識に抑えながら、(ちょうどそこにはあの指輪が、冷たく存在を主張してしまいこまれていたのだが)起き上がって周囲を見回した。
メリーとピピンは体をくっつけあって、まるで兎の兄弟のように互いの胸と髪の中に鼻先を突っ込んで丸くなっていた。サムはフロドの足元で、口をあけて鼾をかいている。

彼はそれを見て声を出さずに笑った。サムが谷底へ落ちて死んでしまう夢を見たんだよ、なんていったら、サムはどんな顔をするだろう?「ちょっ、そんな悪い夢のこたあ早くわすれっちまうが一番ですだ!それに口に出した夢は逆夢になるってとっつぁんもよく言ってましたっけが、してみるとおらは絶対にそんなところへおっこったりも、旦那を置き去りにして死ぬようなこともないってことですだよ。」と怒ったように言うかもしれない。その想像だけでフロドは胸が温かくなるのを感じた。

彼らホビットたちの向こうには、今は闇の中で見えないが、ドワーフと大きい人たちがいるはずだった。彼らはいつも焚き火から離れたところに横になって、いざと言うときの「盾」に眠るときもなってくれていたのである。彼らは眠るときすら重い武器を枕もとや胸に抱いたままなので、フロドたちホビットは彼らがさぞ疲れるのではないかと気をもんだのだが───そう言ったら彼らは、「こんなに面白い冗談は生まれてはじめて聞いた」と本当に愉快そうに笑った。彼ら武人らにとっては、武器無しのほうがよほど気が疲れるものらしい。

それにしても、こうして泥のように眠る込んでいる彼らを見れば、厳しい旅による極度の疲労が分厚いタールのように彼らの上にべっとりはりついているのは明らかだった。

だが何事にも例外はあるもので───。

「あのう…」

老魔法使いと美しいエルフが焚き火を囲んで座っている姿はまるで夢物語のように幻想的で、何か大昔の聖画の中から抜け出てきたようだ。

そして、この二人をじっと眺めているとき、フロドはいつも、自分はなんて途方もなく遠いところまで来てしまったのだろう!という思いがいまさらながらこみ上げてき、さらに旅の使命の重さと、なによりも自分のちっぽけさに、かえって絶望的な気持ちになるのだった。

「…あの、レゴラスさん」

フロドはなんとなく腰が引けながら、焚き火に小枝をくべ続けるレゴラスの隣におずおずと座った。

彼はこのとらえどころの無いエルフの王子に話し掛けるとき、いつも何か多少のひるみを感じるのだった。あまりにも眩しい存在すぎて、自分の話し方が正しいのかどうか、とか、相手の眼中にも入ってないんじゃないか、という劣等感が、いやでも刺激されてしまうのである。

「? なん?」

しかしエルフはフロドの内心の懊悩には全く気づかず、明るすぎるくらい明るい顔で彼を見返した。そのまっすぐさにますます気後れしながら、それでもフロドは勇を鼓し、これまでずっと聞きたくて、けれど聞く機会が無かった質問を切り出していた。

「あの。…レゴラスさんは、どうしてこんな危険な旅に同行してくださったんですか。」

「………うにゃ?」

エルフは目を見開き、『自分は今の質問を聞き取れなかったのかな?』という様子で首をかしげた。

レゴラスはミドル・アースの共通語も喋るけれども、本家のエルフ語ほど流暢というわけではない。だから指輪の仲間と行動しているとき、彼はちょうど外国語を話しているようなものであった。だからフロドのようにあまり早口で喋られると判らないのである。

ガンダルフがその様子に低く笑った。

「レゴラス、聞いたとおりじゃよ。なんならエルフ語に訳してやろうか?同じことじゃがの」

からかうように言って長い灰色髭の下でパイプをぷかりと吹かすのに、レゴラスは、それでは聞き違いではなかったらしいけれど、さりとてその答えにどうするか困ったように眼をぱちぱちさせた。

「なんでて…」

もちろんエルロンドが彼にそうしてくれと頼んだから、というのがあたりまえの答えなのだが、さしもの鈍感なエルフのレゴラスにだって、フロドの真剣な表情から、彼がそんな答えを望んでいるのではないことぐらいは判った。だいいち、エルロンドの頼みを彼は断ることもできたのである。しかし彼はそうしなかった。というか、「断る」なんて選択肢は、初めから思いつきもしなかったのだ。

じっさい、彼はあの時なんの躊躇も疑問もさしはさむことなく、判りました、と答え、そして今この瞬間にいたるまで一度も、何故自分はこの旅に同行してしまったんだろう?などと思ったことも無かった。従って、もう沢山だ、自分はここから引き返したい、などと愚痴っぽく考えたことも、当然ながら一度もありはしなかったのである───フロドは毎日そう考えているのにも関わらず。

「うーん…」

レゴラスは腕組みして首を捻った。

これはかなりの難問だった。というのも、一般にエルフは「考えない」から、「疑問を抱く」こと自体が極めてめずらしい───というか、殆どありえないことなのである。その代わり彼らは「感じる」。エルフほど感受性や美的感覚に優れた種族は他にない。しかし、「感じ」には理由はいらないのである。

彼はエルロンドに依頼された瞬間に、行きたいと「感じ」、そして今は旅の仲間たちを好きだと「感じ」るようになった。苦しさも楽しさも含めて、全ては彼には喜びに「感じ」られた。それに理由など無かった。

しかしフロドは、何故彼がそう「感じ」るのか、の、"理由"を尋ねているのだ。これは確かに非常な難問である。

だが彼は、自分の好きな相手にはどこまでも親切を尽くさずにいられない、という性癖を持つエルフの一員だった。形のいい眉をよせ、彼はいっしょうけんめい首を捻り、何度かエルフらしくない唸り声を上げ───そして指をパチンと鳴らした。やっと"理由"がひらめいたのである。

エルフの王子は一点の曇りも無い顔で晴れ晴れと笑った。

「うん、そうや、判ったでェ!───ええか、わてがあんたに付いてきたんは、"オモロそー(面白そう)やと思ったから"、や!」

「……………オモロ…?」

フロドの顎が落ちた。ガンダルフが耐えかねたように肩を震わせて笑いだした。灰色の帽子のふちがゆらゆら揺れた。

「フロド、フロド!このお方はエルフの中でも最もスプーキー(変)なエルフなんじゃよ。だからこのお人を標準に思ってはいかんぞ。」

「なんやそら。おっさんこそ、お色気むんむんの魔法使いのくせしてよう言うわ。」

レゴラスはキツい口調で言った。

というのも、実は、彼はこの"偉大なるミスランディア(注:ガンダルフのエルフ名)"が、けっこう苦手なのだった。齢数千歳にもなるくせに、なんだかんだと彼に変なちょっかいを出してくるからだ。

それから彼はフロドに向き直って言葉を付け足した。フロドの言葉の響きの中に、『こんなに重大な使命を帯びた旅に、"面白そう"だけでついてくるなんて?!』という、ある種の非難とも驚愕ともつかない感情が込められているのを察したからだ。

「あー、あんな。面白そうっちゅーのは誤解ある言い方かもしれへんけどな。」

まっすぐな青い瞳に見詰められて、エルフの王子はこれから自分が言おうとしていることを考え、やや気恥ずかしそうに笑った。そして脇に積まれた小枝を折って、焚き火に放り込みながら言う。ぱちぱちと炎のはぜる音が、静かな野営地に暖かくこだました。

「なんつーかな。…わて、そろそろ3000歳になるねんけど、ここ100年ほどな、このままじゃあかん、っちゅー気がしてならんかってんな、実は。───うまく言えへんけど、まあ、カッコ良く言えば、オノレのジツゾン(実存)に疑問を抱いた、っちゅーの?よーするに、このまま一人前の大人になれへんで、コドモコドモしたまんまでおったらあかんのとちゃうか、まいにち歌ったり踊ったり狩したりは楽しいねんけど、なんちゅーか、こう、どっしりした大人エルフの落ち着きっちゅーか、がソロソロいる年頃なんやないか、と、そう悩んどったわけなんよ」

突然の話の成り行きに、フロドはかなり面食らった。

不老不死のエルフ族の時間感覚が他の種族と異なるのは当然にしても、ホビットにとっては一生に匹敵する100年を「ここんとこ」にまとめてしまわれては、もはやその感覚は想像の限界を超えている。
そしてさらに彼を面食らわせたのは、このレゴラス、外見は人でいえば20代半ばの大人であるにも関わらず(そして付け加えれば、実年齢は2931才!であるにも関わらず)、喋っている内容はまるで、思春期にさしかかったティ−ンネイジャー同然だということだった。

不老不死のエルフ族に成人式などあるのかどうかは知らないが、2900才近く年上のエルフの内面を垣間見たフロドは、この事実を面白がっていいのか悲しむべきなのかわからず、しかし口元に如何ともしがたい微笑が浮かんでくるのをどうしても止めることはできなかった。

「…うん。僕も成人するころに、そんな焦りを感じたことがあったものだよ。」

フロドは、まるで村の子供達に何かを教えてやるときのような口調になっていった。

「お、フロドはんもやっぱしそう思ったことある?な〜んや〜、やっぱしわてだけが変っちゅー訳やなかってんな〜。なんちゅーか、他の皆はこないなこと考えへんみたいで、ホント言うと、わてちょっと心配だったんや。わては真面目すぎるによってな、ちょっとクヨクヨ悩みすぎる欠点があるによってなぁ」

遠い目をするレゴラスになんと相槌をうつべきか、フロドには判らなかった。とにかく、「悩みとか真面目とかいうことから最も遠い存在を一人上げろ」といわれれば、仲間の全員は躊躇なく「レゴラス!」と答える、このエルフはそういう人物である。

ガンダルフがもう我慢できないというように声に出して笑いだした。

「レゴラス!そなたが"真面目"なら、あの腰の軽い蝶の一族だって、上にくそがつく真面目じゃよ。もっともそんなことを考えるそなたは超エルフ級スプーキーじゃとは思うがの。」

揶揄する響きを敏感に聞き取って、レゴラスは剣呑な顔つきになって魔法使いをにらんだ。

「わてのことを、その“スプーキー”て言い方で呼ぶな!なんぞ子ども扱いされとるようでムッチャむかつくわ」

「しとるんじゃよ」

「………!」

フロドはしかし、レゴラスには悪いけれど、ガンダルフに同感だった。このエルフは変わっている。しかも、とびっきり変わっていた。

「じゃあ、つまり、"大人の落ち着き"を手に入れたいがために、この冒険に参加したってことですか?」

普通"大人の落ち着き"があれば、こんな無謀極まりない冒険には参加しないと思うが。

魔法使いに飛び掛って首を絞めていたエルフは、フロドの質問に我に返って、首を締められても喜んでいるガンダルフから忌々しそうに身を起こした。

「んんん。つまり、わてが思っとったことはやな。なんつーか、大人になるには、そらやっぱし何かデカイことせなあかんやろ? ドラゴン退治とか、第一次指輪戦争とか、なんでもえーけど、つまりはシレンっちゅーもんを突破して、や。そんでめでたくイッチョマエの男になる。これや。」

そう言って“イッチョマエ”をめざすエルフは真面目にふむふむと頷いた。

「そうや、そしたらもうエルロンドのおっさんに"小僧"呼ばわりされることも、おかん(お母さん)に"お前はどうしてそないにいつまでも子供なんかのう"とシミジミ嘆かれる心配もなくなる。…そのうち、フロドはんにもわてのおかんに会って貰いたいけど、こうなー、おばさんがよ。ため息をつきながらよ、わての顔をじいっと見つつ、首を振り振り情けなさそうにこそう言うんやで。"お前をこんな子に育てた覚えは無いのにのう…"ってなァ。ありゃあ結構堪えるでよ〜。」

「そりゃあ時期国王がこの調子では彼女の心配ももっともなことじゃろう。じゃからわしと一緒に修行(デート)に出ぬかと、この1000年ずっと誘ってきたのに。この前だって、せっかく誘ってやったのにドラゴン退治を断りおったろう」

「おっさんと二人きりの旅なんぞ願い下げじゃ!うっかり寝とる間になにされるかわからへんわ」

「やや、失礼なエルフじゃな。わしを何だと思っておる、灰色のガンダルフじゃぞ?教育係としてこれほどうってつけの者があるか。」

「ふん。灰色は灰色でも、ピンクの交じったボケ灰色やろーが。ったく親切ごかしでよー言うわ。」

もしレゴラスが人間だったら、いいしなに唾をペッと吐いたにちがいない剣幕であった。さらにエルフは手にした燃えさしの木切れを、斜め前に座っているガンダルフにぐいと突きつけた。

「危ないではないか、そんなもの人に向けちゃいかんな」

身を引きもしない魔法使いに、「火霊使いが火傷なぞするもんか。被害者ぶりっ子なぞすな」と手厳しく言ったエルフは、くすぶっている木切れの端っこをブラブラさせながら、さらにドスのきいた声になって続けた。青い目が真剣に怒っている。

「ええか、じいさん。色ボケに記憶ボケっちゅー二重痴呆症を併発しとるあんたはもしか忘れ去っとるんかもしれんが、わてはちゃうで。───思い出すのも胸糞悪いが、わてがまだ純真な1578歳のとき、おっさんがしてくれた"あの事"は、あと5000年は忘れよーったって忘れがたい出来事なんじゃ、わてにはな。」

これには老賢者も痛いところを突かれたようだった。む。とガンダルフは咥えたパイプをもぐもぐさせて唸り、さらにフロドの目にまるで犯罪者の言動を探るような色を見て取って、胸まである髭をしごきながら、

「ううーむ。まあ、確かに、多少はまあ、その、いささか強引な行為をな、したかもしれぬ。うむ。───しかし、あのころのそなたは本当に、天使の如く愛らしかったのじゃ。というか、まったく天使そのものじゃった。可愛らしくも可憐でのう。───それで、ついじゃな、まあ、ふらふらと、つまりまだわしも若かったしの、こう、魔がの、差したのじゃな。うむ。」

非常に苦しい答弁をしていたガンダルフは、しかし途中からふと何を思ったかレゴラスにまっすぐ向き直り、

「───しかしまっこと、よく言われることじゃが、あまりにも魅力的なものはそれだけで罪なのじゃよ、レゴラス。当時すでに賢者として知られたわしの心までもそなたは惑わしたのじゃからして、そなたの美しさは全く罪深いものじゃわな。そしてバラは美しいからこそ摘まれ、飾られ、人の心を幸福にするものであろう。───じゃからして、罪深き我がバラの君よ、そなたは喜ぶべきじゃよ。そなたはその罪でもって人を幸福にしたのだからのう。」

コロンブス的な論理の跳躍的展開に、レゴラスは一瞬呆然と口をあけた。それから全身鳥肌まみれになって叫ぶ。

「…こ…こンのクソボケのエロジジイが…!ダレが"罪深”いんじゃ!ダレが“我がバラの君"なんじゃ!気色悪いこと抜かすなアホー!!」

ガンダルフがやれやれと肩をすくめる。

「やれまあ、まったく判らんエルフじゃのう。わしがこれほど手放しで他人をほめるなぞ、そうそうあることではないぞ?だいたい1000年も前のことを、ようまあしつこく覚えておるもんじゃ。どうもエルフの若殿は心が狭くていかん。エラ ソンギリエル イシリ エ ラ ダヴァン、レゴラスv」

「…!ボージェ・ニェット!! ソンア ミスランディア コレミニエン ラギリエラ ペンナ!!」

「オー、ナ〜イ、ナイ、ナイ、ナイ、レゴラス。カイネ ダラ ヴァンタ リセス レンペンネ、“レゴラーレ”?」

「ダー!! ウンケルニヒト セレネレッセ ゴーダ "レゴラーレ"!!」

「ドッホ シェイル セ ラ "レゴランディア"?」

「…ダーーーーー!!!!!!」

途中からエルフ語になってしまったのでフロドには何を言っているのかさっぱり判らなかったが、どうせ碌な事ではないのだろうとは思った。
エルフは耳まで真赤にして、もう何も聞きたくないというように両手でふたをして、頭をぶるぶる振っている。

フロドはその様子に声に出して笑ってしまった。ガンダルフも珍しくゲラゲラ笑っている。

魔法使いが茶々を入れるので、そのたびに話がぜんぜん進まなくなってしまうのだが、しかしフロドには自分が最初にした質問などどうでもよくなってきていた。

彼は成長したかった。冒険に憧れていた。試練に立ちむかい、それを乗り越えようとする意志をもっていた。そこにチャンスが巡ってきた───それでいいではないか?

しかし───。

とまた彼は自分を振り返ってつぶやいた。

しかし、自分はどうなのだろう?


      *

エルフ族というのは筋金入りのナルシストの集団なんだ、とビルボは悪戯っぽく囁いた。

「彼らは美しくて、優美で、貴族的で、温和で、汚れを知らない。まさに"天使の一族"なのさ。」

それは半人半エルフのエルロンドの館で、やっと再会したビルボが質問攻めするフロドに何かの拍子に言ったことばだった。

エルロンドの館は、象牙のような白亜の石で柱も壁も作られていた。精巧な彫刻がバルコニーの手すり一本一本に施され、もはや館全体が芸術品だ。その周囲をぐるっと囲んで流れる清らかなブルイネン川のせせらぎは、常に"裂け谷(リヴェンデル)"に流れる心地よい音楽のように響き、涼しいさわやかな風が、秋色に染まった黄金の枯葉を雨のように谷に降らせていた。

そこは夢のように美しい場所だった。そしてそこに暮らすエルフ達もまた、夢のように美しい人たちだった。

エルフが見たくてたまらなかったサムはもう有頂天で、「ほんとうに、天使のように奇麗な方たちばかりですだ、フロドの旦那!おらは昨日は一人のエルフのかたと森でお話をしましたが、目の前にいるのにまるで光のカーテンがかかったようで、頭がすっかりのぼせちまって、今となっては一体何を話したんだか忘れっちまいましただ。けんど、とにかく、まあ、きれいなお方ばっかりですだ!」と、裂け谷に着いてしばらくの間は毎日のようにフロドに報告したものだった。

エルフたちはみな背が高く、体つきはすらりとしていて、肥りすぎている者も痩せすぎている者もいなかった。男も女も顔はみな彫刻されたように美しく、長さはまちまちだが肩よりは長く伸ばした髪を背中に流し、細い三つあみを側頭部につくって後ろで縛ることで、髪が前に流れ落ちるのを止めていた。

優美な衣は地面を引きずる長さで、豪華な幅広の帯を巻き、前に長く垂らしていた。彼らがゆったりと秋の森や白い回廊を巡り歩くとき、こすれる衣のさやさやという音と、彼らの交わすエルフ語の音楽的な響きは、見ているものをそのまま夢幻の境地に誘い込み、うっとりと頬笑まさせずにはおかなかった。

しかし。

「ええ、本当に美しい人たち、美しい場所ですね、ここは。でも…」

言葉を切ったフロドに、ビルボは少し皮肉っぽく笑った。

「ほっほう、フロド。お前はもう気がついておるようだな。さすがワシの義息だよ。」

自慢げなビルボに、フロドはあいまいな顔で肩をすくめてみせた。

「別に批判なんかするつもりはありませんよ。特に彼らは命の恩人なんですから」

「ワシに対してまで気を使う必要はない。───そうさ、彼らは本当に美しい。わしも喜んで認めるよ、このビルボ・バギンズもな!───けれど、お前もなんとなく判ってるだろうが、彼らエルフの美しさってのは、どこまでも白くて明るくて、影の無い、のっぺらぼうの、だからこそ完全でいられる、そういう美しさなんだ。彼らは、汚くて、醜くて、せせこましい、土のなかや、洞窟や、沼地に棲むほかのみっともない種族なんか、見たくもないし、じっさい興味もないんだ、本当はね。だから彼らは世界に厄介ごとが起こらない限り、この楽園に閉じこもって出てこないのさ。彼らがこの楽園を出て行くのは、ここを敵から守るための戦争のときか、復讐のためなんだ。対ドワーフとの戦争のときのようにね。」

ビルボからよくエルフやドラゴンやドワーフという不思議な種族の話を聞いていたフロドには、ビルボの言っていることがよく判った。

彼らが美しいのは種族の共通性であって、そうしてみれば、彼らが美しかったり優美であったりするのは、自分達ホビットが毛むくじゃらの大足を持っていたり背が小さかったりしているのと何ら変わるところが無い、ということになる。つまりが、「お祭だって毎日やってたら、それは仕事と呼ぶもんだ」というホビットの格言がここにも当てはまって、毎日そういうエルフを見ていれば、そのうちそれが普通になって、感動もなくなるというものだった。

というわけで、しばらくの間はしきりに感歎の目を見張ってばかりいたサムさえも、やがてすっかりエルフの美しさについて触れることはなくなって、それどころか出かけてきた故郷の村のことばかり口にするようになっていたのだった。

 

しかしそれもリヴェンデルを出る前までのことだ。

追跡者の目を避けるため、アラゴルンとガンダルフは、あえて道なき道を選んで皆を先導していった。

冷たい山おろしが吹きすさぶ岩山の尾根や、ひゅうひゅうと唸りごえをあげる氷のような寒風に身をすくませながら、すっかり葉の落ちた骸骨のような冬の森を、冷たい汚泥に骨まで凍え切って足を引きずりながら歩くとき、───この類まれに美しいエルフの王子を見ることは、疲れきった一同にとっての唯一の心の慰めだった。彼の美しさは、彼らが後にしてきたエルロンドの館や、そこに住む美しい人々のことを思い出させてくれたのである。

そして彼らは旅に出て初めて、なぜこの王子が「Legolas of The Green Leaf(緑葉のレゴラス)」と呼ばれるのか、の真の理由を理解したのだった。

<GreenLeaf(緑葉)>───それは、小鳥すら沈黙する長い陰鬱な冬がある朝おわって、ゆるんだ地面からフキノトウが淡い若草色の芽をだし、そしてみるみるうちに枯野が風になびく瑞々しい青い草原にかわるとき、私たちがある感動を持って賞賛する色だ。森がねばっこい柔らかな新緑の若葉に染まり、村と言う村にはクロッカスやパンジーやローズやヴァイオレットが花開き、つぐみたちがいっせいに生命の賛美歌を歌いだす、あの季節の色なのだ。

寂しく、じめじめした、凍りつくような冬の森の中を、漏れそうになるうめきを奥歯で殺しながら一歩一歩よろめき歩く彼らが、心底から望み、憧れたもの───癒し、平安、力、希望、暖かさ、幸福───が、現実の形をとって、しかも彼らの仲間として、時には歌を歌いながら、彼らの隣を共に歩いてくれていた。

だから彼を見るだけで、疲れきった彼らの心は幾分なりと救われた。エルフと敵対関係にあるドワーフ族のギムリですら、そのことを認めないわけにはいかなかった。レゴラスはまるで、上機嫌でそこにいるだけで、生まれたばかりの初夏の朝のように、生きること自体の素晴らしさを全身で彼らに教えていたのである。

この生命力こそがレゴラスの美の本質だった。それこそが、美しいエルフ族の中では格別美しいというわけではないレゴラスを、他に圧して美しく見せているものだった。

彼が金髪を靡かせながら、まるでステップを踏むように楽しげに岩から岩へと飛び移っていく姿を目にしたら、エルロンドの館をトーガの裾を引きずりながら逍遥するエルフ達など、まるで幽霊のように儚く、存在感のない影にすぎなかった。

           *

「でも、それにしたって、随分大きな"試練"を選んでしまいましたね」

フロドは笑いを残したまま、何かエルフ語で叫びながら、むしった雑草を片端からガンダルフに投げつけているレゴラスに向かって言った。

「───そーかな? けど、それはわてがあんさんに言いたいこっちゃで。」

攻撃の手を止めて振り返ったレゴラスは、しかし思いもかけずに真面目な顔でフロドに応えた。

「僕に?」

レゴラスは大きなフロドの青い瞳を、当然だろうというように見返した。

「うんにゃ。だって、わてはまあ、ある意味"試練ならなんでも熱烈歓迎"っちゅー状態やったけど、あんさんはちゃうやろ? 何も知らんと、ビルボはんの息子やったから、そのチョー怖い指輪を相続しただけやん。なのにあんさん、ゴッツイ試練を選んだやんか。そんなチッコイ体で、ホビット村から一歩も出たことなかったんに、一人で指輪捨てに悪の巣窟・モルドールに行くなんぞ、ようせんでフツー。」

「え…、でも、僕は選んでなんか…」フロドは困惑してもごもごと呟いた。

仕方なくだったのだ。仕方なく、ただあの時は何かの衝動にかられて、冒険に名乗り出てしまっただけなのだ。

しかしエルフは、ちちち、とひとさし指をふった。

「あの陰険なエルロンドのオヤジの会議ン時、あんさん、知らん振りぶっこいて逃げ切ることもやろうと思えばでけたやろ。せやけどあんた、ガーガ―皆が喚きだしてワケ判らんくなりかけたとき、急に立ち上がって、『僕が行きます!…道は知らないけど』ってゆーたんやないけ。いやぁ、あれはイカシとったで〜。わてホンマにこう、耳までぶるぶるっとしてん、あんとき。ほんま、惚れた!っち思うたね〜。
けど、したらわてかてやで?ここでやらねば男がすたるっちゅーもんやろが。アラゴルンも行くゆうし、エルフ代表でお前行けて言われてんから、そら"まかせとき!"とこう来なきゃ、筋も男も立たんわなァ。やろ?」

「は、はあ…」

ガンダルフが又何かいいたそうに口をむずむずさせたので、フロドはまた不毛な戦いが始まる前に言葉を継いだ。

「と、ということはですね、要するに、一種の義務感なんでしょうかね?アラゴルンさんとも親しいし、っていう…」

エルフはきりっとした眉をひそめてみせた。

「はあ?わてはアラゴルンとはちゃうで、そんな義務とか責任とか、難しいこと考えんよ。単に、よーするに、男を立てるええチャンスやと、そう思っただけやん。───ほいでも来てよかったわ〜。アラゴルンはもともと旅して楽しい相手やったけど、それ以外に友だちもたくさんでけたし、知らん土地にも行けてるし。おかげはんで毎日ごっつ楽しいわぁ」

「…た…楽しいんですか…」

男を立てる、という言葉にくらくらし、またまるでみんなでピクニックに来れて楽しいね、とでも言わんばかりのレゴラスの口調にフロドの語尾は怪しくゆれたが、しかしレゴラスが何か言う前に、またまたガンダルフが横から口をはさんだ。

「しかし、新しい友だけでなく、古い友との友情を深めることも重要じゃと思うがのう。」

言いながらレゴラスの髪に手を伸ばすガンダルフから、ついにレゴラスは体ごと飛びのいて逃れた。

そしてもうウンザリした、というようにせっかく美しい鼻に皺をよせてガンダルフ推薦の美貌を台無しにすると、彼はついに偉大なる魔法使いに指を突き出して厳しく言い渡した。

「あんな、ガンダルフ。いくら心の広いわてかて、限界っちゅーもんがあるんや。───この際やからキッパリ・ハッキリ言わせて貰う思うけどな、わてはピュア―で一途なラブ・ハートしか受け付けへんねん。わては自分を安売りせえへんからな。
…あんさんがエルフの外見を好きなんはよー知っとるし、わても個人の趣味にまで色々文句つけよーたぁ思わん。せやけど、それがわて自身に関することなら別や。
わてはわてでありたいねん。なのにエルフの外見だけ見てモノいわれて、なんちゃーかんちゃーうっとーしい言動をかまされてみ?これって結構ムカつくで。
あんたはエルフならなんでもええんやろーが、わてはそーゆーいい加減なのはジョークでも嫌いやねん。人の心をおちょくるようなことされっとかなり腹立つんや。わては真面目やからな。───さあもう判ったやろ? わかったら、ほな今からはこーゆー冗談は一切ナシにして、仲良う・普通に・健全に・やっていくことにしようや。さもないとわてら、気持ちよう旅がでけんくなるで。」

レゴラスの長広舌に、ガンダルはため息をつき、いかにも残念そうに首を振った。

「まったく判っとらんエルフじゃのう。だいたいそなたはわしを誤解しておるよ。
まず第一に、わしはもう1500年ほどアタックし続けとるんじゃから、十分“ピュア―で一途”じゃと評価されるべきじゃ。そうであろう。
次に、わしはエルフの外見は別に好きでも嫌いでもない。わしらは互いに長命族じゃから親しい知り合いが多いだけじゃ。
第三に、わしはそなたの外見が好きなわけではない。もちろん外見もとても好きじゃがね。」

「うまいことゆーたかて騙されんぞ。この1000年の間にあんたが誰と何しとったか、わてが全然知らんと思うたら大間違いや。それにこの旅の間にしても、あんたのフロドはんを見る目つきがどーもわては気に入らんのじゃ。」

「おお、妬いてくれとるのか。嬉しいのう♪」

「……!!だからそーゆーキサマの言動が大ッキライやと言っとるんじゃーッ!」

明るくふざける魔法使いと、血管が切れそうなほど怒っているエルフ、という組み合わせは、おそらく100年に一度見れるか見れないかの非常に珍重すべき風景であろう。とは思ったが、しかし話はまたもやずれていっている。

フロドは自分の名前が出てきたときに、やっと興味深いが不毛な会話に口を挟む機会を得た。

「でも、でも、命の危険があるのに、楽しいんですか?」

話に引き戻されたレゴラスは、ガンダルフの喉首を今や本気になって締め上げていたので、一瞬何を言われたのか判らずにフロドを振り返った。

それからやおら怒りで赤くなっていた肌がだんだん落ち着きを取り戻し、いつもの白い美しい肌色に戻っていった。

彼はしばらく考えるようにフロドを見た。自分達がふざけているあいだも、フロドの心の底には動かないでわだかまっているものがあるのだと、今やっと気づいたのであった。

エルフの観察する視線を自分の上に感じ、フロドは内心まで見透かされそうで、それを避けるように膝をきゅっと抱え、自分のつま先のあたりに視線をおとした。

「───ん〜。フロドはんは、怖いだけなん?」

やがて返ってきたのは質問だった。フロドは美しいだけでなく強いエルフを見上げて、ちょっと答えるのにためらったが、正直に、

「はい。」

といった。

「怖いです。」

そしていそいで俯き、

「なのにこんなぼくがなぜ指輪を持ってるのかって、本当に不思議で…」

と続けて唇を噛んだ。

そうなのだ。彼の思考はいつでもここに帰着するのだった。

自分は弱い、ただのホビットだった。さらにいえば、ホビットの中でもサムのように料理ができるわけでも、ピピンのように武器の扱いが上手いわけでも、メリーのように船の操縦が得意なわけでもない。ほんとうに、ただ義父がビルボだったから、指輪を相続しただけの、得意といえばちょっとばかり本を書いたり読んだりでき、ほんのちょっとだけエルフ語が読める、というだけの、ただのホビットなのである。

そういうことを考えるたび、彼は惨めな気分になった。これまでのところ、自分は役に立つどころか他人の足を引っ張っているばかりだ、という気持ちがむくむくと頭をもたげてくるからだった。

アラゴルンやボロミアに自分を比べても仕方ないことはわかっている。彼らは戦士で、英雄で、王と執政官という、フロドからすれば雲の上の高貴な人々だった。

だが彼らはそれでも人間だった。疲れもすれば、悩みもする。フロドはそれを理解していた。指輪の発する呼び声が、じわじわと彼らの精神の深いところを侵食していっているのを、そして彼らが暗い、深い心の部分で考えに沈み、じいっと見つめ始めていることを───何を?

もちろん、「指輪」を、だ。

フロドには人間たちの心の揺れが感じられる。ボロミアには、よりはっきりと。それは彼を悲しませたが、しかし同時に深いところで彼らを哀れみ、またそうすることで逆に自らの強さを知ることも出来た。

だがエルフは違った。

彼はトム・ボンバディルに似ていた───指輪にはまったく興味がなさそうだった。そしてトムと違って彼は、世捨て人というわけでもないのだった。

彼はこの世界に深くかかわって、他のエルフのように森にとどまって永遠の幸福にまどろむよりも、外に出て苦難に遭うことを選択した。それはエルフとしては型破りの意志の存在証明だった。

そしてさらに驚くべきことが、彼がまるでリヴェンデルの空気のように軽やかで、とらえどころがなく、どんな恐怖からも自由でいるように見えることだった。そしてこれこそフロドが最も望み、持っていないことで嫉妬している、「力」だったのである。

きっとこのエルフは、フロドがどんなに彼を尊敬し、崇め、そして妬んでいるかなど、思いつきもしないに違いない。彼にはそんな感情すらも、おそらく存在しないに決まっているのだから。

その自覚はフロドをいっそうみじめな気持ちにさせるのだった。

 

そして案の定、エルフはフロドの羞恥を隠さない告白にすら興味なさそうに、ふ〜ん、とつぶやいただけであった。そしておもむろに月を見上げ、

「あ、わての見張り時間終わりや。次はアラゴルンの番やで、おこしたらんと」

と、本当は慰めや励ましの言葉を求めているフロドの内面には非常に冷淡なことを言ってのけた。

ガンダルフが、判っていたけれどもがっかりした気持ちを表に出すまいと努めているフロドの頭を軽く叩き、衣擦れの音をたてながら立ち上がった。

「わしが起こしてこよう。レゴラス、あんたも疲れたじゃろう。フロドと一緒に寝るといい。」

そう言って、優しい微笑を残した魔法使いは闇に消えていった。

 

レゴラスは気分一新というように、枯葉を集めて寝床を作っていった。そしてぼんやりと焚き火のダンスを眺めているフロドに声をかけた。

「フロドはん、一緒に寝ようや?もしまたうなされたら起こしたるで」

「…え、いいんですか」

「なに遠慮してんねん。わてはギムリとちごうて鼾もかかへんし、サムとちごうて寝相もええで。ホビットはんはいっしょにねたら暖かいし、わてとしたら嬉しいけど?」

このエルフは冷淡なのか親切なのか判らない、と思いながら、フロドはそれでも彼の「好意」を受け入れることにした。

エルフは瞳をあけたまま、手を胸に組んで眠る。その端正な唇には楽しげな微笑が浮かんでいる。その疲れも汚れもない横顔をうちながめ、フロドはふと大きくため息をついていた。すると驚いたことに、眠ったかと思われたエルフがまばたきし、それから顔をフロドのほうに傾けて微笑した。

「わてな、でも、あんさんのこと凄いホビットやって、感心してんねんで。だって、そないにごっつ怖ぉおてもいっしょけんめい頑張ってはるやろ。」
と言った。

あの話は一方的に断ち切られたとばかり思っていたのに、このエルフがいまだそのことに付いて考えていたと知ってフロドは眼を大きくした。
レゴラスは顔を星空に向けなおして、ゆっくりと続けた。満足したネコのような低い声音には、なんの衒いもなぐさめも含まれていなかった。

「あんな。わてはエルフやから、なんも怖くないねん。ほんまに、オークも、幽霊も、魔法も、剣も、戦いも、わてはなんも怖いことあらへんねん。死ぬとかも、実はあんまり怖いことあらへん。一発で首チョンパにでもならん限り、死なん体やからな。やけぇ、なんかもう、何をしとっても、ただ楽しいし、ワクワクしてるだけやねん」

エルフは不死なのだった。

心を殺してしまうほどの悲しみによるか、よほどの大怪我か、我とわが身を殺すかの方法以外では、彼らは死なないのだ。フロドはそれをひどく羨ましく思っていた。リヴェンデル(裂け谷)で見たエルフたちはみな優雅で、気高く、何ものにも動じず、冷たい湖のように、ひどく静かだった。

そしてそのとき、フロドにはようやく一つの事がわかったのである。

彼はエルフだった。しかし他のエルフと違って、彼の魂は驚くほど未熟だった。まるきり無垢な赤ん坊か、もしくは文明を知らない野人のようだった。これは知識の量の問題ではない。魂の根本のつくりが違うのだ。もしかしたらこのエルフは、永遠に未熟なまま生きるのかもしれなかった。しかしそれこそが、彼に爆発的な生命への歓喜を産んでいたのである。そしてこれこそが、彼を他のエルフたちから隔絶させているものでもあった。

フロドは裂け谷で多くのエルフたちと逢い、その幻惑的な天使の姿に魅了された。けれど、彼らはみな同じ金髪、同じ髪型、同じマナーで、同じ優しさをフロドに向けてくるだけだった。つまり彼らは「エルフ」であって、他の何かではなかったのである。

しかしレゴラスは違った。長身で細身のエルフの中では小柄で、エルフ随一のアーチャーの地位を示すその両肩は、他の優美なばかりのエルフ達とは違ってがっしりとしていた。がさつなほどの態度は彼をエルフより人間に近く見せ、ズボンに丈の短いマントだけを無造作にひっかけている姿からは、彼がとても王子という身分を持っているようには見せなかった。

しかしフロドは自分が裂け谷のエルフたちを今となってはもう思い出せないことに気づいた。彼にとってレゴラスは、もはやエルフではなく、またはエルフの王子ですらなく、「レゴラス」それ自体になっていた。

しかしレゴラスはエルフ特有の自分への無関心さを発揮していた。

「せやから、わてはどっちが偉いかゆーたら、あんさんの方やと思うねん。わてはエルフやし、弓とか歌とか色々でけるし。あんま疲れへんし、ほんまは食べるのも寝るのもそんな必要ないねん、森の中やったらな。やで、いろいろおトクなんや。ちゃんと疲れるドワーフとか、人間とか、ホビットはんとかと比べると、ずいぶんずるっこなんや。きっとな。

せやから、わてはみんなと比べたらスゴイかもしれへんけど、その実、ホントーにビッグなことはまだなんもしてへんねん。わてがおトクなんはエルフやからで、"わて自身"やからやないねん。わてはそういうとこがまだまだあかんねん。ここをトッパ(突破)するんが、きっとわてに与えられたシレンなんや。
 だからわて、あんさんのこと、凄いなあて思てるんよ。マジで凄い壁にぶち当たって、ほいでも着々と乗り越えてはるやろ。わてにそないなことが出来るやろうか?そう思うたら、わて、ホンマにあんさんのこと、偉いなあって思ったんや。」

フロドはそっと息を潜めてエルフの瞳を見た。小鳩のような瞳で、エルフの王子はフロドを見返した。そこには確かに、純粋にフロドを尊敬する光があった。

「それに、あんさんに命捧げてるサムもなあ。あいつもええ奴や。なんたってメシがウマイ。サイコ―や」

フロドはつい白い歯を見せて笑った。

「貴方にそういわれたって知ったら、もっと頑張ってつくってくれるよ、彼は」

「そっか〜。したらわてますます頑張って食材集めなあかんな。それにピピンとメリーも愉快で楽しいねえ!わてよりキノコ見つけるのが得意やで、いっつも感心するんや。わて、ホビットって好きやなあ…」

フロドは今度は無言で笑った。

エルフの王子は頭を元の位置に戻すと満腹のネコがするような深いため息をつき、ゆったりと眼を"閉じた"。もはや彼の瞳は彼らの頭上の星空を見てはいなかった。しかしエルフの口元にはやはり満足げな───はっきりいえば、幸福な微笑がうかんでいた。それはこの苦難の道程において、彼はまったく満足と幸福以外の何ものも感じていないという、フロドにとってはまことに驚くべき証拠であった。

「…それにギムリ…あいつもええ奴やァ…わてがドワーフと友だちなったんやって言ったら、お父は腰抜かすな…それにボロミア…真面目で素直で、ごっつえー奴や…ホンマにええ仲間ばっかで、来て良かったわァ…」

最後は消え入りそうな呟きになり、それからやがて軽い寝息が聞こえ始めた。 胸が規則正しく上下し、まったく太平楽な顔をして(眼を開いたまま)眠っている。

フロドは優しく笑った。まるで無邪気なホビットの子供に向けるような自愛の篭もった眼で、自分よりはるか年上なのに魂は子供のままのエルフを見おろした。それから彼は思わずたまらなくなって、身を乗り出してレゴラスの白い秀でた額にキスを落とした。

「───愛しいじゃろう?」

突然、ガンダルフの声が頭上から降ってきて、フロドは驚いて顔を上げたが、ガンダルフは一瞬赤くなったフロドをからかうでもなく、目を細めて二人を見下ろしていた。髭がなければガンダルフの唇には温かな微笑が浮かんでいるのが見えただろう。

「…ええ、そうですね」

フロドも笑い返し、そして彼はレゴラスの隣に横たわると毛布を胸元まで引き上げた。ガンダルフがレゴラスをからかうやり方はちょっと行き過ぎかもしれないが、しかしこの老賢者が思わずそうしたくなる理由が、彼には判る気がした。

目を閉じる前に、フロドはガンダルフを見上げて言った。

「ガンダルフ。僕はこの旅も、そう悪くないものに思えてきました───というより、どちらかというと、一瞬一瞬がまるで宝石みたいに愛しいものに感じられてきてしまいましたよ。」

ガンダルフは忍びやかに笑った。

「奇遇じゃな。───実はわしもなんじゃよ」

フロドは笑い、それから重たくなってきた瞼をゆっくりと閉じた。

急速に眠りの世界に引き込まれながら、彼は今や何も畏れてはいなかった。隣にレゴラスのゆるやかな寝息がある。彼は温かい枯葉のベッドの中に身をもぐりこませた。葉と土の匂いが懐かしいホビット庄を思い出させた。
ガンダルフと、起きてきたアラゴルンが、向こうで低い声で交わす会話は子守唄のようだった。そしてレゴラスの体温と───。

最後に眠りに落ちる前に、彼は柔らかな夜の空気を大きく吸い込んだ。

もう悪い夢は見そうになかった。


************
20020602(rewrite05)

すみませんレゴファンなんだけです。まるさまサイト開設祝い。うれしー。

<焚き火の会話>

「そのうち後ろから矢が飛んでくるかもしれないぞ」

不機嫌な警告に、ガンダルフは髭の下でにやりと笑って見せた。

「おや、起きとったのかね?」

アラゴルンは唸った。

「あれだけどったんばったんやってりゃ、どんなツンボだって目が覚めるさ───ギムリが怒ってた。あいつは真面目だからな。」

くつくつと魔法使いは喉奥で笑いを転がした。

「困難な道中を続けるには、たまのレジャーが必要じゃよ。わしは若くはないからの、老後を楽しむ当然の権利を、こうして行使しておるというわけじゃ。」

アラゴルンはため息をついた。

「一度その頭に彼の矢が刺さるまでは判りそうも無いな、ミスランディア」

「ナルシルの剣が飛んでくるよりは怖くは無いからの。その剣はかの冥王の指を切り飛ばしたもの、わしの命を一撃で粉砕できるのじゃ」

「おかしなことを。なんで私があんたにそんなことをするんだ」

「そなたもあのかわいいエルフが好きだろう?」

アラゴルンはその台詞に、何かきつい言葉をあびせかけてやろうと口をあけかけたが、その直前で言い直した。

「…天使を嫌えるやつがいるかな?」

「誤魔化さんでもよいわいの。わしはおぬしのひいひいひいひい祖父さんがまだ生まれてもいないときからこの世に居った賢者じゃぞ。おぬしの内心なぞお見通しじゃ」

「そのわりにはサルマンの内心は見抜けなかったようだが…」

ガンダルフは知らん顔でパイプ草をふかした。アラゴルンが胡座をかいた膝のうえに横においた剣にひじをのせ、やれやれとぼやく。

「まったく…そんなんだからホビット達に、ただの花火職人だと思われるんだ」

「む。わしが軽薄じゃと言いたいのか」

「そこまでハッキリ言ったつもりは無いが、そう聞こえたならその自覚はあるってことなんだろうな」

「…人間の王様は随分な皮肉屋じゃのう。そういうことでは女にモテんぞ。」

「構わんね。俺はアルウェンだけにモテればいい」

「国王たるもの、人間の男にはモテねばならんと思うがの。」

それからガンダルフは真面目な顔つきになって続けた。

「国王には魅力が必要じゃ、アラゴルン。それをそなたはよく知っておるはずじゃ。」

その言葉にアラゴルンは深い息をひとつついて、両手で疲れた顔をなでた。

「イシルドゥアの血がな…」

その小さなつぶやきは夜空にひっそりと昇っていった。しかしそれは消えてしまう前に、寝たふりをしていたボロミアの耳にもきちんと滑り込んでいたのであって、そしてこの言葉に込められたアラゴルンの気持ちも、やはり、ボロミアの心にゆっくりと染み込んでいったのだった。

 

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20020605

何かぜんぜんハンパだなあ…

 

 

 

 

 

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